ドストエフスキーの『罪と罰』には、ラスコーリニコフとソーニャの他にも様々な人物が登場する。その中で特筆すべきはソーニャの父親で酔漢の下級官吏マルメラードフと放蕩に身を持ち崩した貴族であり、過去に殺人の罪を負うスヴィドリガイロフの二人である。
マルメラードフは下級官吏の職を持ちながらも、その仕事に熱意を持たず、酒に身を持ち崩す酔漢である。彼は、娘のソーニャが肺病やみの母親と3人の幼い異母弟妹を養う為に、自らの身を売ってまで稼いだ血の出るような金を取り上げ、意地汚く酒に浸る敗残者である。そして何ひとつとがめだてせず怒りも表さず、金を差し出すソーニャの悲しげな、哀れむような目に接して、自分を磔にされても足らん男だと後悔し苛み(神の意志=良心)ながらも、自分を律する事が出来ず、酒(悪魔)への欲望と、誘惑に負けて、それにおぼれていく。判っちゃいるけど止められない。かくして自分自身だけでなく、自分の家族をも滅亡に導いていく。それにも拘らず、それだからこそ、彼は神にすがる。頼れるものは神以外にないからである。酔っ払った挙句彼は馬車に轢かれて死んでいく。弱さを典型的に現した人間としてドストエフスキーは彼を描いている。そこには人間の業の深さ、悲しさ、寂しさがある。強い人間は自分の力を信じて、神を否定する。弱い人間こそ神は救いたもう。知者や賢者は言う『何故、彼ら豚どもが救われねばならないのか?』と。神は答えて言う『自らの中に、それに値するものが何ひとつ無いからだ』と。そして誰も彼もが合点する。弱きもの、虐げられしもの、貧しきものに対する共感がドストエフスキーの中にある。
マルメラードフに次いで重要な人物はスヴィドリガイロフである。ドストエフスキーは人物の性格を神と悪魔の二面性において捉えるのが特徴的であるが、この人物の中にも二面性を認める事が出来る。ラスコーリニコフの恋人ソーニャは、ラスコーリニコフを追ってシベリアの流刑地まで行くのであるが、そこでの生活はどうするのか?父=マルメラードフは轢死し、母は狂い死にし、ソーニャと異母弟妹は孤児になってしまった。ソーニャはシベリアにおいても何とかなるにしても、幼い異母弟妹はどうなるのか?この疑問に答えたのが貴族出身のスヴィドリガイロフである。神をも恐れぬ無恥、凶悪な放蕩の限りを尽くし、、過去に殺人の罪を犯したことのあるスヴィドリガイロフが彼らを救うのである。その上で彼はピストル自殺をする。なぜか?それはそれまでの放蕩、殺人に対する罪滅ぼしであると同時に、ラスコーリニコフの妹=ドーニャに想いを寄せ、結婚する為には邪魔になる、彼の妻マルファー・ペトローブナを毒殺してまで、その野望を遂げようとして拒絶され、絶望した結果なのである。しかし彼は自殺する前に善良な人間性の閃きを示す。ソーニャのシベリアにおける生活を保証し、三人の異母弟妹を養護施設に入れ、その生涯を保障し、若き婚約者には膨大な金銭を送る。彼の心の中に潜む神が、その最後の瞬間に目覚めたのである。このことにより彼は来世における再生を祈ったのである。
罪とは何か、罰とは何か、そして再生とは?ドストエフスキーは、ラスコーリニコフ、マルメラードフ、スヴィドリガイロフの三人の異なる人間の異なる生き方の中でそれを追求したのである。
ドストエフスキーの生まれた年は(1821年)は作品の中で話題になったナポレオンが流刑地(セントヘレナ島)で病死(暗殺?)した年である。西欧では絶対王政の時代が終わり近代市民社会が生まれつつあった。フランスでは革命が起こり栄耀栄華を誇ったブルボン王朝が倒れ旧体制(=アンシャンレジューム)は破滅した。貴族とも農民とも異なる第三身分(新興ブルジョアジー)が権力を掌握した。革命後の混乱、失政、その後の国内政治の動揺に乗じてナポレオンがクーデターを起こした。政権を握り、皇帝になる。数々の改革を行い、産業の発展にも努めた。イギリスへの経済封鎖を拒否したロシアに大軍を率いて侵攻し、冬将軍に破れて退却する。この事情はトルストイの『戦争と平和』の中に描かれている。経済的後進国ロシアにおいても、商業資本が台頭し、農村では1861年の農奴解放によって、領主の楔から解放された農民層の分解が起こり富農層と貧農層の階層分化が起こり、エンクロージャームメント(富農層による共有地の私有化)などで土地を追われた貧農は都会に出て労働者化した。しかし、その経済規模は、土地を追われた全ての貧農を受け入れるほど成熟しておらず、失業者が都会にあふれていた。都会の頽廃現象は激しく殺人、強盗、性犯罪、傷害事件はあとを立たず、貧困は社会を覆っていた。ドストエフスキーはこのような頽廃した社会の虐げられた民に目を向け限りなき憐憫の情と共感をその作品に示した。
更に特筆すべき事は、雑階級人という新しい知識人層が生まれたことである。それは日本において明治維新後に生まれた新しい知識人に照応する。それは貴族で無ければ農民でもない小市民であり、知識階級であった。教師、学生、下級官吏、作家、編集者、法律家、中小企業家等など、徐々に貴族に代わって文化面をリードしていく。1800年代の後半を代表する階層であった。『罪と罰』に出てくる人物はほとんどこの階層の人間である。そしてこれは貴族社会から市民社会へと変貌を遂げていく過程を特徴付けていた。
付記 『罪と罰』を読んでみて、島崎藤村の『破壊』との類似性に気がついた。自己の罪に悩むラスコーリニコフは、という身分を隠す瀬川丑松に、ソーニャは風間志保に、酔漢マルメラードフは、同じく酒に身をやつす志保の父親=風間啓乃進に、古き制度に立ち向かうナポレオンは、猪子連太郎に、ソーニャに罪を告白するラスコーリニコフの姿は、生徒の前で自分の身分を告白する丑松に、まったく瓜二つである。この作品が刊行された後、ドストエフスキーにたいし、ロシアの青年知識階層からラスコーリニコフの理論上の敗北は、自我の解放を否定するものとして、非難攻撃された。それは『破壊』が刊行されたとき解放同盟から、改革への前進が見られないと批判されたのと類似している。それは神(世間)に反抗する悪魔こそ新しき、真の人間であるという思想から発生している。
マルメラードフは下級官吏の職を持ちながらも、その仕事に熱意を持たず、酒に身を持ち崩す酔漢である。彼は、娘のソーニャが肺病やみの母親と3人の幼い異母弟妹を養う為に、自らの身を売ってまで稼いだ血の出るような金を取り上げ、意地汚く酒に浸る敗残者である。そして何ひとつとがめだてせず怒りも表さず、金を差し出すソーニャの悲しげな、哀れむような目に接して、自分を磔にされても足らん男だと後悔し苛み(神の意志=良心)ながらも、自分を律する事が出来ず、酒(悪魔)への欲望と、誘惑に負けて、それにおぼれていく。判っちゃいるけど止められない。かくして自分自身だけでなく、自分の家族をも滅亡に導いていく。それにも拘らず、それだからこそ、彼は神にすがる。頼れるものは神以外にないからである。酔っ払った挙句彼は馬車に轢かれて死んでいく。弱さを典型的に現した人間としてドストエフスキーは彼を描いている。そこには人間の業の深さ、悲しさ、寂しさがある。強い人間は自分の力を信じて、神を否定する。弱い人間こそ神は救いたもう。知者や賢者は言う『何故、彼ら豚どもが救われねばならないのか?』と。神は答えて言う『自らの中に、それに値するものが何ひとつ無いからだ』と。そして誰も彼もが合点する。弱きもの、虐げられしもの、貧しきものに対する共感がドストエフスキーの中にある。
マルメラードフに次いで重要な人物はスヴィドリガイロフである。ドストエフスキーは人物の性格を神と悪魔の二面性において捉えるのが特徴的であるが、この人物の中にも二面性を認める事が出来る。ラスコーリニコフの恋人ソーニャは、ラスコーリニコフを追ってシベリアの流刑地まで行くのであるが、そこでの生活はどうするのか?父=マルメラードフは轢死し、母は狂い死にし、ソーニャと異母弟妹は孤児になってしまった。ソーニャはシベリアにおいても何とかなるにしても、幼い異母弟妹はどうなるのか?この疑問に答えたのが貴族出身のスヴィドリガイロフである。神をも恐れぬ無恥、凶悪な放蕩の限りを尽くし、、過去に殺人の罪を犯したことのあるスヴィドリガイロフが彼らを救うのである。その上で彼はピストル自殺をする。なぜか?それはそれまでの放蕩、殺人に対する罪滅ぼしであると同時に、ラスコーリニコフの妹=ドーニャに想いを寄せ、結婚する為には邪魔になる、彼の妻マルファー・ペトローブナを毒殺してまで、その野望を遂げようとして拒絶され、絶望した結果なのである。しかし彼は自殺する前に善良な人間性の閃きを示す。ソーニャのシベリアにおける生活を保証し、三人の異母弟妹を養護施設に入れ、その生涯を保障し、若き婚約者には膨大な金銭を送る。彼の心の中に潜む神が、その最後の瞬間に目覚めたのである。このことにより彼は来世における再生を祈ったのである。
罪とは何か、罰とは何か、そして再生とは?ドストエフスキーは、ラスコーリニコフ、マルメラードフ、スヴィドリガイロフの三人の異なる人間の異なる生き方の中でそれを追求したのである。
ドストエフスキーの生まれた年は(1821年)は作品の中で話題になったナポレオンが流刑地(セントヘレナ島)で病死(暗殺?)した年である。西欧では絶対王政の時代が終わり近代市民社会が生まれつつあった。フランスでは革命が起こり栄耀栄華を誇ったブルボン王朝が倒れ旧体制(=アンシャンレジューム)は破滅した。貴族とも農民とも異なる第三身分(新興ブルジョアジー)が権力を掌握した。革命後の混乱、失政、その後の国内政治の動揺に乗じてナポレオンがクーデターを起こした。政権を握り、皇帝になる。数々の改革を行い、産業の発展にも努めた。イギリスへの経済封鎖を拒否したロシアに大軍を率いて侵攻し、冬将軍に破れて退却する。この事情はトルストイの『戦争と平和』の中に描かれている。経済的後進国ロシアにおいても、商業資本が台頭し、農村では1861年の農奴解放によって、領主の楔から解放された農民層の分解が起こり富農層と貧農層の階層分化が起こり、エンクロージャームメント(富農層による共有地の私有化)などで土地を追われた貧農は都会に出て労働者化した。しかし、その経済規模は、土地を追われた全ての貧農を受け入れるほど成熟しておらず、失業者が都会にあふれていた。都会の頽廃現象は激しく殺人、強盗、性犯罪、傷害事件はあとを立たず、貧困は社会を覆っていた。ドストエフスキーはこのような頽廃した社会の虐げられた民に目を向け限りなき憐憫の情と共感をその作品に示した。
更に特筆すべき事は、雑階級人という新しい知識人層が生まれたことである。それは日本において明治維新後に生まれた新しい知識人に照応する。それは貴族で無ければ農民でもない小市民であり、知識階級であった。教師、学生、下級官吏、作家、編集者、法律家、中小企業家等など、徐々に貴族に代わって文化面をリードしていく。1800年代の後半を代表する階層であった。『罪と罰』に出てくる人物はほとんどこの階層の人間である。そしてこれは貴族社会から市民社会へと変貌を遂げていく過程を特徴付けていた。
付記 『罪と罰』を読んでみて、島崎藤村の『破壊』との類似性に気がついた。自己の罪に悩むラスコーリニコフは、という身分を隠す瀬川丑松に、ソーニャは風間志保に、酔漢マルメラードフは、同じく酒に身をやつす志保の父親=風間啓乃進に、古き制度に立ち向かうナポレオンは、猪子連太郎に、ソーニャに罪を告白するラスコーリニコフの姿は、生徒の前で自分の身分を告白する丑松に、まったく瓜二つである。この作品が刊行された後、ドストエフスキーにたいし、ロシアの青年知識階層からラスコーリニコフの理論上の敗北は、自我の解放を否定するものとして、非難攻撃された。それは『破壊』が刊行されたとき解放同盟から、改革への前進が見られないと批判されたのと類似している。それは神(世間)に反抗する悪魔こそ新しき、真の人間であるという思想から発生している。