書簡集21 ユダの手紙 背教とは
「ユダ書」は新約聖書の正典中の、公道書簡に分類される手紙の一つです。わずか25節の短い書簡であり、異端に対して厳しい批判を展開する(本書簡は、その内容のすべてが、背教について書かれている聖書中の唯一の書です)と共に、聖徒に正しい信仰を守ることを勧めています。書簡集の最後を飾ります。
はじめに:
1、誰が書いたのか:イエス・キリストの異父兄弟である、ユダ(1節、マタイ13:55、マルコ:6:3)であると理解されています。これには疑問を提出するものも多くいます。
2、誰に対して書かれたのか:「父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている召された方々へ(1節)」。
3、いつ書かれたのか:本書簡は「Ⅱペテロ2章」と強い関連性を持っています。したがって本書簡の執筆年代は、本書簡が「Ⅱペテロ2章」を引用したのか、それとも、その反対なのかによって変わってきます。それゆえ、AD60-80年の間と、その幅は広がります。
4、なぜ書かれたのか:ユダはこの手紙を書く理由を「ある人々がひそかに忍び込んできたからです(4節)」と述べています。ある人々とは「私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです(4節)」要するに反キリストのことです。それゆえにユダは信仰のために戦えと「召された人々」に、命じています。召された人々であり、すべてのことを知っているとはいえ、「私は、あなたがたに思い出させたいことがあるのです(5節)」とユダは信仰に立ち返れと強く勧めています。それがこの書簡が書かれた理由です。
5、書かれた背景:西暦1世紀以来キリストの教えは聖書に相反する教えや、偽りの教えに脅かされ続けていました。教会の内部では、背教が、外部では異端がキリストの教えと敵対していたのです。教会はこの誤った教えと戦うことが運命づけられていました。なぜなら異端(背教)はキリストの基本的な教えと異なることを教えながら、自らをキリスト者であると主張していたからです。
6、偽教師たちがしていることと、その裁き:ユダは現在の背教について語る前に、過去に起こった背教を思い出せと旧約聖書の中からその例を示します(5-7)。
① エジプトからイスラエルの民を救い出した神はそのつながりでモーセにシナイの丘で戒律を与えます。しかしその間にアロンは地上で偶像を作り神に逆らいます。偶像を作った人々は神によって滅ぼされます。
② 天使のかしらであったルシファーは、神に逆らい、地上に堕とされ悪魔となります(堕天使)。神はこれを大いなる裁きをもって、暗闇の中に閉じ込めます。
③ 好色にふけり、肉欲を追い求めたソドムとゴモラの町は、焼かれて、後の世の見せしめにされました。
このように、旧約聖書で示された背教は、すべて滅ぼされ、見せしめにされました。それにも拘わらず、その滅びの見本は生かされることなく、続いています(8-16)。今日の背教者を「この人たち」とユダは呼んでいます。今日の背教を語る場合もユダは旧約聖書の背教者の名を挙げて語ります。モーセが、カインが、バラムが、コラが今日の背教者の滅びの見本として語られています。「この人たち」は愛餐のしみと語られています。真っ暗な闇が彼らに永遠に用意されています。これらの背教者は、結局は罪が定められ、さばかれることになります。
上記と同じことが「Ⅱペテロ2章」で語られています。
7、概 説:この書簡は、ユダから「召された人々」に宛てて書かれました。教会の中に反キリストが忍び込み、本来の信仰の妨害を図っていたからです。旧約聖書に現れた背教、新約聖書に現れた背教が語られます。「召された人々=ユダヤ人キリスト者」に信仰と従順の大切さを教えています。「終わりの時」に主をあざけるものが現れます。教会に混乱をもたらします。これに対抗するものは主のあわれみだけです。それゆえに、ユダは聖徒たち(召された人)に正しい信仰を守るように勧めています。主に栄光あれ。
ユダ書の重要個所:
3-4節:「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしてきましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うように、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。ある人々がひそんできたからです」。
17-19節:「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことを思い出してください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には自分の不敬虔な欲望のままに振る舞うあざける者どもが現れる』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です」。
14-15節:「アダムから7代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れてこられる。すべてのものに裁きを行い、不敬虔の者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪びとどもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて彼らを罪に定めるためである』」。
20-21節:しかし、愛する人々よ、あなたがたは、自分のもっている最も聖い信仰の上に、自分自信を築き上げ聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
24-25節:「あなたがたをつまずかないように守ることが出来、傷の無い者として、大きな喜びをもって栄光のみ前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に栄光・尊厳・支配・権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々世限りなくありますように。 アーメン
言 葉
グノーシス主義:グノーシス主義はキリスト教の異端思想の一つとして考えられています。しかしその具体的名前は本書間にも「ヨハネ書1,2,3」にも出てきません。おそらく、異端思想としてその名前は、定着していなかったものと思われます。しかしその内容は具体的です。 グノーシス主義とは、善と悪、真の神と偽の神、霊魂と物質、という二元論が、その基本的な世界観です。悪の世界は物質から構成されているので、物質は悪と判断されます。物質で造られている肉体もしかりです。他方、「霊」あるいは「イデア―」は真の存在であり、真の世界であるとみなされます。その結果人として遣わされたイエスは神ではなくなります。イエス・キリストの2性(神であり、人である)は否定されます。イエスは創造者ではなく、被造物です。イエスの十字架上での死は、我々の罪の贖いではなくなります。3位1体の神は否定され、それゆえキリストの教えは否定されます。
物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して二つの対極的な立場が現れます。一つは禁欲的な生き方であり、二つは、放縦となって現れます。霊は肉体とは別存在なので、肉体において犯した罪悪の影響を受けない、という論理のもとに不道徳をほしいままにするタイプです。ユダはこの不道徳者を指し「私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者たるイエス・キリストを否定する人たちです」と述べています。また「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな神からのものです」「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。今それが世に来ているのです(ヨハネⅠ,4:2-3)」。グノーシス主義者の存在に対してユダは警告を発しています。
愛餐について:本書簡には「愛餐のしみ」という言葉が出てきます。
愛餐とはイエス・キリストを信じる者同士が、信仰と愛と希望とを分ちあいつつ、共にした食事のことを指します。特に初代教会の時代には、聖餐式と密接に関係を保ちつつ盛んにおこなわれたと言われています。また、これは、貧しい人々や、やもめたちに対する援助も念頭に置いた食事でもあったのです。この美しく、愛に満ちた慣習は、旧約聖書の時代、新約聖書の時代にも盛んに行われていました。それは、愛のもてなしであり、また神への感謝の気持ちの表れでした。
時代の経過に連れて聖餐式と結びついていた愛餐は、最終的には分離し、個別に行われるようになります。また不純な要素が入り込み愛餐が愛餐ではなくなり、これが、過食、酩酊、自己中心になるという、愛餐を破壊する偽教師の出現を見るという否定的要素が現れます。現代においても、様々な形態をとりながらも、愛餐は続いています。我が日野教会においても食事会、「子ども食堂」などの愛餐は行われています。神の恵みが、この愛餐の上に豊かに注がれますようにイエス・キリストの名のもとに祈ります。
「ユダ書」は新約聖書の正典中の、公道書簡に分類される手紙の一つです。わずか25節の短い書簡であり、異端に対して厳しい批判を展開する(本書簡は、その内容のすべてが、背教について書かれている聖書中の唯一の書です)と共に、聖徒に正しい信仰を守ることを勧めています。書簡集の最後を飾ります。
はじめに:
1、誰が書いたのか:イエス・キリストの異父兄弟である、ユダ(1節、マタイ13:55、マルコ:6:3)であると理解されています。これには疑問を提出するものも多くいます。
2、誰に対して書かれたのか:「父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている召された方々へ(1節)」。
3、いつ書かれたのか:本書簡は「Ⅱペテロ2章」と強い関連性を持っています。したがって本書簡の執筆年代は、本書簡が「Ⅱペテロ2章」を引用したのか、それとも、その反対なのかによって変わってきます。それゆえ、AD60-80年の間と、その幅は広がります。
4、なぜ書かれたのか:ユダはこの手紙を書く理由を「ある人々がひそかに忍び込んできたからです(4節)」と述べています。ある人々とは「私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです(4節)」要するに反キリストのことです。それゆえにユダは信仰のために戦えと「召された人々」に、命じています。召された人々であり、すべてのことを知っているとはいえ、「私は、あなたがたに思い出させたいことがあるのです(5節)」とユダは信仰に立ち返れと強く勧めています。それがこの書簡が書かれた理由です。
5、書かれた背景:西暦1世紀以来キリストの教えは聖書に相反する教えや、偽りの教えに脅かされ続けていました。教会の内部では、背教が、外部では異端がキリストの教えと敵対していたのです。教会はこの誤った教えと戦うことが運命づけられていました。なぜなら異端(背教)はキリストの基本的な教えと異なることを教えながら、自らをキリスト者であると主張していたからです。
6、偽教師たちがしていることと、その裁き:ユダは現在の背教について語る前に、過去に起こった背教を思い出せと旧約聖書の中からその例を示します(5-7)。
① エジプトからイスラエルの民を救い出した神はそのつながりでモーセにシナイの丘で戒律を与えます。しかしその間にアロンは地上で偶像を作り神に逆らいます。偶像を作った人々は神によって滅ぼされます。
② 天使のかしらであったルシファーは、神に逆らい、地上に堕とされ悪魔となります(堕天使)。神はこれを大いなる裁きをもって、暗闇の中に閉じ込めます。
③ 好色にふけり、肉欲を追い求めたソドムとゴモラの町は、焼かれて、後の世の見せしめにされました。
このように、旧約聖書で示された背教は、すべて滅ぼされ、見せしめにされました。それにも拘わらず、その滅びの見本は生かされることなく、続いています(8-16)。今日の背教者を「この人たち」とユダは呼んでいます。今日の背教を語る場合もユダは旧約聖書の背教者の名を挙げて語ります。モーセが、カインが、バラムが、コラが今日の背教者の滅びの見本として語られています。「この人たち」は愛餐のしみと語られています。真っ暗な闇が彼らに永遠に用意されています。これらの背教者は、結局は罪が定められ、さばかれることになります。
上記と同じことが「Ⅱペテロ2章」で語られています。
7、概 説:この書簡は、ユダから「召された人々」に宛てて書かれました。教会の中に反キリストが忍び込み、本来の信仰の妨害を図っていたからです。旧約聖書に現れた背教、新約聖書に現れた背教が語られます。「召された人々=ユダヤ人キリスト者」に信仰と従順の大切さを教えています。「終わりの時」に主をあざけるものが現れます。教会に混乱をもたらします。これに対抗するものは主のあわれみだけです。それゆえに、ユダは聖徒たち(召された人)に正しい信仰を守るように勧めています。主に栄光あれ。
ユダ書の重要個所:
3-4節:「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしてきましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うように、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。ある人々がひそんできたからです」。
17-19節:「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことを思い出してください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には自分の不敬虔な欲望のままに振る舞うあざける者どもが現れる』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です」。
14-15節:「アダムから7代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れてこられる。すべてのものに裁きを行い、不敬虔の者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪びとどもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて彼らを罪に定めるためである』」。
20-21節:しかし、愛する人々よ、あなたがたは、自分のもっている最も聖い信仰の上に、自分自信を築き上げ聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
24-25節:「あなたがたをつまずかないように守ることが出来、傷の無い者として、大きな喜びをもって栄光のみ前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に栄光・尊厳・支配・権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々世限りなくありますように。 アーメン
言 葉
グノーシス主義:グノーシス主義はキリスト教の異端思想の一つとして考えられています。しかしその具体的名前は本書間にも「ヨハネ書1,2,3」にも出てきません。おそらく、異端思想としてその名前は、定着していなかったものと思われます。しかしその内容は具体的です。 グノーシス主義とは、善と悪、真の神と偽の神、霊魂と物質、という二元論が、その基本的な世界観です。悪の世界は物質から構成されているので、物質は悪と判断されます。物質で造られている肉体もしかりです。他方、「霊」あるいは「イデア―」は真の存在であり、真の世界であるとみなされます。その結果人として遣わされたイエスは神ではなくなります。イエス・キリストの2性(神であり、人である)は否定されます。イエスは創造者ではなく、被造物です。イエスの十字架上での死は、我々の罪の贖いではなくなります。3位1体の神は否定され、それゆえキリストの教えは否定されます。
物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して二つの対極的な立場が現れます。一つは禁欲的な生き方であり、二つは、放縦となって現れます。霊は肉体とは別存在なので、肉体において犯した罪悪の影響を受けない、という論理のもとに不道徳をほしいままにするタイプです。ユダはこの不道徳者を指し「私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者たるイエス・キリストを否定する人たちです」と述べています。また「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな神からのものです」「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。今それが世に来ているのです(ヨハネⅠ,4:2-3)」。グノーシス主義者の存在に対してユダは警告を発しています。
愛餐について:本書簡には「愛餐のしみ」という言葉が出てきます。
愛餐とはイエス・キリストを信じる者同士が、信仰と愛と希望とを分ちあいつつ、共にした食事のことを指します。特に初代教会の時代には、聖餐式と密接に関係を保ちつつ盛んにおこなわれたと言われています。また、これは、貧しい人々や、やもめたちに対する援助も念頭に置いた食事でもあったのです。この美しく、愛に満ちた慣習は、旧約聖書の時代、新約聖書の時代にも盛んに行われていました。それは、愛のもてなしであり、また神への感謝の気持ちの表れでした。
時代の経過に連れて聖餐式と結びついていた愛餐は、最終的には分離し、個別に行われるようになります。また不純な要素が入り込み愛餐が愛餐ではなくなり、これが、過食、酩酊、自己中心になるという、愛餐を破壊する偽教師の出現を見るという否定的要素が現れます。現代においても、様々な形態をとりながらも、愛餐は続いています。我が日野教会においても食事会、「子ども食堂」などの愛餐は行われています。神の恵みが、この愛餐の上に豊かに注がれますようにイエス・キリストの名のもとに祈ります。
令和2年9月8日 報告者 守武 戢 楽庵会