日常一般

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書簡集8 テサロニケ人への手紙1

2019年10月19日 | Weblog
書簡集8 テサロニケ人への手紙Ⅰ
  はじめに
 パウロの書いた他の多くの書簡とは異なり、「本書簡」には、パウロによる目立った叱責はなく、テサロニケの教会員に対する愛と称賛の言葉にあふれている。それ故この書簡はピリピ人への手紙と並んで書簡集の中で最も心のこもったものと言われている。

 テサロニケの教会は、パウロが第2次伝道旅行の際に誕生した教会です。ここでパウロたちは宣教中に反キリストの勢力に追われコリントに逃れます。テサロニケにいた期間は短期間(約3週間)であったにもかかわらずテモテを通じて知ったテサロニケに関する知らせはとても良いものでした。とても成長していたのです。それは素晴らしいもので、他の教会に対し模範となっていたのです。しかし、同時に危うさも潜んでいたのです。それでパウロは自分の霊的な兄弟であるテモトを信仰の確認のためにテサロニケに送ったのです。テサロニケ人への手紙には、使徒パウロたちが、どのような福音を語ったのか、、そしてどのような面においてテサロニケの教会が模範的な教会になったかを知ることが出来ます。1、宣教の拡大、2、再臨、3、神の喜び、等々について語られます。
  再臨(the Second Advent): 世界の終末時にキリストが再びこの世にあらわれることを云う。この手紙においてパウロはイエス・キリストの再臨に重点を置いて語っている。この書の主題と言ってもよい。再臨の前のキリスト教徒の艱難(3:3)、再臨におけるキリスト教徒の復活(4:13~18)、キリスト再臨の時期(5:1~2)等々を語る。
 「私たちは主のみ言葉通り言いますが、主が再び来られる時(再臨)まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令とみ使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と出合うのです(携挙)。このようにして私たちは、いつまでも主と共にいることになります。こういうわけですから、この言葉をもって互いに慰め合いなさい(4:15~18)」。
 この書で再臨について語っているところを挙げてみる。
 1:10、「イエスが天から来られるのを待ち望むようになったか」、2:19、「私たちの主が再び来られるとき」、3:13、「私たちの主が自分のすべての聖徒と、ともに再び来られるとき、4:14~17:「主が再び来られるときまで」5:1、「兄弟たち。それら(再臨の日)がいつなのか」、5:23、「主イエスの来臨のとき、責められることのないように」
 テサロニケ:テサロニケは現在のギリシャ第2の規模の都市「テッサロニキ」を指す。紀元1世紀にはテサロニケはマケドニア王国の、エーゲ海に面した都市のひとつであった。この都市は、ピリピから約100km離れたところに位置していた。この都市は2つの特徴を持っていた。1、エーゲ海に面した良港に恵まれていたこと 2、ローマとアジアを東西に結ぶ主要幹線道路(エグナティオ街道)がこの都市を貫通していたことの2つである。良港と幹線道路の存在は、人の往来を盛んにし、当然の帰結として、古代ギリシャのマケドニア王国の中で、最も人口が多い商業都市として繁栄していた。この地には、かつてパウロの訪問によって教えを受けた聖徒たちが多く住んでいた。この地でパウロは福音宣教を行ったが、反キリストのユダヤ人たちに追放される。それゆえ短期間の宣教を余儀なくされた。落ち着いた地でも迫害され、コリントに逃れ、自らが立ち上げたテサロニケの教会の聖徒たちに手紙を送ったのである(使徒行伝参照)。
 内容構成

 各章ごとの説明
 第1章:あいさつ:パウロはすべての手紙でその冒頭に挨拶文を置く。この挨拶は3つに分かれる。1、著者 2、あて先 3、短い祈祷文である。
 著者:「パウロ、シルノワ、テモテから」とある。パウロが私たちと言うのはこの3人のことである。この3人の共同執筆と言うより、後の2人は、資料提供、編纂にかかわったものとおもわれる。著者はあくまでもパウロである。
 宛先:「父なる神および主イエスキリストにあるテサロニケ人を教会へ」。父なる神および主イエスキリストという枕詞もパウロの書簡集の決まり文句です。
 短い祈り:祈りの言葉も決まり文句です。「恵みと平安」を祈っています。
 テサロニケ人の信仰と模範
 あいさつの後には感謝の祈りがささげられる。私たち神の御前に、1、信仰の働き2、愛の労苦、3、主イエスキリストへの望みの忍耐、の3つ(1:3)である。この3つはそれぞれ連動している。信仰に伴う、人を真に愛することの苦難、それはイエスキリストが、再来されることを喜びとして忍耐強く待つことによって贖われる。
 かつて、パウロがテサロニケの教会を訪れたとき自身の行った福音により、テサロニケの教会員たちが、神を知るようになったことをパウロは、喜びをもって明らかにしている(1~4~6参照)。そして言う「あなたがたも苦難の中で、聖霊に喜びによって、御言葉を受け入れ、私たちと主とに、ならう者になりました。そしてあなたがたはマケドニアとアカヤとのすべての信者の模範となったのです(1:7)」と。
 ここにはキリストの極意の2つが語られている。すなわち1、主を知ること、2、異邦人に対する福音宣教の広がり、である。「テサロニケの神への信仰はあらゆるところに伝わっているので私は何も言わないでよいほどです(1:8)」と、パウロは言う「私たちを受け入れ、偶像を廃止して神に立ち返り、私たちを救い出して下さるイエスの再来を、あなたがたがどのように、待ち望むようになったか、それらのことを他の人々が言い広めているのです(1:9参照)」と。テサロニケの教会は内においても外においても模範的な教会であったことがわかる。
 第2章:パウロはテサロニケの聖徒たちに言う。「私たちがあなたがたのところに行ったことはむだではありませんでした(2:1)」と。無駄ではなかったということは一定の宣教効果があったことを意味している。パウロたちがテサロニケにいたのはわずかな期間であった。パウロたちはピリピに始まって移動した場所でも必ず迫害にあっている。それゆえテサロニケにいた期間もわずかであった。しかし、そのわずかな期間に、大胆に自由に宣教に努めたのである。ある場合には母のように優しさをもって、またある場合には父のように厳かさをもって。その結果「あなたがたは、私たちの愛するものとなり(2:8参照)、「ご自身の御国と栄光に召して下さる神にふさわしく歩む(2:12)」ことを願うようになったのである。福音宣教には母のような優しさと、父のもつ厳しさを必要とするのである。聖徒たちはこれを神の意志であり、神の言葉として受け入れなければならないのである。しかし、神の意志を自由に、かつ大胆に実行に移すには、その環境はあまりにも厳しかった。反キリスト者は、パウロたちが異邦人の救いについて語り、実行に移すのを妨げていた。このようにして反キリスト者は、いつも自分の罪を満たしていた。しかし神の怒りは彼らの上に望むであろう。とパウロはその希望を語る。
 パウロはコロサイの地から再度テサロニケの地を訪れたいと願っていた。しかしサタン(反キリスト者)がそれを妨げていた。サタンはイエスの再臨を恐れていたのである。イエスの再臨は自らの滅びであるとサタンは予知していたからである。それで、パウロは、自分の代わりにテモテをテサロニケに送ろうと決心したのである。
 第3章:パウロはテサロニケにおける、その滞在期間が短かったゆえに、その宣教活動が十分になされなかったのではないかと危惧していた。テサロニケが苦難の中にあって動揺しているのではないか、また自分たちの労苦が無駄になっているのではないかと確かめるために、テモテを自分の代わりにテサロニケに送ったのである。しかし、それは杞憂であった。テモテがテサロニケにおける信仰と愛について、よい知らせをもたらしてくれたからである。パウロは主に感謝し、イエスご自身が道を開いてテサロニケへの訪問を可能にしてくれるように祈る。「私たちはあなたがた(テサロニケ人)の顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています(3:10)」。ここに、パウロたちの異邦人伝道にかける力強い意志を感じることが出来る。
 第4章パウロはテサロニケの聖徒たちに自分の願いを告げ、こうあれと勧告する。願いとは神を喜ばせよ、ということであり、勧告とは神を喜ばすために歩め、ということである。パウロは言う「神は自分を喜ばすために私たちを選んだのであり、それは私たち聖徒を通じて、神のご計画を達成することを目的としているからである」と。「神のみ心は、あなたがたが清くなることです。「穢れを行わせるためではなく聖潔を得させるためです」。神のみ心に違わず、選ばれた民が歩むことこそ神の最大の喜びなのです。だから、み心に沿わずに歩む「神を知らない」異邦人を神は最も嫌われるのである。この時、テサロニケには、偽教師に代表される反キリストがあふれていた。パウロはこれらの敵と戦いながら、異邦人伝道に努めたのである。「イスラエルから全世界へ」パウロはテサロニケの聖徒たちに言う「「あなたたちこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちです」「実にマケドニアの兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています」「兄弟たち、どうか、ますます、そうであってください」。と、自分の身を清め神に喜ばれる人として、マケドニアの全土に「神のみ心を」伝えたテサロニケにパウロは絶大なる感謝を送る。ここには、異邦人伝道の効果がテサロニケを通じて「神を知らない異邦人」に伝えられたことが明らかにされている。ここには、主の2つの奥義が語られていることが判る。神のみ心に従うことと、異邦人伝道の2つである。さらに第3の奥義が語られる。それは主の再臨である。その時、私たち聖徒はいつまでも、主とともにいることになる。こういうわけですから、この言葉をもって互いに慰め会いなさい。(再臨については、すでに述べたので重複は避ける)。
 第5章:再臨の日はいつか、また、いかなる時に訪れるのか。それは、だれも知らない。神のみぞ知る、である。予告なしに突然襲うのである。これは神に対して義なるものか、不義なるものかに拘わらず訪れるのである。しかし闇を歩むものには滅びが、光の中を歩くものには救いが用意されている。「神は、私たちが、み怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです(5:9)」。だから主の再臨を慎み深く待て、主はいつも、あなたがたの傍らに立ちあなたたちと共に生きることを望んでいるのです。「ですから、あなたがたは、今しているようにたがいに励ましあい、互いに徳を高めあいなさい。そういう時が、主の再臨の時なのです。このとき「責められるところの無いように、あなたがたの霊、たましい、体が完全に守られますように、あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます(5:23参照)」。テサロニケはパウロたちの宣教によって堅く立ってはいたが、まだまだ未熟さを残していた。絶えず反キリストの誘惑の中にあった。悪魔は常に天使の姿をして現れる。だからこそパウロは言う。「すべてのことを見分け、本当に良いものを堅く守りなさい、悪はどんな悪も避けなさい(5:21)」そして最後にパウロはテサロニケに祈る「私たちの主イエス・キリストの恵みがあなたがたと共にありますように(5~28)」と。

 「おとぎ話はやめて」

 「人々は困窮し、死に瀕し、生態系は壊れる。私たちは絶滅を前にしている。なのに、あなたがたはお金と永続的経済成長と言う『おとぎ話』を語っている。よくもそんなことが!」目に涙を浮かべ、怒りで小さな体を震わせる少女の叫びに、国連本部の総会ホールは静まり返ったという。国連の「気候行動サミット」が地球温暖化の抑制を目指して,ニューヨークの国連本部で今月(9月)の23日に開かれた。その場所に、国連気候変動対策の機運を高めるため、若者世代の代表として招かれたスウエーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさん(16歳)がいた。彼女はホールを埋めた各国の首脳や閣僚に厳しい言葉を浴びせた。ドイツのメルケル首相は「気候変動と地球温暖化は人間によって引き起こされていることは疑いない」単なる自然現象ではない。それゆえに、人による、国際的取り組みの緊急性を訴えたという。 大人の世代の排出した温室効果ガスによって、深刻な被害を受けるのは、将来の世代である。「私たちの将来を奪わないで欲しい」とグレタさんは叫ぶ。大人の出したツケをなぜ若者が負わなければならないのか。今、「地球を救え」と訴える若者のデモが世界中で行われている。

 しかし、このような取り組みがある半面、このような取り組みに真っ向から反対する勢力も、また存在する。彼らは、温室効果ガスが生み出す人間の産業活動が、気候変動に影響を与えているという、科学的定説に異議を唱える。彼らは、当然「気候行動サミット」の存在意義を否定する。彼らは、石油メジャーなどから多額の寄付を受けているとされるシンクタンク(頭脳集団)「ハートランド研究所(米イリノイ州)」の科学者たちである。彼らは教育現場にも介入し「化学燃料の使用が地球の気候に影響を与えているいるという科学的根拠はない」とか「北極圏の氷の融解は、異常なペースでは起きていない」など学界の定説を片っ端から否定する。彼らは懐疑派と呼ばれている。しかし、それは科学的根拠に基づいたものと言うより、ある種の利益集団の意向を汲んで、科学的な装いをこらしているにすぎない。そこには今が、将来を決定するという危機感はない。あるのは目の前に横たわる利益だけである。「この国では気候変動は政治的なものになってしまっている」と、米国の高校で「地球科学」を教えているキルステン・ミルクス博士は言う。
 なぜ、長々と一見、聖書とは無関係なことを宣べたのか。それはパウロが異邦人伝道を行うにあたって、必ずぶつかった壁、それが偽教師だったからである。彼らは意識的、無意識的に過ちを教え、あたかも真実かのように、民を偽っていたのである。まさに懐疑派である。パウロの異邦人伝道はまさにこの偽教師たちとの戦いであった。パウロは言う「過ちから目をそむけよ、真の神に従え」と。2000年前の現実が、まさに、今、現在、この地に起こっているのである。
 (この文章は毎日新聞(朝刊)9月25日(水)の記事をもとに作成しました)。
令和元年10月8日(火)報告者 守武 戢 楽庵会