今回はトルストイの「クロイツェルソナタ」を取り上げるが、前回の「星の王子さま」と違って、愛や結婚に対して甘い夢や、期待をここに見出すことは出来ない。トルストイは自分の分身であるボズドヌイシェフ(この作品の主人公)の言葉を借りて、愛や結婚について語るが、その欺瞞性を鋭く指摘する。彼によれば、愛とは性欲そのものであり、男にとって、女は快楽(性欲)の道具に過ぎない。女はそれを承知の上で、男性を秘術を尽くして篭絡し、我が物にする。貴族の女も、春を売る女もそれはおんなじだと強調する。性的欲望が男女関係の破滅の原因なりと言い、生殖以外の性は不潔で、厭らしい悪なりと断言する。これを変えたいなら女はその純潔を一生守るべきだと力説する。それを実行したら人類は滅びるではないかと言う疑問に対しては、「人類はなぜ存在しなければならないんです?」そう言って「人類は神の与えたもうた目的を達成したあと、生きる目的を失い、生存する意味がなくなる。目的達成のためには何千年もの歳月が必要であり、それを保障するものが生欲なのだ」と言う。「人類は絶滅するか?例えどのようにこの世界を見るにしても、その事実を疑うものが果たしているものでしょうか?だって、そのことは死と同じように、疑う余地がないではありませんか。とにかくあらゆる宗教から言っても、世界の終わりは訪れるはずですし、全ての学説から言っても同じ事態は避けられないのです。道徳の教えから言って、おなじ結果になったとしても、別に不思議ではないではないですか」と。終末論が展開される。
トルストイの生きた時代は帝政ロシア末期のロシア文化の爛熟期であり、文化の頽廃期でもあった。性風俗は乱れ、性犯罪、性の倒錯はまかりとおり、男の放蕩とそれに呼応して女の性倫理の堕落はひどく、不倫、堕胎、離婚は増大していた。トルストイの考えはこのような時代を反映しており、この時代に対する警鐘であると考えてよいであろう。
この作品の題名「クロイツェルソナタ(ベートーベン作「バイオリンソナタ第9番イ長調作品47」の通称)」は、ボズドヌイシェフの妻とその愛人でバイオリニスト=トルハチェフスキーがボズドヌイシェフの前で合奏した曲名である。二人の奏でる曲は美しく聴く人を魅了し、感動させ、その心を狂わせる。ボズドヌイシェフはいらいらし、その嫉妬心をいやが上にも駆りたてる。それはボズドヌイシェフをして妻の刺殺へ導く前奏曲でもあった。
この作品の作者、私は汽車の中で奇妙な、孤独の影を宿した眼光の鋭い一人の紳士(ボズドヌイシェフ)と出会う。この紳士の過去の告白と言う形で物語は進展する。
ボズドヌイシェフは美しい娘に会い感動し結婚する。しかしその結婚はまもなく亀裂が生じる。甘い関係は長続きはしなかった。「お互いが影で裏切りあっていたにもかかわらず、表では円満な夫婦生活を演じていました。4人の子を授かり妻と絶えず喧嘩を繰り返しながらも、肉体的結びつきによってその関係を継続してきました。堂々と嘘をつきあっていたほうがまだ楽だったでしょう。私たちは貞操を押し付け合い、自分を曲げず、いつも激しく争っていました。自分たちの偽善に苦しめられて」。「結婚4年目にして互いに理解しあったり、同意できないのだと理解するようになったのです」。
このようにボズドヌイシェフ夫婦はお互いに苦しみながらも、4人の子育てが終わり生活に落ち着きが出てきた。妻は美しく変身し、社交界でも注目される。ボズドヌイシェフは華やかになった妻の行動に嫉妬し、苦しむ。
このような時に現れたのがハンサムなバイオリニスト=トルハチェルフスキーである。愛し合えない夫に苦しめられていた妻はこの男にときめきを感じ、はまり込んでいく。妻に対するボズドヌイシェフの不信、疑い、嫉妬の念はいやが上にも高まっていく。信じようと努力しても沸きあがってくる疑念、不安、嫉妬を抑えることが出来ない。そして決定的な破局が訪れる。ボズドヌイシェフは二人の不倫現場を目撃する。彼は逆上して妻を刺殺する。
不倫小説と言うと不倫する側に光が当てられるが、この作品は逆にされる側に光が当てられる。その苦しみ、嫉妬、憎悪、悔しさ、淋しさ、悲しさが描かれ、ボズドヌイシェフの妻殺しという悲劇へと導かれていく。裁判所は不倫によって裏切られ、その名誉を傷つけられたとして男に対して無罪の判決を下す。それは一種の宗教裁判でもあった。
「汝、姦淫することなかれ」という戒律を犯した女には死が与えられ、その殺人者には罪は問われなかった。しかし殺人者ボズドヌイシェフは4人の子供を奪われ、、妻殺しの罪を、一生抱え、後悔の念に駆られながら、世間の冷たい目と孤独に耐え、生きていかなければならない。その罪に対する道徳的な罰は、死を与えられた女に較べ決して軽くはないのである。
絶対的純潔あるいは、一夫一婦制の厳守がトルストイにとっては宗教上の守るべき徳義であり、姦淫は許されてはならないものだった。
西欧における近代リアリズムは神との関係を無視して語る事はできない。神は人間の外にあって人間を規制する存在であり、自由を求める近代人にとっては立ち向かわなければならない強力な障壁なのである。戒律か自由化?神か人間か?この作品を単なる不倫小説と見なしてはなるまい。妻とトルハチェフスキーの二人は「汝、姦淫することなかれ」という戒律に敢然と挑戦したのである。そこには神からの自我の解放がある。戒律=既成秩序に対する懐疑と否定がある。しかし、敬虔な宗教家=トルストイは、神の側に軍杯を上げざるを得なかった。それは若き頃の放蕩の結果得た結論だったのである。二人で奏で人々を感動させた「クロイツェルソナタ」、そこには滅び行く者の美学がある。
性愛と家族、時と所が変わっても、その問題点は変わらないようである。
トルストイの生きた時代は帝政ロシア末期のロシア文化の爛熟期であり、文化の頽廃期でもあった。性風俗は乱れ、性犯罪、性の倒錯はまかりとおり、男の放蕩とそれに呼応して女の性倫理の堕落はひどく、不倫、堕胎、離婚は増大していた。トルストイの考えはこのような時代を反映しており、この時代に対する警鐘であると考えてよいであろう。
この作品の題名「クロイツェルソナタ(ベートーベン作「バイオリンソナタ第9番イ長調作品47」の通称)」は、ボズドヌイシェフの妻とその愛人でバイオリニスト=トルハチェフスキーがボズドヌイシェフの前で合奏した曲名である。二人の奏でる曲は美しく聴く人を魅了し、感動させ、その心を狂わせる。ボズドヌイシェフはいらいらし、その嫉妬心をいやが上にも駆りたてる。それはボズドヌイシェフをして妻の刺殺へ導く前奏曲でもあった。
この作品の作者、私は汽車の中で奇妙な、孤独の影を宿した眼光の鋭い一人の紳士(ボズドヌイシェフ)と出会う。この紳士の過去の告白と言う形で物語は進展する。
ボズドヌイシェフは美しい娘に会い感動し結婚する。しかしその結婚はまもなく亀裂が生じる。甘い関係は長続きはしなかった。「お互いが影で裏切りあっていたにもかかわらず、表では円満な夫婦生活を演じていました。4人の子を授かり妻と絶えず喧嘩を繰り返しながらも、肉体的結びつきによってその関係を継続してきました。堂々と嘘をつきあっていたほうがまだ楽だったでしょう。私たちは貞操を押し付け合い、自分を曲げず、いつも激しく争っていました。自分たちの偽善に苦しめられて」。「結婚4年目にして互いに理解しあったり、同意できないのだと理解するようになったのです」。
このようにボズドヌイシェフ夫婦はお互いに苦しみながらも、4人の子育てが終わり生活に落ち着きが出てきた。妻は美しく変身し、社交界でも注目される。ボズドヌイシェフは華やかになった妻の行動に嫉妬し、苦しむ。
このような時に現れたのがハンサムなバイオリニスト=トルハチェルフスキーである。愛し合えない夫に苦しめられていた妻はこの男にときめきを感じ、はまり込んでいく。妻に対するボズドヌイシェフの不信、疑い、嫉妬の念はいやが上にも高まっていく。信じようと努力しても沸きあがってくる疑念、不安、嫉妬を抑えることが出来ない。そして決定的な破局が訪れる。ボズドヌイシェフは二人の不倫現場を目撃する。彼は逆上して妻を刺殺する。
不倫小説と言うと不倫する側に光が当てられるが、この作品は逆にされる側に光が当てられる。その苦しみ、嫉妬、憎悪、悔しさ、淋しさ、悲しさが描かれ、ボズドヌイシェフの妻殺しという悲劇へと導かれていく。裁判所は不倫によって裏切られ、その名誉を傷つけられたとして男に対して無罪の判決を下す。それは一種の宗教裁判でもあった。
「汝、姦淫することなかれ」という戒律を犯した女には死が与えられ、その殺人者には罪は問われなかった。しかし殺人者ボズドヌイシェフは4人の子供を奪われ、、妻殺しの罪を、一生抱え、後悔の念に駆られながら、世間の冷たい目と孤独に耐え、生きていかなければならない。その罪に対する道徳的な罰は、死を与えられた女に較べ決して軽くはないのである。
絶対的純潔あるいは、一夫一婦制の厳守がトルストイにとっては宗教上の守るべき徳義であり、姦淫は許されてはならないものだった。
西欧における近代リアリズムは神との関係を無視して語る事はできない。神は人間の外にあって人間を規制する存在であり、自由を求める近代人にとっては立ち向かわなければならない強力な障壁なのである。戒律か自由化?神か人間か?この作品を単なる不倫小説と見なしてはなるまい。妻とトルハチェフスキーの二人は「汝、姦淫することなかれ」という戒律に敢然と挑戦したのである。そこには神からの自我の解放がある。戒律=既成秩序に対する懐疑と否定がある。しかし、敬虔な宗教家=トルストイは、神の側に軍杯を上げざるを得なかった。それは若き頃の放蕩の結果得た結論だったのである。二人で奏で人々を感動させた「クロイツェルソナタ」、そこには滅び行く者の美学がある。
性愛と家族、時と所が変わっても、その問題点は変わらないようである。