移動祝祭日とは
普通祝祭日と云えば「子供の日」「天皇誕生日」のように、その日にちは毎年決まっているが、移動祝祭日と云うのは、それが決まっておらず、天体の動きによって日にちの変わる「春分の日」とか「秋分の日」のように,その年によって日にちの移動する祝祭日のことである。成人の日、海の日、敬老の日、体育の日のように月曜日を祝祭日とする為に移動する祝祭日(ハッピーマンデー制度)もある。欧米ではその年の復活祭の日にちに応じて移動する祝日、キリスト昇天祭、聖霊降臨祭などがある。
ヘミングウエイにとってパリでの生活は移動祝祭日
この「移動祝祭日(A Movable Feast)」を原題に持つのが、アーネスト・ヘミングウエイの「移動祝祭日」と云う追想記である。その由来は「もし君が、幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば、君が残りの人生をどこで過ごそうとも、それは君についてまわる。なぜならばパリは移動祝祭日だからだ」と彼が友人の一人に語った言葉にある。その意味は、おそらく訳者の云う「どこにでもついてくる饗宴、もしくはどこにでも持ち運べる饗宴。意訳だが“魂の競演”」などと解釈できるであろう。おそらくヘミングウエイにとって1921年~1926年のパリでの生活は人生における祝祭日のようなものだったのであろう。苦しくとも喜びに満ちていた。ヘミングウエイの修業時代を裏から支えたのは彼より8歳上の最初の夫人エリザベス・ハドリー・リチャードソン(1891年~1979年)であった。その彼女をこよなく愛し、幸せな結婚生活を送っていたにもかかわらず、ポーリーンとの不倫、その結果としての離婚。その三角関係の苦しみと、悔恨の気持ちが手に取るように描かれている。それは同時に、その時代の最先端を行くロストジェネレーション(失われた世代)と云われたアーチスト達との交流の日々であり文筆業の研さんの日々でもあった。この作品はヘミングウエイの晩年の作品と云うより、遺作である。60歳になった彼が、20年代、年齢にして22~27歳のの修業時代を、病魔に侵されながらも、追想して描いた不朽の名作である。この作品は彼の死後(うつ病による猟銃自殺)第4番目の夫人メアリー・ヘミングウエイ(1908年~1986年)の編集のうえ発刊された。
この作品の筋1、ヘミングウエイとハドリーの生活
ハドリーとヘミングウエイは、アメリカ、シカゴで知り合い、1921年に結婚し、渡仏する。最初はパリ、セーヌ川の左岸、貧民街と云われたカルディナール・ルモアール通り74番地の安アパートに住む。その後ノートルダム・デ・シャン通り113番地の木工所の2階に移り住むのであるがこの間、つましいながらも濃密な幸せな結婚生活を送る。ヘミングウエイの修業時代を妻のハドリーは献身的に支える。競馬やスキーに興じセーヌ川のほとりを散策するなど貧しくとも充実した結婚生活がそこにはあった。しかしこの幸せな結婚生活も結局は破局を迎える。それは一方が他方を嫌いになったからというものではなく、ヘミングウエイが回想しているように「老獪きわまる術策を駆使するもうひとりのリッチな人間(ポーリーン・ファイファー)の術策にはまってしまった」のであり「他者に蹂躙されずにうまく身をかわす術を身につけていなかった」若きヘミングウエイが陥った悲劇であり、魔がさしたものであった。ヘミングウエイは同時に二人の女性を愛してしまったのである。当時ポーリーンはヴォーグ誌の記者(=パリ通信人)であり、ハドリーとは全くその趣味、し好に到るまで、対照的な女性であり、スレンダーで、美しく、高い教養を身につけ、善良で愛嬌があり、ヘミングウエイを引き付けるに十分な魅力を備えていた。ヘミングウエイは三角関係に悩む。「線路わきに立つ妻と再会した時、彼女以外の女性を愛する前に、いっそ死んでしまえばよかった、と私は思った」とヘミングウエイは思っていながら、ポーリーンとの中を清算することはできなかった。こうした事態は、ハドリーには我慢がならなかった。一定の別居期間を経て離婚が成立する。ヘミングウエイは最初の長編小説『日はまた昇る』の印税のすべてをハドリーに送ることを約束した。それは共同便所しかない安アパート時代の彼を物心両面から支えてくれたハドリーに対する最低の感謝の気持ちだったのであろう。その後ハドリーは再婚して、幸せな結婚生活を送るのであるが、それを知ってヘミングウエイは、罪の意識から解放されて、初めて心からポーリーンを愛するようになったという。そこに男の性(さが)の悲しさを見ることが出来る。ヘミングウエイはポーリーンとの再婚の後アメリカに戻るのであるが、ポーリーンとの結婚生活は13年間続き二人の男子をもうけている。その後ヘミングウエイは、マーサーゲルホーン、メアリー・ヘミングウエイと4度結婚している。メアリー・ヘミングウエイとはヘミングウエイがこの世を去るまで15年間、良きパートナーとして、マネージャーとして、介護役として賢婦人ぶりを発揮した。先にも述べたように彼女は遺作となったこの作品の編集に携わり、発刊している。こ作品を読んで感じることは、ヘミングウエイが本当に愛したのはハドリー一人ではなかったのかといううことである。訳者高見浩が云うように、この作品はハドリーに対するオマージュといって過言ではないであろう。
この作品の筋2ロストジェネレーション(自堕落の世代)と云われた人々との交流
20年代のアーチストたちは本当に自堕落の世代だったのだろうか?
一般にこの作品や『日はまた昇る』は1920年代のパリでのロストジェネレーション(自堕落な世代)の生態を描いたものと云われている。確かに第一次大戦後、旧来の価値観が崩壊し新しい価値観を求めてアーチスト達が苦悩したことは事実ではあるが、その意味でのロストジェネレーション(失われた世代)であっても、彼らは決して自堕落な世代ではない。この言葉はヘミングウエイがまだ貧しい修業時代に師事した20世紀を代表する前衛作家で、詩人のガートルード・スタイン女史の言葉である。しかしヘミングウエイは『日はまた昇る』においても、それから30年たったこの作品においてもこの言葉には否定的である。この言葉を聞いてヘミングウエイは「人を自堕落な世代と呼ぶなんて、何様のつもりなんだ」「どんな世代にも自堕落な部分はあるもんだ」「ロストジェネレーションなんて、彼女の言い草なんて、くそくらえ。うすぎたない、安直な、レッテル貼りなど、くそくらえだ」と、怒りを爆発させている。そして彼は云う「最初の長編小説(『日はまた昇る』)をかいた時、(中略)ミス・スタインの発言を冒頭に掲げ、それと釣り合いをとるべく伝道書の一部を並べたのだ」と。そして妻のハドリーに「彼女。ろくでもない話ばかりするときもあるんだ」と語っている。ヘミングウエイはこの作品において当時交流した多くの著名なアーチストを紹介しているが、彼らの姿勢は決して自堕落ではない(本書 P,50~51参照)。最初こそ師事していたものの、ヘミングウエイは、ミス・スタインの同性愛の現場を見るに及んで、その尊敬の念は軽蔑の念に代わり、その他の理由もあって喧嘩別れしている。その後仲直りはするものの、理性的にも、情緒的にも本当の意味での友達付き合いはできなくなっていく(本書p,170~171参照)。どだい芸術家なんて云う動物は、どんな高い理想を掲げていても自堕落な面を持っているものであり、それを許容しない限り付き合いなんてできないのである。尊敬の念が強かっただけに、ヘミングウエイにとってミス・スタインは落ちた偶像だったのである。
この作品は、無名な文学青年であったヘミングウエイの、妻ハドリーに支えながら一心不乱に執筆活動を行ったパリでの生活を回顧したものであるが、この作品を読む上で見落としてはならないことが2つある。1つは、シルビア・ビーチの経営する「シュークスピア書店」であり、もう1つはヘミングウエイのホームカフェ「クロズリー・デ・リラ」である。この二つを無視してこの作品を語ることはできない。
シルビア・ビーチの経営する「シュークスピア書店」
本を買う余裕すらなかった修業時代のヘミングウエイを物心両面から支えたのは、シルビア・ビーチの経営する書店兼図書室の「シュークスピア書店」であった。この書店から必読書を借り受けヘミングウエイはむさぼり読む。経営者のシルビアは魅力にあふれたアメリカ人女性であり、貧民街に住む初対面のヘミングウエイに対しても分け隔てなく、ある時払いの催促なしの条件で貸出カードを作ってくれた。そして何冊でも読みたい本を持ち出してくれて構わないと言ってくれたのである。作家志望のヘミングウエイにとってこんなありがたい話はなかった。彼はこの書店を利用してツルゲ-ネフの全作品、ゴーゴリ、トルストイ、チェーホフ、ドストエフスキー、等のロシア文学、ほかの外国文学を読み漁り知識を深め、その感性を研ぎ澄ました。ヘミングウエイは次のように述べている。「いかに貧しかろうと、何とか働いてそれなりの暮らしのできるパリのような街で、幸い読書の時間に恵まれて、こういう新しい文学の世界に出会えたことは、途方もない宝物を与えられたに等しかった」と。
シルビア・ビーチは1920代のパリの文学界を語る上で欠かせない存在で1919年から1941年まで、オデオン通りで「シュークスピア書店」を経営していた。この書店は20年代のフランス文学者のみならず、パリに集まっていた英米の文学者たちのオアシス的存在であった。ヘミングウエイはこの書店の常連になり、ビーチを通じて多くの英米のアーチストたちと知り合い、芸術的視野を広げたのである。ビーチとは個人的にも親しくなり、最初の短編集『我らの時代』はこの書店の店頭に並んだのである。さらに泣き言を聞いてくれる間柄にもなったのである。
ヘミングウエイのホームカフェ「クロズリー・デ・リラ」
ヘミングウエイは1923年ハドリーの出産のため一時パリを離れて、カナダのトロントに出かけ、その地で長男ジョン(=愛称バンビ)を出産する。出産後パリにもどり居を定めたのが、ノートルダム・デ・シャン通り113番地、木工所の2階だった。彼のホーム・カフェになったのが住まいの最寄りに位置する「クロズリー・デ・リラ」であった。そこは環境にも恵まれた快適なカフェであると同時にパリでの最高のカフェの一つであった。この頃ようやくヘミングウエイのパリでの文学修業も実を結び始め、あふれんばかりの創作意欲に燃え、このカフェのテーブルの上で多くの好短編を生み出していった。そしてそれらの短編は1925年には最初の短編集『我らの時代』に結実し「シュークスピア書店」に並ぶ。さらに1926年には彼の最初の長編小説『日はまた昇る』が刊行された。この間、多くの著名なアーチスト達(スタイン、パウンド、フィッツジェラルド等々)との交流が行われ、彼の文壇上の地位を確立していった。しかしそれは同時にポーリーンとの不倫、それ故のハドリーとの離婚と、必ずしも順風満帆の門出ではなかった。ハドリーとの離婚と、ポーリーンとの再婚後ヘミングウエイとポーリーン夫妻はパリを去る。こうしてパリ時代の苦しくとも、喜びに満ちたヘミングウエイの修業時代は終わったのである。
このように修業時代のヘミングウエイにとって、シルビア・ビーチの「シュークスピア書店」と、ホーム・カフェ「クローズリー・リラ」はパリ時代のヘミングウエイにとってはなくてはならない存在だったのである。
登場人物
ヘミングウエイのパリでの修業時代を支えた人々はハドリーをはじめ多くいるが、まず「シュークスピア書店」のシルビア・ビーチ、最初は師事したが後に喧嘩別れしたガードルード・スタイン、詩人で終生の師であり友人であったエズラ・バウンド、ロシア文学に造詣が深くヘミングウエイとの付き合いが死ぬまで続いたエヴァン・シップマン、作家で下卑た雰囲気を漂わせ人に嫌悪感を与えるフォード・マドックス、レイプに失敗した男の目を持つ画家のウイズダム・ルイス、この作品で最も多くのページを割かれながらも、あまり好意的には扱われず共に旅行した後「好きでない人間とはともに旅行することなかれ」と云われたスコット・フィッツ・ジェラルド。しかし彼は無名であったヘミングウエイの才能を見抜き生涯の版元になったスクリプナー社に彼を紹介している。その意味では恩人である。
このようにヘミングウエイは当時の時代の先端を行くアーチスト達との交流の日々を、自分の好き嫌いの感情を隠すことなく正直に述べている。時には苦々しくもあり、悲しさ、寂しさがありながらも、輝きに満ちた、濃密で、ある場合には傲慢とも思える自我の強さ、優しさがこの作品を彩っている。ヘミングウエイがその晩年に1920年代パリで過ごした青春の日々を感慨を込めて綴った素晴らしい作品である。
ヘミングウエイ作 「移動祝祭日」高見 浩訳 新潮文庫
普通祝祭日と云えば「子供の日」「天皇誕生日」のように、その日にちは毎年決まっているが、移動祝祭日と云うのは、それが決まっておらず、天体の動きによって日にちの変わる「春分の日」とか「秋分の日」のように,その年によって日にちの移動する祝祭日のことである。成人の日、海の日、敬老の日、体育の日のように月曜日を祝祭日とする為に移動する祝祭日(ハッピーマンデー制度)もある。欧米ではその年の復活祭の日にちに応じて移動する祝日、キリスト昇天祭、聖霊降臨祭などがある。
ヘミングウエイにとってパリでの生活は移動祝祭日
この「移動祝祭日(A Movable Feast)」を原題に持つのが、アーネスト・ヘミングウエイの「移動祝祭日」と云う追想記である。その由来は「もし君が、幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば、君が残りの人生をどこで過ごそうとも、それは君についてまわる。なぜならばパリは移動祝祭日だからだ」と彼が友人の一人に語った言葉にある。その意味は、おそらく訳者の云う「どこにでもついてくる饗宴、もしくはどこにでも持ち運べる饗宴。意訳だが“魂の競演”」などと解釈できるであろう。おそらくヘミングウエイにとって1921年~1926年のパリでの生活は人生における祝祭日のようなものだったのであろう。苦しくとも喜びに満ちていた。ヘミングウエイの修業時代を裏から支えたのは彼より8歳上の最初の夫人エリザベス・ハドリー・リチャードソン(1891年~1979年)であった。その彼女をこよなく愛し、幸せな結婚生活を送っていたにもかかわらず、ポーリーンとの不倫、その結果としての離婚。その三角関係の苦しみと、悔恨の気持ちが手に取るように描かれている。それは同時に、その時代の最先端を行くロストジェネレーション(失われた世代)と云われたアーチスト達との交流の日々であり文筆業の研さんの日々でもあった。この作品はヘミングウエイの晩年の作品と云うより、遺作である。60歳になった彼が、20年代、年齢にして22~27歳のの修業時代を、病魔に侵されながらも、追想して描いた不朽の名作である。この作品は彼の死後(うつ病による猟銃自殺)第4番目の夫人メアリー・ヘミングウエイ(1908年~1986年)の編集のうえ発刊された。
この作品の筋1、ヘミングウエイとハドリーの生活
ハドリーとヘミングウエイは、アメリカ、シカゴで知り合い、1921年に結婚し、渡仏する。最初はパリ、セーヌ川の左岸、貧民街と云われたカルディナール・ルモアール通り74番地の安アパートに住む。その後ノートルダム・デ・シャン通り113番地の木工所の2階に移り住むのであるがこの間、つましいながらも濃密な幸せな結婚生活を送る。ヘミングウエイの修業時代を妻のハドリーは献身的に支える。競馬やスキーに興じセーヌ川のほとりを散策するなど貧しくとも充実した結婚生活がそこにはあった。しかしこの幸せな結婚生活も結局は破局を迎える。それは一方が他方を嫌いになったからというものではなく、ヘミングウエイが回想しているように「老獪きわまる術策を駆使するもうひとりのリッチな人間(ポーリーン・ファイファー)の術策にはまってしまった」のであり「他者に蹂躙されずにうまく身をかわす術を身につけていなかった」若きヘミングウエイが陥った悲劇であり、魔がさしたものであった。ヘミングウエイは同時に二人の女性を愛してしまったのである。当時ポーリーンはヴォーグ誌の記者(=パリ通信人)であり、ハドリーとは全くその趣味、し好に到るまで、対照的な女性であり、スレンダーで、美しく、高い教養を身につけ、善良で愛嬌があり、ヘミングウエイを引き付けるに十分な魅力を備えていた。ヘミングウエイは三角関係に悩む。「線路わきに立つ妻と再会した時、彼女以外の女性を愛する前に、いっそ死んでしまえばよかった、と私は思った」とヘミングウエイは思っていながら、ポーリーンとの中を清算することはできなかった。こうした事態は、ハドリーには我慢がならなかった。一定の別居期間を経て離婚が成立する。ヘミングウエイは最初の長編小説『日はまた昇る』の印税のすべてをハドリーに送ることを約束した。それは共同便所しかない安アパート時代の彼を物心両面から支えてくれたハドリーに対する最低の感謝の気持ちだったのであろう。その後ハドリーは再婚して、幸せな結婚生活を送るのであるが、それを知ってヘミングウエイは、罪の意識から解放されて、初めて心からポーリーンを愛するようになったという。そこに男の性(さが)の悲しさを見ることが出来る。ヘミングウエイはポーリーンとの再婚の後アメリカに戻るのであるが、ポーリーンとの結婚生活は13年間続き二人の男子をもうけている。その後ヘミングウエイは、マーサーゲルホーン、メアリー・ヘミングウエイと4度結婚している。メアリー・ヘミングウエイとはヘミングウエイがこの世を去るまで15年間、良きパートナーとして、マネージャーとして、介護役として賢婦人ぶりを発揮した。先にも述べたように彼女は遺作となったこの作品の編集に携わり、発刊している。こ作品を読んで感じることは、ヘミングウエイが本当に愛したのはハドリー一人ではなかったのかといううことである。訳者高見浩が云うように、この作品はハドリーに対するオマージュといって過言ではないであろう。
この作品の筋2ロストジェネレーション(自堕落の世代)と云われた人々との交流
20年代のアーチストたちは本当に自堕落の世代だったのだろうか?
一般にこの作品や『日はまた昇る』は1920年代のパリでのロストジェネレーション(自堕落な世代)の生態を描いたものと云われている。確かに第一次大戦後、旧来の価値観が崩壊し新しい価値観を求めてアーチスト達が苦悩したことは事実ではあるが、その意味でのロストジェネレーション(失われた世代)であっても、彼らは決して自堕落な世代ではない。この言葉はヘミングウエイがまだ貧しい修業時代に師事した20世紀を代表する前衛作家で、詩人のガートルード・スタイン女史の言葉である。しかしヘミングウエイは『日はまた昇る』においても、それから30年たったこの作品においてもこの言葉には否定的である。この言葉を聞いてヘミングウエイは「人を自堕落な世代と呼ぶなんて、何様のつもりなんだ」「どんな世代にも自堕落な部分はあるもんだ」「ロストジェネレーションなんて、彼女の言い草なんて、くそくらえ。うすぎたない、安直な、レッテル貼りなど、くそくらえだ」と、怒りを爆発させている。そして彼は云う「最初の長編小説(『日はまた昇る』)をかいた時、(中略)ミス・スタインの発言を冒頭に掲げ、それと釣り合いをとるべく伝道書の一部を並べたのだ」と。そして妻のハドリーに「彼女。ろくでもない話ばかりするときもあるんだ」と語っている。ヘミングウエイはこの作品において当時交流した多くの著名なアーチストを紹介しているが、彼らの姿勢は決して自堕落ではない(本書 P,50~51参照)。最初こそ師事していたものの、ヘミングウエイは、ミス・スタインの同性愛の現場を見るに及んで、その尊敬の念は軽蔑の念に代わり、その他の理由もあって喧嘩別れしている。その後仲直りはするものの、理性的にも、情緒的にも本当の意味での友達付き合いはできなくなっていく(本書p,170~171参照)。どだい芸術家なんて云う動物は、どんな高い理想を掲げていても自堕落な面を持っているものであり、それを許容しない限り付き合いなんてできないのである。尊敬の念が強かっただけに、ヘミングウエイにとってミス・スタインは落ちた偶像だったのである。
この作品は、無名な文学青年であったヘミングウエイの、妻ハドリーに支えながら一心不乱に執筆活動を行ったパリでの生活を回顧したものであるが、この作品を読む上で見落としてはならないことが2つある。1つは、シルビア・ビーチの経営する「シュークスピア書店」であり、もう1つはヘミングウエイのホームカフェ「クロズリー・デ・リラ」である。この二つを無視してこの作品を語ることはできない。
シルビア・ビーチの経営する「シュークスピア書店」
本を買う余裕すらなかった修業時代のヘミングウエイを物心両面から支えたのは、シルビア・ビーチの経営する書店兼図書室の「シュークスピア書店」であった。この書店から必読書を借り受けヘミングウエイはむさぼり読む。経営者のシルビアは魅力にあふれたアメリカ人女性であり、貧民街に住む初対面のヘミングウエイに対しても分け隔てなく、ある時払いの催促なしの条件で貸出カードを作ってくれた。そして何冊でも読みたい本を持ち出してくれて構わないと言ってくれたのである。作家志望のヘミングウエイにとってこんなありがたい話はなかった。彼はこの書店を利用してツルゲ-ネフの全作品、ゴーゴリ、トルストイ、チェーホフ、ドストエフスキー、等のロシア文学、ほかの外国文学を読み漁り知識を深め、その感性を研ぎ澄ました。ヘミングウエイは次のように述べている。「いかに貧しかろうと、何とか働いてそれなりの暮らしのできるパリのような街で、幸い読書の時間に恵まれて、こういう新しい文学の世界に出会えたことは、途方もない宝物を与えられたに等しかった」と。
シルビア・ビーチは1920代のパリの文学界を語る上で欠かせない存在で1919年から1941年まで、オデオン通りで「シュークスピア書店」を経営していた。この書店は20年代のフランス文学者のみならず、パリに集まっていた英米の文学者たちのオアシス的存在であった。ヘミングウエイはこの書店の常連になり、ビーチを通じて多くの英米のアーチストたちと知り合い、芸術的視野を広げたのである。ビーチとは個人的にも親しくなり、最初の短編集『我らの時代』はこの書店の店頭に並んだのである。さらに泣き言を聞いてくれる間柄にもなったのである。
ヘミングウエイのホームカフェ「クロズリー・デ・リラ」
ヘミングウエイは1923年ハドリーの出産のため一時パリを離れて、カナダのトロントに出かけ、その地で長男ジョン(=愛称バンビ)を出産する。出産後パリにもどり居を定めたのが、ノートルダム・デ・シャン通り113番地、木工所の2階だった。彼のホーム・カフェになったのが住まいの最寄りに位置する「クロズリー・デ・リラ」であった。そこは環境にも恵まれた快適なカフェであると同時にパリでの最高のカフェの一つであった。この頃ようやくヘミングウエイのパリでの文学修業も実を結び始め、あふれんばかりの創作意欲に燃え、このカフェのテーブルの上で多くの好短編を生み出していった。そしてそれらの短編は1925年には最初の短編集『我らの時代』に結実し「シュークスピア書店」に並ぶ。さらに1926年には彼の最初の長編小説『日はまた昇る』が刊行された。この間、多くの著名なアーチスト達(スタイン、パウンド、フィッツジェラルド等々)との交流が行われ、彼の文壇上の地位を確立していった。しかしそれは同時にポーリーンとの不倫、それ故のハドリーとの離婚と、必ずしも順風満帆の門出ではなかった。ハドリーとの離婚と、ポーリーンとの再婚後ヘミングウエイとポーリーン夫妻はパリを去る。こうしてパリ時代の苦しくとも、喜びに満ちたヘミングウエイの修業時代は終わったのである。
このように修業時代のヘミングウエイにとって、シルビア・ビーチの「シュークスピア書店」と、ホーム・カフェ「クローズリー・リラ」はパリ時代のヘミングウエイにとってはなくてはならない存在だったのである。
登場人物
ヘミングウエイのパリでの修業時代を支えた人々はハドリーをはじめ多くいるが、まず「シュークスピア書店」のシルビア・ビーチ、最初は師事したが後に喧嘩別れしたガードルード・スタイン、詩人で終生の師であり友人であったエズラ・バウンド、ロシア文学に造詣が深くヘミングウエイとの付き合いが死ぬまで続いたエヴァン・シップマン、作家で下卑た雰囲気を漂わせ人に嫌悪感を与えるフォード・マドックス、レイプに失敗した男の目を持つ画家のウイズダム・ルイス、この作品で最も多くのページを割かれながらも、あまり好意的には扱われず共に旅行した後「好きでない人間とはともに旅行することなかれ」と云われたスコット・フィッツ・ジェラルド。しかし彼は無名であったヘミングウエイの才能を見抜き生涯の版元になったスクリプナー社に彼を紹介している。その意味では恩人である。
このようにヘミングウエイは当時の時代の先端を行くアーチスト達との交流の日々を、自分の好き嫌いの感情を隠すことなく正直に述べている。時には苦々しくもあり、悲しさ、寂しさがありながらも、輝きに満ちた、濃密で、ある場合には傲慢とも思える自我の強さ、優しさがこの作品を彩っている。ヘミングウエイがその晩年に1920年代パリで過ごした青春の日々を感慨を込めて綴った素晴らしい作品である。
ヘミングウエイ作 「移動祝祭日」高見 浩訳 新潮文庫