日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

井イザヤ書21 44章1~28節 唯一のお方

2023年12月06日 | Weblog
   イザヤ書 XXI, 44章1~28節 唯一のお方
 はじめ:神は、われわれ信仰の人を守り育ててくださいます。主は、自分を愛する者に恵みをお与えになります。その恩返しのために、これからは、私たちは、自分の命を大切に守り育てていく必要があります。おのれを大切に思う心が、周囲の人を大切にする行いへと転じていきます。周囲の人を大切にする行いは、人から人へと伝わり、さらに多くの人を大切に支えていく行いへと転じていきます。神は「汝の隣人を愛せよ」と言います。そしていつの日かあなたたちに、また、あなたたちの異教の民の国から世界へと、神の福音は伝播していきます。その彼方に神の国が広がっています。ここに神のご計画(初めから終わりまでの)がありま子々孫々の命を支える行為へと広がっていきます。そこには、異邦、異教の民も含まれています。そこには人種、宗教の差別はありません。イスラエルを起点としてす。
 44章:「今、聞け、私のしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを体内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ。わたしの選んだエシュルンよ(44:1~2)」言葉の説明:ヤコブ=かかとをつかむ者、押しのける者、ずる賢い者。イスラエル=神に支配された者。エシュルン=まっすぐな者、正しい者、心の直ぐな者。ヤコブ、エシュルンはイスラエルの別名です。この順番(ヤコブ、イスラエル、エシュルン)を見るとき、神のご計画を知ることができます。主は、罪びと(ヤコブ)を選びの民(イスラエル)として、神の子(エシュルン)にまで変身させるのです。主はイスラエルに「恐れるな」わたしがついていると、回復のメッセージをお与えになります。エシュルンには神の国の住民が予定されています。
 主は、この後ご自身の働きについて説明していきます。
「わたしは、潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。あるものは『私は主のもの』と言い、あるものはヤコブの名をなのり、あるものは手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。(44:3~5)」主は、イスラエルの民をその体内にいる時から支えておられ、荒野に水を湧かしたように、イスラエルに御霊を注がれたのです。水が人に命を与えるように、御霊(神)は、私たちに霊的な命を授けられます。
 主は、イスラエルをその体内にいる時から支え、御霊を注ぎ、その子々孫々に至るまでの増大繁栄を約束された方です。それゆえに、イスラエルは「私は主のもの」と、誇ります。それにもかかわらず、イスラエルは主に背き続けます。それでも主は、イスラエルを愛し、救います。彼らは、主に愛された選び(契約)の民であり、贖いの民だからです。
 「イスラエルの王である主。これを贖う方。万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない(44:6)」。この方、神は永遠に生きておられ、初めから終わりまで万物の歴史を支配しておられる方です。初めとは万物の初めであり、終わりとは、永遠に続く「神の国」を指します。ヨハネは、その福音書で次のように言います。「はじめに言葉あり、言葉は神と共のあり、言葉は神なりき、この言葉は初めに神と共にあり、萬の物これに由りて成り、成りたり物に一つとしてこれによらで成りたるは成し(ヨハネの福音書1章1~3節)」と。神は、万物に先んじて存在し、これを造られ、これを支配される尊いお方です。
 主が、アブラハムと約束されたことは、終わりのときに成就することでした。「わが前に全きものであるなら、汝の子々孫々に増大繁栄を保証しよう」と。その初めのとき(契約時)に、終わりのこと(神の国)を主は預言しておられるのです。このことを預言できる方は、主のほかには存在しません。「私以外にだれが、これを預言できるか」と、主はおおせられます(44:7参照)。しかし、イスラエルの民は、これを理解できません。自分が造った神・偶像に頼ります。終わりの日に神の選びの民イスラエルが、悔い改め、自分を造った神に立ち返り、主の贖いの御業を悟ったとき、素晴らし喜びが、彼らに訪れます。
「偶像を造るものはみな、むなしい。彼らの慕うものは、何の役にも立たない。彼らの仕える者は、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工したものが、人間に過ぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る(49:9~11)。」ここには、偶像批判があります。偶像を造ることの虚しさが語られています。今まで期待し、信頼していたことが崩れ落ち、失望落胆することを「恥を見る」と表現しています。これが、偶像を造る者の運命なのです。神は、万物をお造りになった尊いお方です。それに反して、偶像は、人によって造られた偽りの神です。人は、神がお造りになった神の作品です。神の作品(人)によって偶像は造られるのです。皮肉な現実です。そこに神と偶像の決定的な違いがあります。その結果、偶像を信じる者たちはみな、おののいて、共に恥を見るのです。
 12~20節には、偶像崇拝の虚しさ、滑稽さ、情けなさが描かれています。
 「鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう(44:12)」。神は、万物に先んじて現れ、永遠に生き続ける存在です。それに反して、偶像は、有限なる人によって造られる、有限なる偽りの神です。いつかは壊れます。人が、多くの道具と力を用いてこれを造れば、腹もすけば、喉も渇きます。それに反して、万物をお造りになった主は、その御業によって、疲れることも、たゆむこともありません。
「木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭を取り、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する(44:13)」。神は、その姿を見せません。しかし、偶像は、人によって、美しい人の姿に造られ、神殿に安置されます。人は見えない者を退け、見えるものとして偶像を造り、これを崇めます。
「彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また月桂樹を植えると、大雨が育てる(44:14)」。うばめがしとは柏の木のことです。ここには神の皮肉を感じることができます。木々を育て、大雨を降らせているのは神ご自身だからです。神が造られたものを使って、偶像を造り、それを神と呼んでいる。という矛盾です。万物は、すべて神の作品です。その一部を使って偶像を造り、これを神と呼ぶ。ここにも矛盾があります。と言うより、偶像は神の作品ともいえます。サタンは神の作品を使って偶像を造り、それに跪拝する者を求めます。以下(15~17節)は、サタンの諸業です。
「それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す(44:15)」。「その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった』と言う(44:16)」。「その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたはわたしの神だから』と言う(44:17)」。サタンは、偶像を造って、あなたたちの神としてこれに祈って救いを求めよ、と命令します。「彼らは知りもせず。悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない(44:18)」。ここにもサタンの影響を見ることができます。サタンは彼らの目と心をふさいでいるのです。それゆえ、彼らは、見ることも、悟ることもできないのです。
「彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌み嫌うべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない(44;19)」。忌み嫌うべき物、木の切れ端、共に偶像を指します。偶像は何かのついでに造られています。決して聖なる者とは言えません。彼らにはその自覚があるにもかかわらず、偶像の前にひれ伏すことをやめません。そこには自己欺瞞があります。
「灰にあこがれる者の心は、欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか』とさえ言わない(44:20)」。火を燃やしたら、灰になります。彼らは、灰になり果てる汚れたものを神と拝んでいます。それは、誤りではないかとさえ言わないのです。そこには自分自身に対する欺きがあります。
 「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、私自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったからだ(44:21~22)」。主は、おのれの作品イスラエルの民を、ことのほか愛しておられます。それで、その罪を問いません。「わたしの言葉を武器として歩め、悔い改めて、わたしに帰れ」と命じます。神に立ち帰ることが出来るのは、既に罪が許されているからです。主には恵みを与える、「そのとき」があります。主は、贖いの神だからです。
「天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ(44:23)」。これとは、イスラエルの民の悔い改めと神への立ち返りを指します。このとき、イスラエルは「エシュルン」と呼ばれます。このとき、自然界も共に喜びます。人と自然は一体化します。イスラエルの上に主の栄光が現わされます。神の国の出現です。
 『あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。『私は万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた(44:24)』。イスラエルは、存在する以前に、神によって形造られた存在です。これは、神とアブラハムの契約を指します。イスラエルは、アブラハムを先祖とします。神は天におられ、万物を創造されました。神の子としてキリストを地上に送り、その御業を広げました。
「わたしは自慢するものらのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵あるものを退けて、その知識を愚かにする(44:25)」。神の知恵は、この世の全ての知恵に優ります。自分の知恵を驕り、高ぶる者、占い師、学者、など、その知識、知恵を神は退けて、役の絶たないもの(愚か)にするのです。
「わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画をなしとげさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う(44:26)」。神はバビロンによって各地に散らされた神のしもべイスラエルの願いをお聞きになり、エルサレムへの帰還をお赦しになります。更に、主は、バビロンによって廃墟にされたエルサレムを復興させ、人が住むことを可能にすると、預言するのです。
「淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々を枯らす』と言う(44:27)」。神は、自然の要害、ユーフラテス川を枯らすことによってバビロンの守りを崩すのです。スペイン軍の侵攻が可能になります。出エジプトを果たしたイスラエルの民の前に現れた紅海、主は、それを割りイスラエルの民は、無事にそれを渡った故事を思い出します。
「わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う(44:28)』。スペインの王クロスは、神に代わって、各地に散らされた捕囚の民の帰還を命じます。それゆえ主は、彼を「わたしの牧者」と呼び、わたしの望む事をみな成し遂げる」者と見做します。エルサレムに向かっては、「再建される」、と言い。神殿ついては「その基がが据えられる」と言います。新しいエルサレム(神の国)が預言されています。

令和5年12月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

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