この作品を読んで感じる事は、その登場人物の多さである。しかも同一人物が実名で呼ばれたり、愛称で呼ばれたり、爵位で呼ばれたりする。しかも何の説明も無しにである。例えばアンナカレーニナの愛人であるブロンスキーはアレクセイと呼ばれたり、アリョウシャと呼ばれたり、伯爵と呼ばれたりする。これによって混乱させられ、途中で読むのを投げ出した人もいると思う。我慢してメモをとりながらも読み終えて欲しい。
この作品の中心はシテェルバッキー公爵一家で、老公爵夫妻とシルベッキー、ナタリー、ドーリー、キティーの4人兄妹で構成されている。ドーリーの夫がオブロンスキーであり、その妹がこの作品の主人公であるアンナカレーニナである。アンナには夫カリーニンと、愛人のブロンスキーがいる。ドリーの妹がキティーであり、後にリョービン(旧訳ではレービン)と結婚する。この5つの家族とこれを取り巻く人々の人間模様がこの作品を構成している。舞台もペテルブルグ、モスコワ、農村、外国と多岐にわたっている。そして当時のロシア社会に潜むあらゆる問題:ロシア貴族社会の欺瞞と偽善に満ちた世界、農奴解放後の農民の実情などがトルストイの透明な目を通して描かれていく。
このような社会背景の中で、アンナとブロンスキーの破滅的な不倫の恋が描かれ、どろどろとした人間の愛憎劇の結果、最終的にはアンナの鉄道自殺という悲劇へと導かれていく。これに反してキティーとリョービンの穏やかで静かな安定した愛の生活が描かれる。
唯物論者であり神の存在を否定していたリョウビンがキティーとの結婚を期に兄の死、キティーの出産、愛の生活を通じて神の愛に目覚めていく過程が描かれる。このようにこの作品は、家庭的、心理的作品であると同時に社会的、宗教的な作品でもある。ここには神と人間の対立が描かれている。戒律に反して邪悪な夫から最愛の息子セリョージャを残したままブロンスキーのもとに走ったアンナは夫カリーニンの離婚の拒否に合い、その不安定な生活の中で苦悩し、苛々する。離婚できないことの悩み、愛するセリョージャを自分のものに出来ない寂しさ、苦しみ、社交界での不倫の恋ゆえの冷たい扱い、ブロンスキーの前に現れる不特定多数の女性に対する嫉妬心、そして決定的なものが、独身者ブロンスキーのもとに起こった公爵令嬢との結婚話である。こんな中でアンナの心は乱れに乱れる。こんな状況の中でアンナにとって確実な事はブロンスキーの愛を確認すること以外になかった。しかしそれを確認できないことの苛立ち、彼に対する不信、疑い、憎しみ、愛するがゆえに憎しみも募る。愛憎反する気持ちの葛藤、相手を責めながらも、会えなくなれば後悔する。しかし会えばすぐに相手を責めてしまう。そんな繰り返しが彼女を破局へと導いていく。女の性(さが)の悲しさがそこにある。
人を愛する事は一つの束縛である。お互いに束縛しあうことである。この束縛を受け入れ、これを自由と感じるとき、これが愛である。しかしこの束縛を真に束縛と感じるようになったとき、その愛は破滅に向かう。ブロンスキーは次第に押し付けがましいアンナの愛を煩わしく感じるようになる。自分の愛に不信を抱く彼女を疎ましく感じる。自己の自由を主張する。束縛からの解放を願う。ついにアンナを無視する。男の性の危うさがそこにある。男の性と女の性がぶつかり合い、お互いに愛していながら、相手を理解することなく、破滅に向かう。「我に復讐あり」と叫んでアンナは列車に飛び込んで自らの命を断つ。それがブロンスキーの愛を確認する唯一の悲しい方法だったのである。
ブロンスキーはアンナの死に接し衝撃を受けて立ち直ることが出来ない。死を覚悟して、トルコとの戦い(露ト戦争=1877年)に私兵を率いて参戦する。
愛とはハーフムーン(半月)だといった作家がいる。月には満ち欠けがあり、満月の日ばかりではない。ハーフムーンには陰の暗い部分を含んでいる。その部分は太陽の陰に隠れてみることは出来ない。その部分を透明な目で見て理解することが必要である。自らの我を通してぶつかり合うのではなく、人間の愛はあくまでも愛他的自己愛(自分を愛するがゆえに人を愛する、無償の愛ではない)なりと自覚して、妥協することも必要である。愛を継続するためには知恵が必要である。その知恵とは神の意志なのかもしれない。人間の愛の限界性を知り、神の愛に救いを求める必要があるかもしれない。そうすれば先が見えてくる。
そんな愛に目覚めていく過程が次に述べるリョービンとキティーの愛の生活である。唯物論者であり、神の存在を否定していたリョービンが、自分の結婚式に臨んで心ならずも牧師との問答をしなければならなくなる。「神の存在を疑っている」というリョービンに対して牧師は言う「天なる穹隆をもろもろの星で飾ったどなたでしょう。大地をこのような美しさでおおったのは、どなたでしょう?」これこそ神だと言う。これに対してリョウビンは反論することが出来なかった。そして「死んだらどうなるか?」という問いに対しても答えることが出来なかった。自分がこれまで学んできた科学的知識のなかには、その解答はなかったのである。このときを境に彼は無神論と神の存在を認める理論の自己分裂に悩むようになる。宗教に対する自分の考えに対する見直しが始まったのである。さらに実兄ニコライの死、妻キティーの出産に立ち会って、死への苦しみ、出産の産みの苦しみに接して、兄の安らかな死と、妻の無事な出産を無意識のうちに心の底から神に祈ったのである。そして共産主義者であり、神を否定し、神をも恐れぬ放蕩無頼の生活を送っていた兄が瀕死の床にあっても生への執着を示していたが、最後に残した言葉が「ああ―主よ」であった。
人は全て死す。それは絶対であり否定できない。それゆえ人の生は相対である。人はどこから来てどこへ行くのか?それは無(出産)から無(死)への弁証法的発展であり、その間の生とは何か?なぜ生まれ、何のために生きるのか?どのように生きればよいのか?なぜ死ぬのか?限りある生しか持たない人が絶対的神の教えを否定することが出来るのか?唯物論者として信じていた科学的知識はこの疑問に解答を与えてくれるのか?リョービンは思い悩む。
そして周りを眺める。多くの素朴な農民は、何の疑いもなく神の存在を認め、その掟に従って生きている。神とは何か?教会とは何か?そんな神学論争など彼らにとってどうでも良いのだ。自分の欲得のために生きてはいけない、人に嘘をつかない、人を騙さない、不倫はしない、放蕩はしない、人を殺傷しない。清く正しく真面目に生きていくことが神の掟にしたがっているのだと、何の疑いも持たず信じている。それが神のために生きる事であり、信仰なのだと、リョウ―ビンは気づく。考えることではなく、信じることなのだと、彼は思う。神によって生を受け、神の掟に従って生き、神のもとに帰っていく。人は神の意志(善)を実現するためにこの世に生を受けたのだ。信仰をもって生活していけば、則(のり)を越える事はない。例え間違った行為をしようとしても神はそれを間違いだと啓示してくれる。人はそれを直感する。人は神によって生かされているのであって、自らの意志で生きているのではない。神の意志は人は自らの努力で知るのではなく、人に神からの啓示として授けられるものなのだ。神の存在を否定し、科学的知識こそ神に代わるものなのだと主張する唯物論者も、結局は何百万里の天空を駆け回っていたと思っていた孫悟空のように、お釈迦さまの掌の中で動き回っているだけではないのか?唯物論者の行動は神にとっては予定済みで、神の広い心(意志)の許容範囲を出ることはないのである。いずれ彼らは悔い改め三蔵法師(神)に導かれて妖怪(煩悩)と闘いながら天竺(信仰の道)へと旅立つであろう。
これまで見てきたように、この作品には2種類の愛が描かれている。一つはアンナをめぐるカリーニンとブロンスキーの三角関係であり、激しくとも苦悩に満ちた、どろどろとした救いのない愛である。そしてもう一つはリョービンとキティーの神に導かれた安定した穏やかな、静かな愛である。
人間の愛は利己的であって無償の愛ではない。それは奪う愛である。これに反して神の愛は与える愛である。人の愛は”――がゆえの愛”であって、美しいから、善良だから、優しいから、金持ちだから、とカッコつきである。これに対して神の愛は絶対的であり”In spit of(にも拘らず)”の愛である。醜いにも拘らず、悪人にも拘らず、貧乏人にも拘らず、意地悪にも拘らず、無神論者にも拘らず、とその愛に制限はない。
リョービンは考える。「信仰が無ければ、弱肉強食の世界が社会を支配し、人間の欲望を制御するものが無い。神への信仰こそが人を正しい愛の生活へと導いてくれる」と。
神への信仰を忘れた人間愛のもろさ、不確かさ、醜さ、悲しさが、他方神の愛に導かれた人間愛の確かさ、強さ、明るさ、が、この作品「アンナカレーニナ」において対照的に描かれている。愛とは何かについて考えさせる素敵な作品である。
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この作品の中心はシテェルバッキー公爵一家で、老公爵夫妻とシルベッキー、ナタリー、ドーリー、キティーの4人兄妹で構成されている。ドーリーの夫がオブロンスキーであり、その妹がこの作品の主人公であるアンナカレーニナである。アンナには夫カリーニンと、愛人のブロンスキーがいる。ドリーの妹がキティーであり、後にリョービン(旧訳ではレービン)と結婚する。この5つの家族とこれを取り巻く人々の人間模様がこの作品を構成している。舞台もペテルブルグ、モスコワ、農村、外国と多岐にわたっている。そして当時のロシア社会に潜むあらゆる問題:ロシア貴族社会の欺瞞と偽善に満ちた世界、農奴解放後の農民の実情などがトルストイの透明な目を通して描かれていく。
このような社会背景の中で、アンナとブロンスキーの破滅的な不倫の恋が描かれ、どろどろとした人間の愛憎劇の結果、最終的にはアンナの鉄道自殺という悲劇へと導かれていく。これに反してキティーとリョービンの穏やかで静かな安定した愛の生活が描かれる。
唯物論者であり神の存在を否定していたリョウビンがキティーとの結婚を期に兄の死、キティーの出産、愛の生活を通じて神の愛に目覚めていく過程が描かれる。このようにこの作品は、家庭的、心理的作品であると同時に社会的、宗教的な作品でもある。ここには神と人間の対立が描かれている。戒律に反して邪悪な夫から最愛の息子セリョージャを残したままブロンスキーのもとに走ったアンナは夫カリーニンの離婚の拒否に合い、その不安定な生活の中で苦悩し、苛々する。離婚できないことの悩み、愛するセリョージャを自分のものに出来ない寂しさ、苦しみ、社交界での不倫の恋ゆえの冷たい扱い、ブロンスキーの前に現れる不特定多数の女性に対する嫉妬心、そして決定的なものが、独身者ブロンスキーのもとに起こった公爵令嬢との結婚話である。こんな中でアンナの心は乱れに乱れる。こんな状況の中でアンナにとって確実な事はブロンスキーの愛を確認すること以外になかった。しかしそれを確認できないことの苛立ち、彼に対する不信、疑い、憎しみ、愛するがゆえに憎しみも募る。愛憎反する気持ちの葛藤、相手を責めながらも、会えなくなれば後悔する。しかし会えばすぐに相手を責めてしまう。そんな繰り返しが彼女を破局へと導いていく。女の性(さが)の悲しさがそこにある。
人を愛する事は一つの束縛である。お互いに束縛しあうことである。この束縛を受け入れ、これを自由と感じるとき、これが愛である。しかしこの束縛を真に束縛と感じるようになったとき、その愛は破滅に向かう。ブロンスキーは次第に押し付けがましいアンナの愛を煩わしく感じるようになる。自分の愛に不信を抱く彼女を疎ましく感じる。自己の自由を主張する。束縛からの解放を願う。ついにアンナを無視する。男の性の危うさがそこにある。男の性と女の性がぶつかり合い、お互いに愛していながら、相手を理解することなく、破滅に向かう。「我に復讐あり」と叫んでアンナは列車に飛び込んで自らの命を断つ。それがブロンスキーの愛を確認する唯一の悲しい方法だったのである。
ブロンスキーはアンナの死に接し衝撃を受けて立ち直ることが出来ない。死を覚悟して、トルコとの戦い(露ト戦争=1877年)に私兵を率いて参戦する。
愛とはハーフムーン(半月)だといった作家がいる。月には満ち欠けがあり、満月の日ばかりではない。ハーフムーンには陰の暗い部分を含んでいる。その部分は太陽の陰に隠れてみることは出来ない。その部分を透明な目で見て理解することが必要である。自らの我を通してぶつかり合うのではなく、人間の愛はあくまでも愛他的自己愛(自分を愛するがゆえに人を愛する、無償の愛ではない)なりと自覚して、妥協することも必要である。愛を継続するためには知恵が必要である。その知恵とは神の意志なのかもしれない。人間の愛の限界性を知り、神の愛に救いを求める必要があるかもしれない。そうすれば先が見えてくる。
そんな愛に目覚めていく過程が次に述べるリョービンとキティーの愛の生活である。唯物論者であり、神の存在を否定していたリョービンが、自分の結婚式に臨んで心ならずも牧師との問答をしなければならなくなる。「神の存在を疑っている」というリョービンに対して牧師は言う「天なる穹隆をもろもろの星で飾ったどなたでしょう。大地をこのような美しさでおおったのは、どなたでしょう?」これこそ神だと言う。これに対してリョウビンは反論することが出来なかった。そして「死んだらどうなるか?」という問いに対しても答えることが出来なかった。自分がこれまで学んできた科学的知識のなかには、その解答はなかったのである。このときを境に彼は無神論と神の存在を認める理論の自己分裂に悩むようになる。宗教に対する自分の考えに対する見直しが始まったのである。さらに実兄ニコライの死、妻キティーの出産に立ち会って、死への苦しみ、出産の産みの苦しみに接して、兄の安らかな死と、妻の無事な出産を無意識のうちに心の底から神に祈ったのである。そして共産主義者であり、神を否定し、神をも恐れぬ放蕩無頼の生活を送っていた兄が瀕死の床にあっても生への執着を示していたが、最後に残した言葉が「ああ―主よ」であった。
人は全て死す。それは絶対であり否定できない。それゆえ人の生は相対である。人はどこから来てどこへ行くのか?それは無(出産)から無(死)への弁証法的発展であり、その間の生とは何か?なぜ生まれ、何のために生きるのか?どのように生きればよいのか?なぜ死ぬのか?限りある生しか持たない人が絶対的神の教えを否定することが出来るのか?唯物論者として信じていた科学的知識はこの疑問に解答を与えてくれるのか?リョービンは思い悩む。
そして周りを眺める。多くの素朴な農民は、何の疑いもなく神の存在を認め、その掟に従って生きている。神とは何か?教会とは何か?そんな神学論争など彼らにとってどうでも良いのだ。自分の欲得のために生きてはいけない、人に嘘をつかない、人を騙さない、不倫はしない、放蕩はしない、人を殺傷しない。清く正しく真面目に生きていくことが神の掟にしたがっているのだと、何の疑いも持たず信じている。それが神のために生きる事であり、信仰なのだと、リョウ―ビンは気づく。考えることではなく、信じることなのだと、彼は思う。神によって生を受け、神の掟に従って生き、神のもとに帰っていく。人は神の意志(善)を実現するためにこの世に生を受けたのだ。信仰をもって生活していけば、則(のり)を越える事はない。例え間違った行為をしようとしても神はそれを間違いだと啓示してくれる。人はそれを直感する。人は神によって生かされているのであって、自らの意志で生きているのではない。神の意志は人は自らの努力で知るのではなく、人に神からの啓示として授けられるものなのだ。神の存在を否定し、科学的知識こそ神に代わるものなのだと主張する唯物論者も、結局は何百万里の天空を駆け回っていたと思っていた孫悟空のように、お釈迦さまの掌の中で動き回っているだけではないのか?唯物論者の行動は神にとっては予定済みで、神の広い心(意志)の許容範囲を出ることはないのである。いずれ彼らは悔い改め三蔵法師(神)に導かれて妖怪(煩悩)と闘いながら天竺(信仰の道)へと旅立つであろう。
これまで見てきたように、この作品には2種類の愛が描かれている。一つはアンナをめぐるカリーニンとブロンスキーの三角関係であり、激しくとも苦悩に満ちた、どろどろとした救いのない愛である。そしてもう一つはリョービンとキティーの神に導かれた安定した穏やかな、静かな愛である。
人間の愛は利己的であって無償の愛ではない。それは奪う愛である。これに反して神の愛は与える愛である。人の愛は”――がゆえの愛”であって、美しいから、善良だから、優しいから、金持ちだから、とカッコつきである。これに対して神の愛は絶対的であり”In spit of(にも拘らず)”の愛である。醜いにも拘らず、悪人にも拘らず、貧乏人にも拘らず、意地悪にも拘らず、無神論者にも拘らず、とその愛に制限はない。
リョービンは考える。「信仰が無ければ、弱肉強食の世界が社会を支配し、人間の欲望を制御するものが無い。神への信仰こそが人を正しい愛の生活へと導いてくれる」と。
神への信仰を忘れた人間愛のもろさ、不確かさ、醜さ、悲しさが、他方神の愛に導かれた人間愛の確かさ、強さ、明るさ、が、この作品「アンナカレーニナ」において対照的に描かれている。愛とは何かについて考えさせる素敵な作品である。
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