日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

書簡集21 ユダの手紙 背教とは

2020年09月21日 | Weblog
書簡集21 ユダの手紙 背教とは
 「ユダ書」は新約聖書の正典中の、公道書簡に分類される手紙の一つです。わずか25節の短い書簡であり、異端に対して厳しい批判を展開する(本書簡は、その内容のすべてが、背教について書かれている聖書中の唯一の書です)と共に、聖徒に正しい信仰を守ることを勧めています。書簡集の最後を飾ります。
 はじめに:
1、誰が書いたのか:イエス・キリストの異父兄弟である、ユダ(1節、マタイ13:55、マルコ:6:3)であると理解されています。これには疑問を提出するものも多くいます。
2、誰に対して書かれたのか:「父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている召された方々へ(1節)」。
 3、いつ書かれたのか:本書簡は「Ⅱペテロ2章」と強い関連性を持っています。したがって本書簡の執筆年代は、本書簡が「Ⅱペテロ2章」を引用したのか、それとも、その反対なのかによって変わってきます。それゆえ、AD60-80年の間と、その幅は広がります。
 4、なぜ書かれたのか:ユダはこの手紙を書く理由を「ある人々がひそかに忍び込んできたからです(4節)」と述べています。ある人々とは「私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです(4節)」要するに反キリストのことです。それゆえにユダは信仰のために戦えと「召された人々」に、命じています。召された人々であり、すべてのことを知っているとはいえ、「私は、あなたがたに思い出させたいことがあるのです(5節)」とユダは信仰に立ち返れと強く勧めています。それがこの書簡が書かれた理由です。
 5、書かれた背景:西暦1世紀以来キリストの教えは聖書に相反する教えや、偽りの教えに脅かされ続けていました。教会の内部では、背教が、外部では異端がキリストの教えと敵対していたのです。教会はこの誤った教えと戦うことが運命づけられていました。なぜなら異端(背教)はキリストの基本的な教えと異なることを教えながら、自らをキリスト者であると主張していたからです。
 6、偽教師たちがしていることと、その裁き:ユダは現在の背教について語る前に、過去に起こった背教を思い出せと旧約聖書の中からその例を示します(5-7)。
① エジプトからイスラエルの民を救い出した神はそのつながりでモーセにシナイの丘で戒律を与えます。しかしその間にアロンは地上で偶像を作り神に逆らいます。偶像を作った人々は神によって滅ぼされます。
② 天使のかしらであったルシファーは、神に逆らい、地上に堕とされ悪魔となります(堕天使)。神はこれを大いなる裁きをもって、暗闇の中に閉じ込めます。
③ 好色にふけり、肉欲を追い求めたソドムとゴモラの町は、焼かれて、後の世の見せしめにされました。
このように、旧約聖書で示された背教は、すべて滅ぼされ、見せしめにされました。それにも拘わらず、その滅びの見本は生かされることなく、続いています(8-16)。今日の背教者を「この人たち」とユダは呼んでいます。今日の背教を語る場合もユダは旧約聖書の背教者の名を挙げて語ります。モーセが、カインが、バラムが、コラが今日の背教者の滅びの見本として語られています。「この人たち」は愛餐のしみと語られています。真っ暗な闇が彼らに永遠に用意されています。これらの背教者は、結局は罪が定められ、さばかれることになります。
上記と同じことが「Ⅱペテロ2章」で語られています。
 7、概 説:この書簡は、ユダから「召された人々」に宛てて書かれました。教会の中に反キリストが忍び込み、本来の信仰の妨害を図っていたからです。旧約聖書に現れた背教、新約聖書に現れた背教が語られます。「召された人々=ユダヤ人キリスト者」に信仰と従順の大切さを教えています。「終わりの時」に主をあざけるものが現れます。教会に混乱をもたらします。これに対抗するものは主のあわれみだけです。それゆえに、ユダは聖徒たち(召された人)に正しい信仰を守るように勧めています。主に栄光あれ。
 ユダ書の重要個所:
 3-4節:「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしてきましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うように、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。ある人々がひそんできたからです」。
 17-19節:「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことを思い出してください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には自分の不敬虔な欲望のままに振る舞うあざける者どもが現れる』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です」。
 14-15節:「アダムから7代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れてこられる。すべてのものに裁きを行い、不敬虔の者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪びとどもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて彼らを罪に定めるためである』」。
 20-21節:しかし、愛する人々よ、あなたがたは、自分のもっている最も聖い信仰の上に、自分自信を築き上げ聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
 24-25節:「あなたがたをつまずかないように守ることが出来、傷の無い者として、大きな喜びをもって栄光のみ前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に栄光・尊厳・支配・権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々世限りなくありますように。  アーメン
 言 葉
 グノーシス主義:グノーシス主義はキリスト教の異端思想の一つとして考えられています。しかしその具体的名前は本書間にも「ヨハネ書1,2,3」にも出てきません。おそらく、異端思想としてその名前は、定着していなかったものと思われます。しかしその内容は具体的です。 グノーシス主義とは、善と悪、真の神と偽の神、霊魂と物質、という二元論が、その基本的な世界観です。悪の世界は物質から構成されているので、物質は悪と判断されます。物質で造られている肉体もしかりです。他方、「霊」あるいは「イデア―」は真の存在であり、真の世界であるとみなされます。その結果人として遣わされたイエスは神ではなくなります。イエス・キリストの2性(神であり、人である)は否定されます。イエスは創造者ではなく、被造物です。イエスの十字架上での死は、我々の罪の贖いではなくなります。3位1体の神は否定され、それゆえキリストの教えは否定されます。
 物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して二つの対極的な立場が現れます。一つは禁欲的な生き方であり、二つは、放縦となって現れます。霊は肉体とは別存在なので、肉体において犯した罪悪の影響を受けない、という論理のもとに不道徳をほしいままにするタイプです。ユダはこの不道徳者を指し「私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者たるイエス・キリストを否定する人たちです」と述べています。また「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな神からのものです」「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。今それが世に来ているのです(ヨハネⅠ,4:2-3)」。グノーシス主義者の存在に対してユダは警告を発しています。
 愛餐について:本書簡には「愛餐のしみ」という言葉が出てきます。
 愛餐とはイエス・キリストを信じる者同士が、信仰と愛と希望とを分ちあいつつ、共にした食事のことを指します。特に初代教会の時代には、聖餐式と密接に関係を保ちつつ盛んにおこなわれたと言われています。また、これは、貧しい人々や、やもめたちに対する援助も念頭に置いた食事でもあったのです。この美しく、愛に満ちた慣習は、旧約聖書の時代、新約聖書の時代にも盛んに行われていました。それは、愛のもてなしであり、また神への感謝の気持ちの表れでした。
 時代の経過に連れて聖餐式と結びついていた愛餐は、最終的には分離し、個別に行われるようになります。また不純な要素が入り込み愛餐が愛餐ではなくなり、これが、過食、酩酊、自己中心になるという、愛餐を破壊する偽教師の出現を見るという否定的要素が現れます。現代においても、様々な形態をとりながらも、愛餐は続いています。我が日野教会においても食事会、「子ども食堂」などの愛餐は行われています。神の恵みが、この愛餐の上に豊かに注がれますようにイエス・キリストの名のもとに祈ります。
令和2年9月8日 報告者 守武 戢 楽庵会

書簡集18・19・20 ヨハネの手紙

2020年09月20日 | Weblog
 書簡集18ヨハネの手紙第1グノーシス主義者との戦い
はじめに:
 「ヨハネの手紙」には、第1、第2、第3と3通あります。手紙とあるものの、「パウロの書簡」のように差出人、宛名、挨拶の言葉はありません。しかしこの3通の書簡は伝統的にヨハネの作と見做されています。内容および文章のスタイルが「ヨハネの福音書」に似ているからです。
 この手紙は、特定の状況下にある人々(グノーシス主義者)を意識した司牧的説教ともいわれるもので、愛と恵みに満ちたものです。ヨハネによれば、この手紙の書かれた理由は「神の子を信じるあなたがたが永遠のいのちを得ていることを知るためであり(5:18)、さらにその目的は、(あなたがたに)いのちのことばを宣べ伝えることにあり、これによって「あなたがたは父なる神と、子なるキリストとの交わりの中に入ることが出来るのです」と、述べています。
 ヨハネは、自分に託されていたアジアの諸教会とその聖徒たちを愛し、これら3通の手紙を送ったのです。しかし、特定の教会に送られたものではなく、教会一般に送られているので「公同書簡」と定義されています。
 キリストの死後、最初のころ、キリスト者は生き生きとしていましたが、紀元1世紀ごろになると、キリスト教の規範は緩み始め様々な異端や偽教師が現れてきたのです。そのうちの一つの強大な勢力が「グノーシス主義」でした。教会の内部に発生し、多くの混乱を聖徒たちに与え、教会の外へと離れていきました。
 この「グノーシス主義」とはギリシャ哲学に起源をもち霊・肉二元論を説き、精神のみが善であり、からだを含める物質は悪であるとみなしていました。人の霊、精神、知性は、肉体という物体の中に閉じ込められているので、それらが、肉体から解放されねば救いはありえないと信じていたのです。また、救いは、神の奥義に関する特別な知識(グノーシス)によって得られるものと信じていました。この思想のもとでは、神が人になってこの世に現れてきたという思想は、あってはならないのです。結果、「受肉」は否定され、「三位一体」の考え方も否定されます。
 同様に、ユダヤの偽教師たちもイエスがメシアであることを否定しました。エルサレムの神殿が崩壊したことは、彼らには、神殿の守護者である万能の神の否定でした。
 これらのことからいえることは、キリスト教の存在そのものが、当時、危機に瀕していたということです。そこでヨハネは司牧的な愛をもって愛してやまない教会を守ろうとして、この手紙を書いたのです。ヨハネは愛の使徒でありこの書簡で何度も「愛」について語っています。また、正統的キリスト教とはいかなるものかも語ります。それが異端や、偽教師に対する反論となるからです。しかし、この偽りの教えは、絶えることなく教会員の間に広まりました。
 本書簡はイエス・キリストがどのようなお方であったかを語っています。人間として、この世にお遣わされになったイエスは当時も今も神なのです。この書簡は人としてのイエスを否定する「グノーシス主義者」や「偽教師」に対する反論を通して、キリストの教えの基本を述べたものと考えてよいでしょう。
 誰がこの書簡を書いたのか:この3つの書簡はだれが書いたかは、当書簡には明らかにされていません。イエスの12使徒の1人ヨハネの作と見做されています。彼はこの3つの書簡のほかに「ヨハネの福音書」、「ヨハネの黙示録」の著者として有名です。
 いつ、どこで書かれたのか:この書簡の書かれた正確な時期も場所も分っていません。AD85年から90年の間にエフェゾで書かれたと言われています。
 誰に向けて、なぜ書かれたのか:ヨハネが、誰に向けて書いたかもはっきりしていません。歴史的資料によれば紀元1世紀後半にヨハネが居住し教え導いたとされる小アジア(現在のトルコ)の諸教会に向けて、偽りの教えに反論するために書かれたものと、思われます。
 この書の特徴:当書簡には「グノーシス」という言葉は出てきません。しかし「人となって来たイエス・キリストを告白する霊は、みな神からのものです」と、イエスの受肉を否定するグノーシス主義者を批判しています。さらに「それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊は、どれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたは、それが来ることを聞いていたのです。今、それが世にきているのです(4:3)」。彼らに従うなと、ヨハネは聖徒たちに命じます。
 ヨハネはキリストに仕えた12使徒の一人です。復活したイエス・キリストにも出会い、見、聞き、触れています。ヨハネは聖徒たちに「「御父、並びに御子イエス・キリストとの交わり」にあずかるように勧めました(1:3)。「ヨハネ1」のテーマは「愛」です。「神を愛するものは兄弟をも愛すべきです。私たちは、この命令をキリストから受けています(4:21)」。 ヨハネは人となって現れたキリストの教えに忠実であれと聖徒たちに諭します。
 新約聖書の世界とは
 新約聖書の世界とは旧約聖書の世界に較べて極めて短く、キリストの生誕から、わずか100年にも満たない世界です。その間、キリストの使徒たちは、キリストの教えに力を注いだのです。その福音宣教の過程は決して楽ではなく、辛酸辛苦の連続でした。その宣教は、反キリスト(グノーシス主義者、偽教師)との戦いでした。彼らは「神」はともかくとして、受肉したキリストを認めようとはしなかったのです。特にグノーシス主義者が教えていたのは、キリストの体は実態を持たない、霊的存在であって(4:2-3)彼らは、イエスの十字架上の死に贖罪の意義を付与するのは間違いであると(1:7-8)考えていたのです。
 これと戦うためには、キリストの教えの基本を、徹底的に聖徒たちに教える必要があったのです。これがパウロ、ペテロ、ヨハネの手紙なのです。
 ヨハネは神との合一の意義を探っています。まず、キリストについて探り、次に人について探ります。
 キリストについていえば(その罪の贖い)
1、1:7 「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は、すべての罪から私たちを清めます。
2、2:2 「この方こそ、私たちの罪のため―――私たちの罪のためだけでなく、世界全体のための―――なだめの供え物です。
3、3:3 「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
4、4:10-14 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のため
に、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、たがいに愛し合うべきです。
 いまだ、かつて神を見たものはありません。もし私たちがたがいに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が、私たちのうちに全うされるのです。
 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって私たちが、神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今、その証をしています。
5、5:11-12 「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこの命が御子のうちにあるということです。御子を持つものは、いのちを持っており、神の御子を持たない者は、いのちを持っていません。
 人についていえば:
1、 聖性: 1:6 「もし、私たちが神と交わりがあると言っていながら、しかも闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを云っているのであって真理を行っていません。
2、 神の弁護者: 2:1 「私たちの子供たち、私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もし誰かが罪を犯すことがあれば、私たちには御父の前で弁護する方がおります。義なるイエス・キリストです。
3、 おきてに従うこと:2:3 「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
4、 清め;3:3 「キリストに対するこの望みを抱くものは、みなキリストが清くあられるように、自分を清くします。
5、 信仰:3:23 「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられた通り、私たちが互いに愛し合うことです。
  4:3 「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたは、それが来ることを聞いていたのです。今、それが世に来ているのです。
  5:5 「世に勝つものとは誰でしょう。イエスを神の子と信じるものでは、ありませんか。
ヨハネの手紙第1 内容構成

概 説
 第1章:ヨハネは、最初にイエス・キリストについて語ります。
「この方こそ、御父と共にあって私たちに遣わされた永遠のいのちなのです。この方と私たちの交わりこそ、私たちの喜びを全きものとするのです。神は光であって、闇を持ちません。これらが、私たちがキリストから聞いて、あなたがた聖徒に伝えたいことなのです」。
ヨハネは、神の絶対性と我々聖徒の相対性を説きます。そして、我々が罪ある存在であることを証し、します。しかし、イエスが十字架上で流された血によって、我々の罪は贖われたのです。「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですからその罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます(1:9)」。
主は人の悔い改めと、神への立ち返りによって、私たちの犯したすべての罪を赦すのです。人として遣わされた神の御子イエスを認めない反キリストの存在をヨハネは批判しているのです。
 第2章:ヨハネはこの手紙を送った理由を「あなたがたが罪を犯さないようになるためです(2:1参照)」と述べています。聖徒たちを誘惑する反キリストの存在を警戒していたからです。「もし誰かが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです(2:1-2)」。
この章には真の神を知ることの意味が描かれています。
この章には、罪を赦されたものへの新しい命令が描かれています。
ヨハネは神からの古い命令を新しい命令として聖徒たちに伝えます。
その命令は時代を超えて、場所を超えて真実だからです。その一つは「神を知れ」という命令であり、もう一つは「兄弟を愛せよ」という命令です。この二つは共に神がモーセに与えた命令(戒律)です。キリストとその弟子はこの命令を福音宣教の基本に置いています。神の命令は「愛」だからです。神の命令を守るなら、神を知るものになるのです。世に打ち勝つものになるのです。ヨハネは神の家族(子供たち、父たち、若者たち、小さな者たち)が、神を知ったが故に救われたと、述べています(2:12-14参照)。
神の権威に敵対するものに「世」があります。愛してはならないものです。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、この世から出たものです。世と、世の欲は滅びます。しかし神の世界は永遠です。
更に神の権威に逆らうものに反キリストがいます。「偽りもの(反キリスト)とは、イエスがキリストであることを否定する者たちです。御父と御子を否認するものです。
神が正しい方であると知っているなら、義を行うものがみな神から生まれたのです。
 第3章:私たちは神の子供です。キリストが再臨された時、キリストに似たものとされます。だからその時に備えて身を清くしていなさい。とヨハネは言う。
誰でも神から生まれたものは、罪を犯しません。なぜならば神の種(精霊)がその人のうちにとどまっているからです。神から生まれたものは罪を犯すことは出来ないのです。神の子と悪魔の子の違いはその身のうちに神の種を宿しているか否かによって決まるのです。神の義を行わないもの、兄弟を愛さないものは神の子ではありません。悪魔の子です。兄弟たちは互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。
神の義に生きよ、ということと、兄弟は互いに愛し合いなさいという2つの命令は盾の両面であって、切り離すことのできないものです。兄弟を愛するということは。神を愛するということと同義なのです。
私たち聖徒は永遠のいのちを得ています。兄弟(神)を愛しているからです。愛さないものには永遠のいのちは与えられません。世の死で終わりです。
カインは弟アベルを殺しました。自分の行いは悪く、アベルの行いは正しかったからです。アベルに嫉妬していたのです。逆にイエスは、自分は何一つ罪を犯していなかったにもかかわらず、我々の罪を一身に背負って死んでいかれました。「兄弟たち」を愛していたからです。
私たちは、神の命令を守り神の喜ぶことをしなければなりません。「神の命令とは、私たちが御子イエスキリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちがたがいに愛し合うことです(3:23)」。
 4章:ヨハネは反キリストの教えが、この世に蔓延しているとき、偽りの教えと真実の教えを区別せよと聖徒たちに命じます(4:5)。その区別の基本は、人として遣わされたイエス・キリストを認めるか否かに置いています。「イエスを告白しない霊はどれ一つとして、神から出たものでありません。それは反キリストの霊です(4:5)。このことばは、人として遣わされたイエス・キリストの神性を否定するグノーシス主義者に対する批判と考えてよいでしょう。
それでは、神の御子イエス・キリストとはどんなお方なのでしょうか。
イエス・キリストは、神が我々を救うために遣わされた「ひとり子」です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました(4:10)」。十字架による贖いの死を現しています。そこには愛があります。ヨハネは言います「神が私たちを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。私たちがたがいに愛し合うなら、神が私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。キリストは神の御子であり、愛そのものです。そこには完全の愛(アガペー)があります。
神は見ることのできない霊的な存在です。その霊を内に宿して人として遣わされたのがイエス・キリストです(4:124)。イエス・キリストこそ見ることのできない神の見える姿です。そこには愛があります。神は愛です。愛のうちにいるものは、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
全き愛は恐れを締め出します。最後の審判に大胆さをもって、望むことが出来ます。最終的な救いが約束されています。
 5章:1、救いの確信(5:1-5)1、イエスがキリストであると信じる者は神によって生まれたものです。2、神を愛するとは神の命令を守ることです。その命令は重荷にはなりません。私たちの信仰は世に打ち勝った証です。3、世に勝つものとは誰でしょうイエスを神の御子と信じるものです。
2、救いを証しするもの(5:6-13)1、イエス・キリストは水と血によって来られ、それを証しするものが御霊です。2、証しするものは3つあります。御霊と水と血です。この3つが1つになるのです。水:ヨハネのバプテスマ、血:十字架で流された血、御霊:聖霊と考えるなら、この3つは、イエスが肉として来られた神の御子であることを証ししています。いわゆる3位1体です。この3位1体の神を内に持つものが、神を証しするものであり、御子を信じるものです。その証しの意味は、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。神の名を信じているあなたがたに、この手紙を書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを判らせるためです。
3、神に対する確信と、それに対する応答(5:14-15)1、何事でも神のみ心にかなう願い事をするなら、神はその願いを聞いてくださります。これこそ神に対する確信です。ここで重要なことは「神のみ心にかなう」という条件が付けられていることです。しかし信仰深きものの願いは、おのずから神の意志にかなっているのです。そのような願いを、神は、決してNOとは言われないのです。願ったときすでに叶えられているのです。
4、死に至る罪と至らない罪(5:16-17)ここでいう罪とは世にはびこる罪ではありません。霊的な罪です。赦される罪とは、悔い改め神に立ち返る罪です。しかし、イエス・キリストを否定する罪は死に至る罪です。ここでは、反キリストの罪を指しています。ユダヤ教やグノーシス主義者です。
5、神の守り(5:16-21)神の子は、誰も罪を犯しません。守ってくださる方がいるからです。だから悪人は彼に触れることすらできません。しかし、世全体は悪い者の支配下にあります。神の御子は私たちに善・悪を見分ける力を与えてくださいました。それで私たちは真実の方すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、真の神、永遠のいのちです。
子供たちよ、偶像に警戒しなさい。
これで、「ヨハネの手紙1」を終わります。ここで語られたことは「いのちのことば」であり「御子について」でした。ヨハネは、一方にイエスを救い主として告白すると同時に、その彼方に「反キリスト」の霊を告白する者を対峙させます。イエスはキリストであり、神の御子であり、私たちのいのちです。これを信じるものこそ、世に打ち勝つ勝利です。他方、反キリストは世にはびこり、偽の教えを語っています。これらの偽の教えに対して、ヨハネはキリストの教えを擁護します。

 書簡集19:ヨハネの手紙Ⅱ選ばれた夫人と、その子供たちへ
 この書簡の特徴:この書簡は、全1章、13節からなり、旧約、新約を通じて最も短い書です。本書簡は「選ばれた夫人とその子供たち」とその仲間たちに宛てられているので、個人的書簡とみることが出来ます。
 長老であるヨハネは、手紙の受取人「選ばれた夫人とその子供たち」に対し、その信仰の深さを称賛し、キリスト教の核心である「真理と愛」の大切さを説き、偽教師に警戒するよう勧めています。
誰が書いたのか:「長老から」と書かれているだけで、ヨハネであるとは、書かれていません。伝承的に12使徒の一人ヨハネであるとみなされています。
 書かれた年代と場所:AD90年ごろ、ヨハネ1が書かれたと同じころ、エペソにて。
何のために書かれたのか:人を惑わすもの、すなわちイエス・キリストが、人として、この世に来られたことを告白しないものに惑わされず、聖徒たちがキリストの教えに従って歩むようにと書かれました。
 概 説:ヨハネのことばには、主に対して信仰深くあり続けた教会員「選ばれた夫人と、その子供たち」とその仲間たちに感じたヨハネの喜びや感謝の気持ちが現れています。彼らが愛のうちに歩んでいるからです。だからこそ、これらの信仰深き者が、誤った教えを広めている異端の巡回伝道師に惑わされないように、気を付けよと命じたのです。家に受け入れても、あいさつを交わしてもならない。と命じています。そのような行いをすることによって、異端と同じになるからです。
巡回伝道師に対する、挨拶や宿舎の提供は、当時のオリエントにおいては、仲間や連帯を現す行為だったのです。勿論、異端の伝道師に対して、これらの行為は禁じられていました。ここで攻撃されているのは反キリスト(グノーシス主義者やユダヤ教徒)です。この時代偽教師たちは教会内外において勢力を伸ばしており、ヨハネたちの福音宣教の前に立ちはだかっていました。「彼らはイエス・キリストが人として来られた」ことを告白しない者たちです。彼らは教会内部で生まれ、教会の外に出ていきました。キリストの教えのうちに留まらない者たちです。神を持っていません。滅びを運命づけられています。
 主要な聖句:「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです(1:6)」。

 書簡集20 ヨハネの手紙Ⅲ 愛するガイオ
 はじめに
 誰から誰へかかれたのか:長老ヨハネ(12使徒の一人)からガイオへ。
 いつ、どこで書かれたのか:AD85-95ころ、長年住んでいたエペソで書かれたと言われています。
執筆の目的:3つあります。1、巡回伝道師をもてなすという働きをしていた同労者であり奉仕者でもあるガイオにねぎらいの言葉をかけること。2、アジアにある教会でかしらになりたがっている、その行動がキリストの福音に反しているデオテレペスを非難し、警告すること。いつも悪の道を歩むものは、神様から遠く離れていることを、自ら証明しているのです。ヨハネはデオテレペスを反キリストと断定します。3、聖徒たちの模範であり、良い証となっているデメテリオ褒めることの3つです。
 重要個所:4節「私の子供たちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません」。
11節:「愛する者よ、悪を見習わないで善を見習いなさい。善を行うものは神から出たものであり、悪を行うものは、神を見たことのない者です」。
 巡回伝道師とは:「ヨハネ2」では、異端の巡回伝道師についての言及がありました。彼らに対しては、警戒せよと、ヨハネは言います。しかし、当時、異端の伝道師のほかに、善良な伝道師もいたのです。彼らは定まった教会を持たず、巡回伝道師として生きていました。当然、定期的な収入源を持たず、伝導の途中に出会う奉仕者の施しを受けて生計を立てていました。ガイオはその奉仕者の一人でした。彼は巡回伝道師を温かく迎え、無償で宿舎や、食物や衣服を与え、時には金銭までも与え、彼らの伝道の仕事を援助していたのです。彼らの仕事は主を伝える仕事で、未信者を教え導くことに主力を置いていました。ガイオはそれらの伝道師を温かく迎え、彼らから喜びと感謝の気持ちを受けていたのです。それを伝え聞いたヨハネは「私の子供たちが真理に歩んでいることを聞くほど、大きな喜びはありません(4節)」とガイオを称賛したのです。それに反して先に挙げたデオテレペスは兄弟たち(巡回伝道師)を受け入れないばかりか、教会から追い出しているのです。ヨハネは「愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行うものは神から出たものであり、悪を行うものは神を見たことのない者です(11節)」と、悪を行うものとしてデオテレペスの背教を挙げ、善を行うものとしてデメテリオの真理を挙げています。
 見知らぬ人々をもてなすという慣習は、この時ばかりでなく旧約聖書の中にも見ることが出来ます。イスラエルでのもてなしの歴史を見ると、人々がへりくだり、あわれみをもって、見慣れない人々を家に迎え、食事、宿泊、そして保護を与えていたことがわかります(創世記18:2-8,19:1-8)。さらにイスラエルの民がエジプトから出て、荒野をさまよっていた時、神が彼らにマナと水を与え、彼らの必要を満たしていたことが描かれています(出エジプト16章:申命記8:2-5)。イスラエルは神によって選ばれた民です。その民を神は保護し、励まし、おのずからの壮大なご計画を達成しようとしているのです。彼らは神の家のお客様になるのです。
 福音の真実の一環としてイエス・キリストも他のキリスト者に対して、もてなし、サポート、励まし、をするようにと聖徒たちに勧めています。

 最近、猛威を振るっている新設コロナ・ウイルス肺炎は、私たちの生活に大きな影響を与えています。わが教会には幸いにも感染者はいません。この災厄は、神が我々に与えられた試練かもしれません。試練ならそれに打ち勝ちましょう。
 我々の上に神の豊かな御恵みが下されますよう、イエス・キリストの御名のもとに祈ります。   アーメン

和2年9月14日(火) 報告者守武 戢 楽庵会