ヨエル書 蝗(いなご)の襲来
はじめに
作者:預言者ヨエル(意味 主は神である)聖書にはペトエルの子としか表記されていない。詳細は不明。
成立時期:捕囚期以後、前500年ごろ
預言の対象:ホセア書は北を、ヨエル書は南を対象にしている。
預言の舞台:シオン、エルサレム(南ユダ)=イスラエル
本書の主題:蝗(いなご)の大群(反キリスト)の襲来による惨状から主の日(神の審判の日)を思う。その彼方に「主の日」をみる。
本書の構成
1.蝗の襲来による惨状から主の日を思う(1:1~2:11)。
2.その日を覚え、悔い改め、神に返れ(2:12~27)。
3.主の日の到来。悪の三位一体(サタン、反キリスト、偽預言者)の滅亡(2:28~3:21)。
概 略
ヨエル書は蝗の大群の襲来から始まる。
ヨエル書の主題は「主の日」である。「主の日」とは[終末]を現している。終末とは裁きであり自分の罪を悔い改めた者に対する回復である。このようにヨエル書には罪と裁きと回復が語られている。
蝗の大群の襲来によって、全ては喰いつくされ、飢饉を招く。イスラエルの大地は荒野になる(字義的解釈)。これは、諸国の民(アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ)の侵略と破壊の歴史も現している(比喩的解釈)。これを終末論的立場から見るとき、イスラエルの民が神に対して犯した罪に対する「さばき」である。目に見ることの出来ない神は、その裁きの杖として目に見える蝗=諸国の民を選び、イスラエルの民を罰したのである。しかし、これだけで終わっては片手落ちである。「主の日(終末)」は、裁きと同時に回復の恩寵についても語られなければならない。主はイスラエルの民を裁き、その罪から解放されるためには、その罪を認め(認罪)、悔い改める「嘆きの儀式」を行わねばならない。「わたしに立ち帰れ」と云う(終末論的解釈=黙示的解釈)。それは「主は自分の地をねたむほど愛し、自分の民をあわれまれた(2:18)」からである。また、「主は情け深く、怒るに遅く、恵みは豊かで、災いを思い直してくれるからだ(2:13参照)」。蝗の大群と諸国の民を送ってイスラエルの民を苦しめたことを「わたしは、あなた方に償おう(2:25参照」とまで言う。そこに主のイスラエルに対する深い愛を感じる。主の描くマスタープラン(創世記から黙示録まで)は完遂されねばならない。神が選び、恵みの契約まで結んだ民を自分のマスタープランを達成させるためには、その道具として選んだイスラエルを、その罪を罰しても、滅ぼすわけにはいかないのである。神はイスラエルの民に大艱難時代を与えるが、「千年王国」を預言する。この預言が達成された時、神のマスタープラン(ご計画)は完成する。
語句の説明
蝗の大群の襲来:単体としての蝗は、弱小な存在であるが、それが大群となった時、破壊力を持った強力な存在となる。かつて中近東にあった歴史的事実であり飢饉を起こし、イスラエルの民を飢えによって苦しめたという記録がある。諸国の民の象徴として描かれている。主の日の到来でもある。単体としての蝗は、イスラエルを、大群としての蝗は主を現している。主はその罪によりイスラエルを罰する。(「出エジプト10:12、黙示録(「ラッパ、金の鉢」の項参照)。
「主の日(終末)」: 「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇となり、月は血に変わる。しかし主の名を呼ぶ者はみな救われる(2:31~32)」。主の日こそ神の裁きと・その後に来る終末の回復の希望が現れる日である。この時、キリストが再臨する。
諸国の民:反キリストを指す。神はしばしば歴史においてご自身の民を矯正する目的のためにアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった強力な異邦の国を用いて来られた。それは神のマスタープランの最終ステージにおいても変わりはない。反キリストによる大艱難と云う試練を用いて、神はご自身の契約の民を回復させようとする。それが「見よ、わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時、わたしはすべての国民を集めヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく(3:1~2)」と宣言する。諸国の民はさばきの杖から、さばかれる側に回ったのである。このように「諸国の民」とはイスラエルに大艱難時代をもたらした異邦の大国(反キリスト)を指す。
嘆きの儀式: 悔い改めを示す儀式,断食、清めの集会。「主に仕える長老、祭司たちと、この国に住む全ての者をあなた方の神=主の宮に集めて、主に向かって叫べ「主よあなたの民をあわれんで下さい(2:15~17)」と。
主の描くマスタープラン: 聖書の最初の創世記から最後の黙示録までは神の描くマスタープランの最初と最後である。この過程は主の支配の過程である。主は言う「わたしはαであり、Ωである」と。
旧約聖書における神の約束は、神の掟を誤りなく、確実に守ることの出来る人に永遠の命と祝福(神の国)を与えるというものであった。そのために神はイスラエルの民を選び、彼らを契約の民にしたのである。イスラエルの祖アブラハムに対して神は言う「わたしの前で全きものであるなら、汝に大地を与え子々孫々の増大繁栄を保証しよう」と。しかし、旧約聖書には、イスラエルの民が神の掟を全く守らず、それどころか、異邦の神(バアル神)を拝し、神に反逆し、敵対したことが記録されている。旧約聖書は、神とイスラエルの民との間の葛藤の物語である。神は怒り、終末の近いことを預言し、彼らに大艱難時代を与える。その苦難の時は神が恵みの契約を果たす前のWait(待て)の期間であった。神に逆らい続ける民は変えられなければならない。神はイスラエルの民が成長し、自分に立ち返るならば回復の恩寵を与えようと預言する。そのためには時を要するのである。大艱難時代は神がおのれのマスタープランを達成する為には必要不可欠の一過程だったのである。
本来なら、神が人類を創造し、楽園を造った段階で神の国は自己完結していた筈である。しかし、神の似姿として現れ、楽園の住人となった人類最初の人アダムとエバがヘビに誘惑され最初の罪びと(原罪)となった。それ故アダムとエバは楽園を追放され、楽園は閉じられた(失楽園)。
閉じられた楽園の扉は開かれなければならない。
ここに神のマスタープランが生じる。そのための道具として選ばれたのが、イスラエルの民であった。しかし、マスタープランの完遂を妨げるために現れたのがサタンであった。サタンは、もとは神に仕える天使であった。神に反逆して天上から地上に落されサタンとなった(堕天使)。地上でサタンは諸国の民(反キリスト)に乗り移り、イスラエルの民を苦しめる。それ故、神はどんなにイスラエルの民が自分に反抗しようと、これを罰しても、滅ぼすことをしなかったのである。
神のマスタープラン達成の背後に一貫として貫く思想は、イスラエルの民に対する、神の愛であった。その愛ゆえに諸国の民に乗り移り、自分の計画を妨げるサタンと戦い、これに勝利するのである。その彼方にメシア王国があった。
章ごとの説明
第一章わたしを信じてわたしに返れ。主の日は近い.
預言者ヨエルに対する主の言葉。
1.全てを喰いつくす蝗が襲来する。
2.諸国の民による攻撃と破壊が起る
その結果イスラエルは荒廃し荒野になる。
これはイスラエルの民が神に対して犯した罪に対する裁きの預言であった。
神は言う「認罪と悔い改めの儀式を行い主に立ち返れ」
民は応える「主よ、あなたを呼び求めます。救ってください」
主の日は近い。第一章では主の日が来る予兆が語られている。
第二章主の日が来る→その日は近い
「諸国の民」によってイスラエルの大地は破壊される(大艱難時代)。彼らが来る前は「この国はエデンの園のようであるが、彼らの去った後は荒れ果てた荒野になる(2:3参照)。これは神に逆らい続けたイスラエルに対する神の「さばき」であった。それ故、神は「悔い改めよ、断食の布告をし、きよめの集会の布告を出せ、あなた方の神=主に立ち返れ」と勧告する。主は悔い改め、自分に立ち返ったものには、その災いを思い直し、あわれみ、祝福するからである。イスラエルはこの勧告に従う。「主よ、あなたの民をあわれんで下さい。」私は悔い改めます。主はこれに応える「わたしはあなた方を「諸国の民」の間でそしりとしない」「わたしがあなた方に送った蝗の大群、「諸国の民」が喰い尽くした年々を、わたしはあなた方に償なおう」。主はイスラエルの罪を罰しても「主は自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」のである。イスラエルの民を苦しめた「諸国の民」はこの地から排除された。その後、主は「主の王国」(千年王国)の到来を預言する。主は言う「あなた方は、イスラエルの真ん中にわたしがいる事を知ろう」と。大艱難時代、その終了、「主の日」の到来が預言される。
第三章 主の日の到来
第三章ではユダとエルサレムの復活が預言される。主によって諸国に散らされた捕囚の民は帰還する。聖戦が布告され、神と諸国の民の最後の戦い(ハルマゲドンの戦い)が行われ、彼らに対する裁きが下る。自然界に大変動(蝗の襲来)が起り天も地も震える。しかし主はイスラエルの民の避けどころイスラエルの子らの砦」である。悔い改めた者は守られる。その彼方にメシア王国が、新天新地がある。ユダとエルサレムは永遠の地になり主の支配する所となる。「エデンの園」は回復する。ここに神のマスタープランは完成し、これを妨げるものは存在しない。
はじめに
作者:預言者ヨエル(意味 主は神である)聖書にはペトエルの子としか表記されていない。詳細は不明。
成立時期:捕囚期以後、前500年ごろ
預言の対象:ホセア書は北を、ヨエル書は南を対象にしている。
預言の舞台:シオン、エルサレム(南ユダ)=イスラエル
本書の主題:蝗(いなご)の大群(反キリスト)の襲来による惨状から主の日(神の審判の日)を思う。その彼方に「主の日」をみる。
本書の構成
1.蝗の襲来による惨状から主の日を思う(1:1~2:11)。
2.その日を覚え、悔い改め、神に返れ(2:12~27)。
3.主の日の到来。悪の三位一体(サタン、反キリスト、偽預言者)の滅亡(2:28~3:21)。
概 略
ヨエル書は蝗の大群の襲来から始まる。
ヨエル書の主題は「主の日」である。「主の日」とは[終末]を現している。終末とは裁きであり自分の罪を悔い改めた者に対する回復である。このようにヨエル書には罪と裁きと回復が語られている。
蝗の大群の襲来によって、全ては喰いつくされ、飢饉を招く。イスラエルの大地は荒野になる(字義的解釈)。これは、諸国の民(アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ)の侵略と破壊の歴史も現している(比喩的解釈)。これを終末論的立場から見るとき、イスラエルの民が神に対して犯した罪に対する「さばき」である。目に見ることの出来ない神は、その裁きの杖として目に見える蝗=諸国の民を選び、イスラエルの民を罰したのである。しかし、これだけで終わっては片手落ちである。「主の日(終末)」は、裁きと同時に回復の恩寵についても語られなければならない。主はイスラエルの民を裁き、その罪から解放されるためには、その罪を認め(認罪)、悔い改める「嘆きの儀式」を行わねばならない。「わたしに立ち帰れ」と云う(終末論的解釈=黙示的解釈)。それは「主は自分の地をねたむほど愛し、自分の民をあわれまれた(2:18)」からである。また、「主は情け深く、怒るに遅く、恵みは豊かで、災いを思い直してくれるからだ(2:13参照)」。蝗の大群と諸国の民を送ってイスラエルの民を苦しめたことを「わたしは、あなた方に償おう(2:25参照」とまで言う。そこに主のイスラエルに対する深い愛を感じる。主の描くマスタープラン(創世記から黙示録まで)は完遂されねばならない。神が選び、恵みの契約まで結んだ民を自分のマスタープランを達成させるためには、その道具として選んだイスラエルを、その罪を罰しても、滅ぼすわけにはいかないのである。神はイスラエルの民に大艱難時代を与えるが、「千年王国」を預言する。この預言が達成された時、神のマスタープラン(ご計画)は完成する。
語句の説明
蝗の大群の襲来:単体としての蝗は、弱小な存在であるが、それが大群となった時、破壊力を持った強力な存在となる。かつて中近東にあった歴史的事実であり飢饉を起こし、イスラエルの民を飢えによって苦しめたという記録がある。諸国の民の象徴として描かれている。主の日の到来でもある。単体としての蝗は、イスラエルを、大群としての蝗は主を現している。主はその罪によりイスラエルを罰する。(「出エジプト10:12、黙示録(「ラッパ、金の鉢」の項参照)。
「主の日(終末)」: 「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇となり、月は血に変わる。しかし主の名を呼ぶ者はみな救われる(2:31~32)」。主の日こそ神の裁きと・その後に来る終末の回復の希望が現れる日である。この時、キリストが再臨する。
諸国の民:反キリストを指す。神はしばしば歴史においてご自身の民を矯正する目的のためにアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった強力な異邦の国を用いて来られた。それは神のマスタープランの最終ステージにおいても変わりはない。反キリストによる大艱難と云う試練を用いて、神はご自身の契約の民を回復させようとする。それが「見よ、わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時、わたしはすべての国民を集めヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく(3:1~2)」と宣言する。諸国の民はさばきの杖から、さばかれる側に回ったのである。このように「諸国の民」とはイスラエルに大艱難時代をもたらした異邦の大国(反キリスト)を指す。
嘆きの儀式: 悔い改めを示す儀式,断食、清めの集会。「主に仕える長老、祭司たちと、この国に住む全ての者をあなた方の神=主の宮に集めて、主に向かって叫べ「主よあなたの民をあわれんで下さい(2:15~17)」と。
主の描くマスタープラン: 聖書の最初の創世記から最後の黙示録までは神の描くマスタープランの最初と最後である。この過程は主の支配の過程である。主は言う「わたしはαであり、Ωである」と。
旧約聖書における神の約束は、神の掟を誤りなく、確実に守ることの出来る人に永遠の命と祝福(神の国)を与えるというものであった。そのために神はイスラエルの民を選び、彼らを契約の民にしたのである。イスラエルの祖アブラハムに対して神は言う「わたしの前で全きものであるなら、汝に大地を与え子々孫々の増大繁栄を保証しよう」と。しかし、旧約聖書には、イスラエルの民が神の掟を全く守らず、それどころか、異邦の神(バアル神)を拝し、神に反逆し、敵対したことが記録されている。旧約聖書は、神とイスラエルの民との間の葛藤の物語である。神は怒り、終末の近いことを預言し、彼らに大艱難時代を与える。その苦難の時は神が恵みの契約を果たす前のWait(待て)の期間であった。神に逆らい続ける民は変えられなければならない。神はイスラエルの民が成長し、自分に立ち返るならば回復の恩寵を与えようと預言する。そのためには時を要するのである。大艱難時代は神がおのれのマスタープランを達成する為には必要不可欠の一過程だったのである。
本来なら、神が人類を創造し、楽園を造った段階で神の国は自己完結していた筈である。しかし、神の似姿として現れ、楽園の住人となった人類最初の人アダムとエバがヘビに誘惑され最初の罪びと(原罪)となった。それ故アダムとエバは楽園を追放され、楽園は閉じられた(失楽園)。
閉じられた楽園の扉は開かれなければならない。
ここに神のマスタープランが生じる。そのための道具として選ばれたのが、イスラエルの民であった。しかし、マスタープランの完遂を妨げるために現れたのがサタンであった。サタンは、もとは神に仕える天使であった。神に反逆して天上から地上に落されサタンとなった(堕天使)。地上でサタンは諸国の民(反キリスト)に乗り移り、イスラエルの民を苦しめる。それ故、神はどんなにイスラエルの民が自分に反抗しようと、これを罰しても、滅ぼすことをしなかったのである。
神のマスタープラン達成の背後に一貫として貫く思想は、イスラエルの民に対する、神の愛であった。その愛ゆえに諸国の民に乗り移り、自分の計画を妨げるサタンと戦い、これに勝利するのである。その彼方にメシア王国があった。
章ごとの説明
第一章わたしを信じてわたしに返れ。主の日は近い.
預言者ヨエルに対する主の言葉。
1.全てを喰いつくす蝗が襲来する。
2.諸国の民による攻撃と破壊が起る
その結果イスラエルは荒廃し荒野になる。
これはイスラエルの民が神に対して犯した罪に対する裁きの預言であった。
神は言う「認罪と悔い改めの儀式を行い主に立ち返れ」
民は応える「主よ、あなたを呼び求めます。救ってください」
主の日は近い。第一章では主の日が来る予兆が語られている。
第二章主の日が来る→その日は近い
「諸国の民」によってイスラエルの大地は破壊される(大艱難時代)。彼らが来る前は「この国はエデンの園のようであるが、彼らの去った後は荒れ果てた荒野になる(2:3参照)。これは神に逆らい続けたイスラエルに対する神の「さばき」であった。それ故、神は「悔い改めよ、断食の布告をし、きよめの集会の布告を出せ、あなた方の神=主に立ち返れ」と勧告する。主は悔い改め、自分に立ち返ったものには、その災いを思い直し、あわれみ、祝福するからである。イスラエルはこの勧告に従う。「主よ、あなたの民をあわれんで下さい。」私は悔い改めます。主はこれに応える「わたしはあなた方を「諸国の民」の間でそしりとしない」「わたしがあなた方に送った蝗の大群、「諸国の民」が喰い尽くした年々を、わたしはあなた方に償なおう」。主はイスラエルの罪を罰しても「主は自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」のである。イスラエルの民を苦しめた「諸国の民」はこの地から排除された。その後、主は「主の王国」(千年王国)の到来を預言する。主は言う「あなた方は、イスラエルの真ん中にわたしがいる事を知ろう」と。大艱難時代、その終了、「主の日」の到来が預言される。
第三章 主の日の到来
第三章ではユダとエルサレムの復活が預言される。主によって諸国に散らされた捕囚の民は帰還する。聖戦が布告され、神と諸国の民の最後の戦い(ハルマゲドンの戦い)が行われ、彼らに対する裁きが下る。自然界に大変動(蝗の襲来)が起り天も地も震える。しかし主はイスラエルの民の避けどころイスラエルの子らの砦」である。悔い改めた者は守られる。その彼方にメシア王国が、新天新地がある。ユダとエルサレムは永遠の地になり主の支配する所となる。「エデンの園」は回復する。ここに神のマスタープランは完成し、これを妨げるものは存在しない。
平成29年11月14日(火)報告者 守武 戢 楽庵会