日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

米バージニア工科大学における銃乱射事件と銃規制

2007年04月27日 | Weblog
 4月16日(月)米南部バージニア州ブラックスバーグ、バージニア工科大学で発生したチョ・スンヒ容疑者による銃乱射事件は全世界に衝撃を与えた。32人という尊い命が失われたのである。こういう事件が起こると必ず銃社会のアメリカが問題になる。アメリカにはアメリカ国民よりも多くの銃が存在するという。銃規制は必要かもしれない。しかし、アメリカに存在する銃のうち犯罪に使われているのは、コンマ以下の割合を、はるかに下回っているのである。あとは健全に使用され保存され管理されているのである。たった一人の気違いの起こした犯罪のために連帯責任を取らされたのでは、健全な銃保持者はたまったものではあるまい。銃はスポーツとしての射撃、マニアによるコレクション、狩猟、さらに自衛のために等々とアメリカにおいては必要とされているのである。銃そのものには責任はない。問題はそれを使う人間である。銃規制よりも危険物としての銃に対する教育を子供のころから徹底することである。
 それにも拘らず銃による犯罪は起こるであろう。気違いはどんな社会にも存在するのである。それは防ぎようの無いことである。不幸にして事件に遭遇したとき、いかに対処するか、個人も、行政も、自衛の策を考えておく必要があろう。その為の教育も徹底する必要がある。
 刀狩が徹底しており銃の所有が建前上許されていない日本においても4月17日(火)長崎市長射殺事件が起こっている。その気になれば密輸入拳銃を手に入れることが出来るのである。沢山の銃がやくざ社会において所有されているという。銃規制は事実上無意味になっている。銃の無い社会が不可能ならば、銃の存在を前提にして、対策を考える必要が
あろう。

イラクのフセイン元大統領は悪者だったのか?

2007年04月22日 | Weblog
 イラクのように、宗派間の対立、民族同士の対立のある国でいわゆるアメリカ流の民主主義が可能なのだろうか?フセイン以後のイラクの傀儡政権(アメリカの)下の統治の状況を見てみると、そう感じるのである。フセイン時代には国家によるテロはあり、民族の虐殺、反対勢力の弾圧、虐殺はあり、決してほめられたものではなかった。しかし、今のようにテロに継ぐテロは無かった。毎日のように数十人から百数十人規模で殺害される自爆テロは無かった。強圧政治ではあったが、治安はまがりなりにも維持されていた。さらに豊富な石油資源の元で、国民は豊かな生活を享受していたのである。それをアメリカ(国際石油資本)はありもしない犯罪(大量破壊兵器の存在)をでっち上げて石油利権を求めてイラクに侵攻した。しかも国連軍の名のもとに。それはあくまでも内政干渉である。フセインの犯罪行為はイラクの国内問題であり、イラク内部で解決されなければならない内政問題である。クルド人が自治を求めるならばクルド人自身がフセイン政権と対決すべきであって、おそらく100年をめどに闘った上で勝ち取るべき課題であろう。それは歴史が証明してしていることであり、たやすく実現する問題ではない。
 アメリカはフセインを打倒した。しかし何が変わったというのであろうか?事態は悪化してはいても、改善されたとはお世辞にも云えない。宗派間の対立は激化しており、テロは日常化している。クルド人の要求が満たされているとも思えない。石油利権はフセインからアメリカに移ったが、それだけである。これを見てもアメリカのイラク侵攻が、アメリカのアメリカによる、アメリカのためのものだったといえるであろう。それにも拘らずアメリカ国内ではアメリカのイラク侵攻は誤りだった、と批判されている。フセイン以後のアメリカ兵士のイラクでの死亡は、イラク戦争時の死亡をはるかに上回っている。フセインは逮捕され裁判の結果処刑された。しかし、ありもしない犯罪をでっち上げ、イラクに侵攻し無辜の民を殺害したアメリカの犯罪は問題にもならなかった。それは第二次世界大戦の結果開かれた東京裁判で広島、長崎に原子爆弾を投下し何十万という罪の無い民を殺害し何百万戸という住宅、施設を焼き尽くしたアメリカの罪が問題にもならなかったのに似ている。明らかに勝者による復讐裁判である。フセインは死に臨んで、アメリカの犯罪を声高に叫んだが、その限りにおいてはフセインは正しかったのである。
 アメリカはどのような形でイラクから手を引くつもりなのであろうか?アメリカは世界の警察官だと言われている。しかし今やっていることは世界のやくざといわれても仕方の無いことなのである。

少子化はばら色

2007年04月21日 | Weblog
 少子化の問題を考える前に、グローバルな観点に立って、世界の人口問題について考えてみたい。発展途上国における人口爆発と、先進国における少子化、差し引きしても、今後世界の人口は増え続けるといわれている。その結果、限られた水資源、燃料資源、森林資源、土地、食料、等々をめぐって国同士の間で奪いあいが生ずるであろう。今でもアメリカ(国際石油資本)によるイラクへの侵略戦争(内政干渉)は石油資源を巡っての争いだといわれている。
 いま人類は生物学的に見れば、異常繁殖しているのである。ほかの生物の場合も異常繁殖はおこりうるが、限られた食料、水などをめぐって争いが起こり、起こらないまでも食糧不足によって、その数は適正規模にまで淘汰されていく。それが自然(神)の摂理である。人間の場合はどうであろうか、昔は病気、疫病、自然災害、食量不足、大規模戦争、親殺し(姨捨)、子殺し(間引き)などで、適正規模にまで減少していったのである。しかしいまや医療の進歩による疫病の絶滅(例えばペスト)、病気による死亡率の減少、養殖技術の進歩、核戦争の回避、などと、人類は地球とのバランスを失い、自然(神)の摂理を犯し、増え続けている。その結果、資源の枯渇、環境破壊、生物連鎖の破壊、オゾン層の破壊、温暖化と地球の存続すら危うくする。大規模地震、津波、ハリケーン等は明らかに人類に対する自然(神)からの反撃なのである。温暖化による極地における膨大な氷の溶解は水位を上昇させ、地球上の何分の1かの土地を奪うという。国際的に見て、人口問題は、解決すべき緊急な課題なのである。
 このような前提にたって、わが国における少子化の問題を考えてみたい。日本における合計特殊出生率は1.25だという。ここ数年来減少傾向にある。2人の男女から、2人未満の子供しか生まれないということは、今後も縮小再生産が続くことを意味している。極端の場合何百年後には人口はゼロになるのである。これは避けねばならない。しかし日本における利用可能な土地、資源、生産量、食料などに見合った形で少子化が進むのは、むしろ歓迎すべきことなのである。
 食料の自給率40%、職住の遠隔化による通勤ラッシュ、交通渋滞、高騰する土地、住宅、激化する受験戦争、就職難等々は適正規模にまで人口が減少することにより解決されるのである。もちろんここにまで到達するにはさまざまな摩擦は存在する。少子高齢化による年金問題、労働不足による生産性の減退、無駄になって利用されない公共施設。国家、地方における税収不足、等など問題は山積している。
 しかし、年金制度の見直し、高齢者、女性の再雇用、外国人労働者の雇用、省エネ技術の開発、あまった公共施設の民間への払い下げによる転用、小泉内閣が推進した小さい政府(このことにより財政支出は削減される)=国鉄の民営化、郵政の民営化など、と視点を変えてみれば、解決可能な問題である。
 女性の雇用の場合、子供を預かる公共のあるいは会社付属の保育施設も必要になろう。家庭も仕事も、が可能になれば、女性は安心して子供を生めるようになる。出産による退職が無くなり退職した女性の再雇用が可能になれば(キャリアー「看護士など」のばあいなおさら)生産性をあげることも可能なのである。高齢者の場合もそのもつキャリアーは重要である。悲観することは無い。
 それでは今の日本において最適規模の人口はいくらなのであろうか?一説によると8000万人程度だといわれている。欧米の先進国では少子化は常識であり、必然である。日本においても少子化を前提にして少子化対策を立てる必要があろう。

最近の健康食品志向を考える

2007年04月14日 | Weblog
 低塩、低糖、無添加、自然食品、と健康志向は結構だが、そんなことを云っていたら人間、山の中で自給自足をしなければならない。そんなことよりも、何を食べてもそれに負けない体つくりのほうが大切である。不規則な生活、暴飲暴食を正し、普通に生活し、普通に食事をしていれば、人間には代謝機能があって、悪いものを食べたとしても肝臓などで代謝してくれるのである。排泄物として外に出してくれる。さらに免疫力を高めることにより、病気にならない体を作ることも出来るのである。限度を越えなければよいのである。もちろんスポーツやストレッチなどで内臓を鍛えることも大切である。十分な休息、運動、栄養も必要であろう。危険なものは体内に蓄積されるという。しかし危険なもが蓄積されるような添加物を更生労働省が許すわけが無いのである。添加物は薬事法に触れないという。しかしそれを構成する薬品は厳重にチェックされているのである。添加物(たとえば保存料、殺菌料)のために中毒が減っていることは事実である。食中毒で死んだ話はよく聞くが添加物で死んだという話は聞いたことが無い。添加物はその使用方法、使用量など、厳密に管理されているからである。調理と飲食が分離され、流通過程を経て、パック詰めの惣菜類がスーパーなどで売られるようになっている現在、添加物の存在は不可避である。運動をすれば汗と共に塩分は排出される。低血糖にもなる。塩分も糖分も補わねばならない。それに低塩、低糖の食品は美味しくない。味気ないのである。食は文化である。餌ではない。楽しく美味しく食べたいものである。運動、栄養、休息これが基本である。

大型店(スーパーなど)の出現と生産と販売の分離

2007年04月11日 | Weblog
 昔は肉屋、魚屋、八百屋とそれぞれ専門店があり地域に密着した商売を行っていた。市場から原料を仕入れ、小分けして店先に出し販売をしていた。そこには生産と販売がつながっており、お客の注文に応じて計り売りをしていたものである。お客はその原料を調理して食していた。主婦労働の企業化はここにも見られる。惣菜産業の出現がそれである。本来主婦の仕事であったものが、企業によって行われるようになった。しかし、企業は販売ルートを持たない。大量に生産され加工された食品を販売するために現れたのがスーパーに代表される大型店である。魚屋も肉屋も八百屋も一つにまとめられてしまった。対面販売は無くなり、セルフサービスが主流になった。パック詰めされた食品をお客はレジに持っていき、金を払っておしまい。そこにはきめの細かいサービスは無い。
 かくして、惣菜産業は、生産・加工をするだけ、大型店は売るだけ、生産と販売は完全に分離されたのである。いまは鮮度を重んじる刺身や寿司などはスーパーのバックヤードで作られるようになったが、いまだに外注しているところがある。この結果、生産と販売を結ぶための流通が必用になった。生産会社は、スーパー各店舗に注文された商品を配送しなければならない。その結果、交通渋滞が生じる。
 いまスーパーは自分のところで流通センターを作り、生産会社から送られてくる商品を店ごとに仕分けして、生産会社から手数料をとり店舗配送を行っている。スーパーの中には生産会社に流通センターを作らしているところもある。また自らが生産会社を作っているところもある。各生産会社による個別店舗配送はなくなり、その限りでは交通渋滞は少なくなったが、生産と販売の分離がある限り交通渋滞はなくならない。

個食時代の到来と家族の崩壊

2007年04月06日 | Weblog
 コンビニエンスストアー、ファミリーレストラン、弁当屋、洗濯屋、家庭用電化製品の出現等々は主婦労働の企業化といわれている。このことにより主婦の社会進出が可能になった。主婦が食事を作らなくても、旦那も子供たちも容易に外食が出来るようになった。個食時代の到来といわれている。しかし、生活は便利になったが、失われたものも多い。家族の団欒の場がなくなったといわれている。家族の全員が食卓を囲みその日に在った出来事を笑顔を持って語り合う機会はなくなったのである。それぞれが個室をもち、テレビも電話(携帯)もパソコンも一人一台。コンビで買ってきた弁当を一人で食べる。部屋の中で全てがまかなえてしまう。全てが密室の中での出来事になってしまう。家族はばらばらアトム化して家の中にいながら、お互いに何をしているか判らない他人になってしまった。昔、家庭は愛を育む場所であった。やさしい夫婦の間で、はぐくみ育てられた子供なら決してしないようないじめが横行している。いじめられた子には相談すべき親はいない。最悪、自殺を選択してしまう。子殺し、親殺し、共同体の最後の砦であった家族は個人主義(自己中心主義か?)の進歩の結果、崩壊に瀕している。
 このような現象が社会の進歩の結果であるなら、元に戻すことは難しいかもしれない。しかし新しい時代の新しい家族像はあってもいいのではなかろうか?いまそれが模索されている。商品社会のもたらした帰結だという人もいる。革命が必要なのかもしれない。