詩篇2(神への賛歌、契約、歴史)
石川啄木の歌に「わが為に悩める魂(たま)をしずめよと讃美歌うたう人ありしかな」というものがあります。「詩編」の詩は楽器に和して誦詠され、誦読され、誦舞されて神に捧げられた時、始めて神との交流が可能となります。心の交流、神への信仰が生まれます。「神は読むのではなく聞きなさい」と言われています。神は人から知恵を求めません。神が求めるものは心(信仰)なのです。踊って詠って演技して、熱中して無我の境地に陥った時、自分を無くした時、無念無想になった時、その空隙に神が入ります。異言を発し、神と一体化します、この時、神の声が聞こえます。
詩篇の115篇を読んでみたいと思います。イスラエルの民は常に神との葛藤の中にありました。115篇は、そんな信仰の危機にある民に対して、死んだ神(偶像)ではなく、生きた神=主を敬えと諭しています。神との間の契約を思い出せと言っています。115篇は、信仰の祝福を祈る典礼歌です。
神とイスラエルの民は2度の契約を結びました。1度目はアブラハム、イサク、ヨハネとの間の契約です(創世記)。2度目は、シナイ山における神とモーセとの間の契約(出エジプト)です。
神はアルバ(ハ)ムに云います「私は全能の神である。あなたは私の前を歩み、全きものであれ。わたしは私の契約を私とあなたとの間に立てる。わたしはあなたをおびただしく増やそう(創世記17章1節~2節)「私は私の契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである(創世記17章7節)」。
あなたには、わたしのほかに、他の神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない(出エジプト20章3~4節)。
これに対応する言葉を詩篇115篇の中から探してみました。
創世記から
私は全能の神である――→私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる(詩篇115篇3節)。
あなたは、わたしの前を歩み、全きものであれ――→イスラエルよ、主を信頼せよ、この方こそ、イスラエルの民の助け、また盾である。アロンの家よ、主に信頼せよ、この方こそ、イスラエルの助け、また盾である(詩篇115篇9~11節)。
私は私の契約を私とあなたの間に立てる。――→主はわれらを、み心に留められた。主は祝福して下さる。小さなものも大いなるものも(詩篇115篇)。
私はあなたを、おびただしく増やそう。――→主があなた方を増して下さるように、あなた方と、あなた方の子孫とを。あなた方が主によって祝福されるように(詩篇115篇12~13節)。
出エジプトから
あなたは私の他に、他の神々があってはならない。――→あなたの恵みと、まことの為に、栄光をあなたの御名にのみ帰して下さい(詩篇115編1節)。
あなたは自分の為に偶像を作ってはならない――→彼らの偶像は銀や金で、人の手の業である。口があっても語れず、目があっても見えない、耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅げない。手があっても触れられず、足があっても歩けない。のどがあっても声を立てることも出来ない。これを造るものも、これに信頼するものもみな、これと同じである(詩篇115編4~8節)。
詩篇115篇の纏め
1 15篇冒頭の詩文「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みと、まことのために。栄光を、ただあなたの御名にのみ帰して下さい(詩篇115編1節)。同じことはマルコの14章36節後半に「しかし、わたしの願うことでは無く、あなたのみこころのままを、なさってください」と。神との契約とは、何を意味するでしょうか?神がイスラエルの民を選び、これと契約を結んだのは何故でしょうか?それは決してイスラエルの民のため、だけではありません。神はご自身のために、イスラエルの民を選んだのです。神の支配が、統治が、全世界に広がる為です。だから、神は人に絶対的服従を要求します。「使徒の働き」の中で、神は云います「しかし、聖霊があなた方に臨まれる時、あなた方は力を得ます。そしてエルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、及び地の果てにまで、わたしの証人となります(「使徒の働き」(1章8節)」と。ペテロ、パウロ、ルカ、はその為に働きます。しかし、彼らは殉死しています。キリストは民の罪を一身に背負って死んでいきました。それは神の教えが全世界に広がっていくための犠牲だったのです。リスクだったのです。大事の前の小事だったのかもしれません。神はこの地が神の栄光で満たされることを願っていたのです。神は云います「あなた方が我が前に完全であるなら,あなた方の子々孫々にわたる増大繁栄を保証しよう」と。今、人は神の前に完全ではありません。それ故、増大繁栄の契約は守られていません。人類は絶滅の危機にひんしています。今こそ「神と人との正しい関係とは何か」を「詩篇」を通して探っていく必要があります。「詩篇」は神と人との心の交流(信仰)の場なのです。「あなたの心のままにあれ」。神のみ心こそ最善だからです。ここ(詩篇115篇)には、神の意志、神のご計画が語られています。
次にダビデについて語って見ようと思います。
ダビデについて書かれたものは、サムエル記ⅠとⅡです。サムエル記は、ダビデについて3つに分けて描いています。
1、サウル王に追われた時
1. ダビデの活躍と、サウル王の妬み。
2. サウル王は神を無視し、神の怒りを買います。神はサウルを王にしたことを後悔し、 ダビデこそ王たるべきものと、預言者サムエルに告げます。
3. サウル王は自分の地位が脅かされる危険を感じて、ダビデを殺害しようとします。
4. ダビデは身の危険を感じサウル王の下から逃走します。
5. 逃走中の出来ごと
6. サウル王との和解
2、ダビデの罪(人妻パト・シェバとの不倫とその夫ウリヤの殺害)と悔い改め。
3、息子アブシャロムの反乱と、彼からの逃走。
Ⅰ、サウル王に追われた時のダビデ(サムエル記Ⅰ・Ⅱとの比較)
2、ダビデの罪(人妻パト・シェバとの不倫とその夫ウリヤの殺害)と懺悔
ダビデは王になる前は神の前に完全なる義人でした(サムエル記Ⅰ)。しかし、彼がサウルに代わって王となった時、その驕りから罪を犯します。その罪と懺悔の様子が「サムエル記Ⅱ」の11章~12章に描かれています。ダビデは人妻パト・シェバと姦淫し、その夫ウリヤを激戦地に送り、彼を戦死させています。そしてダビデは、パト・シェバを自分の妻の一人としました。当然この事は神のみこころを損ないます。預言者ナタンを通じて彼を罰します。パト・シェバの生んだ第一子は、病の末、死にます。ダビデは神の前に悔い改め、神の許しを受けます。その後、パト・シェバの生んだ第二子ソロモンは、ダビデを継いで王となりました。
詩篇51篇にはダビデの悔い改めの詩があります。そのタイトルには「ダビデがパト・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」と記されています。この詩にはダビデが、神の前で、その罪を告白し、悔い改めの様子が描かれています。
ダビデは神の前でその罪は許されます。何故か?ダビデの系図を下っていくと、イエス・キリストにたどり着きます。イエスの先祖を、神は罰するわけにはいかないのです。神は万能なお方。イエスの出現をダビデの中に予知していたのです。詩篇には51篇の他にも、悔い改めの詩を多く載せています(6篇、25篇、32篇、102篇、130篇、143篇)が、これがパト・シェバの事件と結びつくかどうかはわかりません。
3、息子アブシャロムの反乱と、彼からの逃走。
アブシャロムはダビデ王の息子です。彼はヘブロンの地で王を僭称して、ダビデに取って代わろうとします。危険を感じたダビデは荒野に逃げます。ここには裏切りがあり、陰謀があり、敵対があり、策略があります。ダビデの腹心アルトフェルはダビデを裏切り、アブシャロムにつきます。ダビデはエルサレムを逃れるに当たって、もう一人の腹心フシャイをスパイとしてエルサレムに残します。この4人の織りなすロマンがサムエル記Ⅱの15章~18章にかけて描かれています。アブシャロムは戦いに敗れ、殺されます。
全体の内容を網羅したかどうか、心もとないですが、「詩篇」を終わります。
平成28年3月8日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会