日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

イザヤ書18 41章 恐れるな、たじろぐな

2023年09月26日 | Weblog
イザヤ書18 41章 恐れるな、たじろぐな
 はじめに:人が、神託を語るとき、それは預言となり、語る者は預言者となります。その預言が正しいか、過ちであるかは、過去の預言が、現在において実現しているか否かにあります。語る言葉が、神託であれば実現します。彼は、神によって召命された者だからです。彼は、預言者となります。神託でなければ、実現しません。神と偶像の違いです。(41:22~24参照)。
 神は「裁きの座に近づけ」と。イスラエルの周辺の異邦かつ異教の国々に法廷闘争を呼びかけます。神は自分の力強さを、彼らに見せつけ、我に従えと訴えます。しかし、彼らは、それに抵抗して異教の島々を統合し偶像を造り敵に抵抗します。「見よ。彼等はみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は、風のように形もない(41:29)。これが法廷闘争の結果です。 
 41章を要約すると次の3つに分類されます。
 1,1~7節:イスラエルを取り巻く異教の諸国に対する法廷闘争が描かれ、救いはどちらの神によってなされるか。神か偶像かの問いかけがあります。
 2,8~20節:イスラエル及び周辺諸国が主によって守られ、回復することが描かれています。
 3,21~29節:裁判の結果が語られ、バビロンに対する裁きと偶像の神々に対するイスラエルの勝利の宣告がなされています。
 41章:「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力をえよ。近寄って、今、語れ、われわれはこぞって、さばきの座に近づこう。(41;1)」。島々(諸国)とは、当時の強国アッシリヤの支配下で翻弄され、苦しみ、呻いていた異邦で異教の民のことです。主は、その国々に対して「わたしを信じて力を得よ」と勧告します。そして、預言者イザヤは、法廷(裁きの座)を開いて自分を救うものはだれかを決めよ、と法廷での闘争を呼びかけます。
「神か、それともあなたがたの信じる偶像か」と。
「誰が一人の者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らを塵のようにし、その弓で藁のように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いたことのない道を安全に通っていく(41:2~3)」。だれが:主です。主は尊いお方です。汚れた仕事は自分ではしません。東からくる一人の者ペルシャの王クロスを使います。彼は、行く先々で異教の国々と戦い、勝利を収めます。彼(クロス)は、彼ら(諸国の民)を、何の苦労もなく(安全に)撃破していきます。
「誰がこれを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりと共にある。わたしがそれだ(41:4)」。誰がとは主です。「初めから代々の人に呼びかけた者」も主です。初めとは、天地創造を指します。このときから、この地の民に呼びかけた者は、神以外にはいません。終わりとは、新しいエルサレム(神の国)です。神の国の創造者も、また主です。天地創造から神の国まで、神は人類の歴史を造り、支配しておられます。これが、神のご計画なのです。天地創造はすでに見ました。しかし神の国は預言的未来です。まだ実現していません。しかし、必ず実現するのです。
 「島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいてきた(41:5)」。地の果てとは地獄を指します。島々の民は、その地獄(クロス王)が近づく(滅び)のを恐れたのです。
 「彼らは互いに助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言う。鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つものは、金床をたたく者に、はんだ付けについて『それで良い』と言い、釘で打ち付けて動かないようにする(41:6~7)」。彼らの視線は向かうべき真の神には向かわず、偽りの神、偶像に向きます。自分たちの危機にあって、互いに協力し合って偶像を造ってそれを拝みます。それが強力な敵に対して、最も安全な力になると考えたのです。しかし、この方法が、誤りであることは明らかになります。
 次の節から神のしもべ、イスラエルに対する防衛の保証と、祝福の約束が神によって、与えられます(41:8~20参照)。
 「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムの末よ。わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。『あなたは私のしもべ、わたしはあなたを選んで捨てなかった』(41:8~9)」。イスラエルは、バビロンによって滅ぼされ、その民は各地に散らされました。しかしバビロンがペルシャの王クロスによって滅ぼされたとき、主はクロスを使って、散らされた民のエルサレムへの帰還を、お赦しになったのです。神が彼らをお見捨てにならなかった証拠です。しかし民の全てが帰還したわけではありません。散らされた期間が70年と長きに渡ったため、彼らの多くはその地に定着します。世代の交代も起こっています。更に、ユダヤ人のアイデンティティーを失わすような教育も行われました。いわゆる愛国教育と言う名の同化政策です。その一環として偶像崇拝も強制されます。ここに政治と宗教の一体化を見ることができます。為政者にとって、いつまでも反逆の民がいては困るのです。彼らは、その地の偽りの神、偶像を信じるようになります。特に第二世代はそうです。彼らは父の世代の本当の神を知りません。その地の偶像こそ神です。これ等、様々な原因によって彼らは帰還を拒否します。そのような中にあって、70年もの長い間、神を信じる「残りの者」がいました。彼等は同化政策に従うことを潔よしとせず、ユダヤ人としてのアイデンティティー守り続けます。苦痛と困難に満ちていました。しかし、神を信じる姿勢を保ちます。それゆえの迫害があったことは、想像に難くありません。彼らは、神の指示に基づいて、エルサレムに戻ります。彼らは破壊された神殿の再建に努めます。このように、帰還を赦された民は、神を信じる者と、偶像を信じて、その地に止まった者の二種類に分かれます。神にも儘々にならないことがあるのです。神はこの事態に対処する必要に迫られます。「わたしを信じ、わたしに従え」と、彼らに呼びかけます。
 「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしは、あなたを強め、あなたを助け、私の義の右手で、あなたを守る。見よ。あなたに向かっていきり立つものは、みな、恥を見、辱めを受け、あなたと争う者たちは、ない者のようになって滅びる。あなたと言い争うものを捜しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは全くなくなってしまう。あなたの神、主であるわたしがあなたの右の手を堅く握り『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから(41:10~13)。このように、主は神のしもべイスラエルに、ゆるぎのない確かな約束を与えます。その約束とは、神とイスラエルの間で交わされた契約を現します。その契約によって、イスラエルは子々孫々の増大繁栄が約束されています。それで神は、イスラエルの民に「恐れるな」と言います。この約束を守る神が存在しているからです。
「恐れるな、虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。…主の御告げ…あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者(41:14)」。主は、なぜ選ばれた民イスラエルを「虫けら」と呼ぶのでしょうか。当時ヒゼキヤを生んだイスラエルは決して神に従順ではなかったのです。み使いがアッシリヤをその包囲から解放したとき、彼らは自分の手柄のように高ぶりました。主の最も嫌われることです。主は軽蔑を込めて「虫けら」呼んだのです。しかし、「虫けら」であるからこそ、救いの対象となるのです。裁きの対象ではありません。神はイスラエルに言います。「あなたを贖うものはイスラエルの聖なる者」、イエス・キリストです。と。
「見よ。わたしはあなたを、鋭い、新しい,両刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて、粉々に砕く。丘を籾殻のようにする。あなたがそれを仰ぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る(41:15~16)」。主の前にはもはやイスラエルに敵対する者はいなくなります。イスラエルは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。のです。
 「悩んでいる者や貧しいものが水を求めても水はなく、その舌は乾きで干からびるが、わたし、主は、彼らに応え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、沙漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉やアカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒れ地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心を留めて、共に悟るためである(41:17~20)」。イスラエルの神は、飢え渇いている者を決して見捨てません。荒れ地や荒野や沙漠に泉や川を造り、オアシスとして水を貯え、荒れ地では育たないと言われている様々な木々の栽培を可能にします。文字通り「乳と蜜の流れる豊かな地に」変えられるのです。そのことを偶像を信じる者は、はっきりと知り、心を神に向けて、神の偉業を、諸国の民たちは、悟らなければならないのです。
 「あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。持ってきて、後に起ころうとすることを告げよ。先にあったことは何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれはそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来るべきことをわたしたちに聞かせよ。後に起ころうとすることを告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。(41:21~23)
 あなたがた、とは偶像を信じる「諸国の民」です。その民に法廷に出廷して「あなたがたの訴え」を出せ、と主は仰せられるのです。主は、彼らを試みておられるのです。「あなたがたの神の言葉が神託であり、必ず実現する」と言うのなら、その証拠を法廷に提出せよ」と。そのとき、主はそれを神託と認めよう。と仰せられます。しかし偶像には、その力はありません。「見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたの業はむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい(41:24)」。ここには、偶像を信じることの虚しさが、語られています。
 「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出るところから、私の名を呼ぶ。彼は長官たちを漆喰のように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように(41:25)」。北からの人、とは、ペルシャのクロス王です。主の要望に応えて、彼は異国の支配者(長官)たちを破滅させます。陶器師が粘土を踏みつけるように。「だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに『それは正しい』と言うようにさせただろうか。言う者は一人もなく、聞かせたものも一人もなく、あなたがたの言うことを聞いたものもだれ一人、いなかった(41:26)」。このこととは、ペルシャが世界帝国になり、バビロンを滅ぼし、ユダの民を解放したことを指します。100年以上も後に起こることです。それを預言できるものは神以外におりません。他のものには、預言は出来ません。預言は神のしもべである預言者の専売特許です。「私が、最初にシオンに、『見よ。これを見よ』と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう(41:27)」。よい知らせとは、神の国の到来であり、それを伝えるものとはキリストであり、その再臨を指します。ここには「神のご計画」が描かれています。「わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない(41~28)」。主は、神のしもべであるユダヤ民族の救いを語っています。それは神の国の実現において達成されます。それが出来るものは、主以外には存在しません。天地創造から神の国まで、神は選びの民イスラエルを使って神の国を完成されるのです。
「見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない(41:29)。真の神に比べ偶像の神の偽りと、むなしさが語られています。
令和5年10月17日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

イザヤ書17 40章 慰めのメッセージ

2023年09月08日 | Weblog
イザヤ書17 40章 慰めのメッセージ
 はじめに:これから後半(40~66章)に入ります。前半(1~39章)では、イスラエルに対する神のさばきが語られました。後半部分では神による慰めと将来への希望が語られます。前半ではイザヤが生きていた時代、すなわち、ヒゼキヤ王の時代を背景にして語られましたが、後半では、イザヤの時代より100年も先に起こるバビロンの捕囚からの解放と言う出来事が背景にあります。もちろん、イザヤもヒゼキヤ王もこの世には存在していません。それで後半はイザヤとは別人の作と言う説が有力です。しかし、ヨハネはその著「黙示録」の中で今よりはるかかなたにある「神の国」を預言しています。預言者は、神託を語る人です。預言者イザヤもその神託を語ったのです。神の言葉は、時と所を超えて、永遠、無限に真実です。それゆえ、後半部分もイザヤの作と見做すべきでしょう。
 紀元前586年にエルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって滅ぼされ、捕囚の憂き目を見ます。やがてペルシャの王クロスが登場して、ユダの民を捕囚から解放します。ここでは主ご自身の民、すなわち、ユダヤ人に対する主の熱い思いが語られるだけでなく、その熱い思いがどのように実現するか、その担い手としてのメシアが初めて登場します。そこには、単なるバビロンの捕囚からの解放を超えた、神の壮大な終末的救いのご計画が預言されています。主がイスラエルの神となり、イスラエルは「神の選びの民」となるのです。こうして、イスラエルは、人類の祝福の基(源)となり「世界に献身した民族」になるのです。
 40章:預言者イザヤは言います「『慰めよ。慰めよ。私の民を』と、あなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き換え、二倍のものを主の手から受けたと。』」。神の宣言は、懲らしめから慰めに代わります。「慰めよ」と言う言葉は、神への反逆へのさばきとして、一切のものを奪われ、捕囚の中におかれていたユダの民に対する神の手による赦しと解放の宣言です。一方的な恵みの宣言、福音を指します。その言葉はユダの民にとっては「慰め」となるのです。しかし、実際にユダの民を捕囚から解放したのは、ペルシャのクロス王です。クロス王は、神の御手と見做されています。主はユダの民をその罪ゆえに裁きました。しかしその裁きは、決して自己目的ではなかったのです。その罪を悔い改め、自分に立ち返るための手段としたのです。「その労苦は終わり、その労苦は償われ」て、いるのです。そして「そのすべての罪に引き換え、二倍ものものを主の手から受けたのです。
ここには、メシア(イエス・キリスト)による贖いの死があります。キリストは我々の罪を一身に背負って、十字架にかけられたのです。私たちの罪を贖い、回復し、祝福まで注いでくださったのです。二倍以上の恵みを我々は受け取っているのです。
 「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。荒れ地で私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ』(40:3~5)」。バビロンから解放してくださった主が、ユダヤ人の罪の縄目から解放してくださった主が、今、道を通って神の都エルサレムに帰って来られます。ここには福音伝道の働きが語られています。主の道を整えよと、「荒野で呼ばわる声」がします。荒野、荒れ地とは、いまだ主の恵みが及ばない異邦かつ異教人の地を指します。その地に、主の道を整えよと「呼ばわる声」がするのです。いわゆる異邦伝道です。それ妨げる障害物(山や川や谷)は取り除かれ主の道は整えられていきます。主の御口が語られたからです。主が、お命じになったからです。実際の道を整えよというよりも、神の民(イスラエル)が、神の前にへりくだって悔い改め、主を受け入れ、主と共に歩めと言っているのです。この声は、バプテスマのヨハネではないかといわれています。「私は預言者イザヤが言っているように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です(ヨハネ1:33)」。と、ヨハネは言っています。
「『呼ばわれ』と言う者の声がする。私は、『なんと呼ばわりましょう』と答えた。『すべての人々は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは、永遠に立つ。』(40:4~8)」。形あるものは、どんなに華やかで力に満ちていてもいつかは滅びます。しかし形を持たない神の声は、永遠に立つのです。
 「シオンに良い知らせを伝えるものよ。高い山に上れ。エルサレムに良い知らせを伝えるものよ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ。あなたがたの神を。』(40:9)」。良い知らせ(福音):救い主の到来、神の義の実現を意味します。見よ。あなたがたの神を:キリストの再臨を意味します。「神の国」が、近づいています。
「見よ。神である主は力を持って来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主と共にある。その報酬は主の前にある(40:10)」。「福音」は神の国の到来を告げ知らせます。神の支配は真の平和をもたらします。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に小羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く(40:11)」。ここには「神の国」の持つ優しい姿が描かれています。主の力強く統べ治められる御腕は、同時に小羊を引き寄せ抱きしめ、お導きになる腕です。小羊とは、勿論、主を信じ敬う「神の子」たちです。
 これから神は、ご自分の偉大さ、威厳、威光、その超越した姿を描いていきます。そして、ご自分と偶像の神々との対比を行い、イスラエルの神がいかに優れているかを語ります。
 「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか(40:12)」。主は、ご自分を天地の創造者であり、支配者であることを明らかにします。この地のすべてのものは、主の手のひらにあり、転がされているのです。
 「だれが、主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。主は誰と相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。(40:13~14)」ここに書かれていることはすべて反語です。だれがは、だれも、です。主は万能です。だれも主に優って、教えたり授けたりは出来ないのです。ここには偶像批判があります。神の上に神を置いてはならないのです。「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか(40:18)」。ここには偶像批判があります。「すべてこの世のものは、主の前では無いに等しく、主にとっては、むなしく形もないものとみなされるのです(40:15~17参照)」。
 神は、人類の最初の人アダムとエバを自分の似姿として造られました。しかし、彼らは、その罪により楽園を追われることによって、似姿であることをやめます。その末であるイスラエルの民も偶像を信じ、神に逆らい似姿にはなれなかったのです。人が似姿を回復するには、イエス・キリストの登場まで待たねばならないのです。イエスは聖処女マリヤと聖霊との間に生まれた永遠の祭司です。イエスは十字架の死を経験しますが、3日目に蘇り、今も生きており、我々に寄り添っています。永遠かつ無限の存在です。まさに神の似姿です。更に、イエスの贖いの死によって、人もその罪を赦されて「神の似姿」を回復します。
 ここに旧約聖書と新約聖書の違いを見ることができます。旧約聖書は裁きの書であり、新約聖書は救いの書であると言われています。 主は、永遠かつ無限の存在です。神とはあくまでも霊的な存在であって、その姿を見ることも触ることもできない隠れた存在です。聖書は言います。「神は自分の似姿として、人を造られた」と。しかし、神は姿をもたない霊的な存在です。そこで、人は逆に人の姿の中に神を見ます。その結果、「人の似姿が神」となります。恐れ多いことです。ここに「偶像」を生み出す基礎があります。偶像の作者たちは、具体的に自分のイメージに基づいて、想像上の「神」を、目に見える形(物)に造りあげます。しかし、形あるものはどんなに豪華絢爛、堅牢であっても、必ず滅びます。有限かつ儚い存在です(40:18~20参照)」。そこに偶像(物)と、神(霊)との決定的な違いがあります。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神の言葉は永遠に立つ(40:8)」。のです。草や花は「物=偶像」です。しかし、言葉は形を持たない「霊=神」です。
 次にイザヤは、神とは何かとその存在を明らかにしていきます。
 「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。主は地をおおう天蓋のうえに住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる(40:21~22)」「君主たちを無に帰し、地のさばきつかさを虚しいものにされる(40:23)」。ここには主の創造性が語られています。主は天地の創造者です。それ以外のものは、君主も裁き司も主によって造られその支配下にあります。主は、天に住まわれ、そこより地にある人を見守っておられるのです。
 「かれらが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす(40;24)。」金銀財宝を使って。やっと造られた偶像は、神の前には太刀打ちできません。すべて滅ぼされ、嵐の前の藁のように散らされます。
 「『それなのに、わたしをだれになぞらえ、だれと比べようとするのか』と聖なる方は仰せられる(40:25)」。反逆する偶像を滅ぼされる主は、自分に較べうる偶像は存在しないと威厳を示し、無比性を明らかにします。イスラエルの神に優る神は存在しないのです。ここには偶像を造ることの愚かしさが語られています。「神の似姿」とは、あくまでも精霊であって、物であってはならないのです。
 「目を高く上げ、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つその名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つも洩れるものはない(40:26)」。だれが星の数ほどある万象を数えて呼び出し、その膨大なものの一つ一つを造り、数えて、名をつけて呼ばれているかとイザヤは問うています。それはもちろん、神である主です。このように、この方は精力に満ち、その力は強く、なされることに洩れることはないのです。ここには神の至高性と全能性が語られています。
 「ヤコブよ。なぜ言うのか、イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている』と(40:27)」。イスラエルは、アッシリヤ、バビロンに侵攻され、捕らわれ、捕囚と、災厄に犯され続けています。イスラエルの民は言います「我々の神なら、なぜ我々を助けようとしないのか」と。しかし、イスラエルの民は、神に選ばれた契約の民です。神がイスラエルの民を見捨てるわけはないのです。
 「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力の無い者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる。しかし、主を待ち望む者は、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない(40:26~31)」。ここには、神の永遠性、創造性、万能性が語られています。イスラエルの民は、当然救われてしかるべきなのです。と言うことは、イスラエルの受けた災厄の原因は、主の側にではなく、イスラエルの側にあることを示しています。神は決して選ばれた民を見捨てません。主はイスラエルに手を差し伸べているのです。「主を待ち望む者は新しく力を得る」のです。しかし、イスラエルの民は、偶像を信じ、主の差し伸べる手を拒否したのです。災厄からの救いは、イスラエルの民の悔い改めと、神に立ち返ることにあるのです。神はお優しい方です。自分を信じ、敬う者には、鷲のように翼をかって上ることを赦し、走ってもたゆまず疲れることのない体を、お与えになるのです。神は自分を信じる者を堅くお守りになるのです。その彼方に「神の国」を見ています。神の国の住人は、勿論、回復した「神の似姿」です。
令和5年10月10日(火)報告者 守武 戢 楽庵会