神の国
1、神と「神の国」
ある日、パリサイ人(キリストに反対するユダヤ教の一派)がキリストに訊ねた。「神の国は一体いつ来るのですか?キリストはそれに応えて云われた。「神の国は、目に見える形ではきません「ここに来た」「あそこの来た」とはいえないのです。はっきり言いましょう神の国はあなた方の心の中にあるのです(ルカによる福音書17章20-21)」と。しかし、キリストは云う、神の国が心の中にあるとはいえ、「誰でも水と御霊によって生まれ直さなければ神の国に入れません。人間からは人間のいのちが生まれるだけです。けれど聖霊は天からの全く新しい命をくださるのです-----(ヨハネ福音書3章5-8)」。生まれ直すと云う事は、決して胎内に戻ることではない。キリストと、彼を遣わした神への信仰に目覚めることである。人は、霊的な命を得てはじめて永遠の命を獲得するのである。キリストは云う「私を信ずる者は誰でも永遠の命を得るのです(ヨハネの福音書3章の3)」と。永遠の命をもったものだけが神の国に入れるのである。
また次のようにも述べている「あなたの御国(神の国)が、いま来ますように、天の御国と同じように、この地上でもあなたの御霊(みたま)が行われますように。-----(マタイの福音書6章9-13)」と。これは人の心の中だけでなく、地上にも神の国を作ること、それがキリストの最終目的であったことを示している。その為に神はその子=キリストをこの世に遣わされたのである。しかし犬養道子は、その著「聖書のことば」の中で『万人万物の創造者たる神が、万人万物をその善と生とエネルギーもて、満たし、全てにおいてすべてになる時は、いまだ来ていない』と述べている。このように地上には神の国は来ていない。聖書があらわされて、既に2千年以上たっていると云うのに。世は乱れ、戦いは日常的に起こり、人は殺され、傷つき、飢えと難民は地に溢れている。更に、人間のエゴイズムは、地球を破壊している。まさに悪魔の支配するのが、この世である。物を信じる者は多くても、神を信じる者は少ない。神を信じるものだけが永遠の命が与えられ、神の国の住民となれる。人はこのことを知らない。
キリストの生きた時代、ユダヤの民はローマ帝国による迫害に会い自分たちを救うメシアを心から求めていた。しかしキリストが神から遣わされたメシアであるとは信じる者は少なかった。信じさせるためにキリストは数々の奇跡をおこなわなければならなかった。その奇跡の中で最大・最高のものが、十字架と復活であった。こうして、次第にキリストを信じる者は増えローマ帝国は皇帝の神聖を信じないキリスト者を迫害したが、その勢力は衰えずついに、コンスタンチヌス帝による公認、テオドシュウス帝の国教化によって、国家権力の保護のもとその安全と平和が保障された。しかしこの勝利は新しい変貌をキリスト者にもたらしたのである。しかしこの問題に関しては主題から外れるので後述する。
新約聖書を形作っている4つの福音書の1つ「ヨハネの福音書」はキリストの生誕から、十字架による処刑と、その復活までを描いた書であり、キリストが神の御子であり、彼を信じる者だけが永遠の命を与えられ、神の国に入ることが出来ると記述している。是非読んでほしい。
2、人と「神の国」
旧約聖書「創世記」を読んだ人は、誰でも気付かれていると思うが。そこには神と人間関係の破綻と、その復活(和解)が描かれている(創世記第2章6~15第3章1~24)。破綻とはアダムとイブの原罪であり、そこには神と悪魔と人間の三角関係が描かれている。アダムとイブは悪魔(蛇)の誘いに乗って禁断の木の実(善悪を知る木)を食べた。その為、神の国(エデンの園)を追われた。しかしそれによってアダムとイブは人間となる。農耕を知り、人間の持つ恥や愛や希望や憎しみや欲望や知恵を知るようになる。永遠の命は限られたものとなる。これが原罪である。この原罪を抱えたアダムとイブの、人は子孫である。それ故、人は生まれながらにして原罪を抱えた存在となる。
次に復活(和解)とは何か?それは大洪水とノアの方舟伝説である。人はその原罪ゆえに罪を重ね、世は悪に満ちていた。神は人を作ったことを後悔する。大洪水を起こして人を絶滅させる。しかし、善良で神に忠実なノアの家族と一対のオス・メスの生物はノアの方舟に乗せ、これを救ったのである。神が人に与えた恵みである。そしてノアは人にとってはその先祖である。
神はこのように人に原罪を与えると同時に、救い(恵み)も与えたのである。人は矛盾を抱えた存在であり、内部では抗争を続けている。このようにして、人は神と悪魔の中間に存在し、絶えずその間を右往左往するようになる。
そして神と人間との関係の最終的な和解(復活)が贖罪にある。贖罪によって自らでは贖うことの出来ない人の罪(原罪)を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によって贖い、神と人との和解を果たすのである。
しかし、神は全ての人に対して、その罪を許すのではない。イエスは云う「--------、この人も迷い出たアブラハムの子の一人なのだから、メシア(救い主)の私は、実にこのようなものを探し出して救うために来たのです(ルカの福音書19章9・10)。と、このようなものとは神を信じないものである。このようなものに神への信仰を求めているのである。自分を信仰するものにだけ神はその許し(恵み)を与えるのである。神とは極めて差別的存在である。
人は矛盾に満ちた存在であるが故に、神からの恵みが与えられる。神は100%神であるから、悪魔にはなれない、完全無欠である、悪魔は100%悪魔だから神にはなれない。人のみがその間に存在するが故に救われるのである。
ディケンズ作の「クリスマス・カロル」という、小説を思い出す。ケチで、冷酷で、邪悪、人嫌いな、がりがり亡者のスクルージ爺さんは、クリスマス・イブの夜に3人の幽霊に導かれて、現在・過去・未来における自分の姿を見せつけられ、自分の邪悪さに接し、反省し、心を入れ替え、愛情と善意に満ちた人間に変身する。彼は単なる邪悪の人ではない。その心の底には愛と善意が横たわっていたのである。だからこそ彼は神によって変身できたのである。彼は信仰心に目覚め永遠の命を獲得したのである。神の国は彼に用意されている。世の中には神の国はまだ、用意されていない、せめて、あなたの心の中に神の国を作ってほしい。
1、神と「神の国」
ある日、パリサイ人(キリストに反対するユダヤ教の一派)がキリストに訊ねた。「神の国は一体いつ来るのですか?キリストはそれに応えて云われた。「神の国は、目に見える形ではきません「ここに来た」「あそこの来た」とはいえないのです。はっきり言いましょう神の国はあなた方の心の中にあるのです(ルカによる福音書17章20-21)」と。しかし、キリストは云う、神の国が心の中にあるとはいえ、「誰でも水と御霊によって生まれ直さなければ神の国に入れません。人間からは人間のいのちが生まれるだけです。けれど聖霊は天からの全く新しい命をくださるのです-----(ヨハネ福音書3章5-8)」。生まれ直すと云う事は、決して胎内に戻ることではない。キリストと、彼を遣わした神への信仰に目覚めることである。人は、霊的な命を得てはじめて永遠の命を獲得するのである。キリストは云う「私を信ずる者は誰でも永遠の命を得るのです(ヨハネの福音書3章の3)」と。永遠の命をもったものだけが神の国に入れるのである。
また次のようにも述べている「あなたの御国(神の国)が、いま来ますように、天の御国と同じように、この地上でもあなたの御霊(みたま)が行われますように。-----(マタイの福音書6章9-13)」と。これは人の心の中だけでなく、地上にも神の国を作ること、それがキリストの最終目的であったことを示している。その為に神はその子=キリストをこの世に遣わされたのである。しかし犬養道子は、その著「聖書のことば」の中で『万人万物の創造者たる神が、万人万物をその善と生とエネルギーもて、満たし、全てにおいてすべてになる時は、いまだ来ていない』と述べている。このように地上には神の国は来ていない。聖書があらわされて、既に2千年以上たっていると云うのに。世は乱れ、戦いは日常的に起こり、人は殺され、傷つき、飢えと難民は地に溢れている。更に、人間のエゴイズムは、地球を破壊している。まさに悪魔の支配するのが、この世である。物を信じる者は多くても、神を信じる者は少ない。神を信じるものだけが永遠の命が与えられ、神の国の住民となれる。人はこのことを知らない。
キリストの生きた時代、ユダヤの民はローマ帝国による迫害に会い自分たちを救うメシアを心から求めていた。しかしキリストが神から遣わされたメシアであるとは信じる者は少なかった。信じさせるためにキリストは数々の奇跡をおこなわなければならなかった。その奇跡の中で最大・最高のものが、十字架と復活であった。こうして、次第にキリストを信じる者は増えローマ帝国は皇帝の神聖を信じないキリスト者を迫害したが、その勢力は衰えずついに、コンスタンチヌス帝による公認、テオドシュウス帝の国教化によって、国家権力の保護のもとその安全と平和が保障された。しかしこの勝利は新しい変貌をキリスト者にもたらしたのである。しかしこの問題に関しては主題から外れるので後述する。
新約聖書を形作っている4つの福音書の1つ「ヨハネの福音書」はキリストの生誕から、十字架による処刑と、その復活までを描いた書であり、キリストが神の御子であり、彼を信じる者だけが永遠の命を与えられ、神の国に入ることが出来ると記述している。是非読んでほしい。
2、人と「神の国」
旧約聖書「創世記」を読んだ人は、誰でも気付かれていると思うが。そこには神と人間関係の破綻と、その復活(和解)が描かれている(創世記第2章6~15第3章1~24)。破綻とはアダムとイブの原罪であり、そこには神と悪魔と人間の三角関係が描かれている。アダムとイブは悪魔(蛇)の誘いに乗って禁断の木の実(善悪を知る木)を食べた。その為、神の国(エデンの園)を追われた。しかしそれによってアダムとイブは人間となる。農耕を知り、人間の持つ恥や愛や希望や憎しみや欲望や知恵を知るようになる。永遠の命は限られたものとなる。これが原罪である。この原罪を抱えたアダムとイブの、人は子孫である。それ故、人は生まれながらにして原罪を抱えた存在となる。
次に復活(和解)とは何か?それは大洪水とノアの方舟伝説である。人はその原罪ゆえに罪を重ね、世は悪に満ちていた。神は人を作ったことを後悔する。大洪水を起こして人を絶滅させる。しかし、善良で神に忠実なノアの家族と一対のオス・メスの生物はノアの方舟に乗せ、これを救ったのである。神が人に与えた恵みである。そしてノアは人にとってはその先祖である。
神はこのように人に原罪を与えると同時に、救い(恵み)も与えたのである。人は矛盾を抱えた存在であり、内部では抗争を続けている。このようにして、人は神と悪魔の中間に存在し、絶えずその間を右往左往するようになる。
そして神と人間との関係の最終的な和解(復活)が贖罪にある。贖罪によって自らでは贖うことの出来ない人の罪(原罪)を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によって贖い、神と人との和解を果たすのである。
しかし、神は全ての人に対して、その罪を許すのではない。イエスは云う「--------、この人も迷い出たアブラハムの子の一人なのだから、メシア(救い主)の私は、実にこのようなものを探し出して救うために来たのです(ルカの福音書19章9・10)。と、このようなものとは神を信じないものである。このようなものに神への信仰を求めているのである。自分を信仰するものにだけ神はその許し(恵み)を与えるのである。神とは極めて差別的存在である。
人は矛盾に満ちた存在であるが故に、神からの恵みが与えられる。神は100%神であるから、悪魔にはなれない、完全無欠である、悪魔は100%悪魔だから神にはなれない。人のみがその間に存在するが故に救われるのである。
ディケンズ作の「クリスマス・カロル」という、小説を思い出す。ケチで、冷酷で、邪悪、人嫌いな、がりがり亡者のスクルージ爺さんは、クリスマス・イブの夜に3人の幽霊に導かれて、現在・過去・未来における自分の姿を見せつけられ、自分の邪悪さに接し、反省し、心を入れ替え、愛情と善意に満ちた人間に変身する。彼は単なる邪悪の人ではない。その心の底には愛と善意が横たわっていたのである。だからこそ彼は神によって変身できたのである。彼は信仰心に目覚め永遠の命を獲得したのである。神の国は彼に用意されている。世の中には神の国はまだ、用意されていない、せめて、あなたの心の中に神の国を作ってほしい。