日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

遠藤周作著『イエスの生涯』2つのメシア

2013年03月18日 | Weblog
イエスの生涯
 今日のように科学万能の時代に、我々が神の問題、イエス・キリストの問題を考える時、科学的に実証され得ない真理が厳然として存在している事を認めないわけにはいかない。聖書に表されている、イエスキリストの生誕の事情、彼の行った数々の奇跡、死後の復活など、科学的には解明できない。それなら聖書は神話なのだろうか?もし、神話なら、2000年以上にわたる歴史的時代を耐え抜き人々の信仰の対象になっている事実をどう説明すべきだろうか?偽りの真理には永続性も普遍性も無い。そこには宗教的真理の存在を認めざるを得ないのである。聖書は宗教的真理である。この前提に立たない限り、イエス、キリストの生涯について語る事は出来ない。
イエスにについて解説する文献は多く存在するが、そのもとになる資料は聖書以外には存在しない。
 私は、イエスについて解説をするにあたって遠藤周作氏の「イエスの生涯」を参考にした。しかし、その解説文ではない。この著作を読む場合のキーワードとしてメシアという言葉がある。そしてイエスは果たしてメシアだったのかという疑問が湧く。メシア(救世主)という言葉には二つの意味がある。一つはユダヤ人の考えるメシア思想であり、二つ目は、イエスの考えるメシア思想である。
 ユダヤ人の考えるメシアとは、ローマの支配を武力をもって排除し地上にユダヤ人の独立国家をつくりあげる者こそメシアであった。そのメシアは地の果てからやってきてローマによって汚された聖都エルサレムを清め、義と愛によって統治するものと信じられていた。これに対してイエスは愛を説く神、すなわち、自分こそ、そのメシアであると考えていた。両者の間には天と地ほどの差があったが、イスラエルの民はそれを理解せず、多くの奇跡を、その神聖ゆえに発揮し、多くの信者を集めているイエスを、自分達のメシアと考え、多くの人の期待の星となっていた。しかしイエスはこれを拒否する。
 イエスの考えるメシア思想は地上に独立国家をつくることではなく、その根源には神の愛があり、愛の神を証明する事にあった。幸いなるかな心貧しきもの、天国は彼らのものなればなり。幸いなるかな泣く人、彼らは慰められるべけれなり。イエスの眼には虐げられしもの、貧しきもの、悩むもの、世間から見捨てられ、世間の最底辺でうごめく人々を神の愛によって救うことにあった。そして神を信じる者に永遠の命を与え、神の国への切符を用意したのである。そこには平安があり、安定があり、癒しがあり、平和があった。しかし、人々はこのイエスの考えが理解できなかったし理解しようともしなかった。奇跡は信じたが神を信じようとはしなかった。「私がもっと多くの奇跡をおこなわなければ、私を信じないのですか?(ヨハネ4:48)」と、イエスはその実利主義に怒りを露わにし、奇跡を拒否する。その為人々の怒りをかい、死の危険にさらされる。
 人々は、イエスのメシア思想が自分達の希望するメシア思想に対立するものであり、その実利主義を否定し、奇跡を拒否するに至って、次第にイエスから離れていく。ここからイエスの受難時代が始まる。イエスの信じていた弟子たちも、イエスを理解できず最終的には離れていく。ユダばかりでなく、ペテロまでも。イエスは孤独であった。地上に独立国家をつくることの出来ない「無能で無力で何も出来ないか弱い」存在として、人々から拒否される。奇跡によって、人々を集めていた力強いイエスはもはや存在しなかった。
 しかし、イエスは十字架上で叫ぶ。「父よ、この人々をお赦し下さい。自分達が何をしているか分かっていないのです」自分を磔刑に処した人々に愛を示し、その赦しを請う。しかし、「わが神、わが神どうして私をお見捨てになったのですか(マルコ15:34)」と叫ぶ。イエスは最後の最後まで、神からの恵みによって救われることを信じていたのかもしれない。しかし神はイエスを救わなかった。イエスはあんなにも愛を示した人々からも、信者からも、最愛の弟子からも、見放されたのである。それどころか神からも見放されたのである。十字架の近くにいた縁者は数人の女性に過ぎなかった。そこに存在したものは現実においては「無能で無力で、か弱い、神からも見放された一人の孤独な一匹の子羊に過ぎなかった。「私は渇く」とイエスは云う。それはイエスの無限の渇きを表していた。自分の愛を理解しない者への渇き、どんなに渇いても癒されることのない渇き。人は葡萄酒を差し出す。しかし、イエスはそれを拒否する(マルコ15:23)。そんなものでは癒されることのない永遠の渇きがそこにあった。そして「何もかも成し遂げた」と叫んで自分の霊を神にゆだねて息を引き取った。神の愛を叫び、愛の神を証明しようとしてなすべき事をすべて行い、しかし誰からも理解されること無く、十字架上で尊い命を散らしたイエス。これが受難時代の総仕上げであった。これが孤独の中を生きた生前のイエスの悲しい結末であった。
 しかし、イエスは復活する。力弱く、無能で、現実においては何もできず、神の愛と救いを語ったイエス。十字架上で露と消えたイエス。それが復活後強力なイエスとして再生する。その後のイエスの弟子たちの活躍によって、弱小で地方的なキリスト教は世界宗教にまで成長する。イエスが刑死するに及んで、何もできず逃げ隠れしていた弟子たち。イエス以上に弱く、無能で無力な弟子たちに、このような力を与えたものは何だったのか?それこそイエスが生前強調した神の愛だったのではないだろうか。神の愛に導かれて彼らは強きものに変身した。これが息を引き取る前にイエスが「何もかも成し遂げた」という意味だと解釈していいであろう。この言葉に付け加えるとしたら「後はお前たちに任す」と言いたかったのではないか?イエスはそのお膳立てをしていたのである。
 さて聖書にはイエスのメシア思想には多く触れているが、ユダヤ人の考えるメシア思想に関しては何も触れていない。敢えて探すとすれば、バラバの釈放である。当時過越祭りでは罪人の一人を釈放する習慣があった。バラバは政府転覆と殺人の罪で捕えられていた。この時ユダヤ人はイエスではなく、バラバの釈放を要求したのである。バラバはローマの転覆を謀った重罪犯人である。しかしイスラエルの民にとっては、不幸にして失敗したが、救国の英雄メシアだったのである。彼らがバラバの釈放を要求したのは当然であった。このことはイエスが既に大衆の支持を失っていたことを物語っている。人間は現実世界では、結局効果を求めるのである。キリストの叫んだ神の愛は現実世界では無力だったのである。
 更に深読みかもしれないが、サタンによるイエスに対する試練がある(マタイ4:1~11)。サタンをユダヤの民と読み替えてみよう。
 サタンは云う「石ころをパンに替えよ」と、イエスは応じる「人はパンのみに生きるに非ず」と。これはユダヤの民の貧しさを表している。現実のユダヤ人は神の愛よりもパンを欲していたのである。次にサタンはイエスを神殿の高き所に連れて行き「ここから飛び降りろ」という。「岩に当っても打ち砕かれることは無いだろう」、と奇跡を要求する。これに対してイエスは「神を試すな」と応じている。ヨハネ4章48節ではイエスは奇跡を要求する人に対し「もっと多くの奇跡をおこなわなければ、私を信じないのですか」という個所に対応する。不信仰に対する批判がある。その後サタンはイエスを高き山に連れて行き世界の国々と、その繁栄ぶりを見せつけ「さあ、さあ俺に跪いて、俺様を拝みさえすれば、これをあんたにやるよ」という。これはまさにユダヤ人の希求するメシア思想の実現した国、ローマの圧政から独立した豊かな国を現している。これに対してイエスは「私の信じるお方は天におわす神しかいない」と応じている。これは天にある神の国を現している。ここに、イエスと、ユダヤの民のメシア思想の対立の構造を見る事が出来る。この二つは決して噛み合うことが無い。ここにイエスの悲劇がある。
 私は遠藤周作氏の「イエスの生涯」を題材にし、その中からメシア思想に焦点を当て、ユダヤのメシア思想にぶつかり、敗北していったイエスのメシア思想とは何であったのかを探ってみた。結局現実社会においては、聖書があらわされた古代においても、現代においても人は実利を求める存在であるということである。衣食足って礼節を知るという言葉があるように、ひとは、実利のかなたに神を見るのである。未開地における魔術はその地の医療と結びついている。奇跡と言ってよいかもしれない。原始宗教はそんな奇跡と結びついている。イエスの行った奇跡の数々を単なる伝説と言いきることは出来ないであろう。イエスの誕生もそんな奇跡の一つである。神の霊と聖処女マリアとの間に生まれたのがイエスキリストである。神の御子となるためには、人であると同時に霊的存在にならねばならなかったのである。婚約者のヨハネとの間に生まれたとしたら、それは人(間)の子になってしまう。処女懐胎は科学的に証明する事は出来ない。だからと言ってこれを信仰の対象から外すことは出来ない。これは宗教的真理なのである。全知全能の神の出来ない事は無いのである。そう信じることである。イエスの復活も奇跡の一つである。これを否定すると、贖罪の意味が無くなり、人(間)は永遠に罪びとになってしまう。臨死体験を行った人は多い。三途(さんず)の河が流れており、そのかなたに美しいお花畑があり、おいでおいでと美しい女性が招いているという。それに魅かれて向こう岸に渡ると生の世界に戻れないという。まさに女性は魔物である。そんな女性に惚れる男は馬鹿ものである。
 受難時代のイエスは弱者そのものであった。多くの人を奇跡によって救ったが自分自身を救うことは出来ず、十字架の上で死んでいった。
 受難の意味とは何か、受難は人を強くし、優しい人へ、他人を思いやることの出来、人の罪を許すことの出来る人に転化するという。だから贖罪と受難は結びついているのである。旧約聖書が人の罪を罰する神を描いているとするなら、新約聖書は人の罪を許す神を描いている(ヨハネ1:17~18)。イエスはまさにその中心にいる。

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