日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

島崎藤村「破戒」戒律の重さ

2007年11月21日 | Weblog
 被差別の存在を無視してこの作品「破壊」について語ることは出来ない。
 被差別とは、近世の封建的身分制度の中で、その最下位の地位に置かれていた、の類を主要部分とするを先祖とする人々のうち、現在なお、旧身分の残滓に災いされ、苦しめられている人々が集中的に居住している区域を指している。その職業もさまざまで、主に士農工商以外の職業に従事するものが多く、たとえば、刑場で刑死した罪人の死体処理、場での牛の撲殺人、関連した皮なめし業、雑多な芸能人、春を売る女等々、今でいう3k(きつい、汚い、危険)の職に従事していた。そして、その職業、長年の差別からくる内の貧困、無知、不潔、暴力の広がりに対する社会的偏見は強く差別を助長していた。一方、差別され、捨てられたものという意識は彼らには強く、共同体的結束は固かった。
 明治後期、被差別に生まれた主人公瀬川丑松は、「自分がであることを、いかなる理由があろうとも、いかなる人に対しても決して明かすな、もしこの戒めを忘れ、その身分を告白したら、その時こそ世の中から捨てられると思え」という父よりの戒めを頑なに守って育ってきた。
師範学校を優秀な成績で卒業して小学校の教師になった丑松は教育熱心な教育家であった。それ故に生徒から慕われ、よき同僚にも恵まれ、教師生活を満喫していた。そして今は零落しているものの元士族であり先輩教師,風間敬之進の娘お志保に恋をしていた。さらに、同じ被差別出身の解放運動家であり、著述家でもある猪子連太郎に私淑していた。彼はその著「懺悔禄」の中で「我はなり」とその身分を公然と明らかにし各地をめぐり解放運動を展開していた。そして丑松はその彼に会い、その考えに感動し、尊敬の念を深くする。しかし、丑松はへの差別の実態、その生活を見て、次第にその性格は暗くなり物思いにふけるようになる。この作品は、丑松とお志保の恋、猪子連太郎との触れ合いという2つの流れの中で展開する。丑松は猪子連太郎にだけはその出生の秘密を明らかにし、その苦しみを共有し、心の苦悩から解放されたいと思っていた。しかしその度に父からの戒めの言葉が聞こえてくる。その想いは揺れにゆれ、苦悩する。結局その想いは達成されないうちに猪子連太郎は暴漢の手にかかり殺される。学校では丑松はだという噂が流れる。猪子連太郎の横死の衝撃と、同僚の猜疑心の眼差しに耐え切れず、丑松は生徒の前で自分の身分を明らかにし、床に土下座をして謝罪する。父からの戒律を破ったのである(破戒)。予想に反して一部を除いて周囲の反応は好意的であった。お志保も決して彼を見下したりはしなかった。身分を隠していたことは例え悪でああっても、であることを恥じることはないからだ。
 身分を明らかにすることにより、丑松は心の苦悩からは開放された。しかしとして生きなければならない。生徒の前で土下座し、恋人お志保と一度は別れを決意する。お志保は元士族の娘である。昔なら結婚はおろか、傍にも寄れなかった身分上の格差がある。すでにそこにはとして生きざるを得なくなった丑松の卑屈さがある。学校からは休職という名の追放が行われる。法や制度がが教師になることを禁じているのではない。法のもとでは全ての民は平等になってはいる。しかし、人や世間がそれを許さないのだ。が教師の学校には子供を登校させないという。父からの「自分の身分を明かすな」と言う、戒めの言葉の、重さが身にしみる。
 このとき丑松には3つの選択肢しか許されていない。一つはという身分に忍従し、世間の圧力に耐えて生きる道であり、もう一つは猪子連太郎のように解放運動家として、世間の偏見を正す道である。そして最後は第三の道である。
 丑松は第3の道を選ぶ。同じであるお大尽(大金持ち)大日向の要請を受けてお志保と共にテキサス行きを決心する。個人的な心の解放の中に逃げ込んでしまう。
 島崎藤村の「破戒」には、夏目漱石の作品には見られなかった新しいキャラクター=猪子連太郎が登場する。彼は自分には何一つ責任がないのにであるということだけで差別する世間に対して敢然と立ち向かう。
 昭和初年代のプロレタリア文学活動の指導者的存在であった蔵原惟人は、この「破戒」を「下層社会」を代表する社会的抵抗の声と捉え、プロレタリア文学が継承すべき文学的遺産と評価している。
 「破戒」には二つの開放がある。一つは戒律からの開放であり、あくまでも個人的なものである。二つ目は被差別に対する社会的な解放である。個人的な心の苦悩からの解放を行った丑松は、本来なら猪子連太郎と同じ社会解放の道に進むべきだったのである。人間の自由の実現のためには、それを外から規制する壁との対決が必要になるからである。
 この作品「破戒」は社会小説か、自己告発の書か?議論はさまざまある。戒律という言葉を辞書で引いてみると、「僧、聖職者が守らねばならぬ宗教上の規律」とある。広げて考えれば人間を外から律し支配するものと解釈できる。「自分の身分を隠せ」も戒律ならば、「社会的差別」もまた戒律であり、人間を支配する。破戒とはこの両者から自由になることである。丑松をテキサスに逃がしてしまったことには不満は残るが、藤村は猪子連太郎の中に将来の夢を託していたのかもしれない。
基本は人に対する愛である。愛なくして、どんなに制度を変えても、戒律を変えてもあまり意味はない。社会的差別を変えるものは、結局は人に対する愛である。藤村が一義的なものとして、愛を置いたのはこの観点からであろう。

夏目漱石「門」罪と罰

2007年11月05日 | Weblog
 世間の片隅に、ひっそりと、つましく、世間から隠れて身を寄せ合い、自分たちの愛のみを頼りに生きている一組の夫婦(宗助と御米)があった。彼らは世間から断絶され、自からも世間との交渉を絶ち、何事にも消極的で、遺産相続にたいしても、宗助の弟=小六の身の振り方にも積極的に動こうとはしない。そこには「平和と安定」があったが、反面「退屈と倦怠と怠惰」があった。そんな生活を漱石は長々と描写した後に彼らの過去=罪と罰を語る。
 御米は宗助の友人=安井の妻であった。それを宗助は奪ったのである。世間は容赦なく不徳義な男女として彼らに徳義上の罪を背負わせた。彼らは親を捨てた。親類を捨てた。友達を捨てた。大きく言えば、一般社会を捨てた。もしくはそれらから捨てられた。勿論大学からも捨てられた。それが彼らの過去であった。外に向かって生長する余地を失った二人は内に向かって伸び始めた。その愛ゆえに彼らは自らを幸福と評価した。彼らは一つの有機体あった。そんな彼らにも激しいものが無かったわけではない。それは御米の三回にも及ぶ流産であり、子供を産めない身体になった。彼女はこれを自らの犯した罪に対する「天罰」と受け止めた。さらに大学を止め満州浪人に身をやつした、忘れた筈の安井の消息であった。宗助は安井との再会を恐れて禅寺に逃げ込む。しかし動機において不純であるがゆえに、そこには救いはない。禅寺にいる間に安井は去っていった。その後の二人の生活は何も変わらなかった。「平和と安定」も「退屈と倦怠と怠惰」も共に存在していた。そこには世間に対する諦めと絶望があった。彼らは多くの犠牲を払って結婚をした。その結果世間からの恐るべき復讐を受けた。しかしその代償として得た幸福に関しては、愛の神に感謝することを忘れなかった。彼らはおそらく今後も鞭打たれつつ死に赴くであろう。ただその鞭の先に、すべてを癒す蜜のついていることを、彼らははっきりと認識していたのである。
 なんとまあー、暗く、陰鬱で救いのない作品であろうか?「三四郎」に見られる若々しさはなく、「それから」に見られる世間に挑戦する戦闘的なロマンチシズムもない。彼らは罪の意識に自らを苛み、世間から隠れ、身を寄せ合って生きいる。自らの真実の愛に立ち向かう壁に対して抵抗しようともしない。
 漱石は、「三四郎」の中で明治維新後に生まれた新しい知識人の姿を生き生きと描き、その中で三四郎の美禰子に対する、ほのかな恋と失恋を描く。「それから」では代助は真実の愛に目覚め平岡からその妻=美千代を奪う。「門」では不倫の愛に対するその罪と罰が描かれる。宗助と御米には世間の片隅で互いの愛を確かめながらひっそりと生きることしか許されていない。漱石は当時の社会状況を考えて、これ以上の解決を考えることが出来なかったのであろう。ここに漱石の限界があり、近代リアリズムの限界がある。心(内)の開放を阻むものが世間(外)であるなら、外の開放こそが必要なのである。
 前の「三四郎」の論評の中で、私は近代リアリズムの発展的、批判的な継承者としてプロレタリア文学をあげた。しかし継承者であるべきプロレタリア文学は、近代リアリズムの持つ葛藤を、ブルジョア知識人の贅沢な個人的な悩みと考えこれを切捨て、近代リアリズムと対立した。そしてプロレタリア文学の多くの作家は、資本家と地主は悪玉、労働者と農民は善玉と見る類型的把握から一歩も出ることはなく勧善懲悪思想に堕してしまい、近代リアリズム以前に戻ってしまう。そこには生きた人間の姿は描かれていない。その欠陥を取り除こうと、小林多喜二等の作家の努力も見られる。マルクスやエンゲレスは働くものの開放を基礎にして、全ての人間の解放を夢見ていたのである。それを忘れないで欲しい。
 さらにソ連邦(当時、今のロシア共和国)における社会主義リアリズムは、ゴーリキーの「母」によって確立されたが、当初こそ、その成果をあげたものの、スターリン主義の確立と共に偏狭な形式主義、政治主義に堕していった。さらにソ連社会主義の無謬性という神話に対抗してソ連内部の矛盾を明らかにし、それを徹底的に批判した反体制知識人(ソルジェニーツェン、サハロフなど)は弾圧され、その本来的な発展は阻害された。さらにソ連東欧の社会主義体制の崩壊は芸術活動にも大きな影響を与え、プロレタリア文学と共にその方向性を見失った。ということは近代リアリズムもまた方向を見失ったことを意味している。文学活動を含む芸術活動はどこに行くのだろうか?