日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

イサクの一生

2014年02月28日 | Weblog


 イサク★約束の子
 イサクは創世記に登場する人物で、イスラエルの族長の一人である。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨハネとイスラエルの歴史はその血筋に従って継続していく。創世記はヨハネの物語で終わる。次に現れるのはモーゼであるが、モーゼについては項が改まって、「出エジプト」より始まる。モーゼはアブラハムの血筋ではない。このように「創世記」は神による天地創造から始まりヨハネを持って終わるのであるが、天地創造を除けば一つの家庭小説を読んでいるようである。あまりに人間臭い。醜い骨肉の争いがあり、偏愛があり、妬みがあり、偽計があり、同性愛があり、権力へのすり寄りがあり、部族間の争いもある。そこにあるのは人間の弱さである。聖書はその弱さを否定しない。事実を事実として述べている。そこに神がいなかったら、まさにこの世は闇である。だから神は人と契約を結び、正しい方向に人を導いていく。契約を前にして「我が前で完全であれ」、と説く。ある場合にはこれを滅ぼす。

 イサクの誕生
 イサクはアブラハム100歳、サラ90歳の時に生まれた唯一の嫡子である。神がアブラハムに汝の妻サラに子を授けると預言したとき、アブラハムもサラも笑ってこれを信じなかった(創世記18章12節)。あまりにも歳をとり過ぎていたからである。サラにはすでに女性に特有のものは無かった。しかし、神に不可能な事は無い。サラは身ごもり男子を産む。神はこの子を「イサク」と名付けよと命ずる。アブラハムはこれに従う。イサクとはアラビア語で「彼は笑う」という意味である。神は二人の不信心をからかったのである。イサクは子孫増大のために神によって与えられた「約束の子」となった(創世記17章19節)。

 イサクの燔祭
 イサクの子孫からイスラエルの歴史は始まる。アブラハムの祖先はノアでありノアの祖先はアダムである。人類の歴史はアブラハムの出現をもってイスラエルの歴史へと転化する。これが旧約聖書である。
 イサクはアブラハムや他の族長たちと違って比較的穏やかな一生を終えている。敢えて事件を取り上げるとすれば、神がアブラハムに与えた燔祭であろう。これについては前項で既に述べたので、ここでは述べない。神はアブラハムに試練を課し、わが子すら神にささげようとしたアブラハムの信仰心の深さに感動し、その子孫の増大繁栄を保証し、アブラハムとの契約を確認する。

 サラの死
 イサクの燔祭の後アブラハムの正妻であるサラは127歳で没する。アブラハムは,寄留地であるカナンの地に銀400シュケルで土地を買い、その洞穴を墓地とし、サラを葬る。後に、アブラハムもイサクも、ヤコブもこの墓に葬られる。

 イサクとリベカの結婚
 イサクは成人して嫁取りの季節になった。アブラハムは、異教徒の多く住むカナンの地で嫁をとることを望まなかった。そこで、しもべに、命じて、故郷のハランに出かけ、そこで嫁取りをして来いと命じる。しもべは、リベカと云う美しい、まだ男を知らぬ、生娘を探し当て、これをイサクの嫁の候補として申し込みをする。リべカは、これを承諾する。リベカはアブラハムの父テラの三人の息子の一人、次男のナホルと、三男のハランの娘ミルカの間に生まれたべトエルの娘であった。同族であり、同じ神をあがめる信者であってみれば、文句は無かった。しもべはリベカをイサクの待つハランに連れ帰る。イサクは彼女を天幕の中に導き入れた。こうして彼女は彼の妻となった。アブラハムもこれを嫁と認めたのである。母、サラの亡き後も、イサクは彼女の中に愛と、慰め得たのである。イサクの嫁取りの話は創世記24章に詳しく述べられている。

 アブラハムの死
 イサクが嫁取りをした後、アブラハムは再び妻を迎えた。いい歳をしてようやるよう、と云いたい。妻の名はケトラ、6人の子をうむ。孫まで出来た。アブラハムの生涯年は175年であった。死を前にして自分の所有するもの全てをイサクに与えた。アブラハムは老いて、満ち足りて安らかな老年を迎え、息を引き取って死んだ。サラの眠る墓に共に眠る。二人の息子、イサクとイシュマエルが見取ったのである。

 イサクの息子エサウとヤコブ(双子)の誕生
 イサクの妻リベカはサラと同様、石女(うまずめ)であった。そこでイサクは神に祈る。神はその願いを聞き入れた。リベカは身ごもり、双子の男子を産む。兄=エサウと弟=ヤコブである。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した。リべカのヤコブに対する偏愛から後に大きな災厄を生む。イサクは歳老い、目を患いヤコブをエサウと間違え、彼に長子権を与えてしまう。兄弟の間に溝が出来る。それについては項を改めて述べる。

 イサクの権力へのすり寄り
 アブラハムの時代に生じた飢饉が、再び、イサクの住む土地を襲う。しかし、神はアブラハムがしたようにイサクがエジプトに下る事を許さなかった。そこにはアブラハムとの間の契約があったからである。それ故、イサクはペリシテ人の王=アビメレクを頼ってゲラルに赴いた。イサクはゲラルの地の、寄留者となった。イサクはこの地で、リベカを妹と偽る。サラがアブラハムの父=テラの異母妹であったのと異なって、明らかに偽りである。アビメレクはその偽りを知り怒りをあらわにする。そして問う『なぜ妹と偽ったのか?』と。イサクは応える『私は彼女の故に死ぬかもしれないと思ったのです(創世記26章9 節)』と。アビメレクはそれ故には、彼をこの地から追放する事は無かった。「アビメレクは民全員に命じて云った『この男と彼の妻に手出しするものは、死をもって処せられる』(創世記26章11節)」と。イサクはこの地で富み栄え、強大な力を得る。その為、住民のねたみに会い、それ故に追放される。アブラハムとイサクは、共に寄留地において、自分の身を守るために、自分を殺すものが無いように、自分の妻を妹と云ったのである。ここには権力に擦り寄る姿があると同時に、人間としての弱さが表現されている。
 創世記に登場する人はみな弱い。アダムとエバは蛇に騙されて、禁断の実を食するし、アダムとエバの子カインはその弟アベルを妬みから殺害する。そして、アブラハムとイサクである。イサクの子にヤコブとエサウと云う双子の息子がいる。ヤコブはイサクの妻リベカに唆されて、エサウから、その長子権を奪う。ヤコブの息子にヨセフがいる。ヤコブは殊の外ヨセフを愛する。それ故にヨセフの他の兄弟から妬まれ、エジプトに売られる。と、まあぁ創世記に現れる人物は余りにも人間臭い。人間的な弱さを露わにする。だから神は人に云う。「自分の前で完全であれ」と。そしてその限りにおいて、子々孫々の繁栄を約束する。この契約はモーゼの出現をもって完成する。それが十戒である。この十戒は個人が一人ずつ守るべき戒であると同時に、深く民族共同体とかかわる戒でもある。少し先走ってしまった。話をもとにもどそう。

 井戸の確保
 水は、人々が生活を営む上で欠かせないものである。古来より水を得るために様々な努力、争いがなされて来た。日本のように豊かな水に恵まれている国と違って、砂漠に囲まれた中東においては、水の確保は死活問題である。住民は井戸を掘る。その井戸を中心に生活が営まれるのである。ゲラルを追放されたイサクは水を求める。牧畜をするにしても、農耕をするにしても水は無くてはならない。寄留地と云うからには、暫時、生活する場であろう。天幕を張り、牧畜を営み、しかる後、牧草を求めて移動する。聖書には、水を求めてゲラルの牧者と争うイサク一族の姿が描かれている。争いの後、争うことのない井戸を掘りあてる(創世記26章15節~22節)。神はイサクの前に現れ。アブラハムとの契約を確認する。イサクは祭壇を築き神の名を呼び、そこに天幕を張った(創世記26章23節~25節)。天幕とは一時的に生活する場所である。この時、イサクを追放したペリシテ人の王アビメレクがその友人アフザトと軍の長ピコルと共にイサクの所にやってきた。和解が成立する。彼らの生活は安泰であった。
 このように、イサクは「燔祭」以外に、神からの試練には合っていない。労せずリベカと云う美しい妻をめとり、父から財産を得、更に自らもその努力によって富を得て、安住の地を得る。神の配慮からエサウ、ヤコブという、双子の息子を授かり、老いて満ち足りた日々を過ごし、その生涯を終える。180歳であった。息子のヤコブとエサウが、アブラハム、サラの眠る墓に彼を葬った(創世記35章28節~29節)。
 イサクの生涯は神とアブラハムとの契約によって豊かに守られていたのである。

平成26年2月25日(火)
報告者 守武 戢 
楽庵会


子供たち―福音宣教のため

2014年02月05日 | Weblog

子供たち:福音宣教とは?

 この場において私の祈りを聴いて下さる神に感謝します。
 私は先月(12月)の深夜祈祷会において、人気アニメ「妖怪人間ベム」をもとに造られた、同名の映画について触れ、妖怪人間ベムの中にキリストの姿を見たと云った。これはもともとは子供を対象にしたアニメであり、果たしてこの物語の持つ宗教的意味(神、人の罪、救い)を子供たちが理解できるかという疑問を持った。これについて福音宣教の立場から述べてみたい。
 私はこの物語の筋を述べる事を目的としない。目的はあくまでもこの物語の真意である。
妖怪人間ベムの親子(ベム、ベラ、ベロ)は、人間になりそこなった生き物として描かれている。だから彼らは『人間になりたい』と夢見る。彼らがいつ、どこで生まれたかは、誰も知らない。彼らは、人に仇なす悪魔と戦い、これを滅ぼすことを使命としている。優しく、善良で、正しい心を持ちながらも、命をかけて悪魔と戦う時は、恐ろしい妖怪に変身するため、人からは恐れられ、理解されず、迫害され、差別される。だから彼らは街の片隅の廃屋の中にひっそりと暮らしている。そこには人を姿、形だけで判断する人間の愚かしさが表現されている。
 ある時、ある人がベムに問う『なぜあなたは、自分を差別し、迫害する人間のために働くのですか』と。彼は応える『私が人のために働かなかったら、私は単なる妖怪になってしまう』と。私はここにイエスの姿を見る。イエスは十字架上で自分を十字架にかけたユダヤ人に対して「彼らは自分のやった事を何も理解していないのです」と述べその救いを、神に祈り死んでいった。
 ある人が長老に願う。「私の中から悪を取り除いて下さい」と、その時長老は言う「あなたの中から悪を取り除いたら、あなたは人間ではなくなってしまう」と。ここで作者は人間とはもともと罪ある存在(原罪)だと云っているのである。
 ある時、交通事故で死んだ女性が、遺族の切なる願いが入れられ、永遠の命をもたらす薬を注がれて、悪しき妖怪に変身する。この悪しき妖怪と正しき妖怪(ベム、ベラ、ベロ)との闘いは壮絶である。たこの足のように伸びた手足は容赦なく、ベム、ベラ、ベロを打ちすえる。しかし、この戦いは、ベロ達の勝利に終わる。たこ足のように伸びた足は切断され、罪より解放され、女性はもとの人間に戻り、穏やかに死を迎える。そこには人間の持つ罪との闘いがある。女性は、罪から解放され、救われ、永遠の命を与えられ神の国に召される。人間はこの世において永遠の命を得る事は出来ない。有限の存在だと云うことが明らかにされる。
 この3つのエピソードが示している事は、まさに聖書の精神である。神とは何か、人の罪とは何か、救いとは何か、と云うことである。聖書は色々と語っているがつきつめてみれば、これ以外の事は云っていない。
 この作品は大人が見ても面白いが、あくまでも対象は子供にある。面白いと云う事は、子供にとっては、もっとも重要なことである。眼をぱっちり見開き対象を見つめることである。それは作品に関心を持つということであり、興味をも持つということである、感動することであり、心の底に何かを感じることである。福音宣教の一歩はここから始まる。見るから観るへの転化が、ここより始まる。見るとは目で見ることであり、観るとは心の眼で観ることである。目に見えたものから、雑多なものを取り除き、純化し、深化させ、抽象化して、本質に迫る。それがなされた時、見るは観るに転化する。ここに神との出会いがある。作者の意図は子供たちに伝えられなければならない。作者の意図は物語を通じて聖書の精神を子供たちに伝えることにある。福音宣教とはそういうものである。「神」も「罪」も「救い」も目にみる事は出来ない。だから作者は具体的なものを示して子供たちに迫る。それが「妖怪人間ベム」である。この中には神とは何か、罪とは何か、救いとは何かが語られている。子供たちは、すぐにはこれを理解できないかもしれない。しかし地にまかれた一粒の「種子」は、育ち、成長し、何時か、きっと花咲くに違いない。私はそれを信じたい。聖書の中には、イエスを通じて多くのたとえ話が語られる。数えた事は無いが100を超えるのではなかろうか?イエスは、たとえ話を通じて本質に迫る。 
 学問が、知性に訴えるものとするなら、芸術は感性に迫る。感性の豊かな子なら具体的なものから、神の啓示を直感し、抽象化して本質に迫る事が出来る。全ての物象の根底には神がいる。秀でた作品は人に感動を与える。感動とは神の意志を心の中に直感することである。それを「霊感」と云う。
 子供たちは将来を担う宝物である。彼らに良い作品を、優れた作品を、幼いころより見せ続けさせろという。彼らが悪いものに接したとき、誰からも、何も云われなくとも、研ぎ澄まされた心の中に違和感が生じるという。善悪を知る心は自然に生まれてくるのである。
 日本には欧米のように幼いころより、宗教教育は行われてはいない。戦前、国家神道の名のもとに、「神国日本」のために、多くの兵士たちは『天皇陛下万歳』と叫んで死んでいった。宗教は権力に利用されやすい。そんな反省もあるのであろう。日本では学校教育として宗教教育は行われていない。しかし、自分の心の中に心棒として神を持っているものは、いかなる迫害にも耐え得る事が出来る。ゆるぎの無い心を持つことが出来る。それは権力に擦り寄る事を許さない。それは歴史が教えている。今、宗教法人としての学校、教会、等々で、細々と、宗教教育がなされているにすぎない。今、日本におけるキリスト者の数は全人口の1%に過ぎないと云われている。せいぜい百万人を少し超える程度であろう。福音宣教の必要性を感じるのである。
 今、世界は神を失った時代だと云われている。神なしで生きることのできた時代は既に終わっている。世界は罪に満ちている。自然は破壊され、格差は広がり、世界平和は侵されている。将来を担うのは我々のような老人ではない。子供達である。彼らに私は期待したい。
 神の福音が世界に広がるように、切なる心を持って神に祈ります。
平成26年1月31日(金)
祈る人 守武 戢 
 深夜祈祷会