律法 それは愛か、拘束か?
ある女性が暴漢に襲われ、悲しみに沈んだ。その同じ女性が恋をし、喜びにふるえた。そこに共通してあるのは、肉体の結合である。しかし、同じ肉体的結合であっても、一方にあるのは、苦しみであり。悲しみであり、拘束である。しかし、他方にあるのは、喜びであり、感動であり、自由である。その違いはどこにあるのか?それを区別するものは、愛である。愛の無い肉体的結合は拘束に過ぎない。
神は、出エジプトを果たしたイスラエルの子らに律法を与えた。イスラエルの民は、それを愛と感じ、自由と感じるには、あまりにも未熟過ぎた。それを拘束と感じた。何か事があるたびに神に対して不満を抱き、反抗し、エジプト時代の奴隷生活を良し、とした。それはあくまでも奴隷の自由であった。奴隷は主人にとっては財産である。殺してはならず、食を保証しなければならない。それ故、身は安全である。しかし、絶対的服従を要求する。パンか自由か?神がイスラエルの子らに与えた恵みの約束は、あくまでも将来の話である。絶対的保証はない。少なくともイスラエルの子らにとってはそう感じた。神は信頼に値する存在では無かった。エジプトに戻ろうとする。彼らにとって現実の問題はパンであった。しかし、神は天から下った生けるパンである。イスラエルの子らにはそれが理解できなかた。神は怒り、イスラエルの子らに約束の地カナンにはいることを禁じる。モーセもアロンもカナンの地を目前にして没している。そして、40年が経つ。世代は交代し、神は、この世代に期待する(この辺の事情は旧約聖書「民数記」を読んでほしい)。
律法は神がイスラエルの子らに与えた愛である。しかし、それを愛と感じるには神に対する絶対的信仰=愛を必要とする。信仰の無い律法は単なる拘束に過ぎない。拘束である限り、不満が生じ、抵抗が起る。
パンか自由かの問題はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中でも問題にされている。人は自分に与えられた自由を、享受できるか?使いこなすことが出来るか?自由を使いこなすには卓越した知性を必要とする。それが衆愚政治に陥らない保証である。人は、自由であることの不安と過酷さに耐えうる事が出来るか?イスラエルの子らはシナイの荒野で、もがき苦しむ。それよりもパンの代償に自由を権力者(エジプト)に売り渡した方が幸せになれるのではないか?人は弱き存在である。キリストはパンを拒否し、愚かな民の代わりに、自由を求めて十字架に架かって死んだ。そこには神に対する愛がある。
イスラエルの子らは、出エジプトを果たし自由を得た。しかし、その自由を与えた神に反抗した。彼らは自由の意味を理解できなかった。ここにイスラエルの子らと神との間に葛藤がある。 彼らは神の前で完全では無かった。神はこれを罰した。
ある女性が暴漢に襲われ、悲しみに沈んだ。その同じ女性が恋をし、喜びにふるえた。そこに共通してあるのは、肉体の結合である。しかし、同じ肉体的結合であっても、一方にあるのは、苦しみであり。悲しみであり、拘束である。しかし、他方にあるのは、喜びであり、感動であり、自由である。その違いはどこにあるのか?それを区別するものは、愛である。愛の無い肉体的結合は拘束に過ぎない。
神は、出エジプトを果たしたイスラエルの子らに律法を与えた。イスラエルの民は、それを愛と感じ、自由と感じるには、あまりにも未熟過ぎた。それを拘束と感じた。何か事があるたびに神に対して不満を抱き、反抗し、エジプト時代の奴隷生活を良し、とした。それはあくまでも奴隷の自由であった。奴隷は主人にとっては財産である。殺してはならず、食を保証しなければならない。それ故、身は安全である。しかし、絶対的服従を要求する。パンか自由か?神がイスラエルの子らに与えた恵みの約束は、あくまでも将来の話である。絶対的保証はない。少なくともイスラエルの子らにとってはそう感じた。神は信頼に値する存在では無かった。エジプトに戻ろうとする。彼らにとって現実の問題はパンであった。しかし、神は天から下った生けるパンである。イスラエルの子らにはそれが理解できなかた。神は怒り、イスラエルの子らに約束の地カナンにはいることを禁じる。モーセもアロンもカナンの地を目前にして没している。そして、40年が経つ。世代は交代し、神は、この世代に期待する(この辺の事情は旧約聖書「民数記」を読んでほしい)。
律法は神がイスラエルの子らに与えた愛である。しかし、それを愛と感じるには神に対する絶対的信仰=愛を必要とする。信仰の無い律法は単なる拘束に過ぎない。拘束である限り、不満が生じ、抵抗が起る。
パンか自由かの問題はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中でも問題にされている。人は自分に与えられた自由を、享受できるか?使いこなすことが出来るか?自由を使いこなすには卓越した知性を必要とする。それが衆愚政治に陥らない保証である。人は、自由であることの不安と過酷さに耐えうる事が出来るか?イスラエルの子らはシナイの荒野で、もがき苦しむ。それよりもパンの代償に自由を権力者(エジプト)に売り渡した方が幸せになれるのではないか?人は弱き存在である。キリストはパンを拒否し、愚かな民の代わりに、自由を求めて十字架に架かって死んだ。そこには神に対する愛がある。
イスラエルの子らは、出エジプトを果たし自由を得た。しかし、その自由を与えた神に反抗した。彼らは自由の意味を理解できなかった。ここにイスラエルの子らと神との間に葛藤がある。 彼らは神の前で完全では無かった。神はこれを罰した。
平成26年6月27日(金)深夜祈祷会 祈る人 守武 戢