日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

サマセット・モーム作「雨」 破戒

2007年07月28日 | Weblog
 この短編小説「雨」はサマセット・モームによって画かれた作品であって、「南海もの」といわれるものの一つである。この「雨」はモームの短編を代表する作品であると同時に世界短編小説史上に永久に残る傑作と言われている。訳者の中野好夫氏は「雨」を「短編小説家としてのモームのあらゆる特徴を集約的に結晶させたもの」「ことに雨という自然現象が、人間心象に及ぼす微妙な影響を画いている」と述べている。雨は人間の欲望を募らせ、それにかられる心のゆれそのものの象徴である。
 布教の情熱に燃える狂信的で、人の心など省みようともしない冷酷無比な宣教師ディヴィドソンは任地に赴く途中、南海の孤島に上陸する。時は雨季、降り続く雨と、はしかの発生によって船は10日の足止めを余儀なくされる。ここで彼は同じ船の乗客であるいかがわしき「商売女」セクシュアルで、みだらな魅力に富み、自由奔放に振り舞うミス・サディー・トムソンの教化に乗り出す。最初こそ彼を拒否し嘲笑していた彼女は、さまざまな脅しに屈し更生を宣教師に誓い、神の名を唱えるようにまでなった。騒音を鳴らし続けていたレコードの音はやんだ。教化は成功したかに見えた。しかし結果は意外な方向に動く。あんなにも熱心に寝食を忘れて教化に全力をあげていた宣教師ディヴィドソンの自殺体が浜辺にあがったのである。雨は重く、間断なく降り続いていた。何が起こったかは小説には画かれていない。次の「商売女」サディー・トムソンの言葉から推察できるに過ぎない。彼女は叫ぶ「男、男が何だ。豚だ!汚らわしい豚!みんな同じ穴の狢(むじな)だよ、お前さんたちは、豚!豚!」と。
 愛のない商売女がそのセックスにおいて、性の快楽を感じることは無い。その感覚はさめており、刺激的でもなければ感動的でもない。あくまでもビジネスである。恐らく自分の妻以外の女の肌に触れるのは初めてであろう男が、不安や恐れ、破戒の恐ろしさから目的を達成する前に萎えてしまう危険を避けるために、女はこれまで男を耽溺させ、堪能させた、全てのテクニックを行使し、男を淫蕩の世界に導いていったであろう。冷静で、神の戒律を冷酷なまでに守っていた宣教師が、背徳の衝動に飲まれ、淫蕩の世界に耽溺する。それはまさに宣教師ディヴィドソンが崩れていく姿であり、男の中に今まで抑圧され、秘められていた欲望が露わになり、性の深みにどっぷりと浸かっていく瞬間である。エロスの世界は男と女をオスとメスに変える。オスとメスとは同じ次元に並んでおり、そこに格差は無い。聖職者も商売女も平等である。そして耽溺の一時が去り、男が聖職者に戻ったとき、その犯した罪に慄き、愕然とする。女の嘲り、冷笑、勝ち誇った顔。「汝、姦淫する事なかれ」と言う戒律を宣教師自らが犯したのである。聖職者には許されざる自殺を彼は選ぶ。罪は罰を伴う。2つの戒律を犯した男は地獄に落ちる。商売女は聖職者に勝ったのである。性は聖に勝ったのである。
  そこには人間の業の深さ、人間の性(さが)の悲しさ、恐ろしさがある。
 
 

メーテルリンク「青い鳥」神を求めて

2007年07月14日 | Weblog
 この戯曲「青い鳥」はモーリス・メーテルリンク(1862~1949)によって書かれた子供のための夢幻劇である。しかし大人が読めば哲学的、神秘的作品であり、現代にも共通する課題を提供している。メーテルリンクは、1910年にノーベル文学賞を受賞している。
 きこりの子チルチルとミチルの兄妹は妖婆ベリーリウンスの頼みでその娘の病気を治すために、幸せの「青い鳥」を求めて旅をする。過去・現代・未来に行くことが出来、ものの本質の見えるダイアモンドを与えられる。光に導かれて夜、猫、犬、パン、砂糖、火、水を共にする。過去、現代、未来に旅するということは永遠の時間の中を旅することであり、光、夜、パン、猫、犬、砂糖、火、水と共に旅することは、無限の空間を旅することを意味している。要するに時空を越えた広大な広がりの中を旅するのである。時空を超えた広大な広がりとは、すなわち宇宙である。宇宙を創造し、司るものは神であり、神の実体は「愛」である。人間の愛は相対的であるが、神の愛は絶対的である。ここで言う神とは、キリストの神でも、イスラムの神でも、仏でもない。それらの上に立つ絶対神である。神と人との間は完全に断絶しており、直接には接触することは出来ない。神の愛は一方的に「選ばれしもの」に与えられるものであって、人が求めて得られるものではない。それは人間の原罪に起因する。
 幸せの「青い鳥」は旅から帰国したきこり小屋の鳥かごの中に存在し、「女の子」の病は回復したが、チルチル、ミチルの手から離れて飛び去ってしまう。結局、捕まえることは出来なかったのである。「青い鳥」とは、人が求めて求め得ない「神の愛」であって、それは見果てぬ夢であり、追い求め続けねばなら無いものなのではなかろうか?同時にどんなに努力しても手に入れることの出来ないものもあるのだという作者の宿命観を子供たちに示している。しかし、だからと言って苦しみ努力することの空しさを言うのではなく、人は苦しみ努力することによって成長すると言っているのである。結果は神のみぞ知るである。
 作者メーテルリンク自身「青い鳥」とは何かと言う問いかけには、はっきりとは答えてはいない。それ故、解釈はさまざまであるが、定説としては、訳者若月氏が述べているように「幸せとは人間の回りに限りなくあるのに、それに気づいていないだけなのだ」というものであり、母の愛の尊さだと言う。この戯曲を読み進めば、それなりに納得できるが(「第4幕第9場、幸福の御殿」)、それでは最終的に「青い鳥」がチルチル、ミチルの手を離れて飛び去ってしまうことの重要性が理解し得ない。それは先にも述べたように人間の愛の相対性、限界性にある。神の愛は総体的であるのに、人間の愛は相対的、排他的、利己的、独善的である。人、民族、宗教、人類は、その愛のため争い、殺しあい、自然を破壊する。戦争、テロ、虐殺、自然破壊などは民族愛、宗教愛、人類愛から発している。訳者若月氏は「人類愛」について語っているが、人類愛はあくまでも人間に対する愛である。文明が人間の愛の結果であるとするならば、その結果自然は破壊され、空気は汚染され、オゾン層には穴があく。地球は崩壊に瀕しているのである。それが象徴的にこの戯曲の第3幕第5場「森」の章で語られている。この章でカシの木は云う「お前の父親は、わしらにずいぶん悪いことをしたのだぞ……わしの一族だけで、お前の父親に殺されたものは、息子が600人、おじとおばが475人、兄弟が200人、よめが380人、それからひまごが1万2千人おる」と。その他人間の森に対する犯罪の告発は続く。そして裁かれなければならないと言う。木々と動物は「死刑」だと叫ぶ。そして戦いが始まる。人間の愛はあくまでも、人間のための愛なのである。いま、森林は大規模に伐採され、砂漠化が進んでいる。森にすむ多くの生物は絶滅の危機に瀕している。炭酸同化作用は疎外され、温暖化の一因にもなっている。森は反乱する。地球は人間だけのものではない。他の生き物の幸福を願うならば、多くの生物の間で住み分けをおこない、彼らの生を守る必要がある。また、第4幕第9場「幸福の御殿」の中で人の身近にあるが気づいていない幸せの数々「健康の幸福」「良い空気の幸福」「両親を愛する幸福」「森の幸福」「春の幸福」「日暮れの幸福」「星の出を見る幸福」「雨の幸福」「冬の日の幸福」「無邪気な考えの幸福」「つゆの中を裸足でかける幸福」など多くの幸福が出てくるが、人間が自分のみの幸福を追求し続けるならば、この幸福をいつまでも享受できるかどうかは疑問である。神の立場から人を見る、神の愛から人を見る。このとき「青い鳥」は存在し得ないのである。
 チルチル、ミチルとその他多勢の宇宙の旅は、「思い出の国」「夜の御殿」「森」「墓地」「幸福の御殿」「未来の国」と続くが、「人間はどこから来てどこに行くのか」「死とは何か」「生とは何か」「幸福とは何か」極めて大きな哲学的神秘的な課題を提供している。今回は何故「青い鳥」は捕まえられなかったのかと言う課題に限定して述べてみたが、いずれそのほかの哲学的な問題にも言及していきたいと思う。