この作品「白痴」は19世紀後半のペテルブルグ(現在のレニングラード)を舞台にし、スイスの療養所から「病=癲癇」の治療を終えて戻ってきた青年公爵ムイシュキンを中心に、無法者ロゴージン、運命に辱めながらも、誇り高く生きる、ナスターシャ、貴族の娘で汚れを知らぬお嬢さん育ちゆえに我儘なアルラーヤ等々、様々な登場人物が、偽善、粗暴、エゴイズムの渦巻くペテルブルグという都会の中で、2つの三角関係(1、ムイシュキンをめぐるナスターシャとアグラーヤの、2、ナスターシャをめぐるムイシュキンとロゴージンの)の中で展開していく愛憎劇である。これらの人々はお互いに愛しながらも、その愛の表現方法を知らず、嫉妬や誤解、気持ちのすれ違いの中で、自分の気持ちに素直になれず、屈折した愛情表現しか出来ない。ムイシュキンとロゴージンの間を揺れ動くナスターシャ、アグラーヤとナスターシャの間を揺れ動くムイシュキン。ナスターシャ一筋のロゴージン。最終的にはムイシュキンに対する嫉妬と、ナスターシャに対する独占欲ゆえにロゴージンは最愛の愛人ナスターシャを殺害する。その衝撃に耐える事が出来ずムイシュキンは病を再発して、廃人となる。再びスイスの療養所に送られる。悲劇によって物語りは終了する。
この作品『白痴』は「世界で最高の恋愛小説」といわれており、恋する男女の複雑かつ微妙な心理が克明に描かれている。さらに、精神愛とは何か、肉体愛とは何か、という愛の根本問題にもふれる問題作でもある。これについては後述する。
これと同名の映画『白痴』を黒澤明監督が作成している。舞台は終戦直後の北海道。ムイシュキンを森雅之が、ロゴージンを三船敏郎が、ナスターシャを原節子が、アグラーヤを久我美子が演じていた。ベテラン女優原節子はこの時31歳、これに対してまだ新人女優の域を出ない久我美子は20歳。黒の衣装に身を包み、その情熱を内に秘めた妖艶な美しさを示す原節子、これとは対称的に若さあふれた美しさを見せる久我美子、ベテラン原にたいして堂々たる演技力を見せていた。そこには将来の大物女優の片鱗があった。二人の対決は鬼気迫るものがあり、原作以上の迫力があった。
ドストエフスキーの執筆目的は「真に美しい人間」として、ムイシュキンを創造することにあったと言われている。「真に美しい人間」とはいかなる人間か?キリストとドンキホーテを視野に入れ、これに「癲癇」という病を付け加えている。歴史上多くの聖人が癲癇の発作中に預言をしている。
あらゆることを真摯に受け止め、人を疑うことを知らない、その精神の美しさを示すキリスト、さらにその純真さゆえに風車に突進していくドンキホーテ、それに「癲癇」の病。これら3つのものを体言しているムイシュキンを聖なる証としてドストエフスキーは考え、「真に美しい人間」として描いたのである。それゆえに周囲から少し軽く見られ「白痴(バカ)」と呼ばれながらもムイシュキンは皆から好意と愛情を持って遇せられ、愛すべき人格者として周囲の人々を魅了していく。
しかしこのように無垢で、汚れを知らぬ神のような人=ムイシュキンが穢れきった、策謀渦巻く都会=ペテルブルグで生きていけるであろうか?彼の周囲で繰り広げられる俗物たちのドタバタ劇や、複雑で奇怪な男女関係の中でその精神はかき乱されていく。その結果、ロゴージンによるナスターシャの殺害という惨劇によって、彼の繊細な精神は完全に狂わされ、病を再発して廃人となる。「真に美しい人間」とは人が目指す理想であり、現実には存在し得ないのである。
この作品「白痴」は極めて謎に満ちた作品である。
第2の主人公として現れるナスターシャは、自分の誕生日に呼ばれもしないのに現れたムイシュキンに不思議な魅力を感じ、その価値を最初に認める人となる。そして愛情を感じる。しかし自分の過去を恥じ(幼くして資産家トーッツキイの養女になり長じてその妾にされる。家庭教師のもと高い教育を授けられる。一方ナスターシャは自由奔放に生き「高級娼婦」とまで噂される)自分のような女にはムイシュキンのような、まだ坊やで邪気のない神のような人とは一緒にはなれないと、その結婚の申し込みを拒否し、その場に居合わせた人の中から、10万ルーぶりで自分を競り落としたロゴージンとともにその場を去っていく。一方ムイシュキンは結婚の申し出を拒否されたとはいえ、運命に翻弄されながらも誇り高く生きるナスターシャの美しさに魅了され憐憫の情を抱く。しかしそれが愛情の変形であることに気づかない。
他方、ムイシュキンは遠縁に当たるエパンチン将軍一家の末娘アグラーヤにも惹かれていく。しかしその気まぐれな分裂し、屈折した愛情表現には翻弄される。しかしその彼女もムイシュキンの純粋な汚れを知らぬ神のような性格には惹かれていく。エパンチン将軍とその妻エリザベータは彼に好意を持ちつつも、彼と娘アグラーヤとの結婚には癲癇という持病を持つムイシュキンとの結婚生活を危惧して賛成は出来ない。しかし娘の熱意に負けて婚約を許す。一方ナスタシャーは二人の婚約以前からアグラーヤに手紙を送りムイシュキンと早く結婚せよと迫る。そうすれば私もロゴージンと結婚すると書き送る。しかしアグラーヤはナスターシャの真の心を知り、その偽善に怒りを感じる。アグラーヤはムイシュキンの心を確かめる為にナスターシャのもとを訪れる。そこにはムイシュキンとロゴージンの二人がいた。アグラーヤとナスターシャは対決する。「あなたは嘘つきだ」と、アグラーヤは叫ぶ。そんなアグラーヤに対して、ナスターシャは本心を露にして「私か、アグラーヤかどちらかを選べ」とムイシュキンに迫る。ムイシュキンには一瞬のためらいがあった。そのためらいを誇り高きアグラーヤには許す事が出来なかった。いきなり部屋から飛び出していく。後を追うムイシュキン。しかしそれを止めたのはナスターシャであった。「あの娘をとるの!、あの娘を取るの?」と彼を抱きしめ、意識を失ッて彼の胸の中に倒れこむ。彼は優しく彼女を抱きしめる。
その結果ムイシュキンとアグラーヤの婚約は破棄され、エパンチン家の出入りは禁止される。
ムイシュキンとナスターシャとは結婚することになる。幸せな日々が続く。しかし、結婚式当日、式場に現れたロゴージンを見つけたナスターシャは、彼のもとに駆け寄り「私を助けて頂戴、わたしを連れてって頂戴、どこでもいいから、今すぐに」ナスターシャはロゴージンと共に消えていく。ムイシュキンがナスターシャを求め、探し当てたロゴージンの家で見たものは、ロゴージンによって刺し殺されたナスターシャの遺体であった。
ナスターシャの遺体の前でロゴージンはムイシュキンにいう。「これでナスターシャはおれ達ものになったのだ」と。二人は遺体の前で一夜を明かす。
ムイシュキンは廃人となり、ロゴージンは15年の流刑となり、シベリア送りとなる。アグラーヤは亡命ポーランド人と結婚するが不幸な結婚生活を送る。
先に私は、この作品は極めて謎に満ちた作品であると述べたが、そこには3つの謎がある。その一つは何故ムイシュキンは婚約までしていたアグラーヤを捨てたのか?第2はムイシュキンをアグラーヤと争ってまで獲得し、結婚式までこぎつけたのに、ナスターシャは何故ロゴージンのもとに走ったのか?最後の謎は何故ロゴージンは最愛の愛人ナスターシャを殺害したのか?というものである。
ドストエフスキーはその謎の回答を示していないので、私なりの回答を示すことにする。
第1の謎に対する回答 ムイシュキンはナスターシャに対して憐憫の情を抱いており、それが愛情の変形であることを理解しておらず、結局二人の女性を愛してしまったのである。だからきっかけさえあれば、どちらにも傾く可能性があったといえよう。
2の謎に対する回答 神のように純粋で、汚れを知らない人=ムイシュキン、そんな人間と普通の女性は息苦しくて一緒に生きてはいけないのである。更にムイシュキン自身、自分は持病持ちで結婚には耐えれない体だし、まだ女性を知らないと告白しているのである。おそらく、ムイシュキンとナスターシャの間には性的関係はなかったのであろう。トッツキイによって開花され、ローゴジンによって鍛えられたsexlifeがムイシュキンによっては閉ざされていたとしたら、ナスターシャにとって到底耐えれなかったであろう。それゆえにsexlifeに富んだロゴージンのもとに走ったと考えられないだろうか?
第3の謎に対する回答 ロゴージンによるsexlifeには満足できても、精神愛に富むムイシュキンをナスターシャは忘れる事は出来なかったのであろう。それを知ったロゴージンはムイシュキンに対する嫉妬心とナスターシャに対する独占欲から彼女を殺害したと考えるのが順当であろう。
精神愛と肉体愛、その両者が一つになったとき、初めて愛の生活は完結するのである。それが神が与え賜うた人間愛なのである。ナスターシャの遺体の前でロゴージンは叫ぶ「これで彼女は俺達のものになった」と。ロゴージンとムイシュキンは二人合わせて一体だったのである。
東京外国大学の亀山郁夫氏は、ムイシュキン、ロゴージン、ナスターシャの3人は童貞と処女であり3人の間には精神愛しか無かった。とその著書「ドストエフスキー 謎の力」(文芸新書)の中で述べているが、ムイシュキンはともかくとしてロゴージンを宗教上の「去勢派」の一人であって、幼い頃に去勢されており性的能力は無かったといい、ナスターシャを処女であったと言うに至っては「白痴」を本当に読んだのだろうかと疑ってしまう。ロゴージンが「去勢派」の一人であったなどとは本文の中にはどこにも書かれていない。ナスターシャにいたっては養女となり長じてトッツキイの妾になった、と、はっきり書かれており、トッツキイはそのための賠償金まで用意しているのである。ナスターシャ自身もそれを認めているのである。ロゴージンには性的能力が無かったというに至っては生理学的に言ってもおかしいのである。去勢された動物は人間でも、猫でも犬でも中性的になり異性に対する興味を失うのである。ローマ法王の中には性的煩悩から自らを解放する為に去勢するものもいると言う。ロゴージンのような、たくましい男は存在し得ないのである。亀山氏には最初に自分の意見アリで、本文中都合の良いところだけを抜き出して作品を歪曲しているのである。『白痴』は人間愛とは何かと問う作品であり、この観点を見失ったとき『白痴』という作品の中で揺れ動く男女の行動の謎を解き明かすことは出来ないのである。
『白痴』 ドストエフスキー作、木村浩訳 上・下巻 新潮文庫
この作品『白痴』は「世界で最高の恋愛小説」といわれており、恋する男女の複雑かつ微妙な心理が克明に描かれている。さらに、精神愛とは何か、肉体愛とは何か、という愛の根本問題にもふれる問題作でもある。これについては後述する。
これと同名の映画『白痴』を黒澤明監督が作成している。舞台は終戦直後の北海道。ムイシュキンを森雅之が、ロゴージンを三船敏郎が、ナスターシャを原節子が、アグラーヤを久我美子が演じていた。ベテラン女優原節子はこの時31歳、これに対してまだ新人女優の域を出ない久我美子は20歳。黒の衣装に身を包み、その情熱を内に秘めた妖艶な美しさを示す原節子、これとは対称的に若さあふれた美しさを見せる久我美子、ベテラン原にたいして堂々たる演技力を見せていた。そこには将来の大物女優の片鱗があった。二人の対決は鬼気迫るものがあり、原作以上の迫力があった。
ドストエフスキーの執筆目的は「真に美しい人間」として、ムイシュキンを創造することにあったと言われている。「真に美しい人間」とはいかなる人間か?キリストとドンキホーテを視野に入れ、これに「癲癇」という病を付け加えている。歴史上多くの聖人が癲癇の発作中に預言をしている。
あらゆることを真摯に受け止め、人を疑うことを知らない、その精神の美しさを示すキリスト、さらにその純真さゆえに風車に突進していくドンキホーテ、それに「癲癇」の病。これら3つのものを体言しているムイシュキンを聖なる証としてドストエフスキーは考え、「真に美しい人間」として描いたのである。それゆえに周囲から少し軽く見られ「白痴(バカ)」と呼ばれながらもムイシュキンは皆から好意と愛情を持って遇せられ、愛すべき人格者として周囲の人々を魅了していく。
しかしこのように無垢で、汚れを知らぬ神のような人=ムイシュキンが穢れきった、策謀渦巻く都会=ペテルブルグで生きていけるであろうか?彼の周囲で繰り広げられる俗物たちのドタバタ劇や、複雑で奇怪な男女関係の中でその精神はかき乱されていく。その結果、ロゴージンによるナスターシャの殺害という惨劇によって、彼の繊細な精神は完全に狂わされ、病を再発して廃人となる。「真に美しい人間」とは人が目指す理想であり、現実には存在し得ないのである。
この作品「白痴」は極めて謎に満ちた作品である。
第2の主人公として現れるナスターシャは、自分の誕生日に呼ばれもしないのに現れたムイシュキンに不思議な魅力を感じ、その価値を最初に認める人となる。そして愛情を感じる。しかし自分の過去を恥じ(幼くして資産家トーッツキイの養女になり長じてその妾にされる。家庭教師のもと高い教育を授けられる。一方ナスターシャは自由奔放に生き「高級娼婦」とまで噂される)自分のような女にはムイシュキンのような、まだ坊やで邪気のない神のような人とは一緒にはなれないと、その結婚の申し込みを拒否し、その場に居合わせた人の中から、10万ルーぶりで自分を競り落としたロゴージンとともにその場を去っていく。一方ムイシュキンは結婚の申し出を拒否されたとはいえ、運命に翻弄されながらも誇り高く生きるナスターシャの美しさに魅了され憐憫の情を抱く。しかしそれが愛情の変形であることに気づかない。
他方、ムイシュキンは遠縁に当たるエパンチン将軍一家の末娘アグラーヤにも惹かれていく。しかしその気まぐれな分裂し、屈折した愛情表現には翻弄される。しかしその彼女もムイシュキンの純粋な汚れを知らぬ神のような性格には惹かれていく。エパンチン将軍とその妻エリザベータは彼に好意を持ちつつも、彼と娘アグラーヤとの結婚には癲癇という持病を持つムイシュキンとの結婚生活を危惧して賛成は出来ない。しかし娘の熱意に負けて婚約を許す。一方ナスタシャーは二人の婚約以前からアグラーヤに手紙を送りムイシュキンと早く結婚せよと迫る。そうすれば私もロゴージンと結婚すると書き送る。しかしアグラーヤはナスターシャの真の心を知り、その偽善に怒りを感じる。アグラーヤはムイシュキンの心を確かめる為にナスターシャのもとを訪れる。そこにはムイシュキンとロゴージンの二人がいた。アグラーヤとナスターシャは対決する。「あなたは嘘つきだ」と、アグラーヤは叫ぶ。そんなアグラーヤに対して、ナスターシャは本心を露にして「私か、アグラーヤかどちらかを選べ」とムイシュキンに迫る。ムイシュキンには一瞬のためらいがあった。そのためらいを誇り高きアグラーヤには許す事が出来なかった。いきなり部屋から飛び出していく。後を追うムイシュキン。しかしそれを止めたのはナスターシャであった。「あの娘をとるの!、あの娘を取るの?」と彼を抱きしめ、意識を失ッて彼の胸の中に倒れこむ。彼は優しく彼女を抱きしめる。
その結果ムイシュキンとアグラーヤの婚約は破棄され、エパンチン家の出入りは禁止される。
ムイシュキンとナスターシャとは結婚することになる。幸せな日々が続く。しかし、結婚式当日、式場に現れたロゴージンを見つけたナスターシャは、彼のもとに駆け寄り「私を助けて頂戴、わたしを連れてって頂戴、どこでもいいから、今すぐに」ナスターシャはロゴージンと共に消えていく。ムイシュキンがナスターシャを求め、探し当てたロゴージンの家で見たものは、ロゴージンによって刺し殺されたナスターシャの遺体であった。
ナスターシャの遺体の前でロゴージンはムイシュキンにいう。「これでナスターシャはおれ達ものになったのだ」と。二人は遺体の前で一夜を明かす。
ムイシュキンは廃人となり、ロゴージンは15年の流刑となり、シベリア送りとなる。アグラーヤは亡命ポーランド人と結婚するが不幸な結婚生活を送る。
先に私は、この作品は極めて謎に満ちた作品であると述べたが、そこには3つの謎がある。その一つは何故ムイシュキンは婚約までしていたアグラーヤを捨てたのか?第2はムイシュキンをアグラーヤと争ってまで獲得し、結婚式までこぎつけたのに、ナスターシャは何故ロゴージンのもとに走ったのか?最後の謎は何故ロゴージンは最愛の愛人ナスターシャを殺害したのか?というものである。
ドストエフスキーはその謎の回答を示していないので、私なりの回答を示すことにする。
第1の謎に対する回答 ムイシュキンはナスターシャに対して憐憫の情を抱いており、それが愛情の変形であることを理解しておらず、結局二人の女性を愛してしまったのである。だからきっかけさえあれば、どちらにも傾く可能性があったといえよう。
2の謎に対する回答 神のように純粋で、汚れを知らない人=ムイシュキン、そんな人間と普通の女性は息苦しくて一緒に生きてはいけないのである。更にムイシュキン自身、自分は持病持ちで結婚には耐えれない体だし、まだ女性を知らないと告白しているのである。おそらく、ムイシュキンとナスターシャの間には性的関係はなかったのであろう。トッツキイによって開花され、ローゴジンによって鍛えられたsexlifeがムイシュキンによっては閉ざされていたとしたら、ナスターシャにとって到底耐えれなかったであろう。それゆえにsexlifeに富んだロゴージンのもとに走ったと考えられないだろうか?
第3の謎に対する回答 ロゴージンによるsexlifeには満足できても、精神愛に富むムイシュキンをナスターシャは忘れる事は出来なかったのであろう。それを知ったロゴージンはムイシュキンに対する嫉妬心とナスターシャに対する独占欲から彼女を殺害したと考えるのが順当であろう。
精神愛と肉体愛、その両者が一つになったとき、初めて愛の生活は完結するのである。それが神が与え賜うた人間愛なのである。ナスターシャの遺体の前でロゴージンは叫ぶ「これで彼女は俺達のものになった」と。ロゴージンとムイシュキンは二人合わせて一体だったのである。
東京外国大学の亀山郁夫氏は、ムイシュキン、ロゴージン、ナスターシャの3人は童貞と処女であり3人の間には精神愛しか無かった。とその著書「ドストエフスキー 謎の力」(文芸新書)の中で述べているが、ムイシュキンはともかくとしてロゴージンを宗教上の「去勢派」の一人であって、幼い頃に去勢されており性的能力は無かったといい、ナスターシャを処女であったと言うに至っては「白痴」を本当に読んだのだろうかと疑ってしまう。ロゴージンが「去勢派」の一人であったなどとは本文の中にはどこにも書かれていない。ナスターシャにいたっては養女となり長じてトッツキイの妾になった、と、はっきり書かれており、トッツキイはそのための賠償金まで用意しているのである。ナスターシャ自身もそれを認めているのである。ロゴージンには性的能力が無かったというに至っては生理学的に言ってもおかしいのである。去勢された動物は人間でも、猫でも犬でも中性的になり異性に対する興味を失うのである。ローマ法王の中には性的煩悩から自らを解放する為に去勢するものもいると言う。ロゴージンのような、たくましい男は存在し得ないのである。亀山氏には最初に自分の意見アリで、本文中都合の良いところだけを抜き出して作品を歪曲しているのである。『白痴』は人間愛とは何かと問う作品であり、この観点を見失ったとき『白痴』という作品の中で揺れ動く男女の行動の謎を解き明かすことは出来ないのである。
『白痴』 ドストエフスキー作、木村浩訳 上・下巻 新潮文庫