日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

第145回芥川賞候補作『ぴんぞろ』戌井昭人作

2011年10月23日 | Weblog
 第145回平成23年度上半期芥川賞は、選考委員会の2時間にも及ぶ慎重の討議の結果、該当者なしと決定したという。候補作は6編。これらの作品は平成22年12月1日から平成23年5月末日までの6ヶ月間に発表された作品であり、予選を通過したものである。
 文藝春秋9月号には、この6作品のうち戌井昭人氏の「ぴんぞろ」(『群像』2011年6月号掲載作品)が載っていたので、その内容について紹介したい。他の作品に比べ相対多数を獲得したのであろう。
 この作品「ぴんぞろ」は、前半と後半に分かれている。前半では浅草界隈の底辺社会にうごめくダメ人間の群像が描かれ、後半では、雪深い群馬の山奥の劇場が舞台として描かれる。この作品の主人公は今井という名の「おれ」である。前半の「おれ」は浅草の底辺社会に生きる芸能人に脚本を提供して、細々と生きる脚本家であるが、どこか間の抜けたダメ人間の一人である。後半の「おれ」は、ストリップ劇場の司会者としてデビューするが、酔客を相手にして、オタオタするだけで、三味線弾きの、ルリ婆さんの助けが無ければ、座を白けさせてしまうダメ司会者である。

  底辺社会の群像
 このように前半の「おれ」はなんともしまらない男で、一緒に住んでいた女に甲斐性なしと蔑まれて逃げられたり、競馬で儲けて買った8万円の中古スクーターを、買った1週間後に、よそ見運転で電信柱にぶつけて廃車にしたり、といいところの無い、人生の脱落者寸前のダメ人間である。この地域の、しまらない男は「おれ」ばかりでなく、自転車を盗まれて、お前の取り締まりが悪いからと警官にからみ、警官の白い自転車をおれによこせと、叫んでいる男がいたり、酔っ払いに暴行されて泣き叫んでいる歳とった娼婦がいたり。ズボンのチャックをおろし道路の真ん中で、ふにゃらーになったチンポコを丸出しにして放尿をしている浮浪者がいたり、出刃庖丁を振り回してあたりを騒がしているシャブ中毒の男がいたり、チンチロリン賭博という秘密の賭場を開いているヤーさんがいたり等々、世間の底辺社会にうごめくダメ人間たちの群像が描かれている。

  座間カズマという男
 この底辺社会の一角に、「おれ」がお世話になっている「はせがわ芸能社」がある。副業として俳優養成所も営んではいるが、ここから育った芸能人の話は聞いたことが無い。そこに「おれ」は原稿を届けに行く。この芸能社で「おれ」は座間カズマという芸人と知り合う。この男はコメディアンで、下手なジョークで人を笑わしていたが、最近奇術を始めたという。そのほか、結婚式の司会や、発表会の進行役などで何とか食いつないでいる売れない芸人である。この男と一緒にチンチロリン賭博に巻き込まれて「おれ」はひどい目にあう。必ずもうかるからといって2万ほど貸せという。5万円にして返すという。みみっちい儲けではあるが儲かるというから、博打場に同行する。この話を信じたのが「おれ」の運のつきであった。風間は覚えたばかりの奇術を使ってイカサマ博打を試みたのだが、イカサマがばれて、胴元の怖いヤーさんに凄まれて、心臓の弱い風間は頓死してしまう。その処理を「おれ」がしなくてはならない。博打そのものが法律違反のため、救急車を呼ぶわけにもいかず、仕方が無いので「はせがわ芸能社」まで担いで帰る。心臓が弱いということもあって病死で切り抜けたという。
 さてこれからが、後半である。

  「おれ」、リッちゃん、ルリ婆さんの奇妙な共同生活
 風間は先に述べたように、結婚式の司会や、発表会の進行役で食っていた。頓死する前に受けた温泉場の宴会場の司会があるという。断れない事情があるので、この「おれ」に代わりを務めてくれという。群馬の山奥にある旅館の仕事場だという。そんなところへ誰もいきたがらない。しかも10日も滞在しなければならない。勿論、住まいもあるし、飯も出るし、給料も支払われるという。当然の話である。作家というのはペンと紙さえあればどこでも出来る仕事である。「おれ」は引き受ける。しかし、引き受けたものの司会なんてやったことが無い。「酔っ払いが相手だから適当にやれば良い」と長谷川のおっちゃんは言う。とにかく出かけたのである。
 群馬県の山奥のひなびた温泉場に、電車とバスを乗り継いで到着する筈であった。しかし「おれ」は道を間違えてハイキングコース歩くという遠回りをしてしまった。しまらない話である。しかし途中猿にも会えたし、静かな清流を楽しむことが出来たし、山道は険しかったが、それなりには趣もあった。何とか仕事場である「サウス劇場」に到着する。そこはヌード劇場であった。「おれ」はここで三味線弾きのルリ婆さんと、リッちゃんというルリ婆さんの孫に出合う。まだ若い22歳の踊り子である。2階の3畳ほどの狭い部屋が「おれ」の寝所として提供される。昔ここでエロショウをやっていたという。
 仕事は、ストリップショーの前説と、その後は照明係。宴会場で「おれ」の仕事が始まる。見事に酔っぱらった連中が相手である。何を言っても反応が無い。「早く女の裸を見せろ」「とっとと消え失せろ」座布団は飛んでくるは、ビール缶は飛んでくるは、お終には、残り物の刺身が飛んでくる。握り飯が飛んでくる。収拾がつかない。「おれ」の出る幕ではない。やっとルリ婆さんが出てきてエロチックパホーマンスでその場を切り抜ける。その後はリッちゃんの登場である。素晴らしい身体と、力強い踊りは、観客を魅了する。野生動物の様な清々しさがある。同時に艶めかしさもある。それに合わせ奏でるルリ婆さんの三味線からは、情念が噴出し、その場の雰囲気を妖艶にゆがめていく。「おれ」はそんな舞台に見とれ、聞き惚れる。本番のストリップショーが始まる。衣装替えしたリッちゃんの顔には「おかめ」の面があった。リッちゃんは踊る。着物は徐々にはだけ素裸になる。真っ黒な陰毛はそそり立つ。そこで「おれ」は照明を落とす。隠微な想像が、お客たちを包む。踊りは終わる。お客たちは拍手喝采する。
 かくして「おれ」の最初の一日は、何とか無事に終わる。10日のつもりなのに正月までやれという。暮れは忙しいという。「おれ」がいなくなったら代わりがいないという。帰ってはダメという。ヤレヤレである。
 かくして、おれたち3人の奇妙な共同生活は始まる。ショーはホテルの宴会場と、宴会の無い時は「おれ」達の住む「サウス劇場」でも行われる。内容は同じである。「おれ」は受付で入場料3000円也を貰っている。高いのか安いのかは判らない。
 ルリ婆さんは仕事の無い昼間は駅前のパチンコ屋で稼いでいるが、あまり儲からないとこぼしている。リッちゃんは昼間は寝てばかりいる。夜は悪夢をみるので、怖いという。だから夜は寝ないという。クロスワードパズルばかりやっている。
 温泉地でありながら、「おれ」は住まいの風呂にしか入っていない。ルリ婆さんに誘われて地元の人の入る公共浴場に行く。温泉は公民館の一角にあり、2階には集会場や会議室がある。集会や会議の無い時は温泉客の休憩室になっていた。
 その休憩室で、風呂上がりの一杯を飲みながら、「おれ」は、ルリ婆さんと、いろいろと話をする。リッちゃんの母親や、父親の話である。母親は男にだまされ、その上借金まで背負わされ、傷心を抱いてこの温泉場に流れてきたが、「オニバ」と呼ばれる、ガスが大量に噴き出す源泉に入り込み自殺したという。リッちゃんを道連れにしなかったことが唯一の救いだったが、馬鹿な女だとルリ婆さんは云う。
 父親は、山師で、南米や、アルゼンチンを宝石を求めて歩き回っていたという。そのうちに行方不明になってしまった。放庇芸の出来る芸人で、芸で身を立てれば、そこそこのところまでいったのにとルリ婆さんは残念がる。

  ルリ婆さんの事故死
 大晦日を数日後に控え、雪の降る寒い日、パチンコ屋へ行って、いつもは帰ってくる時間になってもルリ婆さんは帰ってこない。出玉が多い日はそんなこともあるので、仕方なくテープを回し、酔客を相手にしていたが、いつまでたっても帰ってこないので「おれ」達は、心配していた。その時、ホテルの従業員が血相を変えて飛び込んできて、ルリ婆さんの乗ったバスが崖から転落し、乗客は救急車で駅前の病院に運ばれたという。
 「おれ」達は、タクシーを飛ばして病院まで行くが、すでにルリ婆さんは息を引き取った後であった。亡くなったのはルリ婆さんだけだった。遺品の紙袋の中にはパチンコの景品の、羊かんが5本と、缶詰が数缶入っていた。
 事故から3日目にルリ婆さんの遺体を火葬場で焼いてもらう。家に帰ってうどんを喰う。冷たい身体には温かいうどんは美味しかった。なんだか物悲しく寂しかった。その後リッちゃんと二人で風間の遺品であるサイコロを取りだして、チンチロリン博打をやる。「おれ」には良い目は出なかったが、リッちゃんには良い目が出まくった。ぴんぞろまで出た。そして夜中まで続けた。しかし慰めにはならなかった。ただ寂しいだけだった。ルリ婆さんの存在は「おれ」達にとっては、とても、大きかったのである。
 10日の滞在のつもりが、気がついてみれば、すでに大晦日。仕事は無かった。「東京に帰ろうかな」「一緒に東京行かない?」「おれ」はリッちゃんに言う。「おれ」はいつの間にかリッちゃんに惚れていた。リッちゃんも「おれ」に惚れていたらしく2階で寝ていたら突然やってきて「おれ」の布団に入り込んで抱きついてきた。「おれ」も抱きしめたが、そのまま何もしないで眠ってしまった。母親には死なれ、父親は行方不明、ルリ婆さんには事故死で亡くし、「おれ」も東京に帰るという。天涯孤独になってリッちゃんは寂しさに耐えられなかったのであろう。頼れるものは「おれ」以外に無かったのである。「おれ」はそんな彼女が愛おしかった。「やっぱさ、東京に連れて行ってもらおう」「今すぐ」「うん!」
 2人で浅草に行く。取りあえず「はせがわ芸能社」へ行くことにする。かつてはルリ婆さんのひも的存在でもあった長谷川のおっちゃんに、彼女の死亡の報告もしなければならないし、久しぶりにも会ってもみたい。しかし芸能社は火事で無くなっていた。長谷川のおっちゃんは軽傷ですんだという。
 酉の市で賑っていた鷲神社も、今は閑散として、ひっそりとしていた。初詣の準備をしていた。「おれ」達二人は腕を組み賽銭箱の前に立った。座間のサイコロをその中に振り込んだ。その目は「ぴんぞろ」であった。隣をみるとりちゃんの顔は「おかめ」に代わっていた。

 資本主義社会は競争社会である。競争社会には勝者がいると同時に敗者がいる。敗者は必ずしも個人的責任によるものではなく、社会的責任から生じることが多い。彼らは倒産、経営危機によるリストラ、等々の原因によって失業したり、遠方に飛ばされて、耐えきれず自主退職したりする。勿論人生の落伍者にならないよう、それなりに努力するものの、復活がならず、そのまま社会の底辺に沈み込んでしまう。そんな人間の住む社会が底辺社会である。東京の山谷、大阪の鎌ヶ崎が、かつて、底辺社会として存在していた。今は知らない。
 この作品の前半で、浅草の一角にある底辺社会が描かれる。ホームレスがいる、掏り、カッパライがいる。麻薬の売人がいる。その中毒患者がいる。秘密の賭場を仕切るヤーさんがいる。何で生活しているかは、よく分からないが、とにかくそれなりに彼らは生きている。ドヤ街と云われる安宿群がある、安い飯屋がある、古着屋がある。プライドや、名誉を捨てれば、案外、自由で気ままに安楽に生きていける社会である。福祉の手を拒否する特殊な世界がそこにある。それが底辺社会である。そんな底辺社会に「おれ」「長谷川のおっちゃん」「座間カズマ」などのこの作品の登場人物が生活している。「ルリ婆さん」は長谷川のおっちゃんの経営する芸能社で踊っていたという。彼が罪を犯し流れついた時、彼女は、彼を自分のヒモとして養ったという。
 ひょんなことから群馬の山奥で働くことになった「おれ」は、そこで「ルリ婆さん」と「リッちゃん」と出会う。3人の可笑しな共同生活が始まる。その生活は貧しいながらも充実しており、「おれ」は、リッちゃんに恋心を抱く。
  東京・浅草と、群馬の山奥、共に底辺の生活を描いているが、そこには現代社会が、今、忘れ去った、堂々と、健気に生きる人達の、お互いがお互いを思いやる優しさがある。
 この作品には現代社会の持つ不条理に対する正面切った批判は無い。底辺社会にも、それなりの存在感があるのだと、肯定的に描く。
 だからこそやりきれない寂しさがある。

        月刊『文芸春秋』9月号掲載作品 戌井昭人作「ぴんぞろ」 文藝春秋社発行

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145回直木賞受賞作池井戸潤作「下町ロケット」その特許がなければロケットは飛ばない。

2011年10月15日 | Weblog
  第145回直木賞受賞作 池井戸潤作「下町ロケット」
 (概略)
 今回は芥川賞受賞作なしということなので、直木賞受賞作の池井戸潤作「下町ロケット」を紹介する。しかし、せっかく読んだので、芥川賞の候補作で文藝春秋9月号に掲載された成井昭人作「ぴんぞろ」についても、後で簡単に紹介する。
 この作「下町ロケット」は宇宙工学を中心に論理が展開される。池井戸氏は宇宙工学には素人だと思うが、専門知識なしには展開できない筋を手際よくまとめ、その博学には驚かされる。おそらく専門家の協力を得ての創作であろう。極めて簡単な紹介は「オール読物」に載っているが、本文に代わるものではない。さすが、直木賞受賞作一気に読み終わった。非常に面白い。
この作品は前半と後半の二つの部分にわけられる。

 この作品の舞台となるのは佃航平率いる中小企業、エンジン部品の製造開発を行う「佃製作所」である。
 前半は、この会社が大型取引所「京浜マリナーズ」から取引停止の措置を受け、倒産の危機に陥るところから始まる。更に同業他社の大企業「ナカシマ工業」からのすでに解決済みのはずの特許侵害の訴訟を受ける。賠償額は90億円。敗訴は絶対に許されない。経営危機と、ナガシマ工業からの特許侵害の訴訟、謀略から、身を守り、いかに経営危機を立て直すか?その姿が、佃航平社長以下幹部社員の活躍の中で描かれる。大企業に翻弄される中小企業の意地がそこにある。

 後半は、特許利用に関する大企業「帝国重工宇宙航空部」と、佃工業との鍔迫り合いが、主題となる。帝国重工に先んじてバルブ・システムの特許を獲得していた佃工業は、帝国重工からの高額な金額による特許譲渡の要求を断り、その特許を利用した水素エンジンの提供を申し出る。 これに関しては佃工業内部にも異論があり、特許を売り渡し高額な金額を手に会社及び自分たちの生活を安定させたいと望む一派と、かつて宇宙工学の研究者でありロケット発射に失敗した経験をもつ佃社長の理想論の間で対立が生じる。理想か現実か、夢かビジネスか?

 これに対して製品の内製化を掲げ、自家製の宇宙ロケットを作り上げ宇宙空間に発射したい帝国重工宇宙航空部は、あくまでも特許の買い取りか、最低でも特許利用で交渉に臨む。資金繰りに苦慮し、巨額な金を手にしたい佃社長は、それでも製品提供を譲らない。われに特許あり、この特許が無ければロケットは飛ばない。これが後半部分の第1のハイライトである。そして、帝国重工航空部に提供した水素エンジンが果たしてそのテストに合格し、見事ロケットを宇宙に向けて、発射できるかが第2のハイライトである。
 大企業に対して、日本のもの作りを担ってきた中小企業の意地がそこにある。

   池井戸 潤作「下町ロケット」この部品が無ければ、ロケットは飛ばない

 元、宇宙開発機構の、研究員であり、ロケット発射失敗の経験をもつ、この作品の主人公佃航平(43歳)は、東京大田区にある会社「佃製作所」を継いでいた。業種は精密機械製造業。資本金は3000万、従業員200名、売り上げは100億円に満たない中小企業であった。しかし、エンジンに関するノウ・ハウは大企業を凌ぐものがあると言われている。
 佃航平の幼いころの夢は、宇宙飛行士になることであったが、いつしかその夢はロケット工業へと向けられる。それ故、ロケットを飛ばすに必要な水素エンジンの開発に夢をかけ、多額の費用を投じていた。その結果とは言えないまでも、取りあえずは利益と結びつかない投資であったため、会社の経営は必ずしもうまくいっていなかった。特に大型取引先「京浜マリナーズ」の取引き停止と、それに追随する取引先の離反は経営を圧迫し、倒産の危機にひんしていた。このような事態をみたメインバンクの白水銀行は、その借入金の多さと、ファンダメンタルズ(商環境、経営体質)の悪化を問題にし、融資を渋りだした。このため佃製作所は資金繰りに苦慮していた。リストラは不可避な状態にあった。このような状態をみた白水銀行からの出向者で、経理部長の殿山直弘(通称トノ)は、佃航平社長が、その夢のために多くの開発費用をかけていることに苦言を呈し、いつ実用化できるか分からない水素エンジンへの投資を一時的で良いから停止してくれるよう苦言を呈した。これは彼だけでなく多くの社員の要望でもあった。殿山は彼らの代表でもあったのだ。しかし佃航平社長はこれを痛いほど理解していながらも、わが社は研究開発型の企業であり、これなくしてはわが社の発展はありえないと、この要望を退ける。しかし、商環境はますます悪化する。これに追い打ちをかけるように、同業他社の大企業ナカシマ工業から、佃製作所の開発した、高性能小型エンジン「ステラ」が、特許侵害で訴えられる。その賠償額は90億。すでに解決済みのはずなのに何故。ナカシマ工業の意図は賠償額そのものではなく、時間稼ぎをして、佃製作所の資金繰りにショートした時、和解に持ち込み、佃製作所の技術をわがものにすることにあった。訴えられた以上、受けて立たなければならない。無視は敗訴につながる。
 しかし、相手は大企業である。知財裁判(発明やソフトなどの無形財産に関する裁判)に詳しい、有能な田村・大川弁護士事務所を抱えている。こちらにも有能な田辺弁護士を抱えてはいるが、知財に関しては素人にすぎない。果たして勝訴できるのか?資金は大丈夫か?相手はこちらの足元を見ている。時間稼ぎをして、こちらの資金がショートするのを待っている。体力勝負の短期決戦である。果たして勝算はあるのか?
 ここにエンジェルが現れる。ベンチャー・キャピタルのナショナル・インベストメントである。銀行と異なり、将来有能な企業への投資を専門にしている資本家である。その資本家の名は、浜崎達彦。その彼が殿山の要望で佃製作所を訪ねてくる。30代半ばの崩れた雰囲気をもつ、生意気で遠慮の無い男である。その男と会談し「それなりの男だ」と佃航平は判断する。
佃製作所の技術力は評価され「とりあえず1億5千万、転換社債でどうですか」。地獄に仏である。これでしばらくは、資金的には、息がつける。
 裁判が始まる。初回の口頭弁論では、知財に素人の田辺弁護士は相手に太刀打ちできず佃を失望させる。佃航平は弁護士を変える決心をする。元妻沙也から知財に詳しい弁護士を紹介しようかという話があったことを思い出し、元妻に連絡する。神山修一という、知財に詳しい凄腕の弁護士で、元ナカシマ工業の顧問弁護士も務めていたが、そのやり方に嫌気がさし止めたという。技術系の大学を出た後、しばらくメーカーに勤めていたが、勤めながら弁理士の資格を取り、その後、法律を勉強し、司法試験に合格した優秀な弁護士だという。
 彼を弁護士にすることにより事態は好転する。
彼はまず第一にナカシマ工業の卑劣な法廷戦略・時間稼ぎの引き延ばし戦略の阻止と、特許侵害の逆提訴を考えだす。ナカシマ工業の製造する小型エンジン「エルマ」に特許侵害を見たのである。
 この法廷戦略は功を奏する。引き延ばし作戦は裁判官の心証を害し、これ以上の引き延ばしは出来なくなる。更に逆提訴した特許侵害は認められ、和解勧告がなされる。和解金は56億円。更にこの和解には先に提訴された特許侵害の取り下げも含まれていた。事実上の勝利である。「正義は我にあり」佃航平と神谷修一は固く握手する。しかし、神谷は佃に言う「特許侵害は無かったにせよ、そこには相手に付け入られる隙があった、今後のこともあるので、佃製作所の開発した多くの特許の見直しを進言する。これは浜崎からも指摘されていたことであった。この進言を受け入れ佃航平は特許を、より汎用性のあるものにし、どのような企業からもつけ入る隙のないものに改める。これを優先権主張出願と言う。それは一度認められた特許に、技術情報を追加して補足することを意味する。これは後半部分に登場する帝国重工との関係において大きな意味を持つ。
 ここから後半部分に入るのであるが、後半部分は、前半部分とダブった形で現れる。

 東京・大手町、帝国村と呼ばれる大資本の集まる中心地に帝国重工の本社がある。同社宇宙航空部は、大型ロケットの開発・製造において政府から、民間委託を一手に引き受けた国内最大のメーカーである。
 この宇宙航空部が、来年度から始まる長期宇宙計画の目玉すると同社藤間社長が掲げたプロジェクト名が「スター・ダスト計画」であった。
 この計画の遂行にあたって、打ち上げを成功させ、国際競争力をリードする絶対条件は「新型水素エンジン」の開発と実用化であった。その開発のために同社宇宙航空部は巨額な資金と精力を使って、それを成功させた。藤間社長のキー・テクノロジーは内製化するという目的は達成されたかに見えた。しかしこの技術の特許出願は、同じ内容の特許の存在によって受け入れを拒否された。先を越されていたのである。開発責任者である財前部長と富山主任は頭を抱える。内製化の方針に従えば、同じ内容の代替技術を開発しなければならない。それには相応の時間と、費用を必要とする。来年度から始まる「スター・ダスト計画」を遂行するためには費用はともかくとして、時間が無い。帝国重工という巨大組織においては、プロジェクトの進行の遅延は万死に値する。遅らせるわけにはいかない。
 同じ内容の特許において先を越した企業名は「佃製作所」。大企業「帝国重工」においては吹けば飛ぶような企業にすぎない。
 プロジェクトの進行を遅らせないためには、佃製作所の開発した特許を利用しなければならない。しかし、それはキー・テクノロジーは内製化の方針に反する。代替技術の開発が時間的に無理である以上藤間社長を説得する以外にない。藤間社長は特許の話を聞き怒りをぶちまけたという。
 いま帝国重工に出来ることは、特許の買い取りか、特許の使用契約を結ぶ事しかない。財前部長は佃製作所に対して20億で特許を買い取りを提案する。この時佃製作所は、取引先の離反と、ナカシマ工業との訴訟に巻き込まれ、資金繰りに悩み、倒産の危機に陥っていた。20億と言う金は喉から手が出るほど欲しい金であった。その足もとを財前は見たのである。20億と言う金は絶対額としては大きいが、特許の価値を考えれば決して高い額ではなかった。売るか、使用契約か、佃製作所の幹部会では議論が沸騰する。売ればひとまず、会社の危機を脱することは出来る。取りあえず使用することのない特許なら売っても良いのではないかと唐木田営業第二部長は言う。20億という金があればそれで新しい技術を開発することも出来るではないか。彼は現実派を代表していた。
 売ればそれで終わってしまう。高いレベルでの技術を使っての商品開発こそわが社の目標でありビジネスである。特許の使用契約で帝国重工と交渉すべきである。使用料は売却と比べ格段と安くなり経営危機を乗り切るには不十分ではあるが特許は、残る、と佃航平達理想主義者は主張する。そこには理想派と現実派との間での20億を巡る議論があった。
 その結果、佃航平は結論する「特許の売買で無く、使用契約で交渉する」と。「拒否されたらどうするのか」という唐木田部長の問いに応えて佃航平は言う「売らなければ彼らのロケットは飛ばない。スター・ダスト計画は頓挫する」。佃航平は、財前に売却を断り使用契約に切り替えるように要望する。 そこには帝国重工という大企業に対する中小企業佃製作所の意地があった。
 しかし帝国重工側にも意地があった。吹けば飛ぶような佃製作所などに負けるわけにはいかない。この時点では佃製作所は資金繰りに悩み、何億という借金を抱え、さらに、ナカシマ工業との特許を巡る係争に苦しんでいた。敗訴すれば何億という賠償金を払わねばならない。そのとき倒産は必至である。財前は、この時を待って佃製作所を子会社化してしまえば特許はタダ同然で使えると考える。しかし倒産は何時か予想することは出来ない。「スター・ダスト計画」には期限がある。
 佃製作所とナカシマ工業との間の訴訟は佃製作所側の事実上の勝訴に終わる。佃製作所は56億という和解金を得たのである。この時点で、財前は、特許の買い取りをあきらめ、使用契約で臨むことを決定した。
 高額な特許使用料を支払い、キー・テクノロジーを内製化するという基本方針を捨ててまで最優先せねばならないのはスケジュールなのだ。「スター・ダスト計画」の迷走は許されない。
財前は、使用契約で佃製作所と、使用料金、使用期限などで交渉に臨むが、佃製作所側はこれすら断ったのである。
 佃航平は言う「特許の使用料ではなく、部品供給ではいけないか?」「うちは特許の使用料で稼ぐ会社ではない、うちの売りは自社で開発した高い技術をベースにした商品開発であり、水素エンジンを自社で開発し、そのエンジンを使って大型ロケットを飛ばしたい」と逆提案したのである。それはリスクの伴う提案であった。水素エンジンの開発が成功する保証はない。それよりも大企業帝国重工と特許の使用契約を結べば、確実に高額な使用料は手に入る。佃製作所の経営は安定する。佃製作所側では議論が百出する。しかし、佃航平は自社で開発した水素エンジンで大型ロケットを飛ばしたいという夢に自分をかけ、議論を押し切った上での提案であった。そこには夢か現実か?リスクか、安定か?という揺れる心があった。目の前の小さな利益より将来の大きな利益、5年10年の長いスパンで物を考える時実績が生きる。しかし、その実績はあくまでも可能性であって、現実ではない。可能性を現実性に転嫁するためには成功以外に無かった。
その提案に財前は驚く。そんな提案は長い歴史の中で無かったからである。財前は、手始めに佃製作所の工場見学から始める。受け入れの諾否を決定するためである。その心証は決して悪いものではなかった。まず受け入れを受託し、正式審査に回すことにする。

 超一流のベンチャーキャピタル、マトリック・パートナーの須田という男から佃航平の自宅に電話が入り、一度会いたいという。佃航平の元同僚で現在大学の教授をしている三上孝からの紹介だという。三上の紹介ならと、佃航平は承諾する。須田が訪ねてくる。その名刺には「日本支社長須田祐介」と書いてあった。30代半ばの、ブランドで身を固めた長身の男であった。その男が云う「世界に冠たる大企業が御社を非常に高く評価しております。その企業から御社を買いたいという要望がありました。会社を売る気はありませんか?」「今の段階では守秘義務がありますからその企業名を申し上げるわけにはいきませんが、御社にとって、決して損になる話ではありません」。
 その話は、佃製作所の株式を買い子会社にしたいというものであった。社長の残留、給与、その他は交渉次第という。要するに株式を売ってオーナー社長の座を降りろ、というのである。しかも、その企業の傘下に入ることによって、新たなビジネスチャンスは生れ、経営は安定し、企業の発展が見込まれる。そうなれば、取引停止になった京浜マリナーズクラスの取引先も数社獲得できるし、経営的に見て決して損になる話ではない。
 更に、大企業の傘下に入ることによって社員は、安心感と、安定感、大企業の社員としてのステイタスも獲得できる。
 その代わり、その企業にとっては佃製作所の持つ技術力によって、市場戦略を優位に進められるというメリットをもつ。
 これが須田佑介という男の話であった。決して損になる話ではない。
 佃航平は考える。会社が安定し、社員が喜べばそれで良いではないか。社長業に恋々するつもりはない。会社とは何か、何のために働いているのか、だれのために生きているのか--------。佃航平がつきつけられているのは、会社における、まさに本質的な問題であった。
 須田を紹介した三上から電話があり「飲まないか」という誘いを受ける。
須田の話を受けろという。それが損得勘定において最良な話だという。更に社長業を止めて大学に戻れという。「おまえは環境と金に恵まれれば、もっと、もっと良い仕事が出来る筈だ。おれは大学では力があるから、お前の実績からして教授に推薦できる」。
佃航平はもちろん心は動いた。研究者としての魂がうずいた。しかし社員たちの佃製作所を思う気持ちに接して決心する。
 佃航平は三上からの申し出を断る。「俺はうちの会社で、社員たちと夢を追いかけてみる」。同時に須田からの申し出も断ったのである。
 須田も三上も佃航平を佃製作所から切り離そうとしている。それを求めている企業とは何処で、その目的とは何か?

 帝国重工には、新たな会社と取引を開始するにあたって、相手企業が技術的にも、経営的にも信用できるか、帝国重工側の要求に応じることが出来るかどうか見極めるのが恒例になっていた。
 その審査が始まる。生産管理部門、財務経営・環境部門、技術部門において審査が始まる。
最初の日の審査結果は散々であった。しかし殿山は言う。「彼らの審査は批判的、自己中心的、果たしてそれが正しい評価といえるか?」「ウチは一般的評価からいって決して悪い会社ではない」「ウチは評価されているかもしれないが、ウチだって帝国重工を評価しているのだ」「ウチを評価できない会社に部品提供など出来ない」「大事な特許を預けるわけにはいかない」。
知らないうちに卑屈になっていた佃製作所側はこの言葉に力を得る。「俺たちにだってプライドはある。ドンとぶつかっていきましょう」「小さいからってなめるんじゃねー」。
 かくして、審査は終わる。結果は合格。財務評価は71点。経常収支は赤字ではあるが、それを補って余りある現金がある。更に生産現場での評価は、下請けとしてはトップレベルにありA段階に評価できる。ということで総合評価において合格したのである。
 しかし、これで全ての検査が終わったわけではない。動作テストが残されていた。簡単な動作テストにおいて異常値が出たのである。そこには正規の製品ではない不良製品の誤納入があった。それは意図的に仕組まれた誤納入だったのである。佃航平に反感をもつ真野という社員が品物を入れ替え、川本という社員がそれにロット番号を振ったのである。勿論正規の品物は納入された。しかし、「品質ばかりがテストではない、部品の納入もテストなんだ」「納入はお断りします」と納入責任者の富山主任は言う。しかし、佃製作所に好意を持つ浅木と財前の機転で納入は成功する。正規の製品のテストは合格する。かくして部品納入の危機は回避された。
 三上、須田に「会社を売れ」と、言わしたのは、帝国重工の本部長水原であった。それによって、佃製作所の持つ特許の買い取りを試みたのである。それは水原の最後の賭けであった。そして佃航平は自分の夢に賭けたのである。それはリスクを伴う賭けであった。かくして、水原の夢は佃航平の夢の前に潰え去ったのである。この時点で、水原は佃製作所の製品納入の希望を受け入れる決心をした。

 帝国重工による一連の品質試験に合格した佃製作所製のバブルは、帝国重工の新型水素エンジン「モノトーン」の燃焼実験という最終段階に入っていた。これは商品供給に道を開く最後にして最大の難関であった。この新型エンジンに佃製作所は約40種類、80個に及ぶバルブを供給していた。
 しかし、試験結果は失敗。

 『液体水素タンクの圧力を一定に保つ従バルブが作動しなかったことが原因であったと結論付けられます』。帝国重工側の幹部会での話である。
 佃製作所側の検証が始まる。入念な分解調査が行われる。その結果は異状なし。しかしバルブは正常に作動しなかった。それは厳然たる事実である。佃製作所側に異常が認められない以上、他の要因にまで調査範囲を広げることを佃航平は提言し、それは財前によって認められる。この結果次第では補償問題が浮上し、最悪の場合、部品供給の道は閉ざされる。
数日にわたる検証の結果、その原因は佃製作所側にではなく、帝国重工側にあった。その原因は「二酸化ケイ素粒子」のバルブ内部のフィルタへの付着であった。
かくして問題は解決する。本部長の水原は、財前の進言で、佃製作所のバルブの採用を決定する。
しかしここに2つの問題があった。
一つは、藤間社長の決裁であり、
二つ目は、仕切り直しの燃焼実験を成功させることであった。
「失敗すれば、そこでわが社の挑戦は終わる」「夢は消えてしまう」
帝国重工側の役員会が開かれ、財前と藤間社長との間の真剣な駆け引きが行われる。この結果「このバブルを搭載しよう。皆さんそれでよろしいな」
かくして、佃製作所のバルブの搭載は認められた。次は仕切り直しの実験の成功だけである。
実験は見事に成功。これでバルブの正規採用が決定。春を思わせる日差しの差し込む2月の朝のことであった。
「佃製作所品質と我々佃プライドに万歳」

後日談
この後佃製作所にとっては素晴らしい日々が続く
1、大口契約の締結
2、神谷修一弁護士の顧問弁護士化
3、高品質バルブの新たな使い道人工心臓への応用の可能性
 高品質バルブの特許を水素エンジンにのみ限定して埋蔵しておくのではなく、次世代の佃製作所を担う柱に育て、より汎用性の高いものにするには何をなすべきか?それが佃製作所のこれからの課題であった。
 それに対して一つ朗報がもたらされる。かつて佃製作所に反旗を翻し、背信行為をした真野からであった。退職し、佃航平の紹介で大学の研究員として働いていたのである。真野は言う「佃製作所の新バルブシステムの技術は人工心臓に応用できるはずです。考えてみてください--------」と。
 佃航平は山崎に電話をする「新しいビジネスが生まれるかもしれない」。

  エピローグ
 場所は種子島宇宙センター。展望台から遠くに見える射点に帝国重工の新型エンジン「モノトーン」を搭載したロケットが鎮座している。そのエンジンを制御するのは佃製作所のバルブである。
 「固定ロケット・ブースター点火」。轟音と共にロケットは舞い上がった。白い軌跡を描き成層圏に向かってロケットは飛び続けている。「第2エンジン点火」「ただ今、衛星の正常分離信号を確認しました」
 打ち上げ成功。
 大きな花束が、いつもはそっけのない娘=利菜から渡される。「おめでとう、パパ」「ありがとうよ、利菜」それは佃航平にとっては最高の贈り物であった。
 そこには仲の良い父娘の姿があった。

                   池井戸潤作 「下町ロケット」 小学館発行
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