書簡集17 ペテロの手紙第2 なぜ「再臨」は遅れるのか
はじめに
この書簡は、この書を読むすべての人に別れのあいさつとして書かれています(1:14-15)。彼はローマのネロ帝の時代にパウロと共に殉教死しています。
本書は、新約聖書中の公同書簡の一書です。公道書簡とは特定の民ではなく一般の聖徒に宛てたものなのでこう呼ばれます。
ペテロは、イエスの再臨を否定する偽教師たちに対抗して、再臨の必然性を説きます。彼らは言う「再臨は遅れているのではなく、ありえないのだ」、と。これに対してペテロは「再臨(終末)の遅延」の合理的根拠を明らかにします。「神は、罪びとが悔い改め、一人も滅びるものの無いように忍耐をして待っておられるのだ」と、偽教師に反論します。他方聖徒たちに対しては、「終わりの日」はいつ来るかわからないから、いつ来てもよいように身を清くして準備していなさいと諭します。
神によって選らばれた者が、神を信仰するのであって、信仰するものが選ばれるのではない。選びは神の選任事項です。しかし原石として選ばれているのであって、磨かれなければ宝石にはなりません。宝石になるためには、まず第1に、イエス・キリストを知ることです。
イエス・キリストを知ることによって
1、 神に従うものにとって、必要なものはすべて与えられます。
2、 主は自分と聖徒たちの約束を、必ず成し遂げてくださいます。
「キリストを知れば知るほど、その偉大な力を通して、主に従う正しい生活を送るために必要なすべてのものがいただけるのです。そればかりか、キリストは自分の栄光と、みがかれた品性をも、私たちに与えてくださるのです(1:3)」。
この約束が与えられているがゆえに、我々は、肉欲や腐敗から守られているのです。そのためには、神を信仰し、喜ばすために一生懸命信仰に励む必要があります。主の望むことをなさねばなりません。
ペテロはこの書簡において、偽教師の危険性を説く前に、イエス・キリストの偉大さを語ります。イエスの偉大さを知った者には、偽りの神は、会った瞬間に、違和感を覚えます。
誰から誰に書かれたのか:「イエス・キリストのしもべであり、使徒でもあるシモン・ペテロから、私たちの神であり、救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方に(1:1-2)」このようにあて先は具体的には示されてはいません。世界に広がるキリスト者に宛てたものと考えられます(公同書簡に)。また作者は、ペテロとなっていますが、疑問をさしはさむものは多くいます。
いつどこで書かれたのか:この書簡の書かれた正確な時期と場所はわかっていません。第1の手紙の後に、ローマで書かれたと言われています。
なぜ書かれたのか: 教会内部の背教について語られています。偽預言者と偽教師は「異端をひそかに教会内部に持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定しました」。これに対してペテロは主についての知識をはぐくみ、自分たちの受けた「召しと選びとを確かなものに」することによって偽者たちに対抗するよう、この書簡を書いたのです。
内容構成
概 説
1章:反キリストの勢力が力を持ち、キリスト者を迫害しているとき、ペテロは自分の死の近いことを悟り、殉教を前にしての遺訓であることを示しています(1:5-7)。そこには自分の死後の聖徒たちに対する信仰に対する危機感がありました。2章において偽教師に対する誤りを指摘する前に、本物の神・主イエス・キリスト知るようにと聖徒たちに勧めています。神の力によって「いのち」の真実を知ることが出来るからです。イエス・キリストを深く知ること(信仰の成長)こそ偽教師に対する最高の武器だからです。ペテロはイエス・キリストを知るために必要な徳目として「信仰」「徳」「節制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」を挙げています(1:5-7)。これを守っている限り、偽教師の偽の教えに惑わされることはないのです。聖徒たちは神によって「召し」と「選び」を確実なものにする必要があるのです。そのことを思い出し神に帰れと、聖徒たちを励まします。
ペテロは、キリストの再臨の約束は、反キリストが言うように、決して作り話ではなく、この私たちは、キリストの威光の目撃者であるがゆえに事実なりと証しします。勿論、再臨は将来起こるべき話であって、今、現在目撃することは不可能です。しかし、ペテロは主の再臨のみことばを実際に聞き、それを信じたのです。聖書の預言は神のみ言葉として必ず実現するからです。預言は決して人間の意志によってもたらされるものではなく。聖霊に動かされた預言者たちが、神の言葉として語ったものだからです。
2章:預言とは、預言者が神の言葉として語ったものです。「しかし、イスラエルの中には、偽預言者が出ました。また、あなたがたの中にも偽教師が現れるようになります。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自らをお救いになった主を否定し、結局は、滅びを招くのです(2:1)」。なぜなら、彼らのために真理の道が「そしり」を受けるからです。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われています。彼らが滅ぼされないわけがないのです。
聖書は、過去のおける、神の裁きとして次の事象を挙げています。
1、天使ルシエルが、神に逆らい地上に堕されました。
2、神は自分に義なるノアの家族を保護し、不敬虔な世界を大洪水を起こして滅ぼされました。
3、義人ロト以外の不敬虔の民の集まり「ソドム」と「ゴモラ」の町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔なものへの見せしめとされました。
このように、主は、敬虔な者たちを救い、不義なる者を懲罰のもとに置かれたのです。
反キリストは、キリスト者を攻撃しました。しかしみ使い者は勢いにも、力においても彼らに勝っているにも拘らず、主のみ前に、彼らをそしり、訴えることをしませんでした。さばきは神の専任事項だからです。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたと一般に宴席に連なるとき、自分たちのだましごとを楽しんでいます。彼らは罪に満ちています。心の定まらない、揺るぎの民を誘惑しています。「呪いの子」です。彼らに用意されているのは真っ暗闇です。
あなたがたは、神より選ばれた救われた民です。どんな理由があろうとサタンの誘惑に負けてはいけません。義の道を知っていながら、自分に伝えられた聖なる命令に背くなら、その真理を知らなかったほうが良いのです。「犬は自分の吐いたものの上に戻る」とか「豚は身を洗って、また泥の中に転がる」とかいう、ことわざのとおりです。
バラム:バラムは神の代弁者から、偽預言者に転落した典型例として挙げられています。バラムについては民数記の22章から24章に書き記されています。出エジプトを果たしたイスラエルの民がモアブの荒野に野営したとき、モアブの王バラクは、この存在を恐れ、預言者バラムに使者を送り、「イスラエルの民を呪ってほしい」と、高い地位と富を約束して依頼しました。彼に祝福されたものは祝福され、呪われるものは呪われるという、言い伝えがあったからです。主に忠実なバラムは神に伺いを立て、この依頼を拒否します。呪う代わりに、3度祝福したのです。しかし最後までその義を貫くことは出来なかったのです。ヨハネの黙示録には、こうあります「………あなたのうちにバラムの教えを奉じている者がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前につまずきの石を置き、偶像の神に捧げたものを食べさせ、また不品行を行わせた(黙2:14)」とあります。バラムは神の代弁者から偽預言者に転落したのです。
3章:ペテロは「第2の手紙」を揺るぎの聖徒たちに向かって書いています。彼らは神によって選ばれた民です。ペテロにしてもパウロにしても、その宣教の過程は反キリストとの戦いでした。彼らは巧みな戦術をもって聖徒たちに近づきます。まだ霊的に幼い聖徒たちは「確信の民」から「揺るぎの民へと転化していきます。「第2の手紙」はそんな民に対して書かれたものです。この章においては反キリストは、キリストの再臨を問題にします。「キリストの来臨の約束は、どこにあるのか。父祖たちが眠ったときからこの方、何事も創造の初めからのままではないか。(3:4)」と。再臨の遅れをあざ笑う。ペテロはこれに対して彼らの歴史認識の誤りを指摘する。過去においては、世界はその罪ゆえに「大洪水」によって滅びたが、今の天と地は不敬虔な者どもが、火によって焼かれるために、取っておかれるのだ、と反論する。過去、現在、未来、へと時代はダイナミックに動いていることを示す。ここには、神とサタンの戦いに勝利するには時間がかることが示されている。再臨は遅れるのです。
他方、聖徒たちに対しては、「あなたたちが悔い改めて、すべての人が神に立ち返るのを、神は忍耐強く待っておられるのだ」と「再臨」の遅れを神学的に解き明かしする。神は一人でも救われない人がいることに耐えられないのです。
このようにペテロは、罪の立場から、また救いの立場から「再臨」の遅れを説明をします。しかし神にとって再臨の遅れなど一瞬のことかもしれません。「主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」。永遠かつ万象を支配する主にとっては、再臨の遅れなど一瞬のことなのかもしれない。我々は、それを、ひたすら待てばよいのです。神は必ず来ると約束しています。主の再臨への希望は、揺るぎの聖徒たちを神に帰させる唯一の希望になるのです。
主の日はいつ来るかわかりません。そのためには、いつ来てもよいように準備する必要があります、。この日万物万象は崩れ去ります。この世は崩れ落ちても、主との約束に従って、信仰熱き者には、「新しい天と、新しい地」とが用意されています。この世と共に崩れ去らぬように、身を清めて、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるよう信仰に励む必要があります。我々を救うために主は限界まで忍耐されました。主の言葉を理解せず、曲解し偽りを教えるものを、主は、決して容赦なさいません。彼らには滅びが待っています。ですから、無節操な者たちにだまされて」、自分たちの信仰を失うことのないように、絶えず主と向き合い、絶えず成長しなさい、とペテロは揺るぎの民に警告する。
この終末への希望は、キリスト者が迫害に耐えて信仰を固守する根拠となっているのです。
はじめに
この書簡は、この書を読むすべての人に別れのあいさつとして書かれています(1:14-15)。彼はローマのネロ帝の時代にパウロと共に殉教死しています。
本書は、新約聖書中の公同書簡の一書です。公道書簡とは特定の民ではなく一般の聖徒に宛てたものなのでこう呼ばれます。
ペテロは、イエスの再臨を否定する偽教師たちに対抗して、再臨の必然性を説きます。彼らは言う「再臨は遅れているのではなく、ありえないのだ」、と。これに対してペテロは「再臨(終末)の遅延」の合理的根拠を明らかにします。「神は、罪びとが悔い改め、一人も滅びるものの無いように忍耐をして待っておられるのだ」と、偽教師に反論します。他方聖徒たちに対しては、「終わりの日」はいつ来るかわからないから、いつ来てもよいように身を清くして準備していなさいと諭します。
神によって選らばれた者が、神を信仰するのであって、信仰するものが選ばれるのではない。選びは神の選任事項です。しかし原石として選ばれているのであって、磨かれなければ宝石にはなりません。宝石になるためには、まず第1に、イエス・キリストを知ることです。
イエス・キリストを知ることによって
1、 神に従うものにとって、必要なものはすべて与えられます。
2、 主は自分と聖徒たちの約束を、必ず成し遂げてくださいます。
「キリストを知れば知るほど、その偉大な力を通して、主に従う正しい生活を送るために必要なすべてのものがいただけるのです。そればかりか、キリストは自分の栄光と、みがかれた品性をも、私たちに与えてくださるのです(1:3)」。
この約束が与えられているがゆえに、我々は、肉欲や腐敗から守られているのです。そのためには、神を信仰し、喜ばすために一生懸命信仰に励む必要があります。主の望むことをなさねばなりません。
ペテロはこの書簡において、偽教師の危険性を説く前に、イエス・キリストの偉大さを語ります。イエスの偉大さを知った者には、偽りの神は、会った瞬間に、違和感を覚えます。
誰から誰に書かれたのか:「イエス・キリストのしもべであり、使徒でもあるシモン・ペテロから、私たちの神であり、救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方に(1:1-2)」このようにあて先は具体的には示されてはいません。世界に広がるキリスト者に宛てたものと考えられます(公同書簡に)。また作者は、ペテロとなっていますが、疑問をさしはさむものは多くいます。
いつどこで書かれたのか:この書簡の書かれた正確な時期と場所はわかっていません。第1の手紙の後に、ローマで書かれたと言われています。
なぜ書かれたのか: 教会内部の背教について語られています。偽預言者と偽教師は「異端をひそかに教会内部に持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定しました」。これに対してペテロは主についての知識をはぐくみ、自分たちの受けた「召しと選びとを確かなものに」することによって偽者たちに対抗するよう、この書簡を書いたのです。
内容構成
概 説
1章:反キリストの勢力が力を持ち、キリスト者を迫害しているとき、ペテロは自分の死の近いことを悟り、殉教を前にしての遺訓であることを示しています(1:5-7)。そこには自分の死後の聖徒たちに対する信仰に対する危機感がありました。2章において偽教師に対する誤りを指摘する前に、本物の神・主イエス・キリスト知るようにと聖徒たちに勧めています。神の力によって「いのち」の真実を知ることが出来るからです。イエス・キリストを深く知ること(信仰の成長)こそ偽教師に対する最高の武器だからです。ペテロはイエス・キリストを知るために必要な徳目として「信仰」「徳」「節制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」を挙げています(1:5-7)。これを守っている限り、偽教師の偽の教えに惑わされることはないのです。聖徒たちは神によって「召し」と「選び」を確実なものにする必要があるのです。そのことを思い出し神に帰れと、聖徒たちを励まします。
ペテロは、キリストの再臨の約束は、反キリストが言うように、決して作り話ではなく、この私たちは、キリストの威光の目撃者であるがゆえに事実なりと証しします。勿論、再臨は将来起こるべき話であって、今、現在目撃することは不可能です。しかし、ペテロは主の再臨のみことばを実際に聞き、それを信じたのです。聖書の預言は神のみ言葉として必ず実現するからです。預言は決して人間の意志によってもたらされるものではなく。聖霊に動かされた預言者たちが、神の言葉として語ったものだからです。
2章:預言とは、預言者が神の言葉として語ったものです。「しかし、イスラエルの中には、偽預言者が出ました。また、あなたがたの中にも偽教師が現れるようになります。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自らをお救いになった主を否定し、結局は、滅びを招くのです(2:1)」。なぜなら、彼らのために真理の道が「そしり」を受けるからです。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われています。彼らが滅ぼされないわけがないのです。
聖書は、過去のおける、神の裁きとして次の事象を挙げています。
1、天使ルシエルが、神に逆らい地上に堕されました。
2、神は自分に義なるノアの家族を保護し、不敬虔な世界を大洪水を起こして滅ぼされました。
3、義人ロト以外の不敬虔の民の集まり「ソドム」と「ゴモラ」の町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔なものへの見せしめとされました。
このように、主は、敬虔な者たちを救い、不義なる者を懲罰のもとに置かれたのです。
反キリストは、キリスト者を攻撃しました。しかしみ使い者は勢いにも、力においても彼らに勝っているにも拘らず、主のみ前に、彼らをそしり、訴えることをしませんでした。さばきは神の専任事項だからです。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたと一般に宴席に連なるとき、自分たちのだましごとを楽しんでいます。彼らは罪に満ちています。心の定まらない、揺るぎの民を誘惑しています。「呪いの子」です。彼らに用意されているのは真っ暗闇です。
あなたがたは、神より選ばれた救われた民です。どんな理由があろうとサタンの誘惑に負けてはいけません。義の道を知っていながら、自分に伝えられた聖なる命令に背くなら、その真理を知らなかったほうが良いのです。「犬は自分の吐いたものの上に戻る」とか「豚は身を洗って、また泥の中に転がる」とかいう、ことわざのとおりです。
バラム:バラムは神の代弁者から、偽預言者に転落した典型例として挙げられています。バラムについては民数記の22章から24章に書き記されています。出エジプトを果たしたイスラエルの民がモアブの荒野に野営したとき、モアブの王バラクは、この存在を恐れ、預言者バラムに使者を送り、「イスラエルの民を呪ってほしい」と、高い地位と富を約束して依頼しました。彼に祝福されたものは祝福され、呪われるものは呪われるという、言い伝えがあったからです。主に忠実なバラムは神に伺いを立て、この依頼を拒否します。呪う代わりに、3度祝福したのです。しかし最後までその義を貫くことは出来なかったのです。ヨハネの黙示録には、こうあります「………あなたのうちにバラムの教えを奉じている者がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前につまずきの石を置き、偶像の神に捧げたものを食べさせ、また不品行を行わせた(黙2:14)」とあります。バラムは神の代弁者から偽預言者に転落したのです。
3章:ペテロは「第2の手紙」を揺るぎの聖徒たちに向かって書いています。彼らは神によって選ばれた民です。ペテロにしてもパウロにしても、その宣教の過程は反キリストとの戦いでした。彼らは巧みな戦術をもって聖徒たちに近づきます。まだ霊的に幼い聖徒たちは「確信の民」から「揺るぎの民へと転化していきます。「第2の手紙」はそんな民に対して書かれたものです。この章においては反キリストは、キリストの再臨を問題にします。「キリストの来臨の約束は、どこにあるのか。父祖たちが眠ったときからこの方、何事も創造の初めからのままではないか。(3:4)」と。再臨の遅れをあざ笑う。ペテロはこれに対して彼らの歴史認識の誤りを指摘する。過去においては、世界はその罪ゆえに「大洪水」によって滅びたが、今の天と地は不敬虔な者どもが、火によって焼かれるために、取っておかれるのだ、と反論する。過去、現在、未来、へと時代はダイナミックに動いていることを示す。ここには、神とサタンの戦いに勝利するには時間がかることが示されている。再臨は遅れるのです。
他方、聖徒たちに対しては、「あなたたちが悔い改めて、すべての人が神に立ち返るのを、神は忍耐強く待っておられるのだ」と「再臨」の遅れを神学的に解き明かしする。神は一人でも救われない人がいることに耐えられないのです。
このようにペテロは、罪の立場から、また救いの立場から「再臨」の遅れを説明をします。しかし神にとって再臨の遅れなど一瞬のことかもしれません。「主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」。永遠かつ万象を支配する主にとっては、再臨の遅れなど一瞬のことなのかもしれない。我々は、それを、ひたすら待てばよいのです。神は必ず来ると約束しています。主の再臨への希望は、揺るぎの聖徒たちを神に帰させる唯一の希望になるのです。
主の日はいつ来るかわかりません。そのためには、いつ来てもよいように準備する必要があります、。この日万物万象は崩れ去ります。この世は崩れ落ちても、主との約束に従って、信仰熱き者には、「新しい天と、新しい地」とが用意されています。この世と共に崩れ去らぬように、身を清めて、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるよう信仰に励む必要があります。我々を救うために主は限界まで忍耐されました。主の言葉を理解せず、曲解し偽りを教えるものを、主は、決して容赦なさいません。彼らには滅びが待っています。ですから、無節操な者たちにだまされて」、自分たちの信仰を失うことのないように、絶えず主と向き合い、絶えず成長しなさい、とペテロは揺るぎの民に警告する。
この終末への希望は、キリスト者が迫害に耐えて信仰を固守する根拠となっているのです。
令和2年7月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会