死の家とは監獄のことである。マルクスの資本論の発行される1865年に溯る16年前(1945年)、ドストエフスキーは、フーリエのユートピア(空想的)社会主義者の集まりであるペラシェフスキー・サークルに参加するようになり、仲間と共に急進化し、出版の自由、農奴解放、裁判制度の改革を政府に要求した。そのため政治犯として逮捕され、死刑の判決を受ける。しかし処刑直前に恩赦が下され、4年のシベリア流刑と4年の兵役義務に減刑される。この4年間の獄中の体験と、見聞をアレクサンドル・ペトロ―ヴィチ・ゴリャンチコフの名のもとに語られたのが『死の家の記録(Записки Из Мертвого Дома)である。
地獄さながらの獄内は民族の坩堝でありロシア人は勿論として、ウクライナ人、ユダヤ人、ポーランド人、キルギス人など様々な国の囚人が収監されていた。そこには凄惨目を覆う笞刑があり野獣的な状態におちいった犯罪者の異常な心理があった。更に外界の自由に憧れ逃亡を図る囚人たちがいた。また彼らの中には他の囚人たちから離れてひたすら聖書ばかり読んでいる男、凶暴な飲んだくれ、日頃は大人しいが酒をのむと凶暴になる男、自分の信念を貫いて、改宗を迫る異教徒の教会を焼いた男、等など、囚人たちは罪を犯さざるをえない事情を抱えていたが、それがどんなに凶悪犯であっても、それぞれの心の底には、癒すことの出来ない悲しみを秘めていた。更に、このような囚人たちに特有な生活があると同時に、一般社会と同じく、窃盗、嫉妬心、ねたみ、密告、中傷、奸計、陰口、憎悪、喧嘩、看守、下士官に対する阿り、へつらい、囚人同士の友情、愛情、軋轢、貴族の囚人に対する差別意識、憎悪、敵意、恨み、等々の生活も存在していた。彼らの中には特殊技術を持つものもおり、理髪師、研磨工、下着職人、靴屋、指物師、宝石細工師などで彼らは手職を持つものとして、囚人仲間にとって便利な存在であると同時に外界とのつながりの中で商売が行われ、囚人の仲間に貧富の差が生まれていた。それは笞の元での、義務、苦役としての疎外された労働ではなく、本来的な労働であり、自己と自然との間の物質代謝であり、喜びでもあった。金をためた囚人の中には金貸しをして利子稼ぎをするものも存在していた。更に酒、タバコ、トランプ賭博など、本来禁じられていたにも拘らず、看守の目を盗んで、あるいは目こぼしを受けて、行われていた。勿論囚人による看守に対する袖の下があったことは言うまでも無い。それはまさに一般社会の縮図でもあった。地獄さながらの獄内の生活といっても、そこに楽しみや、癒しがなかったわけではなく、クリスマスの催し、外界からの一般人からの喜捨、贈り物は、囚人たちの楽しみでもあった。特に囚人たちによる、田舎芝居は楽しみの一つであり、囚人が台本を書き、役者を決め、囚人の監督のもとに、ボロをかき集めて衣装を作り、舞台を作り、演技をして囚人全体で楽しんでいた。そこにはすばらしい才能が発揮されていた。更に獄内に迷い込んできた猫や犬などの小動物も癒しの対象であった。囚人たちにはそれらを愛する優しい気持ちがあると同時に、食用にしたり、なめし皮にしたりもした。管理者はそれらが獄内の規則に反していてもあえて規制はしなかった。そこには飴と笞の政策があった。それは獄内における暴動を抑える働きがあり、その成功は管理者の成績になったのである。管理者は任官の期間中何ひとつ問題なく勤め上げ、帰国できることを最大の幸福と考えていたのである。
余談になるが、この記録に同性愛に関する叙述が一切無いのは不思議である。閉鎖された男性だけの社会、若い囚人も多く収監されている。当然、性の問題は囚人たち間では重要な課題になるはずである。街の女とのひそやかな性の交渉も描かれてはいても、看守の目を盗んで行わなければならないし、見つかれば恐ろしい笞刑が待っている。極めて危険な行為である。それよりも彼らが選ぶのは同性愛である。ここには男性の性衝動の強烈さがある。女がいなければ、男で済ます。同性愛はお互いのつぼを心得ているので一旦経験すると異性とのセックスに勝る喜びを経験するという。今、従軍慰安婦が問題になっているが、戦争と戦争の間、駐屯地には必ず売春宿が出現し兵士の性処理にあたるという。彼女たちは戦場から戦場に渡り歩く。これが従軍慰安婦である。性処理の問題は男だけの世界では不可欠である。戦後日本でも占領軍相手のバーやキャバレーなどの風俗営業が生まれ米軍の性処理を担当していた。今では死語になっているがONLYやパンパンガールが生まれたのもこの頃である。
獄内での同性愛の場合、美男子はまず狙われる。売春が行われ、倒錯したセックスが行われる。アナル(肛門)セックスやフェラチオ(口)である。強姦、輪姦が行われたという記録もあるが、それは危険な行為である。密告があり笞刑がある。獄内にはそれなりの自己を律する規則がある。これら同性愛に関する叙述が無いという事は、そこにその事実が無かったということではなく、宗教上の規制があり、社会的な規制があったと考えるべきであろう。そうでなければ、これだけ微にいり細に入り囚人たちの生活、心理を分析しているドストエフスキーが、この問題をす通りしている理由を理解できないのである。戦後、日本でもモーパッサンの『女の一生』『チャタレイ夫人の恋人』の性表現が問題になったのは良く知られていることである。
この獄中経験の後ドストエフスキーの作風は一変する。社会主義を捨てて、人間そのものに目を向けるようになる。本文の中で彼は次のように述べている。『もうそろそろばかの一つ覚えのように、環境に蝕まれたなどと、泣き言を云うのは止めて良いのではなかろうか?仮に環境が私たちの心の多くのものを、蝕んでいるのは本当だとしても、すっかり蝕み尽くしたわけではないし、それに抜け目の無いつぼを心得ているうそつきが、この環境という武器を使って、自分の弱みばかりか、時には明らかに自分の卑劣行為まで、特に口が上手く筆の立つ場合など実にたくみに覆い隠し、正当らしく見せかける事が出来るのである。』と。ここには社会悪を環境のせいだけにするいわゆる軽薄な社会主義思想に対する批判がある。しかし社会主義思想を捨てたとはいえ、ドストエフスキーの貧しき者、弱きものに対する愛と共感は変わることなく、より一層その後の作品の中に反映されている。その意味では社会主義を捨てたとはいえその心は真の社会主義者であったと言えるであろう。
この作品には全篇を貫く筋らしきものはないが、一貫として貫くテーマはサディイズムとマゾヒズムである。共に悪魔の世界である。これは人の第二の本性=裏の本性である。裏の本性とは人の潜在意識の中に潜み、人の性格を裏から規制するものである。もしも神が存在しなければ、日頃抑圧されていた裏の本性が表へ踊り出て、際限なく罪を犯すであろう。罪とはサディイズムであり、罰とはマゾヒズムである。神の存在しない世界、それがドストエフスキーの描く監獄である。監獄の中で人の獣性は際限なく繰り広げられる。
罪を犯した囚人に対する笞刑は凄惨を極める。1000回から5000回もの笞刑が行われる。100回も笞打たれれば、たいがいの囚人は息が詰まり失神する。それに水をかけて蘇生させ、再び笞刑を継続する。5000回ともなれば3~5日にかけて継続される。1000回もむち打たれれば背中は裂け、傷つき、血だらけになって病院に運ばれる。そして回復を待って笞刑は継続される。まさに地獄である。勿論笞刑には手心が加えられる場合もある。金銭が動く。多くの場合刑の執行官がこれを要求する。金のあるものは良いが無いものに対しては容赦の無い笞刑が行われる。
このような笞刑に対して快感を示す執行官がいた。笞打ちによって囚人の中に少しでも残っていた誇りや自尊心を完膚なきまで剥奪する。地にひれ伏し、哀願する囚人を見て『俺が刑を執行するのではない、法律が執行するのだ。我慢しろ』と、云い容赦の無い笞打ちを兵士に命令する。彼は笞刑の技術を愛し、芸術として愛し、その刑によってもがき苦しむ囚人の姿を冷たく見つめ享楽する。これを止めるものは誰もいない。法律によって、その権限を与えられているからである。彼の心に神はいない。人間の心が無いから、悪魔になって囚人をいたぶる。それによって快楽を得る。典型的なサディストである。これに反して囚人は苦しい笞刑に耐え、もがき苦しみ、死の苦しみを味わいながらも、最終的にはそれを快楽と感じる。痛みの中の快楽、これがマゾヒズムである。人間の心の中に潜む裏の本性としての獣性が、ここに完膚なきまでに表現される。
人間は『原罪』があるがゆえに、その本性は悪である(性悪説)。神がいなければ人は悪魔になる。その世界をドストエフスキーは、この『死の家の記録』のなかで描いたのである。しかし神のいない世界は監獄の中だけであろうか?行き着く先は世界の終末である。
地獄さながらの獄内は民族の坩堝でありロシア人は勿論として、ウクライナ人、ユダヤ人、ポーランド人、キルギス人など様々な国の囚人が収監されていた。そこには凄惨目を覆う笞刑があり野獣的な状態におちいった犯罪者の異常な心理があった。更に外界の自由に憧れ逃亡を図る囚人たちがいた。また彼らの中には他の囚人たちから離れてひたすら聖書ばかり読んでいる男、凶暴な飲んだくれ、日頃は大人しいが酒をのむと凶暴になる男、自分の信念を貫いて、改宗を迫る異教徒の教会を焼いた男、等など、囚人たちは罪を犯さざるをえない事情を抱えていたが、それがどんなに凶悪犯であっても、それぞれの心の底には、癒すことの出来ない悲しみを秘めていた。更に、このような囚人たちに特有な生活があると同時に、一般社会と同じく、窃盗、嫉妬心、ねたみ、密告、中傷、奸計、陰口、憎悪、喧嘩、看守、下士官に対する阿り、へつらい、囚人同士の友情、愛情、軋轢、貴族の囚人に対する差別意識、憎悪、敵意、恨み、等々の生活も存在していた。彼らの中には特殊技術を持つものもおり、理髪師、研磨工、下着職人、靴屋、指物師、宝石細工師などで彼らは手職を持つものとして、囚人仲間にとって便利な存在であると同時に外界とのつながりの中で商売が行われ、囚人の仲間に貧富の差が生まれていた。それは笞の元での、義務、苦役としての疎外された労働ではなく、本来的な労働であり、自己と自然との間の物質代謝であり、喜びでもあった。金をためた囚人の中には金貸しをして利子稼ぎをするものも存在していた。更に酒、タバコ、トランプ賭博など、本来禁じられていたにも拘らず、看守の目を盗んで、あるいは目こぼしを受けて、行われていた。勿論囚人による看守に対する袖の下があったことは言うまでも無い。それはまさに一般社会の縮図でもあった。地獄さながらの獄内の生活といっても、そこに楽しみや、癒しがなかったわけではなく、クリスマスの催し、外界からの一般人からの喜捨、贈り物は、囚人たちの楽しみでもあった。特に囚人たちによる、田舎芝居は楽しみの一つであり、囚人が台本を書き、役者を決め、囚人の監督のもとに、ボロをかき集めて衣装を作り、舞台を作り、演技をして囚人全体で楽しんでいた。そこにはすばらしい才能が発揮されていた。更に獄内に迷い込んできた猫や犬などの小動物も癒しの対象であった。囚人たちにはそれらを愛する優しい気持ちがあると同時に、食用にしたり、なめし皮にしたりもした。管理者はそれらが獄内の規則に反していてもあえて規制はしなかった。そこには飴と笞の政策があった。それは獄内における暴動を抑える働きがあり、その成功は管理者の成績になったのである。管理者は任官の期間中何ひとつ問題なく勤め上げ、帰国できることを最大の幸福と考えていたのである。
余談になるが、この記録に同性愛に関する叙述が一切無いのは不思議である。閉鎖された男性だけの社会、若い囚人も多く収監されている。当然、性の問題は囚人たち間では重要な課題になるはずである。街の女とのひそやかな性の交渉も描かれてはいても、看守の目を盗んで行わなければならないし、見つかれば恐ろしい笞刑が待っている。極めて危険な行為である。それよりも彼らが選ぶのは同性愛である。ここには男性の性衝動の強烈さがある。女がいなければ、男で済ます。同性愛はお互いのつぼを心得ているので一旦経験すると異性とのセックスに勝る喜びを経験するという。今、従軍慰安婦が問題になっているが、戦争と戦争の間、駐屯地には必ず売春宿が出現し兵士の性処理にあたるという。彼女たちは戦場から戦場に渡り歩く。これが従軍慰安婦である。性処理の問題は男だけの世界では不可欠である。戦後日本でも占領軍相手のバーやキャバレーなどの風俗営業が生まれ米軍の性処理を担当していた。今では死語になっているがONLYやパンパンガールが生まれたのもこの頃である。
獄内での同性愛の場合、美男子はまず狙われる。売春が行われ、倒錯したセックスが行われる。アナル(肛門)セックスやフェラチオ(口)である。強姦、輪姦が行われたという記録もあるが、それは危険な行為である。密告があり笞刑がある。獄内にはそれなりの自己を律する規則がある。これら同性愛に関する叙述が無いという事は、そこにその事実が無かったということではなく、宗教上の規制があり、社会的な規制があったと考えるべきであろう。そうでなければ、これだけ微にいり細に入り囚人たちの生活、心理を分析しているドストエフスキーが、この問題をす通りしている理由を理解できないのである。戦後、日本でもモーパッサンの『女の一生』『チャタレイ夫人の恋人』の性表現が問題になったのは良く知られていることである。
この獄中経験の後ドストエフスキーの作風は一変する。社会主義を捨てて、人間そのものに目を向けるようになる。本文の中で彼は次のように述べている。『もうそろそろばかの一つ覚えのように、環境に蝕まれたなどと、泣き言を云うのは止めて良いのではなかろうか?仮に環境が私たちの心の多くのものを、蝕んでいるのは本当だとしても、すっかり蝕み尽くしたわけではないし、それに抜け目の無いつぼを心得ているうそつきが、この環境という武器を使って、自分の弱みばかりか、時には明らかに自分の卑劣行為まで、特に口が上手く筆の立つ場合など実にたくみに覆い隠し、正当らしく見せかける事が出来るのである。』と。ここには社会悪を環境のせいだけにするいわゆる軽薄な社会主義思想に対する批判がある。しかし社会主義思想を捨てたとはいえ、ドストエフスキーの貧しき者、弱きものに対する愛と共感は変わることなく、より一層その後の作品の中に反映されている。その意味では社会主義を捨てたとはいえその心は真の社会主義者であったと言えるであろう。
この作品には全篇を貫く筋らしきものはないが、一貫として貫くテーマはサディイズムとマゾヒズムである。共に悪魔の世界である。これは人の第二の本性=裏の本性である。裏の本性とは人の潜在意識の中に潜み、人の性格を裏から規制するものである。もしも神が存在しなければ、日頃抑圧されていた裏の本性が表へ踊り出て、際限なく罪を犯すであろう。罪とはサディイズムであり、罰とはマゾヒズムである。神の存在しない世界、それがドストエフスキーの描く監獄である。監獄の中で人の獣性は際限なく繰り広げられる。
罪を犯した囚人に対する笞刑は凄惨を極める。1000回から5000回もの笞刑が行われる。100回も笞打たれれば、たいがいの囚人は息が詰まり失神する。それに水をかけて蘇生させ、再び笞刑を継続する。5000回ともなれば3~5日にかけて継続される。1000回もむち打たれれば背中は裂け、傷つき、血だらけになって病院に運ばれる。そして回復を待って笞刑は継続される。まさに地獄である。勿論笞刑には手心が加えられる場合もある。金銭が動く。多くの場合刑の執行官がこれを要求する。金のあるものは良いが無いものに対しては容赦の無い笞刑が行われる。
このような笞刑に対して快感を示す執行官がいた。笞打ちによって囚人の中に少しでも残っていた誇りや自尊心を完膚なきまで剥奪する。地にひれ伏し、哀願する囚人を見て『俺が刑を執行するのではない、法律が執行するのだ。我慢しろ』と、云い容赦の無い笞打ちを兵士に命令する。彼は笞刑の技術を愛し、芸術として愛し、その刑によってもがき苦しむ囚人の姿を冷たく見つめ享楽する。これを止めるものは誰もいない。法律によって、その権限を与えられているからである。彼の心に神はいない。人間の心が無いから、悪魔になって囚人をいたぶる。それによって快楽を得る。典型的なサディストである。これに反して囚人は苦しい笞刑に耐え、もがき苦しみ、死の苦しみを味わいながらも、最終的にはそれを快楽と感じる。痛みの中の快楽、これがマゾヒズムである。人間の心の中に潜む裏の本性としての獣性が、ここに完膚なきまでに表現される。
人間は『原罪』があるがゆえに、その本性は悪である(性悪説)。神がいなければ人は悪魔になる。その世界をドストエフスキーは、この『死の家の記録』のなかで描いたのである。しかし神のいない世界は監獄の中だけであろうか?行き着く先は世界の終末である。