イザヤ書18 41章 恐れるな、たじろぐな
はじめに:人が、神託を語るとき、それは預言となり、語る者は預言者となります。その預言が正しいか、過ちであるかは、過去の預言が、現在において実現しているか否かにあります。語る言葉が、神託であれば実現します。彼は、神によって召命された者だからです。彼は、預言者となります。神託でなければ、実現しません。神と偶像の違いです。(41:22~24参照)。
神は「裁きの座に近づけ」と。イスラエルの周辺の異邦かつ異教の国々に法廷闘争を呼びかけます。神は自分の力強さを、彼らに見せつけ、我に従えと訴えます。しかし、彼らは、それに抵抗して異教の島々を統合し偶像を造り敵に抵抗します。「見よ。彼等はみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は、風のように形もない(41:29)。これが法廷闘争の結果です。
41章を要約すると次の3つに分類されます。
1,1~7節:イスラエルを取り巻く異教の諸国に対する法廷闘争が描かれ、救いはどちらの神によってなされるか。神か偶像かの問いかけがあります。
2,8~20節:イスラエル及び周辺諸国が主によって守られ、回復することが描かれています。
3,21~29節:裁判の結果が語られ、バビロンに対する裁きと偶像の神々に対するイスラエルの勝利の宣告がなされています。
41章:「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力をえよ。近寄って、今、語れ、われわれはこぞって、さばきの座に近づこう。(41;1)」。島々(諸国)とは、当時の強国アッシリヤの支配下で翻弄され、苦しみ、呻いていた異邦で異教の民のことです。主は、その国々に対して「わたしを信じて力を得よ」と勧告します。そして、預言者イザヤは、法廷(裁きの座)を開いて自分を救うものはだれかを決めよ、と法廷での闘争を呼びかけます。
「神か、それともあなたがたの信じる偶像か」と。
「誰が一人の者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らを塵のようにし、その弓で藁のように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いたことのない道を安全に通っていく(41:2~3)」。だれが:主です。主は尊いお方です。汚れた仕事は自分ではしません。東からくる一人の者ペルシャの王クロスを使います。彼は、行く先々で異教の国々と戦い、勝利を収めます。彼(クロス)は、彼ら(諸国の民)を、何の苦労もなく(安全に)撃破していきます。
「誰がこれを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりと共にある。わたしがそれだ(41:4)」。誰がとは主です。「初めから代々の人に呼びかけた者」も主です。初めとは、天地創造を指します。このときから、この地の民に呼びかけた者は、神以外にはいません。終わりとは、新しいエルサレム(神の国)です。神の国の創造者も、また主です。天地創造から神の国まで、神は人類の歴史を造り、支配しておられます。これが、神のご計画なのです。天地創造はすでに見ました。しかし神の国は預言的未来です。まだ実現していません。しかし、必ず実現するのです。
「島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいてきた(41:5)」。地の果てとは地獄を指します。島々の民は、その地獄(クロス王)が近づく(滅び)のを恐れたのです。
「彼らは互いに助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言う。鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つものは、金床をたたく者に、はんだ付けについて『それで良い』と言い、釘で打ち付けて動かないようにする(41:6~7)」。彼らの視線は向かうべき真の神には向かわず、偽りの神、偶像に向きます。自分たちの危機にあって、互いに協力し合って偶像を造ってそれを拝みます。それが強力な敵に対して、最も安全な力になると考えたのです。しかし、この方法が、誤りであることは明らかになります。
次の節から神のしもべ、イスラエルに対する防衛の保証と、祝福の約束が神によって、与えられます(41:8~20参照)。
「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムの末よ。わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは私のしもべ、わたしはあなたを選んで捨てなかった』(41:8~9)」。イスラエルは、バビロンによって滅ぼされ、その民は各地に散らされました。しかしバビロンがペルシャの王クロスによって滅ぼされたとき、主はクロスを使って、散らされた民のエルサレムへの帰還を、お赦しになったのです。神が彼らをお見捨てにならなかった証拠です。しかし民の全てが帰還したわけではありません。散らされた期間が70年と長きに渡ったため、彼らの多くはその地に定着します。世代の交代も起こっています。更に、ユダヤ人のアイデンティティーを失わすような教育も行われました。いわゆる愛国教育と言う名の同化政策です。その一環として偶像崇拝も強制されます。ここに政治と宗教の一体化を見ることができます。為政者にとって、いつまでも反逆の民がいては困るのです。彼らは、その地の偽りの神、偶像を信じるようになります。特に第二世代はそうです。彼らは父の世代の本当の神を知りません。その地の偶像こそ神です。これ等、様々な原因によって彼らは帰還を拒否します。そのような中にあって、70年もの長い間、神を信じる「残りの者」がいました。彼等は同化政策に従うことを潔よしとせず、ユダヤ人としてのアイデンティティー守り続けます。苦痛と困難に満ちていました。しかし、神を信じる姿勢を保ちます。それゆえの迫害があったことは、想像に難くありません。彼らは、神の指示に基づいて、エルサレムに戻ります。彼らは破壊された神殿の再建に努めます。このように、帰還を赦された民は、神を信じる者と、偶像を信じて、その地に止まった者の二種類に分かれます。神にも儘々にならないことがあるのです。神はこの事態に対処する必要に迫られます。「わたしを信じ、わたしに従え」と、彼らに呼びかけます。
「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしは、あなたを強め、あなたを助け、私の義の右手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきり立つものは、みな、恥を見、辱めを受け、あなたと争う者たちは、ない者のようになって滅びる。あなたと言い争うものを捜しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしがあなたの右の手を堅く握り『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから(41:10~13)。このように、主は神のしもべイスラエルに、ゆるぎのない確かな約束を与えます。その約束とは、神とイスラエルの間で交わされた契約を現します。その契約によって、イスラエルは子々孫々の増大繁栄が約束されています。それで神は、イスラエルの民に「恐れるな」と言います。この約束を守る神が存在しているからです。
「恐れるな、虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。…主の御告げ…あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者(41:14)」。主は、なぜ選ばれた民イスラエルを「虫けら」と呼ぶのでしょうか。当時ヒゼキヤを生んだイスラエルは決して神に従順ではなかったのです。み使いがアッシリヤをその包囲から解放したとき、彼らは自分の手柄のように高ぶりました。主の最も嫌われることです。主は軽蔑を込めて「虫けら」呼んだのです。しかし、「虫けら」であるからこそ、救いの対象となるのです。裁きの対象ではありません。神はイスラエルに言います。「あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者」、イエス・キリストです。と。
「見よ。わたしはあなたを、鋭い、新しい,両刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて、粉々に砕く。丘を籾殻のようにする。あなたがそれを仰ぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る(41:15~16)」。主の前にはもはやイスラエルに敵対する者はいなくなります。イスラエルは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。のです。
「悩んでいる者や貧しいものが水を求めても水はなく、その舌は乾きで干からびるが、わたし、主は、彼らに応え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、沙漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉やアカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒れ地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心を留めて、共に悟るためである(41:17~20)」。イスラエルの神は、飢え渇いている者を決して見捨てません。荒れ地や荒野や沙漠に泉や川を造り、オアシスとして水を貯え、荒れ地では育たないと言われている様々な木々の栽培を可能にします。文字通り「乳と蜜の流れる豊かな地に」変えられるのです。そのことを偶像を信じる者は、はっきりと知り、心を神に向けて、神の偉業を、諸国の民たちは、悟らなければならないのです。
「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。持ってきて、後に起ころうとすることを告げよ。先にあったことは何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれはそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来るべきことをわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとすることを告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。(41:21~23)
あなたがた、とは偶像を信じる「諸国の民」です。その民に法廷に出廷して「あなたがたの訴え」を出せ、と主は仰せられるのです。主は、彼らを試みておられるのです。「あなたがたの神の言葉が神託であり、必ず実現する」と言うのなら、その証拠を法廷に提出せよ」と。そのとき、主はそれを神託と認めよう。と仰せられます。しかし偶像には、その力はありません。「見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたの業はむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい(41:24)」。ここには、偶像を信じることの虚しさが、語られています。
「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出るところから、私の名を呼ぶ。彼は長官たちを漆喰のように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように(41:25)」。北からの人、とは、ペルシャのクロス王です。主の要望に応えて、彼は異国の支配者(長官)たちを破滅させます。陶器師が粘土を踏みつけるように。「だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに『それは正しい』と言うようにさせただろうか。言う者は一人もなく、聞かせたものも一人もなく、あなたがたの言うことを聞いたものもだれ一人、いなかった(41:26)」。このこととは、ペルシャが世界帝国になり、バビロンを滅ぼし、ユダの民を解放したことを指します。100年以上も後に起こることです。それを預言できるものは神以外におりません。他のものには、預言は出来ません。預言は神のしもべである預言者の専売特許です。「私が、最初にシオンに、『見よ。これを見よ』と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう(41:27)」。よい知らせとは、神の国の到来であり、それを伝えるものとはキリストであり、その再臨を指します。ここには「神のご計画」が描かれています。「わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない(41~28)」。主は、神のしもべであるユダヤ民族の救いを語っています。それは神の国の実現において達成されます。それが出来るものは、主以外には存在しません。天地創造から神の国まで、神は選びの民イスラエルを使って神の国を完成されるのです。
「見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない(41:29)。真の神に比べ偶像の神の偽りと、むなしさが語られています。
はじめに:人が、神託を語るとき、それは預言となり、語る者は預言者となります。その預言が正しいか、過ちであるかは、過去の預言が、現在において実現しているか否かにあります。語る言葉が、神託であれば実現します。彼は、神によって召命された者だからです。彼は、預言者となります。神託でなければ、実現しません。神と偶像の違いです。(41:22~24参照)。
神は「裁きの座に近づけ」と。イスラエルの周辺の異邦かつ異教の国々に法廷闘争を呼びかけます。神は自分の力強さを、彼らに見せつけ、我に従えと訴えます。しかし、彼らは、それに抵抗して異教の島々を統合し偶像を造り敵に抵抗します。「見よ。彼等はみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は、風のように形もない(41:29)。これが法廷闘争の結果です。
41章を要約すると次の3つに分類されます。
1,1~7節:イスラエルを取り巻く異教の諸国に対する法廷闘争が描かれ、救いはどちらの神によってなされるか。神か偶像かの問いかけがあります。
2,8~20節:イスラエル及び周辺諸国が主によって守られ、回復することが描かれています。
3,21~29節:裁判の結果が語られ、バビロンに対する裁きと偶像の神々に対するイスラエルの勝利の宣告がなされています。
41章:「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力をえよ。近寄って、今、語れ、われわれはこぞって、さばきの座に近づこう。(41;1)」。島々(諸国)とは、当時の強国アッシリヤの支配下で翻弄され、苦しみ、呻いていた異邦で異教の民のことです。主は、その国々に対して「わたしを信じて力を得よ」と勧告します。そして、預言者イザヤは、法廷(裁きの座)を開いて自分を救うものはだれかを決めよ、と法廷での闘争を呼びかけます。
「神か、それともあなたがたの信じる偶像か」と。
「誰が一人の者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らを塵のようにし、その弓で藁のように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いたことのない道を安全に通っていく(41:2~3)」。だれが:主です。主は尊いお方です。汚れた仕事は自分ではしません。東からくる一人の者ペルシャの王クロスを使います。彼は、行く先々で異教の国々と戦い、勝利を収めます。彼(クロス)は、彼ら(諸国の民)を、何の苦労もなく(安全に)撃破していきます。
「誰がこれを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりと共にある。わたしがそれだ(41:4)」。誰がとは主です。「初めから代々の人に呼びかけた者」も主です。初めとは、天地創造を指します。このときから、この地の民に呼びかけた者は、神以外にはいません。終わりとは、新しいエルサレム(神の国)です。神の国の創造者も、また主です。天地創造から神の国まで、神は人類の歴史を造り、支配しておられます。これが、神のご計画なのです。天地創造はすでに見ました。しかし神の国は預言的未来です。まだ実現していません。しかし、必ず実現するのです。
「島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいてきた(41:5)」。地の果てとは地獄を指します。島々の民は、その地獄(クロス王)が近づく(滅び)のを恐れたのです。
「彼らは互いに助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言う。鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つものは、金床をたたく者に、はんだ付けについて『それで良い』と言い、釘で打ち付けて動かないようにする(41:6~7)」。彼らの視線は向かうべき真の神には向かわず、偽りの神、偶像に向きます。自分たちの危機にあって、互いに協力し合って偶像を造ってそれを拝みます。それが強力な敵に対して、最も安全な力になると考えたのです。しかし、この方法が、誤りであることは明らかになります。
次の節から神のしもべ、イスラエルに対する防衛の保証と、祝福の約束が神によって、与えられます(41:8~20参照)。
「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムの末よ。わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは私のしもべ、わたしはあなたを選んで捨てなかった』(41:8~9)」。イスラエルは、バビロンによって滅ぼされ、その民は各地に散らされました。しかしバビロンがペルシャの王クロスによって滅ぼされたとき、主はクロスを使って、散らされた民のエルサレムへの帰還を、お赦しになったのです。神が彼らをお見捨てにならなかった証拠です。しかし民の全てが帰還したわけではありません。散らされた期間が70年と長きに渡ったため、彼らの多くはその地に定着します。世代の交代も起こっています。更に、ユダヤ人のアイデンティティーを失わすような教育も行われました。いわゆる愛国教育と言う名の同化政策です。その一環として偶像崇拝も強制されます。ここに政治と宗教の一体化を見ることができます。為政者にとって、いつまでも反逆の民がいては困るのです。彼らは、その地の偽りの神、偶像を信じるようになります。特に第二世代はそうです。彼らは父の世代の本当の神を知りません。その地の偶像こそ神です。これ等、様々な原因によって彼らは帰還を拒否します。そのような中にあって、70年もの長い間、神を信じる「残りの者」がいました。彼等は同化政策に従うことを潔よしとせず、ユダヤ人としてのアイデンティティー守り続けます。苦痛と困難に満ちていました。しかし、神を信じる姿勢を保ちます。それゆえの迫害があったことは、想像に難くありません。彼らは、神の指示に基づいて、エルサレムに戻ります。彼らは破壊された神殿の再建に努めます。このように、帰還を赦された民は、神を信じる者と、偶像を信じて、その地に止まった者の二種類に分かれます。神にも儘々にならないことがあるのです。神はこの事態に対処する必要に迫られます。「わたしを信じ、わたしに従え」と、彼らに呼びかけます。
「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしは、あなたを強め、あなたを助け、私の義の右手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきり立つものは、みな、恥を見、辱めを受け、あなたと争う者たちは、ない者のようになって滅びる。あなたと言い争うものを捜しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしがあなたの右の手を堅く握り『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから(41:10~13)。このように、主は神のしもべイスラエルに、ゆるぎのない確かな約束を与えます。その約束とは、神とイスラエルの間で交わされた契約を現します。その契約によって、イスラエルは子々孫々の増大繁栄が約束されています。それで神は、イスラエルの民に「恐れるな」と言います。この約束を守る神が存在しているからです。
「恐れるな、虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。…主の御告げ…あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者(41:14)」。主は、なぜ選ばれた民イスラエルを「虫けら」と呼ぶのでしょうか。当時ヒゼキヤを生んだイスラエルは決して神に従順ではなかったのです。み使いがアッシリヤをその包囲から解放したとき、彼らは自分の手柄のように高ぶりました。主の最も嫌われることです。主は軽蔑を込めて「虫けら」呼んだのです。しかし、「虫けら」であるからこそ、救いの対象となるのです。裁きの対象ではありません。神はイスラエルに言います。「あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者」、イエス・キリストです。と。
「見よ。わたしはあなたを、鋭い、新しい,両刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて、粉々に砕く。丘を籾殻のようにする。あなたがそれを仰ぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る(41:15~16)」。主の前にはもはやイスラエルに敵対する者はいなくなります。イスラエルは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。のです。
「悩んでいる者や貧しいものが水を求めても水はなく、その舌は乾きで干からびるが、わたし、主は、彼らに応え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、沙漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉やアカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒れ地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心を留めて、共に悟るためである(41:17~20)」。イスラエルの神は、飢え渇いている者を決して見捨てません。荒れ地や荒野や沙漠に泉や川を造り、オアシスとして水を貯え、荒れ地では育たないと言われている様々な木々の栽培を可能にします。文字通り「乳と蜜の流れる豊かな地に」変えられるのです。そのことを偶像を信じる者は、はっきりと知り、心を神に向けて、神の偉業を、諸国の民たちは、悟らなければならないのです。
「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。持ってきて、後に起ころうとすることを告げよ。先にあったことは何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれはそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来るべきことをわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとすることを告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。(41:21~23)
あなたがた、とは偶像を信じる「諸国の民」です。その民に法廷に出廷して「あなたがたの訴え」を出せ、と主は仰せられるのです。主は、彼らを試みておられるのです。「あなたがたの神の言葉が神託であり、必ず実現する」と言うのなら、その証拠を法廷に提出せよ」と。そのとき、主はそれを神託と認めよう。と仰せられます。しかし偶像には、その力はありません。「見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたの業はむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい(41:24)」。ここには、偶像を信じることの虚しさが、語られています。
「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出るところから、私の名を呼ぶ。彼は長官たちを漆喰のように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように(41:25)」。北からの人、とは、ペルシャのクロス王です。主の要望に応えて、彼は異国の支配者(長官)たちを破滅させます。陶器師が粘土を踏みつけるように。「だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに『それは正しい』と言うようにさせただろうか。言う者は一人もなく、聞かせたものも一人もなく、あなたがたの言うことを聞いたものもだれ一人、いなかった(41:26)」。このこととは、ペルシャが世界帝国になり、バビロンを滅ぼし、ユダの民を解放したことを指します。100年以上も後に起こることです。それを預言できるものは神以外におりません。他のものには、預言は出来ません。預言は神のしもべである預言者の専売特許です。「私が、最初にシオンに、『見よ。これを見よ』と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう(41:27)」。よい知らせとは、神の国の到来であり、それを伝えるものとはキリストであり、その再臨を指します。ここには「神のご計画」が描かれています。「わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない(41~28)」。主は、神のしもべであるユダヤ民族の救いを語っています。それは神の国の実現において達成されます。それが出来るものは、主以外には存在しません。天地創造から神の国まで、神は選びの民イスラエルを使って神の国を完成されるのです。
「見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない(41:29)。真の神に比べ偶像の神の偽りと、むなしさが語られています。
令和5年10月17日(火)報告者 守武 戢 楽庵会