日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

いじめられっ子の復讐=自殺

2007年05月29日 | Weblog
 文部科学省は、2007年1月19日、いじめの定義を見直すことにした。従来のいじめの定義では、「自分より弱いものに対して一方的に、身体的、心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」としていたが、見直し案では「子供が一定の人間関係にある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的苦痛を感じているもの」と変更した。また具体的ないじめの種類については「いじめか否かの判断は、いじめられた子供の立場にたって、行うよう徹底させる」とした。また具体的ないじめの種類については「パソコン・携帯電話での中傷」「悪口」などが追加され、いじめの件数についても「発生件数」から「認知件数」に変更された。
 いじめの定義が変更されるほど社会ではいじめが横行している。それによる自殺も増大しており由々しき社会問題として、世間の注目をあびている。「自殺をすればいじめはなくなる」と遺書を残して自殺する子供は多い。弱さの表現として考えられているが、果たしてそうであろうか?僕はそうではないと思う。彼は自殺した後のことを考えているのではなかろうか?いじめっ子は、刑事事件(少年法によって保護されているから)にならないにしても、最悪少年院送り、民事裁判が起こされ、慰謝料が請求される。学校や教師はいじめを放置したとして責任をとらされる。なんと素晴らしい復讐であろう。いじめっ子は将来的に社会復帰できなくなるかもしれない。いじめられっ子は草葉の陰から快哉を叫んでいるであろう。しかしそれはとても悲しい。まるで救いが無い。
どんなにひどいいじめでも、それはあくまでも一過性のものである。永遠に続くものではない。少子化で大事に育てられた子供には耐え切れないものかもしれない。しかし人生の最初の試練だと思って耐えて欲しい。自殺なんて考えないで欲しい。
 いじめは子供の世界だけでは無い。大人の世界にもある。最近の例では、不二家の事件、野村紗知代に対するバッシング、マスメディアは、よくやるよと言うほど大騒ぎした。歴史的に見れば「忠臣蔵」などその良い例であろう。
 物語はまさにいじめオンパレードである。四谷怪談、水戸黄門もの、必殺もの、10チャンネルの2時間ドラマのミステリー。いじめ殺されたお岩さんの復讐、水戸黄門も、必殺ものも、いじめられた庶民を助けて正義の味方の黄門さんや、中村主水などが最終的には復讐する。2時間ドラマの犯人はいじめられ、いじめられ思い余っていじめっ子を殺す。断崖絶壁の上で、名探偵に告白する。おなじみのパターンである。いじめとその復讐日本人は大好きである。そこから勧善懲悪思想が生まれる。
 話をいじめっ子に戻そう。死んでやると思ったとき、一息つけ、死ぬつもりで、いじめっ子にぶつかっていけ、多勢に無勢、こてんこてんにやられるであろう。死ぬつもりなのだから、自殺も殺されるのも同じである。徹底的に抵抗することである。相手だって殺しはしない。僕はそうした。不思議とそのあといじめがなくなったのである。
 いじめられる側の論理だけでなく、いじめる側の論理も考えろ。案外いじめる側は寂しいのだ、家庭に問題があったり、心に問題が在ったりする。本当に心を割って話し合える身内、友人がいないのかもしれない。あなたに対する嫉妬があったりする。もしかしたらあなたに接触を求めているのかもしれない。それなのに、あなたは表面的には従っていても、心は拒否している。恨めしげな目、軽蔑的な態度、それが我慢なら無いのである。いじめはエスカレートする。僕は両方を経験しているので、よく判るのである。いじめは決して楽しいものではない。寂しく悲しいものなのだ。いじめっ子に対する教育、それが必要なのである。いじめっ子の持つ「心の闇」、それを本人は気がついていないのかもしれない。それを明らかにし溶きほごす努力が必要なのではなかろうか?  
 2007年1月22日、安部晋三首相は伊吹文明文部科学相に「いじめを繰り返す児童・生徒に対する出席停止措置」などをとる法的整備をするよう指示したと言う。それも一つの手であっても、その前にやることがあるのではなかろうか?

首相の靖国神社参拝の是非

2007年05月20日 | Weblog
 歴代首相の靖国神社参拝問題は国内外に大きな波紋を呼んでいる。きわめて複雑な問題である。その最大の問題点は靖国神社に東条英機、板垣征四郎以下7人のA級戦犯が祀られていることである。彼らはA級戦犯であって永久戦犯ではない。極東国際軍事裁判(東京裁判)の結果、処刑されその罪を償っている。その魂は神となって靖国神社に一般の戦没者と共に合祀されたのである。中国や韓国が文句をいいたい気持ちはわかるが、それは「内政干渉」である。「一国の総理が靖国参拝して何故悪い」この限りにおいてこの考えは正しい。
 しかしである、正しければ全て良しというわけには行かない。いくら正当性を主張しても、A級戦犯合祀は国内外の理解を得るのが難しいのも事実である。中国、韓国の反発だけでなく、欧米の世論も厳しい目を向けていることも考慮に入れねばなるまい。中国や韓国は近隣の諸国であり、今後仲良くしていかなければならない国である。安部総理は4月下旬に行われた靖国神社の春季例大祭に、真榊(まさかき)料として5万円を納めたという。「内閣総理大臣 安部晋三」名で私費を納めたと言う。私人と言いながら総理の名を冠したのでは私人とはいえないのではなかろうか?小泉元総理は「心の問題」だと言う。心の問題ならなおさら総理の名を隠して奉納すべきではなかったか?
 外交とは複雑怪奇で一筋縄ではいかないものである。筋を通すこともある場合には必要であっても、余計な摩擦を国と国との間に起こすことは無いのである。
 それよりも大切なことは、過去に行われた負の遺産は遺産として、政治、経済、文化、他においてそれらの国々との交流を深め、相互理解を深めることである。仲良くしていくことである。「一番嫌いな国から」「一番好きな国」に変えていくための外交努力を重ねることである。そのことによって過去のこだわりが無くなれば、靖国問題もおのずと解消するのではなかろうか?しかし、このことは簡単になされることではない。100年をめどに外交努力、民間の努力が必要であろう。あせることは無いのである。

元気な高齢者に席を譲るな

2007年05月13日 | Weblog
 先日電車の中で起こったことだが、一人の女性が一人の高齢者に席を譲ろうとした。そのとき高齢者は、これを断ったのである。「わたしは若いのだ余計なことをしないでくれ」と。女性は戸惑った顔をして席に戻った。そばにいた僕は素直に座ってやれば良いのにと苦笑したが、その気持ちがわからぬでもなかった。僕は67歳、高齢者に属しているが、最初に席を譲られたときのショックは計り知れないものがあった。それまでは自分は席を譲る側だと思っていたからである。白髪は多くなってきたし、禿げてもいる。自分では若いつもりでも、はたから見れば、高齢者に見えるのかと思うと、とても悲しかった。60歳台はまだまだ若い。現役でバリバリ働いている高齢者も多いのである。席など譲られたら何故と思うであろう。高齢者に席を譲るなとは言わない。しかしよく観察してからにして欲しい。気持ちの若い高齢者は多い。その元気な人にショックを与えないで欲しい。いま僕はあきらめてしまって席を譲られれば、その気持ちに感謝して喜んで座ることにしている。