梗概
この作品は先に紹介した「移動祝祭日」と同じくヘミングウエイの遺作である。メアリー・ヘミングウエイ(ヘミングウエイの4番目の夫人)よって出版元のチャールズ・スクリプナー・ジュニアとの協力のもと、若干の編集(綴り字や句読点の訂正、作者が当然行ったと思われる若干の原稿のカットなど)の上、1978年に出版された。彼女はその「はしがき」において「この作品はすべてアーネストのもの、私は一切加筆いたしておりません」と述べている。他の作品と同じく抽象化を避けた切れ味のいい独特の文体は、判りやすく、読者の共感を呼んでいる。それ故イメージ化が簡単で『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』と並んで映画化されている。
この作品の制作年は明らかにされていないが、1946年~1947年及び1950年~1951年の2期にわたって執筆されたといわれている。オムニバス形式の3部作であり、第1章「ビミヒ」第2章「キューバ」第3章「洋上」と分かれており、第2次世界大戦中キュ―バに居を定めていたヘミングウエイの体験がもとになっている。
主人公のトマス・ハドソンは「何か秘密の仕事」をしている。その仕事の内容は第3章「洋上」に
おいて明らかにされる。彼は普段は世間に知られた画家であり「農場主」であるが、時に国からの指令を受けてUボート(ドイツの潜水艦 後に詳述)狩りに出かける。今回の指令は沈没したUボートから逃亡した乗組員を探し出し、これをせん滅することであった。彼は仲間とともに自己の「ピラール艇」に乗って敵を追い詰める。壮絶な銃撃戦が展開され、敵をせん滅するも、彼自身も致命傷を負う。彼は死を予感する。この死に至る必然性が第1章と第2章において明かされる。第1章においては3人の愛息の内、次男と3男が、第2章において長男の若トムが作戦飛行中にドイツ軍の対空艦艇によって撃墜され、戦死する。
3人の愛息の死は、ハドソンに多大な影響を与える。彼はこの悲劇を凍結し、思考停止を自らに課し、その悲劇を内に秘める。そして国からの指令を果たすことに専念する。しかし潜在意識に潜む苦しみや悲しみ、虚無感までも凍結することはできない。愛に対する絶望、報われることのない愛、その苦しみからの解放を行動によって補おうとする。「死は唯一の癒し、死以外のもので癒し得るような悲しみは多分真の悲しみではあるまい」と彼は思う。今の自分のやることは、Uボートから逃亡したドイツ兵を探し出し、せん滅することにある。最終的には遭遇した敵との間で壮絶な戦いが展開されるであろう。この指令を貫徹するという行為によって、彼は自らを死へと追い詰めていく。彼の心は虚無感に充ちており、常に孤独である。その延長戦上に死がある。死は彼にとって唯一の救いなのである。死は遅かれ早かれ万人に訪れる。早いか遅いかの違いである。死を考えることは生を考えることである。そして死の彼方に何があるのか?死はすべての終わりなのか、それとも出発なのか?『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』の中でヘミングウエイは愛する者の死を見つめた。死を前にして人はすべて孤独である。
第1章 ビミヒ
この作品の題名「海流の中の島々」の海流とは「ガルフ・ストリーム」すなわちフロリダ沖からキューバ沖にかけての大海流=メキシコ湾流を指している。島々とはビミヒ諸島のこと。英連邦の一つバハマ大国に属し、バハマ北西部、カリブ海に南北に連なるサンゴ礁の島々を指す。この海域はヘミングウエイにとっての人生における一つの活動舞台であり、パリのカルチェラタン、スペインの闘牛場、アフリカの山野と並び、彼の人生に多大な影響を与えた場所である。
この作品の主人公トマス・ハドソンは優れた画家であり、ハバナ(キューバの首府)郊外に大きな農場(フィンカ・ビビア)を持つが、年の大半をビヒミ群島の一つで気ままに過ごし、画家の仕事に精を出している。生活は豊かで、祖先から受け継いだ資産と、画家としての収入によって豊かな生活を享受している。しかし放縦になることを避け、我儘になるなら、自分の絵のためにだけに酷になるなら自分の仕事のためだけに、そして自分に規律を課し、また進んで規律を受け入れることを信条にしている。3人の息子がおり、長男の若トムは最初の妻の子であり、次男のデーヴィットと三男のアンドールは第2番目の妻の子である。しかし親権は元妻の側にあり、普段は離れて暮らしている。彼らは立派に成人していた。その彼らがハドソンのもとに会いに来るという。ハドソンは喜びを持って彼らを迎える。他にも登場人物は多くいるが、重要人物としては、南ビミヒ島に釣り用のキャビンを持つロジャー・デイヴィスとハドソン家のコック、エディーの名をあげれば十分であろう。ロジャーは決して喧嘩好きではないが、一人の無法に、しつっこくからむ男を殴り倒し、怪我をさせている。腕っ節は強いが心優しき、海の男であり、ハドソン親子に身内のように愛されている。この章のハイライトは二男デーヴィットの数時間(約6時間)に及ぶ大魚(千ポンドはあると思われる巨大なメカジキ)との死闘のシーンである。デーヴィットの針にかかった大魚は、逃れようとして暴れまわる。そうはさせじとデーヴィッドは頑張る。釣り上げる瞬間までいくが、大魚は姿は見せるものの、最終的にはつり落としてしまう。しかしデーヴィットはこの死闘により、手は血だらけ、背中に痛みを感じ、心身ともに疲れきるが、その大魚の姿を見ただけで満足する。この死闘を通じて彼はこの大魚に愛を感じる。一本の細長い釣り糸に結ばれた彼と大魚の間には愛が生じたのである。「奴をつり落としたことなんて屁とも思っちゃいない、今の僕は。記録なんてどうでもいいんだ。記録がどうこうなんて、前のそう思い込んでいただけ。いまは奴も元気で僕も元気なことがうれしい。敵じゃーないんだから、僕たち(上巻p227)」殺さないでよかったと思う。この船に同船したのがハドソン、若トム、アンドールの家族であり、ロジャーであり、コックのエディーである。彼らは優しく見守るが、助言はするもののけっして手を貸そうとはしなかった。自力で難局を突破する力をつけさせようとする。そこにあるのは素晴らしい家族愛である。それは第3章においてUボートからの逃走者を追い詰めていくハドソンたちの同胞愛に共通するものを感ずる。そこには目的を達成するために死力を尽くす男のロマンがある。ハドソンはデヴィッドの死闘の様子を絵に描きたいと思う。そして5週間の楽しく、充実した休暇は終りに近づく。この間ロジャーは旅の女性と恋をする。滞在期間は終り再会を誓って3人の兄弟は去り、ロジャーとオードリーという旅の女性も去っていく。ハドソンは一人っきりになる。このとき彼は大切な人と生きることの大切さ、かけがいの無い人が自分の横にいることの素晴らしさを身にしみて感じる。しかし今それらの人はいない。寂寥感がロジャーを襲う。その気持ちを紛らわすために絵に専念する。そんな、ある日、一通の電報が届く。それはデーヴィッドとアンドールの兄弟が、その母親とともに交通事故で死亡したという知らせであった。ハドソンは茫然自失する。息子達との絆が強められたばかりであり、その再会を楽しみにしていただけにその絶望は大きく、苦しみ、悲しみは如何ともしがたい。酒に溺れてみても覚めれば地獄である。ここからの再生はあるのだろうか?
第2章キューバ
この章は、ハドソンが「なにかたいへんな秘密の仕事をやっている」その出動と出動のつかの間の休暇中の物語である。この出動とはどんな仕事なのか、それについてはこの章では触れられていない。しかし敵国ドイツの潜水艦が関係しているらしい。この仕事の内容が明らかにされるのが第3章の「洋上」である。第1章の「ビミヒ」第3章の「洋上」が海を舞台にした壮大なロマンであるのに対して、この章はキューバ本土が舞台である。どこか陰鬱で、物憂い感じがする。この点第1章、第3章とは対照的である。この章ではヘミングウエイの日常生活がハドソンの名のもとに語られている。ハドソンの性格もその風貌もヘミングウエイそのものであり、別れた2人の妻たち、3人の息子もヘミングウエイの家族と同じである。ハバナ郊外にあるいわゆる「農場」も、作者の愛猫、愛犬たちも実名で登場している。メアリー夫人は「基本的にはフィクションであるが、かなり事実に基づいている」と述べている。
この章ではハドソンの飼っていた愛猫の話がされ、それと関連して、過去における妃殿下との情事の思い出話が語られる。そしてキューバの町並み、農村風景、史跡、貧民街の目に余る光景、今は寂れているが昔の色街の面影を残す光景、戦争(第2次世界大戦)に疲れ、苦しむ住民の悲惨な生活などがリアリスチックに語られている。これらの光景は出動の結果報告に大使館(陸軍参謀本部)に向かう途中に展開するのであるが、これは当時のキューバの生活そのものである。結果報告の帰りに寄ったのがレストラン兼居酒屋「フロリディータ」であり、そこはハドソンののなじみの場所であり、憩いの場所でもあった。そこでダイス賭博を楽しみ、娼婦律義屋リル(リリアン)と会話を楽しむ、などハドソンの日常生活が語られている。この章では若トム(空軍大尉)の戦死が明らかにされ、フロリディータで再開した若トムの母親に知らされ衝撃を与える。
ヘミングウエイとキューバ
ヘミングウエイは1938年~1960年までキューバに22年間住んでいる。40年からはキューバの首都ハバナ市郊外に「農場(フィンカ・ビビア)」を購入し、釣りに闘鶏、射撃、ハイアライ(一種のす歌手)、散策に楽しみ、創作に専念し『誰がために鐘は鳴る』『川を渡って木立ちの中に』『老人と海』『海流の中の島々』等世界の文学史に残る作品を世に出した。彼自身キューバを愛し、第2の祖国と考えていたという。キューバの自然を愛し、キューバの農民、漁民等の住民に欧米人にはない素朴さを感じそれを愛していたという。キューバ革命(1959年1月1日)に賛同し、革命前のキューバ共産党に多くのカンパを行っている。カストロ首相は彼の作品を愛し『誰がために鐘は鳴る』は3回以上呼んだと、絶賛している。
ヘミングウエイと猫
ヘミングウエイの猫好きは有名で、57匹の猫と、4匹の犬を飼っていた。そのため彼の屋敷は猫屋敷と呼ばれていた。面白いのは突然変異か近親相姦の結果かはわからないが、6本指の猫が生まれ遺伝したことである。ヘミングウエイはこれを幸運を呼ぶ猫として大切にしたという。この作品にもこれが反映している。ハドソンが特に愛したのはボイシ―という猫で、その息子に『大山羊』という猫がいた。この作品ではこの2匹が主に活躍するが、そのほかにウイリー、『一人ぽっちの次郎』。ちびっ子、毛皮屋、機動部隊、ウルフィー小父、おでぶ、王女、と数え切れない程の猫が飼われていた。王女はこれらの猫の祖母にあたり、その名の通り威厳に満ち、美しく、頭もよくデリケートで気位が高く、貴族的かつ愛情こまやかな猫であった。ハドソンはこの猫のような素晴らしい姫君と契りを結びたいと思っていた。その機会は訪れ契りを結ぶのであるが、この作品の全体の構成とはあまり関係がないのでその詳細は省略する。
ヘミングウエイと『フロリディータ』(レストラン兼居酒屋)
ヘミングウエイはハバナのレストラン兼居酒屋「フロリディータ」をこよなく愛し頻繁に訪れている。彼が好み愛飲したのがフローズンスタイルのカクテル『フローズン・ダイキリ』であり、それは『パパ・ダイキリ』と名付けられた。ここには多くの有名人(政治家、役人、農園主、沿岸警備隊員(FBI)、等)が訪れ、ヘミングウエイとの交流を深めたのである。勿論彼の仲間たちもここを利用した。また高級娼婦たちもここにたむろしており、良いお客の来るのを虎視眈々と狙っていた。律義屋リルもそのうちの一人であった。
第3章「洋上」
ハドソンとその仲間は何か秘密の仕事をしているらしい。前の章ではその仕事の内容は語られなかった。その仕事の内容がここで明らかにされる。それは海域調査という科学目的で近海を調査することにあったが、それは名目で実際には、キューバ近海の出没するドイツの潜水艦(Uボート)を探ることにあった。勿論、ハドソンの所有する艇は小型で潜水艦と戦うことはできないが、空気や水などを補給するために浮上するUボートを見つけて、その位置などの情報をガンタナモ基地に報告することにあった。しかし今回の指令は違っていた。それは連合軍側の空軍が撃沈した一隻の潜水艦の乗組員の動静を探ることであった。ハドソンが受けた電文には『西に向かい、入念に捜索を続行せよ』と云うものであり、これをせん滅せよとは書かれてはいなかったのである。だから、潜水艦の居場所が明らかになった段階でその位置を基地に報告し、戦いは軍に任せてもよかったのである。しかしハドソンはその先を考えていた。ハドソンは島の住民を皆殺しにし、住民の一人を水先案内人として拉致し、2隻の海亀船を奪って逃走するドイツ兵に対して任務を超えて義憤を感じ、これに復讐を誓う。そして見えざる敵を求めてマングローブの群生する島から島へと捜索を行う。そしてこの困難な追跡の結果、ようやく敵を発見し銃撃戦になる。この結果、敵をせん滅する。しかし通信士のピーターズは殺され、ハドソン自身も銃撃を受けて致命傷を負う。彼は死を予感する。
Uボートとは何か?
Uボート(ドイツ語ではウーボート、英語ではユーボート)第一次世界大戦から第二次世界大戦に活躍したドイツの潜水艦の名前である。その任務は海上封鎖及び通商破壊であり、その他に技術や物資の隠密輸送にも使用されていた。その戦果は甚だしく、第一次大戦では約300隻が建造され、連合国側の物資、兵員を輸送する商船の約5300隻が撃沈され、第二次大戦では、1131隻が建造され、終戦までに商船の約3000隻、空母2隻。戦艦2隻が撃沈された。このように連合国側はこのUボートの活躍により甚大な被害を被ったのである。「敵は今じゃあヴェネゼーラのウルガイ、ジャマイカのキングストーンの沖にも現れている。油槽船のルートならいたるところに現れる。ウルフバック(狼軍戦法)で群れをなして行動することもあるしな」「この海にも時々現れるよ」(下巻p、194)。これに対して連合国側も始めこそ劣勢であったものの、ようやくその対策に取り組み始め、様々な対潜水艦戦略、および戦術を展開し、最終的にはUボートを劣勢に追い込んだのである。第二次大戦時にはUボートはドイツから大日本帝国海軍にも寄贈されている。
登場人物
トマス・ハドソン:この作品の主人公、ドイツ兵を追跡する艇の艇長。
アントニオ:この艇の副長、コック。
ギルとアラ:ともにバスク人。スペイン内戦で敗れた人民戦線派の亡命者。キューバはスペインの元植民地であったため、そのよしみから多くの亡命者を受け入れた。
ピーターズ:通信士、ドイツ語が堪能。ドイツ人捕虜との会話に貢献した。銃撃戦で死亡
ヘンリーとホアン
これらの登場人物は海亀船を奪って逃走するドイツ兵を追跡する艇の乗組員であり、ハドソンの仲間である。いろいろの任務を分担して艇長のハドソンを助けた。
最後に
この作品は、第二次世界大戦中にキューバに居を定めていたころのヘミングウエイの体験をもとにして書かれたものではあるがメアリー夫人が言うように基本的にはフィクションである。
この作品には二つのロマンがある。一つは二男デーヴィッドの大魚との死闘、第二はドイツ兵の追跡と銃撃戦。それは読む者を感動に導くが、その反面、裏腹の関係でハドソンの3人の愛息の死、さらにハドソン自身の死という悲劇がある。目的を達成するために死力を尽くす人間の喜びがある反面、誰もが耐えなければならない悲しい死がある。ここでわれわれは生とは何か?、死とは何か?ということを真剣に考えさせられる。ヘミングウエイは死は避けることのできない厳然たる事実であると述べ、早かれ遅かれ、誰もが体験せねばならない運命だともいう。死が絶対であり、生が限られたものであり相対的なものであるあるならば、その限られた生をいかに生きるかが問題になる。絶対とは神であり、相対とは人間である。医学の進歩は最終的には不老長寿を目指す。永遠を目指す。人間は神に向かって生きているのだと言えなくもない。目的を達成するために死力を尽くす。そのロマンをヘミングウエイは描く。それは神への道である。原罪を負って神の国から追放された人間が許されて神の国へと帰っていく道である。その条件は何度も繰り返すが目的のために死力を尽くすことである。そこには人間の持つ素晴らしさがある。人間への讃歌がある。生きることの素晴らしさがある。死は神の国へ向かう出発点であって終点ではない。しかし怠惰な人間は地獄に落ちる。
ヘミングウエイ作『海流の中の島々』上巻 下巻 沼澤沿治 訳
この作品は先に紹介した「移動祝祭日」と同じくヘミングウエイの遺作である。メアリー・ヘミングウエイ(ヘミングウエイの4番目の夫人)よって出版元のチャールズ・スクリプナー・ジュニアとの協力のもと、若干の編集(綴り字や句読点の訂正、作者が当然行ったと思われる若干の原稿のカットなど)の上、1978年に出版された。彼女はその「はしがき」において「この作品はすべてアーネストのもの、私は一切加筆いたしておりません」と述べている。他の作品と同じく抽象化を避けた切れ味のいい独特の文体は、判りやすく、読者の共感を呼んでいる。それ故イメージ化が簡単で『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』と並んで映画化されている。
この作品の制作年は明らかにされていないが、1946年~1947年及び1950年~1951年の2期にわたって執筆されたといわれている。オムニバス形式の3部作であり、第1章「ビミヒ」第2章「キューバ」第3章「洋上」と分かれており、第2次世界大戦中キュ―バに居を定めていたヘミングウエイの体験がもとになっている。
主人公のトマス・ハドソンは「何か秘密の仕事」をしている。その仕事の内容は第3章「洋上」に
おいて明らかにされる。彼は普段は世間に知られた画家であり「農場主」であるが、時に国からの指令を受けてUボート(ドイツの潜水艦 後に詳述)狩りに出かける。今回の指令は沈没したUボートから逃亡した乗組員を探し出し、これをせん滅することであった。彼は仲間とともに自己の「ピラール艇」に乗って敵を追い詰める。壮絶な銃撃戦が展開され、敵をせん滅するも、彼自身も致命傷を負う。彼は死を予感する。この死に至る必然性が第1章と第2章において明かされる。第1章においては3人の愛息の内、次男と3男が、第2章において長男の若トムが作戦飛行中にドイツ軍の対空艦艇によって撃墜され、戦死する。
3人の愛息の死は、ハドソンに多大な影響を与える。彼はこの悲劇を凍結し、思考停止を自らに課し、その悲劇を内に秘める。そして国からの指令を果たすことに専念する。しかし潜在意識に潜む苦しみや悲しみ、虚無感までも凍結することはできない。愛に対する絶望、報われることのない愛、その苦しみからの解放を行動によって補おうとする。「死は唯一の癒し、死以外のもので癒し得るような悲しみは多分真の悲しみではあるまい」と彼は思う。今の自分のやることは、Uボートから逃亡したドイツ兵を探し出し、せん滅することにある。最終的には遭遇した敵との間で壮絶な戦いが展開されるであろう。この指令を貫徹するという行為によって、彼は自らを死へと追い詰めていく。彼の心は虚無感に充ちており、常に孤独である。その延長戦上に死がある。死は彼にとって唯一の救いなのである。死は遅かれ早かれ万人に訪れる。早いか遅いかの違いである。死を考えることは生を考えることである。そして死の彼方に何があるのか?死はすべての終わりなのか、それとも出発なのか?『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』の中でヘミングウエイは愛する者の死を見つめた。死を前にして人はすべて孤独である。
第1章 ビミヒ
この作品の題名「海流の中の島々」の海流とは「ガルフ・ストリーム」すなわちフロリダ沖からキューバ沖にかけての大海流=メキシコ湾流を指している。島々とはビミヒ諸島のこと。英連邦の一つバハマ大国に属し、バハマ北西部、カリブ海に南北に連なるサンゴ礁の島々を指す。この海域はヘミングウエイにとっての人生における一つの活動舞台であり、パリのカルチェラタン、スペインの闘牛場、アフリカの山野と並び、彼の人生に多大な影響を与えた場所である。
この作品の主人公トマス・ハドソンは優れた画家であり、ハバナ(キューバの首府)郊外に大きな農場(フィンカ・ビビア)を持つが、年の大半をビヒミ群島の一つで気ままに過ごし、画家の仕事に精を出している。生活は豊かで、祖先から受け継いだ資産と、画家としての収入によって豊かな生活を享受している。しかし放縦になることを避け、我儘になるなら、自分の絵のためにだけに酷になるなら自分の仕事のためだけに、そして自分に規律を課し、また進んで規律を受け入れることを信条にしている。3人の息子がおり、長男の若トムは最初の妻の子であり、次男のデーヴィットと三男のアンドールは第2番目の妻の子である。しかし親権は元妻の側にあり、普段は離れて暮らしている。彼らは立派に成人していた。その彼らがハドソンのもとに会いに来るという。ハドソンは喜びを持って彼らを迎える。他にも登場人物は多くいるが、重要人物としては、南ビミヒ島に釣り用のキャビンを持つロジャー・デイヴィスとハドソン家のコック、エディーの名をあげれば十分であろう。ロジャーは決して喧嘩好きではないが、一人の無法に、しつっこくからむ男を殴り倒し、怪我をさせている。腕っ節は強いが心優しき、海の男であり、ハドソン親子に身内のように愛されている。この章のハイライトは二男デーヴィットの数時間(約6時間)に及ぶ大魚(千ポンドはあると思われる巨大なメカジキ)との死闘のシーンである。デーヴィットの針にかかった大魚は、逃れようとして暴れまわる。そうはさせじとデーヴィッドは頑張る。釣り上げる瞬間までいくが、大魚は姿は見せるものの、最終的にはつり落としてしまう。しかしデーヴィットはこの死闘により、手は血だらけ、背中に痛みを感じ、心身ともに疲れきるが、その大魚の姿を見ただけで満足する。この死闘を通じて彼はこの大魚に愛を感じる。一本の細長い釣り糸に結ばれた彼と大魚の間には愛が生じたのである。「奴をつり落としたことなんて屁とも思っちゃいない、今の僕は。記録なんてどうでもいいんだ。記録がどうこうなんて、前のそう思い込んでいただけ。いまは奴も元気で僕も元気なことがうれしい。敵じゃーないんだから、僕たち(上巻p227)」殺さないでよかったと思う。この船に同船したのがハドソン、若トム、アンドールの家族であり、ロジャーであり、コックのエディーである。彼らは優しく見守るが、助言はするもののけっして手を貸そうとはしなかった。自力で難局を突破する力をつけさせようとする。そこにあるのは素晴らしい家族愛である。それは第3章においてUボートからの逃走者を追い詰めていくハドソンたちの同胞愛に共通するものを感ずる。そこには目的を達成するために死力を尽くす男のロマンがある。ハドソンはデヴィッドの死闘の様子を絵に描きたいと思う。そして5週間の楽しく、充実した休暇は終りに近づく。この間ロジャーは旅の女性と恋をする。滞在期間は終り再会を誓って3人の兄弟は去り、ロジャーとオードリーという旅の女性も去っていく。ハドソンは一人っきりになる。このとき彼は大切な人と生きることの大切さ、かけがいの無い人が自分の横にいることの素晴らしさを身にしみて感じる。しかし今それらの人はいない。寂寥感がロジャーを襲う。その気持ちを紛らわすために絵に専念する。そんな、ある日、一通の電報が届く。それはデーヴィッドとアンドールの兄弟が、その母親とともに交通事故で死亡したという知らせであった。ハドソンは茫然自失する。息子達との絆が強められたばかりであり、その再会を楽しみにしていただけにその絶望は大きく、苦しみ、悲しみは如何ともしがたい。酒に溺れてみても覚めれば地獄である。ここからの再生はあるのだろうか?
第2章キューバ
この章は、ハドソンが「なにかたいへんな秘密の仕事をやっている」その出動と出動のつかの間の休暇中の物語である。この出動とはどんな仕事なのか、それについてはこの章では触れられていない。しかし敵国ドイツの潜水艦が関係しているらしい。この仕事の内容が明らかにされるのが第3章の「洋上」である。第1章の「ビミヒ」第3章の「洋上」が海を舞台にした壮大なロマンであるのに対して、この章はキューバ本土が舞台である。どこか陰鬱で、物憂い感じがする。この点第1章、第3章とは対照的である。この章ではヘミングウエイの日常生活がハドソンの名のもとに語られている。ハドソンの性格もその風貌もヘミングウエイそのものであり、別れた2人の妻たち、3人の息子もヘミングウエイの家族と同じである。ハバナ郊外にあるいわゆる「農場」も、作者の愛猫、愛犬たちも実名で登場している。メアリー夫人は「基本的にはフィクションであるが、かなり事実に基づいている」と述べている。
この章ではハドソンの飼っていた愛猫の話がされ、それと関連して、過去における妃殿下との情事の思い出話が語られる。そしてキューバの町並み、農村風景、史跡、貧民街の目に余る光景、今は寂れているが昔の色街の面影を残す光景、戦争(第2次世界大戦)に疲れ、苦しむ住民の悲惨な生活などがリアリスチックに語られている。これらの光景は出動の結果報告に大使館(陸軍参謀本部)に向かう途中に展開するのであるが、これは当時のキューバの生活そのものである。結果報告の帰りに寄ったのがレストラン兼居酒屋「フロリディータ」であり、そこはハドソンののなじみの場所であり、憩いの場所でもあった。そこでダイス賭博を楽しみ、娼婦律義屋リル(リリアン)と会話を楽しむ、などハドソンの日常生活が語られている。この章では若トム(空軍大尉)の戦死が明らかにされ、フロリディータで再開した若トムの母親に知らされ衝撃を与える。
ヘミングウエイとキューバ
ヘミングウエイは1938年~1960年までキューバに22年間住んでいる。40年からはキューバの首都ハバナ市郊外に「農場(フィンカ・ビビア)」を購入し、釣りに闘鶏、射撃、ハイアライ(一種のす歌手)、散策に楽しみ、創作に専念し『誰がために鐘は鳴る』『川を渡って木立ちの中に』『老人と海』『海流の中の島々』等世界の文学史に残る作品を世に出した。彼自身キューバを愛し、第2の祖国と考えていたという。キューバの自然を愛し、キューバの農民、漁民等の住民に欧米人にはない素朴さを感じそれを愛していたという。キューバ革命(1959年1月1日)に賛同し、革命前のキューバ共産党に多くのカンパを行っている。カストロ首相は彼の作品を愛し『誰がために鐘は鳴る』は3回以上呼んだと、絶賛している。
ヘミングウエイと猫
ヘミングウエイの猫好きは有名で、57匹の猫と、4匹の犬を飼っていた。そのため彼の屋敷は猫屋敷と呼ばれていた。面白いのは突然変異か近親相姦の結果かはわからないが、6本指の猫が生まれ遺伝したことである。ヘミングウエイはこれを幸運を呼ぶ猫として大切にしたという。この作品にもこれが反映している。ハドソンが特に愛したのはボイシ―という猫で、その息子に『大山羊』という猫がいた。この作品ではこの2匹が主に活躍するが、そのほかにウイリー、『一人ぽっちの次郎』。ちびっ子、毛皮屋、機動部隊、ウルフィー小父、おでぶ、王女、と数え切れない程の猫が飼われていた。王女はこれらの猫の祖母にあたり、その名の通り威厳に満ち、美しく、頭もよくデリケートで気位が高く、貴族的かつ愛情こまやかな猫であった。ハドソンはこの猫のような素晴らしい姫君と契りを結びたいと思っていた。その機会は訪れ契りを結ぶのであるが、この作品の全体の構成とはあまり関係がないのでその詳細は省略する。
ヘミングウエイと『フロリディータ』(レストラン兼居酒屋)
ヘミングウエイはハバナのレストラン兼居酒屋「フロリディータ」をこよなく愛し頻繁に訪れている。彼が好み愛飲したのがフローズンスタイルのカクテル『フローズン・ダイキリ』であり、それは『パパ・ダイキリ』と名付けられた。ここには多くの有名人(政治家、役人、農園主、沿岸警備隊員(FBI)、等)が訪れ、ヘミングウエイとの交流を深めたのである。勿論彼の仲間たちもここを利用した。また高級娼婦たちもここにたむろしており、良いお客の来るのを虎視眈々と狙っていた。律義屋リルもそのうちの一人であった。
第3章「洋上」
ハドソンとその仲間は何か秘密の仕事をしているらしい。前の章ではその仕事の内容は語られなかった。その仕事の内容がここで明らかにされる。それは海域調査という科学目的で近海を調査することにあったが、それは名目で実際には、キューバ近海の出没するドイツの潜水艦(Uボート)を探ることにあった。勿論、ハドソンの所有する艇は小型で潜水艦と戦うことはできないが、空気や水などを補給するために浮上するUボートを見つけて、その位置などの情報をガンタナモ基地に報告することにあった。しかし今回の指令は違っていた。それは連合軍側の空軍が撃沈した一隻の潜水艦の乗組員の動静を探ることであった。ハドソンが受けた電文には『西に向かい、入念に捜索を続行せよ』と云うものであり、これをせん滅せよとは書かれてはいなかったのである。だから、潜水艦の居場所が明らかになった段階でその位置を基地に報告し、戦いは軍に任せてもよかったのである。しかしハドソンはその先を考えていた。ハドソンは島の住民を皆殺しにし、住民の一人を水先案内人として拉致し、2隻の海亀船を奪って逃走するドイツ兵に対して任務を超えて義憤を感じ、これに復讐を誓う。そして見えざる敵を求めてマングローブの群生する島から島へと捜索を行う。そしてこの困難な追跡の結果、ようやく敵を発見し銃撃戦になる。この結果、敵をせん滅する。しかし通信士のピーターズは殺され、ハドソン自身も銃撃を受けて致命傷を負う。彼は死を予感する。
Uボートとは何か?
Uボート(ドイツ語ではウーボート、英語ではユーボート)第一次世界大戦から第二次世界大戦に活躍したドイツの潜水艦の名前である。その任務は海上封鎖及び通商破壊であり、その他に技術や物資の隠密輸送にも使用されていた。その戦果は甚だしく、第一次大戦では約300隻が建造され、連合国側の物資、兵員を輸送する商船の約5300隻が撃沈され、第二次大戦では、1131隻が建造され、終戦までに商船の約3000隻、空母2隻。戦艦2隻が撃沈された。このように連合国側はこのUボートの活躍により甚大な被害を被ったのである。「敵は今じゃあヴェネゼーラのウルガイ、ジャマイカのキングストーンの沖にも現れている。油槽船のルートならいたるところに現れる。ウルフバック(狼軍戦法)で群れをなして行動することもあるしな」「この海にも時々現れるよ」(下巻p、194)。これに対して連合国側も始めこそ劣勢であったものの、ようやくその対策に取り組み始め、様々な対潜水艦戦略、および戦術を展開し、最終的にはUボートを劣勢に追い込んだのである。第二次大戦時にはUボートはドイツから大日本帝国海軍にも寄贈されている。
登場人物
トマス・ハドソン:この作品の主人公、ドイツ兵を追跡する艇の艇長。
アントニオ:この艇の副長、コック。
ギルとアラ:ともにバスク人。スペイン内戦で敗れた人民戦線派の亡命者。キューバはスペインの元植民地であったため、そのよしみから多くの亡命者を受け入れた。
ピーターズ:通信士、ドイツ語が堪能。ドイツ人捕虜との会話に貢献した。銃撃戦で死亡
ヘンリーとホアン
これらの登場人物は海亀船を奪って逃走するドイツ兵を追跡する艇の乗組員であり、ハドソンの仲間である。いろいろの任務を分担して艇長のハドソンを助けた。
最後に
この作品は、第二次世界大戦中にキューバに居を定めていたころのヘミングウエイの体験をもとにして書かれたものではあるがメアリー夫人が言うように基本的にはフィクションである。
この作品には二つのロマンがある。一つは二男デーヴィッドの大魚との死闘、第二はドイツ兵の追跡と銃撃戦。それは読む者を感動に導くが、その反面、裏腹の関係でハドソンの3人の愛息の死、さらにハドソン自身の死という悲劇がある。目的を達成するために死力を尽くす人間の喜びがある反面、誰もが耐えなければならない悲しい死がある。ここでわれわれは生とは何か?、死とは何か?ということを真剣に考えさせられる。ヘミングウエイは死は避けることのできない厳然たる事実であると述べ、早かれ遅かれ、誰もが体験せねばならない運命だともいう。死が絶対であり、生が限られたものであり相対的なものであるあるならば、その限られた生をいかに生きるかが問題になる。絶対とは神であり、相対とは人間である。医学の進歩は最終的には不老長寿を目指す。永遠を目指す。人間は神に向かって生きているのだと言えなくもない。目的を達成するために死力を尽くす。そのロマンをヘミングウエイは描く。それは神への道である。原罪を負って神の国から追放された人間が許されて神の国へと帰っていく道である。その条件は何度も繰り返すが目的のために死力を尽くすことである。そこには人間の持つ素晴らしさがある。人間への讃歌がある。生きることの素晴らしさがある。死は神の国へ向かう出発点であって終点ではない。しかし怠惰な人間は地獄に落ちる。
ヘミングウエイ作『海流の中の島々』上巻 下巻 沼澤沿治 訳