書簡集7 コロサイ人への手紙
はじめに
誰が書いたか: キリストイエスの使徒パウロ、および兄弟テモテ。パウロが自筆であいさつを送ります(4:18)。一説ではパウロは目に障害があったのでテモテが口述筆記したともいわれている。
いつ、どこで書かれたか: AD58~62年ごろ、ローマの獄中で。
誰に向かって書かれたか: 小アジアにある町コロサイ(現在のトルコ)にいる聖徒たちでキリストにある忠実な兄弟たちへ(1:2)。
>誰がこの手紙を届けたか: 愛する信仰の友テキコと忠実な愛する兄弟オネシモ。パウロは言う「この二人が、こちらの現状を、みな知らせることでしょう(4:9)」と。パウロは彼らが手紙の運び人であったことを明らかにする。さらに福音を広めるために、この手紙を「ラオデキヤの教会にも回してください」と願っている。
ローマには全国に広がる郵便制度があったと思われるが、厳しい検閲制度があったであろうから身内を選んだのであろう。
その内容; 本書簡は神学的考察(1章~2章)と実践的勧め(3章~4章)の二部構成になっている。神学的考察の部分では、コロサイ人に対し、霊にあって頭であるキリストの神聖さを理解し、完全であれと命じ、それを妨げている者たちに対する警告を行っている。実践的勧めの部分では、信仰生活において、なすべきこと、なすべきではないことを説明する。さらに信仰上、上にあるものを求めよと提示する(3:1~4)。古い自分は死んで、、新しい自分を生きること(3:5~14)を示し、ユダヤ教徒ではなくキリスト教徒としての生き方を示す。そこにはキリスト教徒、異邦人の区別はない。パウロの書簡集は異邦人伝道であることを忘れてはならない。
言葉の意味
信、望、愛」「知識、善行、力」(1:3~12)
信仰なき希望は、一種の利己主義的満足に陥り、愛なき信仰は、教理の固執となり、希望なき信仰は、永遠の栄光の輝きを失い、信仰なき愛は、人情的愛に過ぎない。
真の知識は、神の御意を知ることであり、真の善行は神の御旨を行うことであり、真の力は、神の助けによりて来る。上記2つのみ言葉は不可分の関係にあり同一物の異なる角度よりの観察と考えられる。
嗣業:神の国において実現すべき未来の約束である。それは神の光の中で輝く。
大キリスト論:「ヨハネの福音書」1章1~5節参照。キリスト論の基が描かれている。ここにはパウロが宣べんとしたことが網羅されている。パウロは言う「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら万物は御子にあって作られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は万物より先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうしてご自身がすべてのことにおいて第1のものになられたのです(1:15~18)」と。パウロはキリストを至上の位置に置いている。
内容構成

>各章ごとの説明
1章;パウロが手紙を書いた異邦人の諸国は、彼らの行った福音伝道の任務の遂行によって「世界中で実を結び広がり続けた(1~6)」コロサイもその一つであった。使徒の一人エパプロスはその福音伝道に寄与し、コロサイに教会を立ち上げた。しかし、パウロたちの伝道は一定の効果をあげながらも順風満帆というわけにはいかなかった。絶えず彼らの前に立ちはだかる「偽の教え」と戦わなければならなかった(この状況は2章にも述べられている)。彼らは教会が教会として成り立つ基本を崩し、自分たちの誤った教えを流布しようとしていた。その影響は阻止されねばならなかった。コロサイは神によってえらばれた都市とはいえ、その内部に弱さをはらんでいた。パウロはコロサイの聖徒の誤れるキリスト観を是正するべくこの手紙を書いたのである。
1章はこのように弱さをはらんだコロサイ人に対してイエスこそ第1の人であり、成熟した真の信仰を持てと命じる。
パウロはここでコロサイに対し3つの祈りを捧げる。1、神のみ心についての知識を身につけよ(1:9)、2、主に喜ばれ、善行のうちに身を結べ(1:⒑)、3、忍耐を尽くして神に感謝を捧げよ。これらは神の光の中で輝くことを指している。父なる神はわれらを選び、救い、戒め給い、その嗣業に値するものされたがゆえに、われらはこの父に感謝せねばならない。これらのことは、コロサイ人だけでなく我々に与えられた祈りの義務といって良い。
13節から23節にかけてはパウロのキリスト観が述べられている。それが先に述べたいわゆる「大キリスト論」である。キリストは大地の生まれる前から存在し、万物はこの御子によって成り立ってる。これをパウロの宇宙論と言うものもいる。
神は私たちを暗闇の中より救い出し、御子の支配のもとに移してくださいました。同様に、あなたがた異邦人も、かつて暗闇の中に存在していた。それが御子の死によって贖われ、己と和解されたのです。この土台の上に立って福音の望みを受け入れ「偽の教え」に抗して御子を信じる信仰に留まれと、パウロはコロサイ人に強く求める。
24節から29節にかけてはパウロの任務と、そのための努力が描かれている。パウロは言う「神の言葉を余すことなく伝えるために、あなたがたのために神からゆだねられた務めにしたがって、教会に仕える者になりました」と。ここでパウロは今まで隠されていた奥義を語る。この場合の奥義とは異邦人においても神の恵みが現わされることを意味する。このことは神の恵みが、これまで異邦人に対しては除外されていたことを意味している。それをパウロは「隠されていた」という。ここにパウロの異邦人伝道の意義がある。潜在化していたものは顕在化するのである。それをパウロは自らの任務として、努力したのである。
2章:「あなたがたは、このように主キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり、信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい(2:6~7)」。
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っているのです。そしてあなたがたは、キリストにあって満ち満ちているのです(2;9~10)」。満ち満ちているとは、完全であることを意味する。キリストの義によって100%正しいとみなされている。完全である聖徒に何が必要なのか。必要なものはないはずである。パウロは言う「必要なことはこの状態を保ち続けることである」と。キリストにあって確固たる、揺るぎのない信仰を持ち続けることである。それによって、「だましごとの哲学」が入り込む余地はなくなる。しかし、コロサイ人にはまだまだ揺るぎがあった。保ち続ける難しさが、そこにはあった。様々な誘惑が彼らを取り巻いていた。彼らの信仰は必ずしも堅くはなかった。「だましごとの哲学」は、その揺るぎの中に付け入り、コロサイ人のキリストにある信仰を妨害した。パウロはそれを恐れていた。パウロはコロサイ人に確固たる信仰を求め、「だましごとの哲学」の「悪」を指摘する。
「だましごとの哲学」のとりこになるな」とパウロは言う。「それは、この世の幼稚な教えによるものであって、そこにはキリストの教えはない(2:8)」。
あなたがたは肉による割礼を受けた者でなくキリストの割礼を受けたものである。
また、水によるバプテスマにより「キリストと共に死に、キリストとともに埋葬され、キリストとともに復活した者である」。かくしてあなたがたは神の恵みによってキリスト者に変えられた者となる。「神はキリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除し、彼らを捕虜として凱旋の行列に『さらし者』として加えられました(2:15)。
16~23節までは「偽りの教え」と真のいのちであるキリストの教えを比較して、「律法や、その儀式などの取り決めは一時的なものであって本体(キリストの教え)の影に過ぎない。本体が現れた今、御遣いを信じる信仰によって生きるべきであって、「善い行いをし、様々な規則によって救われるという、この世の考えから解放されねばならない。
3章:「コロサイ人の手紙3章」のテーマは「神によって蘇らされた私たち」である。キリストと共に蘇らされた者として、どのように生きていかなければならないのか、その具体的な勧めが語られている。その内容は、おもに「思いなさい(3:1~4)」「身につけなさい(3:5~17)」「従いなさい(3:18~4:1)」の3つにわけることが出来る。
天にあるものを思いなさい:「こういうわけで、もしあなたがたがキリストとともに蘇らされた者なら上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座を占めておられます。あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを求めなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、その時あなたがたもキリストと共に栄光のうちに現れます(3:1~4)」。この文章には新約聖書の基本が述べられていると同時に、この章の本質が語られている。
蘇らされたもの:キリストの十字架と共に死に、、キリストと共に蘇った者。真のキリスト者を指す。この章ではコロサイの聖徒を指す。
上にあるもの:天、神の国。そこにはキリストが神の右に座を占めておられます。あなたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでいる:私たちの肉の欲望(偶像礼拝など)=罪はキリストの十字架の贖いによってキリストと共に死んでいる。霊的蘇りを意味する。かつてコロサイ人は、その偶像礼拝によって神の怒りを招いていた。しかし、「あなたがたは、古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主の形に似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至るのです(3:9~10)」。神を思い、神を身につけよ、とパウロはコロサイの聖徒に望む。
あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されている:神に選ばれた者は、たとえ神に反抗することはあっても、その体内に聖霊を宿している。これをパウロは隠されていると表現する。このものが神の恵みを受けたとき、人は変えられる。「私たちのいのちであるキリストが現れると、その時あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れることが出来るのです(3:4)」と、パウロは言う。しかし思うだけでは可能性を見るだけであって、その思いを身に着け、実行に移したとき、真に選ばれたものとなり「聖なるもの」となる。
身につけよ:「それゆえ、神に選ばれたもの、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。たがいに忍びあい、だれかが、ほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦しあいなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい(3:12~13)と、主の愛を身に着けた者のなすべきことを語っている。パウロは「上のものを求めよ」「天にあるものを思え」と命じたのち「身につけよ」と命じたのである。それはキリストにあって、新しい姿を身に着けて進まねばならない、と言うことである。
当時、不品行と結びついた偶像礼拝が横行していた。これらの偶像を殺せとまでパウロは言う。コロサイ人は、新しく変えられねばならない。神と人、人と人とは愛によって結びついている。「愛は結びの帯」として完全なものである。神と人とは和解し一体化せねばならない。「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい(3:17)」。
従いなさい:パウロは、聖徒たちはどのように礼拝すべきかについて指示し、妻と夫、子供と両親、奴隷と主人に対して勧告を与える。妻は夫に従い、子供は両親に従い、奴隷は地上の主人に従えと勧める。しかしその関係を人と人との関係としてではなく、主と人との関係に移行せよと命じる。そして主を人が愛するように真心を込めて相手を愛せよと勧告する。そのことによって、あなたがたは主からの報いとして御国を相続することが出来る。そうでない場合、不正の報いを受ける。そこには不公正はない。
4章:「目を覚まして祈りなさい」。とある。しっかり目覚めて、心の目を覚まして、祈れということであろう。自分の関心と欲望のために祈ってはならない。そのような祈りは、神によって聞かれることはない。上にあるものを求める歩み、と言うものは、まさに神の力によってなされものであり、人の努力でなされるものではない。自分の力の限界を知り、神の力にすがって祈ることが重要なのである(4:3参照)。そして宣教のために祈ろう。キリストの奥義が宣教者を通してはっきり語られるように(4:3)。またそれにふさわしく塩味の利いた語りが出来るように(4:4)。パウロが奥義と言う場合には2つの意味がある。一つはキリストにある十字架の救い。二つ目は、この救いがあまねくユダヤ人、異邦人の区別なく与えられることの2つである。「祈りに飽いてはなりません。熱心に祈り続けなさい。神様は祈りに応えてくださると信じて待ち、それが聞き入れられたら、感謝するのを忘れてはなりません」。
パウロは、支援者たちの支えなしに働きをすることは出来なかった。一人で働きのできるキリスト者の働き人はいません。私たちは皆、神と共に働く同僚です。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、建物です。7~18節でパウロは働きを助けてくれる人たちの名(テキコ、ネオシモ、アリスタルコ、バルナバのいとこであるマルコ、ユストと呼ばれるイエス、キリスト・イエスのしもべであるエパフラス、愛する医者ルカ、それにデマス)を挙げて感謝しています。パウロにとっては、とても大切な人たちです。「この手紙があなたがたの所で読まれたならラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラヂオキヤから回ってくる手紙を読んでください。ここにパウロの異邦人伝道にかける意欲を見ることが出来る。
まとめ:初代教会と同様、コロサイ教会のユダヤ教的な戒律主義の問題は、パウロにとっては悩みの種子であった。行いではなく、キリストを信じる信仰によってのみ救われる、という概念は、徹底的に他のものと違い、異邦人伝道を困難にしていた。旧約聖書を知るものには律法は、あくまでも神がモーセに与えたもので絶対的価値を持っていた。それゆえ、キリスト者の中にも律法から決まりを抜粋してキリスト信仰に加えるものが出てきたとしても不思議ではなかった。特に割礼を信仰のあかしとして考えるものがパウロの福音伝道の壁になっていた。これに対しパウロは霊的割礼を主張し、キリストが来られた今は、肉体的割礼は不必要であると主張した。これは旧約聖書時代の儀式もまた不要とするものであった。これは一種の宗教改革であった。私たちは福音を理解することで戒律主義にも他の異端の教えにも騙されなくなるのです。
はじめに
誰が書いたか: キリストイエスの使徒パウロ、および兄弟テモテ。パウロが自筆であいさつを送ります(4:18)。一説ではパウロは目に障害があったのでテモテが口述筆記したともいわれている。
いつ、どこで書かれたか: AD58~62年ごろ、ローマの獄中で。
誰に向かって書かれたか: 小アジアにある町コロサイ(現在のトルコ)にいる聖徒たちでキリストにある忠実な兄弟たちへ(1:2)。
>誰がこの手紙を届けたか: 愛する信仰の友テキコと忠実な愛する兄弟オネシモ。パウロは言う「この二人が、こちらの現状を、みな知らせることでしょう(4:9)」と。パウロは彼らが手紙の運び人であったことを明らかにする。さらに福音を広めるために、この手紙を「ラオデキヤの教会にも回してください」と願っている。
ローマには全国に広がる郵便制度があったと思われるが、厳しい検閲制度があったであろうから身内を選んだのであろう。
その内容; 本書簡は神学的考察(1章~2章)と実践的勧め(3章~4章)の二部構成になっている。神学的考察の部分では、コロサイ人に対し、霊にあって頭であるキリストの神聖さを理解し、完全であれと命じ、それを妨げている者たちに対する警告を行っている。実践的勧めの部分では、信仰生活において、なすべきこと、なすべきではないことを説明する。さらに信仰上、上にあるものを求めよと提示する(3:1~4)。古い自分は死んで、、新しい自分を生きること(3:5~14)を示し、ユダヤ教徒ではなくキリスト教徒としての生き方を示す。そこにはキリスト教徒、異邦人の区別はない。パウロの書簡集は異邦人伝道であることを忘れてはならない。
言葉の意味
信、望、愛」「知識、善行、力」(1:3~12)
信仰なき希望は、一種の利己主義的満足に陥り、愛なき信仰は、教理の固執となり、希望なき信仰は、永遠の栄光の輝きを失い、信仰なき愛は、人情的愛に過ぎない。
真の知識は、神の御意を知ることであり、真の善行は神の御旨を行うことであり、真の力は、神の助けによりて来る。上記2つのみ言葉は不可分の関係にあり同一物の異なる角度よりの観察と考えられる。
嗣業:神の国において実現すべき未来の約束である。それは神の光の中で輝く。
大キリスト論:「ヨハネの福音書」1章1~5節参照。キリスト論の基が描かれている。ここにはパウロが宣べんとしたことが網羅されている。パウロは言う「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら万物は御子にあって作られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は万物より先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうしてご自身がすべてのことにおいて第1のものになられたのです(1:15~18)」と。パウロはキリストを至上の位置に置いている。
内容構成

>各章ごとの説明
1章;パウロが手紙を書いた異邦人の諸国は、彼らの行った福音伝道の任務の遂行によって「世界中で実を結び広がり続けた(1~6)」コロサイもその一つであった。使徒の一人エパプロスはその福音伝道に寄与し、コロサイに教会を立ち上げた。しかし、パウロたちの伝道は一定の効果をあげながらも順風満帆というわけにはいかなかった。絶えず彼らの前に立ちはだかる「偽の教え」と戦わなければならなかった(この状況は2章にも述べられている)。彼らは教会が教会として成り立つ基本を崩し、自分たちの誤った教えを流布しようとしていた。その影響は阻止されねばならなかった。コロサイは神によってえらばれた都市とはいえ、その内部に弱さをはらんでいた。パウロはコロサイの聖徒の誤れるキリスト観を是正するべくこの手紙を書いたのである。
1章はこのように弱さをはらんだコロサイ人に対してイエスこそ第1の人であり、成熟した真の信仰を持てと命じる。
パウロはここでコロサイに対し3つの祈りを捧げる。1、神のみ心についての知識を身につけよ(1:9)、2、主に喜ばれ、善行のうちに身を結べ(1:⒑)、3、忍耐を尽くして神に感謝を捧げよ。これらは神の光の中で輝くことを指している。父なる神はわれらを選び、救い、戒め給い、その嗣業に値するものされたがゆえに、われらはこの父に感謝せねばならない。これらのことは、コロサイ人だけでなく我々に与えられた祈りの義務といって良い。
13節から23節にかけてはパウロのキリスト観が述べられている。それが先に述べたいわゆる「大キリスト論」である。キリストは大地の生まれる前から存在し、万物はこの御子によって成り立ってる。これをパウロの宇宙論と言うものもいる。
神は私たちを暗闇の中より救い出し、御子の支配のもとに移してくださいました。同様に、あなたがた異邦人も、かつて暗闇の中に存在していた。それが御子の死によって贖われ、己と和解されたのです。この土台の上に立って福音の望みを受け入れ「偽の教え」に抗して御子を信じる信仰に留まれと、パウロはコロサイ人に強く求める。
24節から29節にかけてはパウロの任務と、そのための努力が描かれている。パウロは言う「神の言葉を余すことなく伝えるために、あなたがたのために神からゆだねられた務めにしたがって、教会に仕える者になりました」と。ここでパウロは今まで隠されていた奥義を語る。この場合の奥義とは異邦人においても神の恵みが現わされることを意味する。このことは神の恵みが、これまで異邦人に対しては除外されていたことを意味している。それをパウロは「隠されていた」という。ここにパウロの異邦人伝道の意義がある。潜在化していたものは顕在化するのである。それをパウロは自らの任務として、努力したのである。
2章:「あなたがたは、このように主キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり、信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい(2:6~7)」。
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っているのです。そしてあなたがたは、キリストにあって満ち満ちているのです(2;9~10)」。満ち満ちているとは、完全であることを意味する。キリストの義によって100%正しいとみなされている。完全である聖徒に何が必要なのか。必要なものはないはずである。パウロは言う「必要なことはこの状態を保ち続けることである」と。キリストにあって確固たる、揺るぎのない信仰を持ち続けることである。それによって、「だましごとの哲学」が入り込む余地はなくなる。しかし、コロサイ人にはまだまだ揺るぎがあった。保ち続ける難しさが、そこにはあった。様々な誘惑が彼らを取り巻いていた。彼らの信仰は必ずしも堅くはなかった。「だましごとの哲学」は、その揺るぎの中に付け入り、コロサイ人のキリストにある信仰を妨害した。パウロはそれを恐れていた。パウロはコロサイ人に確固たる信仰を求め、「だましごとの哲学」の「悪」を指摘する。
「だましごとの哲学」のとりこになるな」とパウロは言う。「それは、この世の幼稚な教えによるものであって、そこにはキリストの教えはない(2:8)」。
あなたがたは肉による割礼を受けた者でなくキリストの割礼を受けたものである。
また、水によるバプテスマにより「キリストと共に死に、キリストとともに埋葬され、キリストとともに復活した者である」。かくしてあなたがたは神の恵みによってキリスト者に変えられた者となる。「神はキリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除し、彼らを捕虜として凱旋の行列に『さらし者』として加えられました(2:15)。
16~23節までは「偽りの教え」と真のいのちであるキリストの教えを比較して、「律法や、その儀式などの取り決めは一時的なものであって本体(キリストの教え)の影に過ぎない。本体が現れた今、御遣いを信じる信仰によって生きるべきであって、「善い行いをし、様々な規則によって救われるという、この世の考えから解放されねばならない。
3章:「コロサイ人の手紙3章」のテーマは「神によって蘇らされた私たち」である。キリストと共に蘇らされた者として、どのように生きていかなければならないのか、その具体的な勧めが語られている。その内容は、おもに「思いなさい(3:1~4)」「身につけなさい(3:5~17)」「従いなさい(3:18~4:1)」の3つにわけることが出来る。
天にあるものを思いなさい:「こういうわけで、もしあなたがたがキリストとともに蘇らされた者なら上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座を占めておられます。あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを求めなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、その時あなたがたもキリストと共に栄光のうちに現れます(3:1~4)」。この文章には新約聖書の基本が述べられていると同時に、この章の本質が語られている。
蘇らされたもの:キリストの十字架と共に死に、、キリストと共に蘇った者。真のキリスト者を指す。この章ではコロサイの聖徒を指す。
上にあるもの:天、神の国。そこにはキリストが神の右に座を占めておられます。あなたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでいる:私たちの肉の欲望(偶像礼拝など)=罪はキリストの十字架の贖いによってキリストと共に死んでいる。霊的蘇りを意味する。かつてコロサイ人は、その偶像礼拝によって神の怒りを招いていた。しかし、「あなたがたは、古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主の形に似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至るのです(3:9~10)」。神を思い、神を身につけよ、とパウロはコロサイの聖徒に望む。
あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されている:神に選ばれた者は、たとえ神に反抗することはあっても、その体内に聖霊を宿している。これをパウロは隠されていると表現する。このものが神の恵みを受けたとき、人は変えられる。「私たちのいのちであるキリストが現れると、その時あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れることが出来るのです(3:4)」と、パウロは言う。しかし思うだけでは可能性を見るだけであって、その思いを身に着け、実行に移したとき、真に選ばれたものとなり「聖なるもの」となる。
身につけよ:「それゆえ、神に選ばれたもの、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。たがいに忍びあい、だれかが、ほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦しあいなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい(3:12~13)と、主の愛を身に着けた者のなすべきことを語っている。パウロは「上のものを求めよ」「天にあるものを思え」と命じたのち「身につけよ」と命じたのである。それはキリストにあって、新しい姿を身に着けて進まねばならない、と言うことである。
当時、不品行と結びついた偶像礼拝が横行していた。これらの偶像を殺せとまでパウロは言う。コロサイ人は、新しく変えられねばならない。神と人、人と人とは愛によって結びついている。「愛は結びの帯」として完全なものである。神と人とは和解し一体化せねばならない。「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい(3:17)」。
従いなさい:パウロは、聖徒たちはどのように礼拝すべきかについて指示し、妻と夫、子供と両親、奴隷と主人に対して勧告を与える。妻は夫に従い、子供は両親に従い、奴隷は地上の主人に従えと勧める。しかしその関係を人と人との関係としてではなく、主と人との関係に移行せよと命じる。そして主を人が愛するように真心を込めて相手を愛せよと勧告する。そのことによって、あなたがたは主からの報いとして御国を相続することが出来る。そうでない場合、不正の報いを受ける。そこには不公正はない。
4章:「目を覚まして祈りなさい」。とある。しっかり目覚めて、心の目を覚まして、祈れということであろう。自分の関心と欲望のために祈ってはならない。そのような祈りは、神によって聞かれることはない。上にあるものを求める歩み、と言うものは、まさに神の力によってなされものであり、人の努力でなされるものではない。自分の力の限界を知り、神の力にすがって祈ることが重要なのである(4:3参照)。そして宣教のために祈ろう。キリストの奥義が宣教者を通してはっきり語られるように(4:3)。またそれにふさわしく塩味の利いた語りが出来るように(4:4)。パウロが奥義と言う場合には2つの意味がある。一つはキリストにある十字架の救い。二つ目は、この救いがあまねくユダヤ人、異邦人の区別なく与えられることの2つである。「祈りに飽いてはなりません。熱心に祈り続けなさい。神様は祈りに応えてくださると信じて待ち、それが聞き入れられたら、感謝するのを忘れてはなりません」。
パウロは、支援者たちの支えなしに働きをすることは出来なかった。一人で働きのできるキリスト者の働き人はいません。私たちは皆、神と共に働く同僚です。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、建物です。7~18節でパウロは働きを助けてくれる人たちの名(テキコ、ネオシモ、アリスタルコ、バルナバのいとこであるマルコ、ユストと呼ばれるイエス、キリスト・イエスのしもべであるエパフラス、愛する医者ルカ、それにデマス)を挙げて感謝しています。パウロにとっては、とても大切な人たちです。「この手紙があなたがたの所で読まれたならラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラヂオキヤから回ってくる手紙を読んでください。ここにパウロの異邦人伝道にかける意欲を見ることが出来る。
まとめ:初代教会と同様、コロサイ教会のユダヤ教的な戒律主義の問題は、パウロにとっては悩みの種子であった。行いではなく、キリストを信じる信仰によってのみ救われる、という概念は、徹底的に他のものと違い、異邦人伝道を困難にしていた。旧約聖書を知るものには律法は、あくまでも神がモーセに与えたもので絶対的価値を持っていた。それゆえ、キリスト者の中にも律法から決まりを抜粋してキリスト信仰に加えるものが出てきたとしても不思議ではなかった。特に割礼を信仰のあかしとして考えるものがパウロの福音伝道の壁になっていた。これに対しパウロは霊的割礼を主張し、キリストが来られた今は、肉体的割礼は不必要であると主張した。これは旧約聖書時代の儀式もまた不要とするものであった。これは一種の宗教改革であった。私たちは福音を理解することで戒律主義にも他の異端の教えにも騙されなくなるのです。
令和元年9月10日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会