日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

祈りとは

2013年11月30日 | Weblog

祈りとは
この場所において神が私の祈りの言葉をお聞き下さることに対して感謝します。
ある時、ある人が僕に問うた「あなたは毎朝祈っていますか?」と。僕は笑って答えた「僕は生臭信者だから、教会の集い以外では祈りません」と。その人は不思議な顔をした。
 果たして祈りとは何であろうか?辞書で調べると「自分の力ではどうにもならない事を、神仏にすがって自分の願いが実現するように願うこと」とある。
 キリスト教における祈りとは、そのような現世的利益を願うのではなく、神への賛美を本来的なものとする。その中には感謝、嘆願、清聴、悔改、祈願、罪の告白などが、含まれている。究極的には、それによって神の栄光があらわされる事を願うものであり、現世的利益は、本来的な信仰による祈りとは別物である。その目的はあくまでも永遠なる神と有限なる人との霊的な交わりにあるとされる。
 このように考えると、われわれは日常生活において『祈らずして、祈っている』事に気づくのである。朝起きた時には『おはよう』と云い、昼に会えば『こんにちは』と云い、夜に会えば『こんばんは』と云う。外に出る時は『行ってまいります』と云い、帰った時は『ただいま』と云う。その返事は『お帰りなさい』である。食事の時は『いただきます』と云い、終われば『ごちそうさま』と云う。人と別れる時は『さようなら』と云い、お礼を言う時は『ありがとう』と云い。失礼したときは『ごめんなさい』という。これらの言葉は誰から教えられたものではなく、自然に心の中からわきあがってくる感謝の言葉である。これは、神が、人に与えた恵みに対するお礼の言葉である。これらは日常生活をスムースに生かすための潤滑油であり、生活の中に定着している。これは、人と人との関係を表していると同時に、神と人との間の関係を現している。そこにはいわゆる祈りの言葉は無い。形の上での祈りではないが、本来的な意味での祈りである。神は人との永遠の同伴者である。人と共にある。人は神を知らずして神を知る。ただその自覚は無い。その自覚に至った時、人は、信仰に目覚める。
 神は恵みを与えると同時に試練をも与える。それに対して人は救いを求める。神は「耐えることのできない試練」を与えない。その克服のために人事を尽くせ。そして祈れ。その結果、神は愛をもって応える。
2013年11月29日(金)
祈る人 守武 戢 
深夜祈祷会
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カインとアベル

2013年11月05日 | Weblog

カインとアベル
 カインとアベルの記述は旧約聖書、創世記4章:1節~25節に描かれています。これは人間存在の本質を、神と人(カインとアベル)との関係において述べたものです。
 カイン(兄)とアベル(弟)は、アダムとエバが楽園から追放された後に出来た息子達です。カインは、地を耕すものとなり、アベルは羊を飼うものとなりました。ある時期になって、カインは地の作物を、アベルは羊の初子の中から最高のものを、主<神>に捧げました。しかし主はアベルとその捧げものには目を留められましたが、カインの捧げものは無視したのです。「それでカインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜあなたは憤っているのか。何故、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである(創世記4章5節~7節)。』と」。しかしカインは主の言葉に逆らい、アベルを野に誘い、これを殺します。
 ここには2つの問題点があります。
 一つは、何故カインは顔を伏せたのかということであり
 二つは、正しい捧げものとは何かということです。
 新約聖書のヘブル人の手紙11章には『信仰によって』と云う言葉が19回も出てきます。ここでは信仰の重要さが語られています。その一つがカインとアベルについてです。それを引用します「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげものを良いささげものだとあかして下さったからです(ヘブル人の手紙11章4節)」と。ここで問題になっている事は信仰です。アベルはその信仰によってYESとされ、カインはその信仰によってNOとされたのです。しかし、カインは、神の意志を知りません。それ故に神の意に逆らって自分を主張するおごりや高ぶりがあります。そこには神の秩序に対する根底的な批判があり、神への信仰に対する不信があります。アベルが、信仰と愛と善の象徴として神の福音を受け入れるものとするなら、カインは、不信仰と憎しみと悪の象徴として神の福音を拒否するものと考える事が出来ます。
 何を捧げたかということよりも、その信仰が問題となったのです。このように聖書はアベルの捧げものが神の意にかなったものであると3度も強調しています。一つは、アベルの捧げものはカインの捧げものより優れた生贄であったと云います。二つ目は、信仰による生贄によってアベルは義人となったことが証明されたと述べ、三つ目は、アベルの捧げものは良い捧げものであった事が明かされたと、あります。そしてアベルの捧げものとは羊の初子の最高のものだったのです。そしてこれが信仰と結びつきます。これ以後、小羊は神によって選ばれた、神聖な動物と見なされるようになります。アブラハムは、イサクの代わりに雄羊を神に捧げていますし、過越しの祭りに由来する、モーゼの十災の一つとして、羊の血が塗られたユダヤ人の家は過ぎ越され、それ以外のエジプト人の家の幼子は神によって屠ふられます。更にイエスキリストは、神の子羊と見なされています。神はその捧げものとして動物の血を要求したのです。ここに神の差別性があります。カインもまた、アベルと同様に、地の作物のうち最高のものを神にささげた筈です。しかし、それはアベルの捧げものと比べて、劣ったものであり、悪い捧げものであって、正しい捧げものでは無かったのです。これは、あくまでも神の判断です。カインは自分の最高の捧げものに対しNOの判定を下した神に対して怒りを表し、それを悟られないために顔を伏せたのです。神は全てを、お見透しです。カインの捧げものは不信仰であると断言したのです。
 カインの信仰の無さは、神の意に逆らってアベルを殺害するという行為の中にも現れています。アダムとエバの犯した負の遺産をカインは引き継いだと云ってよいでしょう。第2の問題点についてはすでに述べました。正しいささげものとは「信仰」なのです。信仰→生贄→動物→羊の初子→キリスト→アベルとなります。羊は聖なる動物と聖書は見なしています。
 アベルは、神の似姿としての霊的なものを継承したのです。しかし、カインによって殺されます。神はカインを罰します。カインの耕す土地はアベルの血によって汚され、収穫を無くします。カインは地上をさまよい歩く存在となります。しかし、神はその生命は保障します。誰も彼を殺すことの無いように一つのしるしを与えます。カインは神の前を去り、エデンの東、ノデの地に住みつきます。そこで妻を得、数代続きます。家畜飼い、音楽家、鍛冶屋などの祖先となります。家畜飼いは農業、音楽家は芸術、鍛冶屋は工業へと繋がります。現代社会における第1次産業(農業)、第2次産業(工業)、第3次産業(サービス業=芸術一般はここに分類されます)を構成します。これが、神からNOとされた人の文明の発祥となります。この系譜は現代まで続きますが、当然のことながら、聖書にはその後の記述はありません。悪霊によって支配された系譜だからです。この系譜は当然のことながら、神の救いの道からは外れます。罪を負ったカインに代わって神はその罪を贖ってやる事は出来ません。出来るのはその生き方を教えてやることです。後は自力で苦難を乗り越えると信じて、旅立ちを見送るしかないのです。しかし償いの無い罪は無いのです。いつか、きっと、遠い将来、その罪は神によって贖われる筈です。
 カインが神の道から外れ、アベルの亡き後、神はセツという男子をアダムとエバに授けます。セツの子がエノシュであり、彼の時から人は主の御名によって祈ることを始めました(創世記4章節)。セツの系統から神の贖いのご計画は実現されていくのです。ノアを経てイスラエルの父アブラハムに至ります。ここからイスラエルの歴史は始まります。
 罪にしても、聖霊にしても、その言葉自身は抽象的な言葉であって、実態を伴った具体性を持ちません。そこで神は、霊的存在としてアベルを、罪を背負った存在としてカインを、その具体例とします。そして、その両者の魂を併せ持つ存在が、セツなのです。それ故、人は矛盾した存在となります。そこから深刻な葛藤が始まります。それが人間の本質を形成するのです。神はこの人間と関係を持ちます。この葛藤を解決するものとして神はイエスを人の姿として地上に降ろされたのです。
 贖罪と云う言葉があります。贖罪とは、自らの努力では購うことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によって贖い、神と人との和解を果たし、人に永遠の命を与えることを、意味します。神は人を自分の似姿として、創造されました。その霊的な存在としての人は、その罪によって損なわれる事は無いのです。償いの無い罪は無いのです。
 神と人を結ぶものは『信仰』です。信仰とは神を畏怖し、敬い、信じ、その教えに従い、ひれ伏すことです。それ故、信仰に生き、死んだアベルは、最初の殉教者になりました。

平成25年11月12日(火)
報告者  守武 戢 
楽庵会

 写真をクリックしてください拡大します。左はアベルを野に連れ出すカイン。中央はアベルを殺すカイン。右はアベルの死を悲しむアダムとエバ。です。
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