日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

律法:それは愛か、拘束か?

2014年06月29日 | Weblog
 律法 それは愛か、拘束か

 ある女性が暴漢に襲われ、悲しみに沈んだ。その同じ女性が恋をし、喜びにふるえた。そこに共通してあるのは、肉体の結合である。しかし、同じ肉体的結合であっても、一方にあるのは、苦しみであり。悲しみであり、拘束である。しかし、他方にあるのは、喜びであり、感動であり、自由である。その違いはどこにあるのか?それを区別するものは、である。愛の無い肉体的結合は拘束に過ぎない。
 神は、出エジプトを果たしたイスラエルの子らに律法を与えた。イスラエルの民は、それを愛と感じ、自由と感じるには、あまりにも未熟過ぎた。それを拘束と感じた。何か事があるたびに神に対して不満を抱き、反抗し、エジプト時代の奴隷生活を良し、とした。それはあくまでも奴隷の自由であった。奴隷は主人にとっては財産である。殺してはならず、食を保証しなければならない。それ故、身は安全である。しかし、絶対的服従を要求する。パンか自由か?神がイスラエルの子らに与えた恵みの約束は、あくまでも将来の話である。絶対的保証はない。少なくともイスラエルの子らにとってはそう感じた。神は信頼に値する存在では無かった。エジプトに戻ろうとする。彼らにとって現実の問題はパンであった。しかし、神は天から下った生けるパンである。イスラエルの子らにはそれが理解できなかた。神は怒り、イスラエルの子らに約束の地カナンにはいることを禁じる。モーセもアロンもカナンの地を目前にして没している。そして、40年が経つ。世代は交代し、神は、この世代に期待する(この辺の事情は旧約聖書「民数記」を読んでほしい)。
 律法は神がイスラエルの子らに与えた愛である。しかし、それを愛と感じるには神に対する絶対的信仰=愛を必要とする。信仰の無い律法は単なる拘束に過ぎない。拘束である限り、不満が生じ、抵抗が起る。
 パンか自由かの問題はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中でも問題にされている。人は自分に与えられた自由を、享受できるか?使いこなすことが出来るか?自由を使いこなすには卓越した知性を必要とする。それが衆愚政治に陥らない保証である。人は、自由であることの不安と過酷さに耐えうる事が出来るか?イスラエルの子らはシナイの荒野で、もがき苦しむ。それよりもパンの代償に自由を権力者(エジプト)に売り渡した方が幸せになれるのではないか?人は弱き存在である。キリストはパンを拒否し、愚かな民の代わりに、自由を求めて十字架に架かって死んだ。そこには神に対する愛がある。
イスラエルの子らは、出エジプトを果たし自由を得た。しかし、その自由を与えた神に反抗した。彼らは自由の意味を理解できなかった。ここにイスラエルの子らと神との間に葛藤がある。 彼らは神の前で完全では無かった。神はこれを罰した。
平成26年6月27日(金)深夜祈祷会 祈る人 守武 戢 

モーセ2『レビ記』とは(律法)

2014年06月15日 | Weblog
レビ記とは
 『レビ記』は旧約聖書の一書で伝統的に「創世記」「出エジプト記」に継いで3番目に位置付けられている。モーセ5書のうちの一書。内容は、ほとんどが神によってイスラエルの民に与えられた祭儀規定であり、律法である。種々の細則が描かれている。その内容の一部は、「出エジプト記」の後半部分と共通するものがある。
 レビ家の元祖レビはヤコブとその正妻レナとの間に生まれた第3子である。レビは3人の息子ゲルション、ケハト、メラリを生み、ケハトの子がアラム(妻はヨケベト)である。アラムがアロン(妻はエルシェバ)と、モーセを生む(出エジプト6:13~30)。
モーセは神に導かれて、その兄アロンと共に、出エジプトを果たし、シナイの荒野に至る。神はモーセにシナイ山に登る事を命じたが、アロンが共に登る事を許さなかった。シナイの荒野に残されたイスラエルの民の保護・管理という重要な役割を命じたのである。神はシナイの山でモーセに「十戒」を与える。しかし、約束の地=カナンは、あくまでも約束の地であって、いまだ、イスラエルの民のものではない。神は「あなたたちが私の与える土地に入ったならば」と、仮定の下に、十戒を与えたのである。
 ここから『レビ記』が始まる。
「レビ記」とは、祭司階級であるレビ人に対するもので、「レビ人のもの」と云う意味である。祭司階級とは、大祭司、祭司、彼らの補助役としてのレビ人に聖別される。神は、モーセをイスラエルの民の首長とし、アロンには大祭司の地位を与え、祭儀一切の指導を任せた。その子ら(アロンの子エアザルの家系の者)には祭司の地位を与えた。アロンの死後、その子らの最年長者が大祭司の地位を世襲し、他のレビ族を従わせた。彼らは、祭司を補助し、祭司と共に行動した。このように、レビ一族は祭儀一切を排他的に管理し、執り行い、他の部族を寄せ付けなかった。これに逆らうものは、死によって報いられた。このようにしてレビ一族は神によって聖別された「祭儀一族」と呼ばれるようになった。

 『レビ記』は、複雑多岐にわたっているのでまとめるのが非常に難しい。そこでKeywordになる言葉を探して、それを説明し、「レビ記」理解の一助にしたい。
 祭司階級
 祭司階級は大祭司、祭司、レビ人の3階級に分かれ、全てがレビ族の子孫である。レビ族は選ばれた民として、他のイスラエルの民とは、聖別された。民数記において神は「レビ族だけは他のイスラエル人と一緒に登録してはならない、またその人口調査もしてはならない」と云っている。それ故12部族からは外されている。各部族の中で祭儀を執り行った。祭司とは神と人間との間を仲介し、儀礼をつかさどる地位にあるものを言い、大祭司はその祭司たちの上に立つ首長である。祭司の任務の一つは、「聖なるものと俗なるもの、穢れたものと浄きものを区別する」ことにあった。絶対的他者として、聖なる領域と俗なる領域、浄き領域と穢れた領域は対立するが、儀礼を通じて俗なるものは聖なるものへ、穢れたものは浄きものへ、と変化する。穢れや悪から浄められる。これを媒介するものが聖職者(祭司)である。聖性の度合いの高い幕屋本体には、祭司一族だけが立ち入ることが出来た。移動の際にも、幕屋の構成部品に直接触れることのできたのは祭司一族だけである。祭司一族は神に属する聖なるものであり、したがって平信徒以上に浄き状態を保つことが義務付けられていた。例えば体に障害のあるものは、祭司として祭務には服しては成らず、酒を飲んでいるもの、穢れた病気にかかっているものも同様であった。祭司は近親者を除いて、葬儀に出席してはならず、祭司の妻や娘も貞淑な女性でなければならなかった。
モーセもアロンもレビ族の一員であり出エジプトに貢献したので、神によって選ばれ、神は、アロンに大祭司の地位が与えた。その他のレビ人は、下級管理者として、聖所(幕屋)の管理に当たり、儀式に必要な全ての用具、付属品を管理し、幕屋の周りに宿営し、幕屋の設営、取り外し、運搬に従事した。カナンに至る道には必要不可欠な存在であった。彼らは神と共に行動しイスラエルの民を、約束の地「カナン」へと先導した。
 供犠
 神に生贄を捧げる事。またその生贄。神と人との正しい関係を成立させるための宗教的儀礼として行われる。
その代表的なものに、全焼の供犠、浄罪の供犠、償いの供犠、和解の供犠がある。その他に、穀物の供犠、任職の供犠がある。
 全焼の供犠(燔祭):聖所で祭司によって捧げられる供犠のうちで最も重要視される供犠の一種。供えられた動物(牛、羊、山羊、鳥)穀物を、全部焼きつくして神にささげる儀式。動物の場合、捧げられるものは雄であり、傷の無い完全体でなければならない。皮を除き、犠牲獣全体を焼く尽くすのが特徴。それは、穀物の場合も同じで、傷の無い浄いものでなければならない。要するに、捧げものは、奉献者にとっても、神にとっても最上のものでなければならない。象徴的には、全てを捧げつくし煙にするという点で、神への全面的帰依、献身を表現する。みずからの命を捧げる代わりに、動物の血を捧げる。血は命である。祭司はその血を取って、祭壇に捧げる、
 浄罪の供犠:聖所で祭司によって神に捧げられる供犠の一種。主として罪や穢れを浄めるために捧げられる。原則として、不注意ないしは、意図せずに掟に抵触することを行った場合の贖罪のために捧げられ、意図的に行われた罪はこの供犠よって浄める事は出来ないとされた。出産後の女性、(血の穢れがあるとみなされた)、穢れたものとみなされた病気(例えばツァーラト=重い皮膚病)から癒えた者、死体に近づいたもの、誓願期間を満了したナジル人、祭司の任職式などにも捧げられた。具体的には、この供犠の血が聖所の祭具の特定の個所に塗りつけられる事により罪や穢れによって発生した聖所の祭儀的汚染が浄められた。
償いの供犠:語源的には『賠償』を意味する。聖所で祭司によって捧げられる供犠の一種。「浄罪の供犠」がより一般的罪の償いや穢れの浄めの為に捧げられるのに対し、償いの供犠は神(ないしは聖所)や、他人の権利や所有物に関して具体的な侵害が行われた場合、その損害を賠償するものとして捧げられる。したがって、原則的には、損なったものや、果たさなかった義務に対する補償・弁財やそれに加えられる賠償金の支払いを伴う。犠牲獣がいかなる場合でも雄牛に限られることや、その雄牛の価値が損害に対応するように「査定」されることもこの供犠の特徴の一つである。
 和解の供犠:聖所で祭司によって捧げられる供犠の一種。語源的には、「完全なものにする」「和解する」「和合する」「平和を保つ」と、平和を意味する。平信徒がその肉を食べることのできる唯一の供犠の種類。具体的には、祭司が脂肪に属する部分を祭壇で焼いて神にささげた後、犠牲獣の特定部分は、祭司の取り分となったが、肉のその他の部分には祭儀的に浄い状態にある参加者が、食べる事が出来た。これは、神と人とが、食事を通じて交歓し、喜びに満ちて、和解することを意味する。この供犠には、「感謝の捧げ物」「満願の捧げ物」「自発的な捧げ物」という三つの下位区分があり。更に過ぎ越しの犠牲や、祭司が任職式の際に捧げる任職の供犠も、和解の供犠の一類型であるとみなすことが出来る。

 『レビ記』には物語性は無いが、24章の10~16節には珍しく物語性のある個所があった。それを紹介する。神を冒涜するものへの処罰である。
イスラエル人の2人の男が喧嘩した。一方の男が神の名を誹謗して、これを軽んじた。人々は彼を監禁し、神の裁定を待った。神の裁定は厳しいものであった。彼は石打ちの刑に会って殺された。神は言う「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異邦人でも、この国で生まれたものでも、御名を冒涜するなら殺される」と。怖い神である。一言もその男の弁明を聞かず処断する。一神教の世界は、神の独裁の世界である。『レビ記』を読んでいるとそれを実感する。もっとも何も決まらない衆愚政治=民主主義よりはましなのかもしれない。
ヨベルの年についても書かねばならないと思うが、割愛する。要するに日本の中世に行われた徳政令のようなものと解釈すればよいであろう。神様もたまには良い事をする。律法で人を縛りつけるだけが能では無いでしょう。

 レビ記は5つの大項目と100以上の小項目に分ける事が出来る。
儀式の方法、形式、清浄と不浄の規定など祭司のための規定集(1章~16章)
1、供物奉献の細則(1章~7章) 捧げ物に関する規定
2、幕屋における礼拝の開始(8章~10章) アロンの故事と、それにちなむ祭司の聖別などの規定
3、浄いものと穢れたもの(11章~15章) 清浄と不浄に関する規定
4、贖罪の日(16章) 贖いの儀式

 全ての民に向けた規定集
5、神聖法典(17章~27章)
17章:捧げものと動物の扱いに関する規定
18章:厭うべき性関係に関する規定
19章:神と人との関係におけるタブーに関する規定
20章:死刑に関する規定、正しい性関係、聖なる生活
21章:祭司の汚れに関する規定
22章:捧げものに関する規定
23章:祝い日に関する規定
24章―1:幕屋に関する規定(1~9節) 
24章―2:神の冒涜などに関する規定(10~23節)
25章:安息年とヨベルの年に関する規定
26節:偶像崇拝の禁止と、祝福と呪いに関する規定
27章:誓いと関係する捧げ物の規定
の5つ、である。(注 この分類は、私自身の分類では無く、旧約聖書翻訳委員会訳、岩波書店刊「旧約聖書、『出エジプト記、レビ記』」)の分類に従ったものである)。
平成26年6月10日(火)
報告者 守武 戢 
楽庵会

見返りの愛=与える愛とは

2014年06月05日 | Weblog


    見返りの愛=与える愛とは
 
人が信じるか否かは別として、私たちが生きていく上で欠かせないものが神の存在です。しかし、普段その存在を意識する事はありません。神は目に見えない存在だからです。しかし、神は永遠にわれわれと共にあります。
 苦しい時の神頼みと云う言葉があるように、何か事が起った時、困難に出合った時、悲しみに打ちひしがれた時、私たちは『OH MY GOD』と叫びます。人とは全く勝手な存在です。そんなときにしか意識しないのが神です。神はそんな人にも恵みを与えてくれます。いや、そんな人のために神は存在するのです。癒すべき心を与え、進むべき道を啓示してくれます。
 神の恵みはこれだけではありません。「感謝」と云う言葉を与えてくれます。私たちは『ありがとう』と云う言葉を使います。食事をする時、その恵みを感謝します。美しい自然、素晴らしい芸術作品に接した時、それに感動し、拍手をします。それは感謝の気持ちです。それは神の恵みに対する喜びであり、癒しであり、感動です。
 しかし、これは受ける愛です。他方、与える愛もあります。
受けた愛に対しては返していく愛が必要です。それは、人が神に与える愛です。神の愛は無償の愛だという人がいます。それは一般の人の神理解です。果たしてそうでしょうか?神は人に恵みを与え、その見返りを求めないでしょうか?
 神は、アブラハムに「カナン」の地を与え、その子孫の増大、繁栄を約束しました。その代わり、自分に対して、『完全であれ』と云っています。『割礼』を施せと言っています。それは神に対する絶対的服従であり、絶対的信仰です。その証拠に、神は人に親子・兄弟・姉妹、友人、恋人、親族、財産など全てを捨てろと言っています。それが、煩悩を作りだし、罪を生むからです。しかし、それが人間です。人は生まれながらに罪を背負っているのです。
 神は裏切りを許しません。裏切りに対しては死をもって報います。
 確かに、神は全ての人に対して、門戸を開いています。誰でも入る事は出来ます。しかし、神を知ること、神と交わり、信仰に生きることはたやすいことではありません。神は人知を超えた存在だからです。神に至る道は、奥が深く、「狭き門」です。
 イスラエルは、南北両王朝が滅亡後、『約束の地=カナン』を喪失し、放浪の民となりました。そこにはイスラルの民の罪があり、神の処罰があったのです。そのように、旧約聖書は述べています。1948年のイスラエル国家の建国は神とイスラエルの民との間に和解があったと考えて良いでしょう。神は契約をお守りになるお方です。
 私たちは常に神の声を聞き、自分を見つめ直し、自分は神にとって完全であるかどうかを確認することが必要なのです。受ける愛から与える愛へ、向きを変えて出発せよ。それが神の意志なのです。
 それが忘れ去られているのが現在です。
平成26年5月30日(金) 
祈る人 守武 戢 
深夜祈祷会
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