日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヘミングウエイ作『老人と海』神との対決

2010年07月03日 | Weblog
 この作品はアーネスト・ヘミングウエイの晩年の中編小説で、登場人物は老漁夫(サンチャゴ)と少年(マノーリーン)の2人だけである。1951年に書かれ、1952年に出版された。世界的なベストセラーとなり、ノーベル文学賞を受賞したのはこの作品によるところが多いといわれている。
 この作品には女性は登場しない。海と老漁夫と少年だけである。しかし海はスペイン語でラ・マルという女性名詞である。ヘミングウエイは海をこよなく愛し、これを恋人と考えていた。海は時には恋人のごとく優しく、喜びや幸せを与えてくれると同時に、時には厳しく人に死をも与える。 この作品は、海を中心にして一人の老漁夫サンチャゴの巨大なマカジキとの死闘を通じて、海の持つ自然の厳粛さと、それに対決する人間の孤独な戦いを描いたものである。ここにヘミングウエイの人生観を見ることが出来る。
 ヘミングウエイが神を信じていようといなかろうと、唯物論者であろうとなかろうと、社会主義者であろうとなかろうと、意識していようといまいと、そんなことは一切関係がない。ただ一つ言えることは彼の心の奥底には神が潜んでいるということである。自然を神とみなすならば、神に対決する人間の姿がこの作品で描かれる。そして敗れ去る。人間は神の前では無力なのであろうか?

  この物語のあらすじ
 この作品の主人公サンチャゴは、メキシコ湾流に小舟を浮かべ漁を生業とする老漁夫である。このところどういうわけか84日も一匹も釣れない日が続いた。最初こそアシスタントとして付いていた少年も、両親からの命令によって離れて云った。運から見放された人間と見做されたのである。それ以来、老人は一人で漁に出掛けるようになった。しかし少年は同船はしないものの、漁に出掛ける前の段取り、帰ってきてからの片づけなど、かいがいしく親身になって老人の世話を見た。二人は愛し合っていたのである。老人は少年に漁の何たるかを教え、実地にも訓練した。お陰で少年は立派に成長した。
 老人はかってアフリカ通いの帆船の水夫であった。その名残が今もとどめ、老いてはいたがなおも力がこもっていた。自分の仕事に誇りを持ち、その目は不屈の闘志に輝いていた。
 その老人が85回目の漁に出かけることになった。少年は親身になって老人の出発準備を手伝う。
  第一日目
 早朝のまだ暗がりの中を老人は大海を目指して漕ぎ出していった。日が明け、太陽が昇ってから2時間がたった。一匹の大魚が餌に食らいついた。85日目の成果である。この大魚を逃すわけにはいかない。大魚の食らいついている綱を背中に回し、それを伸ばしたり引いたり、魚の微妙な動きに応じて対応しなければならない。大魚との間には駆け引きが必要である。老人は一人、大魚は一匹。互いに孤独な闘いが始まる。4時間たっても大魚は疲れも見せずに悠々と泳ぎ、すきあらば綱から逃れようと動く。その微妙な動きに合わせて老人も動く。対応を誤ると大魚は綱を切って逃げてしまう。それだけの強さと、大きさを持った大魚である。老人は細心の注意を払う。この日は格別な動きはなかった。かくしてこの日は終る。
  第2日目
 夜が明けてもいまだ疲れも見せずに悠々と泳ぐ大魚に老人は感嘆する『俺はお前が好きだ、どうしてどうして見上げたものだ。だが俺は必ずお前を殺してやるぞ』と叫ぶ。今日中には片をつけようと思う。食事をするにも、排せつするにも、睡眠をとるにも背中にまわした綱を外すわけにはいかない。そんな不自然な姿勢を取り続けていた為、背中はすっかり硬直し痛みすら感じ始めた。大魚は自由に動き回りその動きを予測できない。対応を誤って不覚にも倒されたり、海に引きずり込まれそうになる。これではどちらが釣りをしているか判らない。魚も必死なのだ。老人は傷つき右手は血だらけ、左手はひきつる。今、老人の背中は硬直し、眠らないために、めまいを感じる。疲れは限界に達していた。それでも闘わなければならない。綱を切れば自分も楽になるし、大魚も解放される。悪いことは何もない。しかしと老人は考える。あいつだって戦っているのだ、おれだって不屈の意志と知恵を振り絞って奴と闘うことが、奴に対する礼儀なんだ、と。
 老人は少年のことを思う。彼がいればどんなに楽か判らない。彼のありがたさを身にしみて感ずる。しかし今、彼はいない。孤独な闘いは続く。ついに大魚はその姿を海上に現す。巨大なマカジキである。『この船より2フィートは長いぞ』老人はその大きさ、美しさに感動する。マカジキは空気を一杯吸って再び海底へと潜っていく。マカジキとの駆け引きは続く。これを誤れば、マカジキは綱を引きちぎって逃げていくであろう。逃がすわけにはいかない。幸いにもひきつっていた左手は屈伸運動と太陽の温かみによって動くようになる。彼は神に祈る。無事に大魚を釣り上げれるよう心から祈る。この闘いはいつまで続くのであろうか?食料は魚を釣って補えても、水はわずかしかない。大分沖に出ている。遭難の恐れすらある。力をつけるために食事をし、睡眠に就く。眠りに就いたものの、激しい衝撃で目が覚める。マカジがキが海上に飛びあがったのである。右手に傷が付いていた。マカジキは何度も何度も飛び上がった。さすがのマカジキも弱ってきたのである。釣り上げるチャンスが訪れたのである。いよいよ戦闘開始である。
  第3日目
 3度目の太陽が昇った。マカジキは疲れと痛みと空腹に耐えかねて輪を描き始めた。そして2時間が経過する。輪は次第に小さくなり、マカジキは海面に浮かびあがってくる。釣り上げるチャンスは訪れるが、マカジキと同様老人の疲労も限界に達していた。しかし老人は渾身の力を振り絞って海面に現れたマカジキヲ船に引き寄せる。銛を思いっきり振り上げて横腹につきたてる。血があたり一面に広がる。マカジキは死んだ。お互いに死力を尽くした闘いは終る。獲物は大きすぎて船上にあげることはできない 老人はマカジキを船に縛り付ける。1500ポンドはくだらない代物だ。胴体はあくまでも長く、厚く、広く、美しく気品に満ち、銀色に輝き紫色の縞をめぐらし、まさに王者の風格だ。老人とメカジキは兄弟のように寄り添い、仲良く連れ立って帰路に就く。老人は夢でないことを願って何度も何度もその姿を確認する。この喜びのため傷の痛みは和らぎ、頭の状態もはっきりする。至福の時を迎えたのである。老人はこのメカジキを恋人のように愛したのである。
 しかし恐れていたサメの襲撃が始まる。海底に広がった血のにおいに引き寄せられてサメは襲ってくる。何度も何度も襲い肉を食いちぎって去っていく。そのたびに老人はこれを撃退するも、数度にわたる襲撃に老人は疲労困憊する。武器も失う。ついに愛すべきマカジキは頭と尻尾を残し胴体は骨だけになる。日は沈み夜となる。食いちぎられ肉の無くなったマカジキを狙って、それでもハイエナのようなサメは襲ってくる。もはや老人には為す術はない。かくして85回目の出漁は終る。老人にはマカジキと闘ったという証拠しか残らなかった。この死闘は単なる徒労だったのであろうか?老人はやっと港にたどり着き、船小屋に倒れこみ、死んだように眠りについた。
  第4日目
 早朝、少年が船小屋にやってきて老人の姿を発見する。少年は傷つき、疲れ切った老人を親身になり、かいがいしく面倒をみる。少年は云う『もう一度一緒に漁に出よう』と、しかし老人は云う『駄目だ、おれには運が付いていない。運に見放されちゃったのさ!』少年は云う『運って何だい』『運はおれが持つよ』。老人は少年の姿に自分の仕事を受け継いでいく、猛々しい漁師の姿を認めた。そこに草原の王者、ライオンの雄々しい姿をみた。老人は静かに眠りについた。その顔は安らかだった。

 ヘミングウエイはロストジェネレーションの一人であるといわれている。しかしヘミングウエイには失うべき何かがあったろうか?ロストジェネレーションとは旧制度の抑圧と対決しこれを否定するものの、だからと云って新しい秩序を作り出すことのできない悩みや苦しみを芸術に表現しようとした世代である。ヘミングウエイの作品を読む限りそこにはヨーロッパ人が切実に感じた哲学的な悩みはない。第一次世界大戦にしても、第2次世界大戦にしても、アメリカは戦争には参加するものの、アメリカ本土が戦場になったわけではない。そこがヨーロッパ諸国とは違っている。ヨーロッパのの抱えた深刻な課題はない。反対に戦争による特需によって潤ったのである。戦争はアメリカの経済発展に寄与したのである。戦後のドル高は海外への渡航を容易にし、ある程度のまとまったドルを持っていれば、海外での生活は本土に比べて余裕を持って行うことが出来たのである。アメリカからは未来のアーチストを夢見る若者たちが続々と『精神の解放区』と云われたパリに渡った。ヘミングウエイもその一人であった。
 アメリカは歴史の浅い国である。アメリカがイギリスから独立宣言をしたのは1774年である。第一次世界大戦が終了した1918年までには144年しかたっていない。ヘミングウエイはおそらく3世か4世であろう。彼にはヨーロッパの抱えた哲学的・思想的悩みはない。少なくとも自身の体験にはない。ヘミングウエイには失うべき何物もないはずである。そこがヨーロッパ人と異なる点である。ヘミングウエイにはヨーロッパ的意味での神はいない。ヨーロッパ人には神は自らを抑圧し、政治、経済、文化のあらゆる領域にわたって支配し、彼らを圧迫する対象でしかなくなっていた。時代は変革を要求していた。神は対決すべき対象であった。しかしヘミングウエイ(アメリカ人)にはヨーロッパ人が考えるような神はいない。ということは歴史の重みを支える思想がないということである。ヨーロッパの思想を考える場合、それを肯定するにしろ、否定するにしろ神の問題を抜きにして考えることはできない。この考えから、ヘミングウエイの文学を見る時、そこには深刻な哲学的問題はない。あるのは外面的な肉体的行動があるだけである。この作品の老人はその典型例である。そこには、ハードボイルド的リアリズムがあるだけであり、通俗的面白さがあるだけだと酷評する者(福田恒存)もいる。確かに若き頃のサンチャゴがニグロを相手に一昼夜に及ぶ腕相撲の末に勝利を収める話は面白い。
 しかしヘミングウエイには思想はないのだろうか?神はいないのだろうか?彼は内面的描写を避け、あくまでも外面的描写だけで物語を構成するが、それを通じて人間の内面的深層心理にに迫っていく。ヘミングウエイは神の創りたもうた自然をこよなく愛していた。彼は自然の中に神を見ている。それはヨーロッパ的意味での神ではなく、自然神であり、それは神の原初的形態である。
 この作品の中で老漁夫サンチャゴは魚の命を奪うことを罪と考え、それが食物連鎖であり自然界の掟であると悟りながらも、夫婦もののマカジキの話を思い出す。老漁夫サンチャゴがメスのマカジキを釣り上げ、それを殺して船に乗せるまでオスのマカジキが最後までメスのそばを離れなかった悲しい話である。人の罪とは何かが問われる。食物連鎖とはお互いがお互いをエサとする捕食関係を通じて自然界のバランスを保つことである。これによって生態系のバランスも保たれる。それは自然の掟であり、その意味ではすべての生き物は神の前では罪を背負っている。命を奪うことはいかなる理由があろうとも許されない罪なのである。ここで贖罪とは何かが問題になる。故にヘミングウエイに思想がないとは言えないし、神がいないとは言えないのである。
 老漁夫サンチャゴは自然(神)と対決する。一時的には勝利するが、最終的には敗れ去る。彼の行った死闘は、一見無駄な行為であったように思われるが、ヘミングウエイはこれだけで終わりにしない。少年が登場する。彼は老漁夫サンチャゴの意志と勇気を受け継ぎ、神との対決を誓う。人は神の前で決して無力ではない。
 今、人は不老長寿と宇宙開発に血道をあげている。永遠と無限に対する挑戦である。永遠も無限も共に神の領域である。人と神の対決は永遠に続くであろう。その結果がどうなるか、それはわからない。願わくば神からの反撃がないことを祈るのみである。

   アーネスト・ヘミングウエイ作『老人と海』福田恒存訳 新潮文庫