日常一般

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イザヤ書20 43章主はあなたがたを贖ったお方

2023年11月07日 | Weblog
イザヤ書XX43章★主はあなたがたをを贖ったお方
はじめに:人が聖書の言葉を通して、創造主である神と出合うとき、人は、初めて自分にとっての「真の存在価値」を見出すことができます。なぜなら、人の価値は、能力、業績、財産などによって測られるのではなく「私たちがだれの作品であるか」によって決まるからです。勿論、私たちは、神である主の作品です。人がお互いに語り合うとき、「この人は、私のことをどう思っているのか」が、気になるなら、「心の中の真実」を語ることは難しくなります。しかし、あなたのことを、常に心にかけている、神の「あなたは、わたしの最高傑作だ、今日も自信をもって堂々と自分自身を思うままに生きなさい」と言う言葉に、常に、心を留めているなら、他人が自分のことを、どう思おうと「人の真価をご存じの神」の前にあって、その方に、ふさわしく、いつでも、だれに対しても、愛をもって心の真実を語ることのできる人(神の子)に、成長することができのです。彼らこそ、主の栄光を輝かす証人であり、再生されたエルサレム(神の国)の住人となることができるのです。
43章:イザヤは言います。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな、わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。(43:1)」。主はイスラエルを特別な関係で呼ばれます。「あなたを造り出した方」「あなたを形造った方」が、アブラハムを呼ばれ、召し出されて、彼からイスラエルの民族と国をお造りになられました。創世記には、アブラハムの孫にあたるヤコブがイスラエル人の祖先と記されていることから、アブラハムをイスラエルの始祖と考える説が有力です。そのイスラエルを主は贖い、お選びになって、「わたしのもの」にしたのです。それゆえ、選びの民には恐れるものは何もありません。神が共にいるからです。
「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない(43:2)」。主によるイスラエルの民に対する守りと保護が語られています。彼らがどんなに罪を犯しても、神によって贖われているのです。濁流も彼らを押し流さず、猛火も彼らを焼きません。
「わたしがあなたの神・主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセパをあなたの代わりとする(43:3)」。クシュとはエチオピヤのことです。イスラエルには「買戻しの権利」と言う律法が定められています。親族の中の誰かが死んだとき、その人に主から割り当てられた土地や家族が、人手に渡らないように親族の中で最も近い身内の者がそれを買い取ると言う義務が律法によってきめられています。すでに人手に渡った場合、買い戻すことになります。この権利を有する者を「ゴーエール」と言います。
神は、バビロンの手に渡った民と領土の最も近い身内として、それを取り戻すことをイスラエルに約束します。そのゴーエールとしてペルシャを指名します。その買戻し金(身代金)としてエジプト、クシュ、セパを与えると、主は、バビロンを倒すために戦っているペルシャに約束します。事実、ペルシャは、その一環として紀元前525年にエジプトを征服しています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたの代わりにするのだ(43:4)」。主は、イスラエルをこよなく愛しておられます。この愛はキリストにあって、私たち(人、国民)にも注がれています。神の愛こそ高価で尊く、幅ひろく、豊かなのです。
「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西からあなたを集める。わたしは北に向かって『引き渡せ』と言い。南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形ち造り、これを造った(43:5~7)」。主は、離散しているユダヤ人を世界の各地から集め、エルサレムに戻すと約束をしてくださいました。バビロンに捕囚された人だけではなく、アッシリヤに捕らえ移され、各地に散らされていたユダヤ人も、その散らされた地がペルシャの支配下に入ったので、共に、帰還が許されたのです。
霊的には、これは、終わりのときの姿です。み使いたちは、天の果てから選びの民を集めます。「わたしの名を呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを、形造り、これを造った(43:7)」。ここには、ユダヤ人を集める神の動機が語られています。その神の動機とは、「私の栄光を輝かす」ためです。神は自分を敬い、尊ぶものを集め、自らの最終目的である「神の国」を造り、自らを輝かし、彼らと共存すことにあるのです。イスラエルの民は神ご自身の栄光のために選びだされた、神ご自身の民であり、彼らが選ばれた目的は、主の素晴らしさを証しする証人となるためでした。
「目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ(43:8)」ユダヤ人たちは、散らされた地にあって、決して神に忠実ではなかったのです。主は、これをペルシャを使って帰還させたのです。
「すべての国々を集わせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちだれが、このことを告げ、先のことをわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に『ほんとうだ』と言わせよ(43:9)」。傍聴席には諸国の民が座り、ユダヤ人が証言台に立っています。このこととは、ユダヤ人の帰還を意味し、わたしのように、彼らの帰還を預言したものが他の神々の中に存在したか「この証言は真実だ(本当だ)といわせよと、主は証人たちに訴えているのです。
「あなたがたはわたしの証人。―――主の御告げ―――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがそのものであることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。(42:10)」。あなたがたとは、ユダヤ人を指します。そのものとは、神を指します。更に、わたしの先にも後にも神はいない、と神は、自分の絶対性と唯一性を語ります。
「わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。だからあなたがたはわたしの証人。―――主の御告げ―――わたしは神だ。これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せるものはなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻し得よう(43:13)」。イスラエルの民は、神が一方的に選んだ民であり、彼らが自分を神として崇める証人であって欲しいのです。それを神は、繰り返し述べます。わたしのほかに救い主(神)が、あってはならないのです(神の唯一性)彼らはただ従うことを義務付けられています。そこにイスラエルの民は違和感を持ち、自分の造った神=偶像を信じるようになります(43:22~24節参照)。
「あなたがたを贖われた聖なる方、主はこう仰せられる『あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。(14節)』と。ここには主がイスラエルに語られたバビロン陥落の預言が記されています。カルデヤは、バビロンの雅名です。バビロンは政治的な国を意味し、カルデヤはその民族性や文化を意味します。使いとはペルシャのクロス王のことです。彼はバビロンを滅ぼします。旧約聖書の預言者たちは、歴史的事実と、終わりの日に起こる出来事(御国の成就)を重ね合わせて預言します。バビロンの崩壊は神の国の到来とリンクしています。これを知るためには、神のご計画の俯瞰的視点(聖書全体の視点)を知る必要があります。バビロンの崩壊による神の民の解放と、終末における「大バビロン」の崩壊による神の民の解放とが、重ね合わせて預言されていることを知る必要があります。
「わたしは、主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」(15節)「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、(16節)「戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。(17節)」。ここには第2の出エジプトが語られています。主は、紅海を分け、通り道を設けイスラエルの民は救出しますが、その道にエジプト軍をおびき寄せ、道を閉ざして水を溢れさせます、彼らは溺れ死に、全滅します。その力強いわざを、主は、バビロンに対しても行うと宣言しています。
「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。(18節)「見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは、荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」(19節)先の事ども、昔の事どもとは、イスラエルが過去に経験したことです、虐げられたこと、祝福されたことなど多くあります。しかし、主はそれに拘るなと言います。「見よ。わたしは新しいことをする。もう、それが起ころうとしている。」新しいこととは、荒野に道を、荒れ地に川を設けることです。だれもこれまでなしえなかった、新しいことです。それは、これから目指すべき「神の国」です。「だれでもキリストの内にあるものは、新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った」のです。昔の事どもは、考えてはならないのです。前に進まなければならないのです。
「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわきださせ、荒れ地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」主が荒れ野や荒れ地に泉や川を設けたことは、人に恵みを与えただけではなく野の獣たちにも恵みを与え、それゆえ、獣たちも神を崇めるようになるのです。(20節)「私のために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」(21節)」。「この民」とは、主(わたし)のために造られた者たちであり、主の壮大なご計画を達成させるための手段にすぎないのです。
「しかし、ヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。(43;22)」。主はイスラエルの回復を約束したにもかかわらず、イスラエルはそれに応じていません。悲しい現実があります。主は呼び求めなければ、その恵みをお与えにはなりません。
『あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえを捧げて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物の捧げもののことで、あなたに苦労させず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった(43;23)』。主は、穀物の捧げ物と乳香のことでイスラエルの民を煩わせなかったにもかかわらず、彼らは全焼の生贄の羊を、携えてきて、主に捧げ、主を崇めようともしなかったのです。
『あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪でわたしに苦労させ、
あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ(43:24)」。これは主に対するイスラエルの応答です。主は嘆いております。全焼のいけにえ、穀物の捧げもの、菖蒲、脂肪など、本来、主を喜ばすはずの捧げものを主に捧げて、彼らは、主を満足させようとはしなかったのです。「かえって、あなたの罪で、あなたの不義で、わたし、主を煩わせただけだったのです」。旧約聖書の民は、永遠の罪びとです。彼らが、その罪から解放されるためには、イエス・キリストの登場まで待つ必要があります。旧約聖書では、そのメシヤが待ち望まれています。
 25節には、そむきの罪を贖う主が出て来ます。
「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない(43:25)」。主は、自分自身のためにイスラエルの民の罪をぬぐい去り、これを一方的に救うのです。彼らに罪があろうとなかろうが、です。主の最終的な目的は「エデンの園(神の国)」の再生にあります。そこの住民は、清くなければならないのです。
「私に思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べ立てよ(43:26)」。自らの潔白をあなたの方からら証明せよ、と主は言います。しかし、イスラエルは、それを証明することはできません。罪深い民だからです。
『あなたの先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた(43;27)』。「それで、わたしは聖所の司たちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが罵られるようにした(43:27)」。主の期待にも拘らず、イスラエルは罪を犯し続け、神の怒りをかったのです。彼らが、その罪から解放されるためには、イエス・キリストの登場まで待たねばなりません。旧約聖書の時代にはイエスはいません。しかし、旧約聖書は、この方を、メシヤと呼んでいます。イエスの到来を預言しています。イエスは磔刑によって、われわれの罪を贖ったお方です。

令和5年11月14日(火)報告者守武 戢 楽庵会