日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

サムエル記第1

2015年02月14日 | Weblog

      サムエル記(第一)
 はじめに
 いよいよわが文章も「サムエル記」に入った。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、と8つの書を経て、今、サムエル記(第一)に到達した。しかし旧約聖書はまだまだ続く。前途遼遠である。しかし、頑張るつもりである。
さて本題に入ろう。サムエル記の描く年代はおよそBC11世紀の半ばからBC10世紀の初期にかけての時代であり、キリスト誕生までには、大分間がある。
 サムエル記は第一部と第二部に分かれており、今回は、その第1部を取り扱う。第一部は士師たちが支配した時代が終わり、サムエルによって油を注がれたサウルの王国建設と、その一族の没落をもって終わる。この間ダビデが生まれ、サウルとの葛藤が描かれる。第2部は、サウルの後を受けてダビデが王位につき、イスラエル王国の基礎固めまでの様子が、様々な挿話を交えて語られている。
 ダビデの時代とその後を継いだソロモンの時代は、イスラエル王国の最盛期と言われている。しかし、その後、イスラエル王国は北と南に分裂し、北はアッシリアに滅ぼされ、再建される事は無かった。南はバビロンの捕囚を経て、ペルシャによる解放を得るが、その後ローマ帝国に滅ぼされ、流浪の民となる。
 イスラエルの民と対立する民としてペリシテ人が登場するが、彼らはイスラエル人がカナン定着のほぼ同時期に、地中海方面からやってきた「海の民」の中心的グループである。
 旧約聖書は、律法の書、預言書、諸書、に分かれるがサムエル記は預言書に分類される。
 サムエル記は、極めてわかりやすい。文学書であり、歴史書である。この書に登場する人物(祭司ネル、ネルから教育を受けた預言者であり、士師でもあったサムエル、サムエルによって油を注がれ、イスラエルの初代の王になったサウル、サウルの下、数々の戦功を立てサウルの権威を盛りたてたにも拘らず、いやそれ故に、サウルの妬みを買い、命を狙われ、追われたダビデ)は、神との関係において、人間的な悩みや悲しみ、苦しみの中で生きている。そこには多くの葛藤があった。このような人間の葛藤は旧約聖書の段階では解決されていない。この解決は、新約聖書まで待たねばならない。
 神と人間(律法か愛か
 さて、ここでサムエル記の内容から離れて〈もちろん無関係であり得ないが〉、神と人間という基本的な問題について考えてみたい。創世記からサムエル記まで、イスラエルの民は、神に対して決して従順では無かった。絶えず、神に反抗してきた。神は苦慮し悩みこれを罰した。それ故イスラエルの民は一時的にはこれに従うものの、喉元過ぎれば何とやらで、再び神に反抗した。罪と罰と救い、この繰り返しが旧約聖書である。イスラエルの民は神に対して決して完全では無かった。この状況は士師記の中で典型的に示されている。
それは何故か。それは神がイスラエルの民に与えた律法だけでは、人は救えないと云うことを示している。律法(十戒)では、最初に神は「私だけを神とせよ」といい。偶像礼拝を禁じている(出エジプト20章1~4節)。しかし、イスラエルの民は常にこれに反抗した。それを成してはならないと知りながら、それを成す。これは人間の弱さであり、人の罪である。人はもともと罪びとである。人が最終的に救われるのは、キリストの出現を待たねばならない。だから旧約の段階では、人は救われない。
 旧約の神は、律法故にその罪を罰する神であり、新約の神〈イエスキリスト〉はその罪を許す神である。それでは人にとって律法は不必要なのか?キリストは言う「私が来たのは律法や預言者を廃棄する為だと思ってはなりません。廃棄する為にではなく、成就する為に来たのです(マタイの福音書、第5章17節)」と。これに続く聖書の、み言葉を読む時、人に対する愛がある。愛によって補われた時、律法は成就する。愛なき律法は拘束に過ぎない。キリストは当時、形式主義に陥っていたパリサイ人を批判したのである。
 キリストは人の罪を一身に背負って十字架にかかって死んでいった。それ故に我々罪びとは赦される。ルカの福音書は言う「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を探して、救うために来たのです(ルカの福音書19章10節)」と。
 サムエル記に話をもどそう。祭司ネルの二人の息子は、祭司でありながら、神の前で悪を行った。更に、サムエルの子もそうであった。それが王国建設の弾みになった。サウルを王にした事を神は後悔している。ダビデだけが神の前で完全であった。しかしそれはサムエル記の一部の段階である。二部になると王になった奢りか、様々な罪を犯す。このように人は罪を犯す存在である。イスラエルの指導的立場にあるものですらこの状態である。ましてや民においておや、である。
  登場人物
 祭司エリエリは、長年イスラエルの民を指導してきた祭司であり、シロ(王国成立以前イスラエル諸部族の中心的聖所のあった場所)を中心に活躍していた。ナジル人として生まれたサムエルを成人するまで世話をする。エリには2人の息子ホフニとピハネスがいた。かれらは祭司職にありながら、祭司として、してはならない悪を行った。エリはその悪をいさめたが、彼らは聞く耳をもたなかった。神は怒り、祭司エリに対しても、その監督不行き届きの罪として、その責任を追及する。彼らの家系の断絶が宣告される。イスラエルはペリシテ人と闘い、破れ、「神との契約の箱」は奪われる。祭司としては大失態である。2人の息子は、この戦いで戦死する。その知らせを聞いてエリ自身そのショックで死亡する。その最後は悲劇的であった。
 サムエルユダヤの預言者であり、最後の士師である。サムエルは、不妊の女であったハンナから生まれる。神がハンナの願いを聞き入れた結果の恵みであった。ハンナは神との約束どおり、サムエルをナジル人として育てるため、祭司エリに預ける。サムエルは聖所シロで清く、正しく成長する。それ故、神にも民にも愛された。エリの息子達とは異なっていた。サムエルが生まれた頃、イスラエルはペリシテ人との戦いに明け暮れていた。ペリシテ人は高度な文明を持っていた。鉄製の武器を持ち、鉄製の戦車を使って、イスラエルに戦いを挑んできた。ペリシテ人の前でイスラエルの民は敵ではなかった。この時サムエルはイスラエルの救済者として現れる。神の保護の下ペリシテ人と対決してこれを破る。彼の支配下においてはペリシテ人はイスラエルを攻める事は無かった。ペリシテ人の奪った町々はもとに戻り、周辺の国々もペリシテ人から解放された。しかしペリシテ人を根絶やしすることは出来なかった。常に復活して、イスラエルを脅かしていた。サムエルには2人の息子がいた。しかし、この息子は神の前で完全では無かった。悪を行った。そこでイスラエルの民は強い民になるため、王国を立てることをサムエルに要求する。しかしサムエルは人の上に人を立てることを嫌った。唯一神がいるではないかと。それでも民の要求は強かった。サムエルは神に伺いを立てる。神は自分への信仰を条件にこれを認める。サムエルはこれを受けて初代の王を探し求める。そしてサウルが選ばれ油を注がれ、初代の王となる。最初こそサウルは、その活躍には目を見張るものがあったが、次第にサムエルに対しても神に対しても悪を行うようになる。神はサウルを王にしたことを後悔する。サムエルは密かにダビデに油を注ぎ、サウルを見限る。そしてサムエルは為すべき事を成して死ぬ。イスラエルの民は悼み、悲しみ、故郷のラマに葬った。
 サウル ベニヤミン人のキシュの一人息子がサウルであった。彼は優秀な若者で、背が高く、彼ほど美しい若者はイスラエルの子らの中にはいなかった。彼はいなくなった雌ろばを、捜しに行く途中でサムエルに会う。神が引き合わせたのである。サムエルは、サウルに油を注ぐ。しかし、イスラエルの民の手前、恒例のくじ引きで王と定めたのである。それは、明らかに出来ゲームであった。彼の王様就任には反対する者もいた。サウルは自分は王として相応しき人間であるとイスラエルの民に、証明しなければならなかった。戦に勝つことによって、自分の力で、それを証明したのである。彼は、形式的にも実質的にも王となったのである。かくしてイスラエルの民は、神と王と、2人の王をもつ事になったのである。神にとってはそれは許されざる事であった。神にとって王は自分の下位にいなければならなかった。しかし、サウルは神に反抗した。神は彼を王にした事を後悔する。サウルの周りは敵だらけであった。神の代弁者であるサムエルと対立し、外には強力な敵ペリシテ人がいた。後にはダビデが現れた。ダビデは忠実な部下であったが、その実力はサウルを超えた。ダビデは、自分の地位を狙うライバルとして彼を見るようになる。ダビデは宮廷を追われて流浪の人となる。サウルの長男のヨナタンと次女のミカル〈ダビデの妻〉は、ダビデを助ける。身内の裏切りにサウルは怒り狂うが孤独であった。誰も自分に味方するもがいなかった。最後には霊倍の女に救いを求め、死に霊となったサムエルを呼び出す。しかしサムエルは冷たく彼を突き放す。神が見放したものを救うわけにはいかない。それに反してダビデは追われてはいたが随所に彼を救うものが現れ温かく迎えられた。彼はサウルと違って孤独では無かった。結局、ペリシテ人との戦いの中イスラエル軍は破れ、、サウルの息子達、ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュア、の3人は殺され、重傷を負ったサウルもなぶり殺しになるのを恐れ自殺する。そこには、神からも、息子達からも見放され、ペリシテ人との戦いに敗れ、孤独の中で死んでいったサウルの悲劇の生涯があった。それに反して、ダビデはこの後イスラエルの王となり、民を治めた。
 ダビデダビデの系列。ダビデはルツ記に出て来たヴォアズを曽祖父に持つ若者でエッサイの末っ子であり、羊を飼うものであった。彼はサウルと同じく美しい若者であった。そして立て琴を奏でた。その音色は人々の心を和ませ、力を与えた。この若者にサムエルは神の指示に従って、密かに油を注いだ。神はサウルを見限っていた。神がサウルを見限って以来、サウルは神からの悪霊に悩まされた。ダビデはサウルに呼び出され立て琴を奏でるように命じられた。その音色はそサウルの心を慰め、和ませた。サウルから悪霊は去った。サウルはダビデを非常に愛し、彼を自分の武器をかつぐ従者とした。ダビデは知力胆力に秀でたものであり、イスラエル人が恐れおののいたペリシテ人のゴリヤテと云う勇士を、その知力を用いて倒した。石つぶてをこの男の額に投げつけ彼を殺したのである。こんなことから、サウルはダビデをますます愛するようになる。サウルの下ダビデの戦歴には甚だしいものがあった。その人気はいやがうえにも上がった。しかし、次第にサウルの心はダビデを離れていく。いつしか、彼はダビデをライバル視するようになったのである。神の心が自分を離れダビデに向かったのを知って彼は嫉妬に狂い、彼を殺そうとする。ダビデはサウルのもとを逃れ、流浪する。しかし、ダビデには神のご加護があった。自分の故郷に戻りそこで軍を組織する。ダビデには何度もサウルを殺す機会が訪れるが、神から油を注がれたものを殺すわけにはいかないと、サウルを助ける。サウルを滅ぼすのは神の専任事項なのである。最終的にはダビデとサウルとの間には和解が成立する。しかし、神はサウルを許さなかった。ペリシテ人との戦いにおいて、サウルは破れ、その息子達と共に滅ぼされる。サウルの後をダビデが継ぐのであるが、それは第2部の話である。
 ここまでが「サムエル記第Ⅰ部」の荒筋である。読んでいて血湧き、肉躍る。
>平成25年2月10日(火) 制作者 守武 戢 楽庵会