日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

イザヤ書16 38~39章

2023年07月30日 | Weblog
 イザヤ書XVI 38~39章
 はじめに;イザヤ書は39章をもって、前半部分を終わります。イザヤはこの部分で祭儀偏重の宗教や社会の不義を糾弾し、強大国アッシリヤやエジプトへのヒゼキヤ王の迎合政策を批判しました。その預言を集めたものが、この前半部分です。神、主のさばきが語られています。後のキリスト教において、彼の預言したメシア(理想の王)の到来は、イエス・キリストの到来と結びつけられました。後半部分は2つに分けられます。2部(40~54章)においてはバビロンに捕囚されたユダヤ人に解放を告げ、第3部(55~66章)では解放後の神殿復興が語られています。前半部分とは異なって、後半部分には慰めがあります。
 ヒゼキヤ王の履歴
BC715年 ヒゼキヤ王の14年
     アッシリヤの王セナケリブの来襲(1)
1, ヒゼキヤ王、貢物でアッシリヤに撤退を懇願する。
2, アッシリヤ、これに同意するも約束を破りエルサレムを包囲する。
3, ヒゼキヤ王エジプトとバビロンに支援を請う。
4, ヒゼキヤ王籠城のため地下水道(全長533m)を建設。
BC701年アッシリヤのセナケリブ王の来襲(2)
1, 将軍ラブ・シャケがエルサレムを包囲
2, ヒゼキヤ王[死に至る病]に犯される。回復のための祈り、奇蹟の回復。15年の延命。
3, アッシリヤ軍18万5千人一夜にして壊滅
4, バビロンからの使節団がエルサレムに到着。(39章)
5, ヒゼキヤ王の子マナセ(悪王)即位。(39章)
BC686年 ヒゼキヤ王の死
38章:「死に至る病」 「そのころ、ヒゼキヤは病にかかって死にかかっていた。そこへアモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。『主はこう仰せられます。あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』(38:1)」。なぜヒゼキヤ王は、「死に至る病」にかかったのでしょうか。ヒゼキヤはエルサレムがアッシリヤに囲まれたとき、神にでは無く、アッシリヤに多くの貢物を捧げ助命嘆願をしています。神は怒り、その約束をアッシリヤに破らせ、さらに「死に至る病」を与えたと言えるでしょう。自分の罪を悔い改め「そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って言った。『ああ。主よ。どうか思い出してください。私が誠を尽くし全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたが良いと思われることを行ってきたことを。』こうしてヒゼキヤは大声で泣いた(38:2~3)」。壁に向かって:神、主に集中して。真の祈り:神、主に向かうこと。神を信頼して神と共に歩むこと。ヒゼキヤは自分の信仰を強調して、ただひたすら神、主のあわれみにすがったのです。
 神はお優しいお方です。この祈りに応えられました。このときイザヤは、主の言葉を聞きます。「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。わたしはアッシリヤの手から、あなたとこの町(エルサレム)を救い出し、この町を守る。』これがあなたへの主からのしるしです。主は、約束されたこのことを成就されます。(38:5~7)」。ヒゼキヤは神の恵みにより15年、その寿命が延ばされました。ヒゼキヤの死はBC686年です。これは歴史的事実です。差し引きするとBC701年に「死に至る病」かかったことになります。このときエルサレムはアッシリヤの包囲下にありました。ヒゼキヤは病と敵の包囲という2重の災いに悩まされていたのです。このとき神の奇跡が起こります。アッシリヤは15万5千人の死者を残して撤退します。ヒゼキヤの病は癒され、15年間その命は伸ばされました。神の預言は実現し、その約束は、成就したのです。
 38章の10節から20節までには、ヒゼキヤ王が「死に至る病」に犯され、それからの回復に至るまでの苦しみと、回復の喜びが詠われています。
 その歌は3つに分けられます。
1, 命が断ち切られることの痛み(38:9~14)。
2, 命が断ち切られることの覚悟(38:15~16)。
3, 命が延ばされたことの感謝(38:17~20)。
1の9~13節までは、38章の1~2節までが対応します。イザヤから「死に至る病い」を宣告されたヒゼキヤ王は「人生の半ばで黄泉の門に入る」と、その命の儚さを嘆き、悲しみます。さらに「私は主を見ない」と、自分の罪を顧み、主が自分の前から隠れてしまったことを恥じています。そして言います「私は朝まで叫びました。主は雄獅子のように私の全ての骨を砕かれます。あなたは、昼も夜も、私を全く捨ておかれます(38:13)」それゆえ「ツバメやツルのように、私は泣き、鳩のように、呻きました。私の目は上を仰いで衰えました。主よ。私は虐げられています。私の保証人になってください(38::14)」。私の保証人になる:ヒゼキヤは、死に瀕して、自分は天(神)から捨てられていると実感しています。自分が贖われ、救われるためには、天と地の間にいる仲裁者、保証人が必要なのです。その方とは、メシア(イエス・キリスト)です。その方の愛情が必要なのです。
 その後に、ヒゼキヤは、その罪を悔い改め主と共に歩む覚悟を表明しています。それは38章の3節が対応しています。
「主が、私に語り、主が自ら行われたことに、何を私が語れましょう(38:15A参照)」と。ヒゼキヤは、主に対する全き、跪拝を表明しています。「私は私の全ての年月、私の魂の苦しみのために、静かに歩みます。(38:15B)」。ヒゼキヤは主から与えられた二つの苦難(「死に至る病」とアッシリヤの侵攻)を神からのさばきと素直に認め、悔い改めて神に帰り、神と共に静かに歩むことを誓います。「主よ。これらによって人は生きるのです。私の息の命も、すべてこれに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください(38:16)」。神、主に対する全面的な信頼が表明されています。主はお優しい方です。自分を信頼するものの願いは、必ず聞き届けてくださるのです。その後、ヒゼヤには、病の奇蹟の回復が与えられ、更に15年の命が増し加えられます。それを感謝してヒゼキヤは神を賛美します。『ああ、私の苦しんだ苦しみは、平安のためでした。あなたは滅びの穴から、わたしの魂を引き戻されました。あなたは私の全ての罪を、あなたの後ろに投げやられました(38:17)』。苦しみを経た人間にしか、真の平安は訪れないのです。主はそれをよくご存じなのです。「黄泉はあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません(38:18)」。「罪からくる報酬は死です』霊的な死は自分の罪ゆえに体験するものです。
それゆえ、死者は主のまことを期待することは出来ないのです。「生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のようにあなたをほめたたえるのです。父は子らにあなたのまことについて知らせます(38:19)」。死からの回復と15年の延命に対する主へのヒゼキヤの感謝が歌われています。「主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴を奏でよう(38:20)」主に対する賛歌であり賛美が、語られています。
「イザヤは言った。『一塊の干しいちじくを持ってこさせ、腫物のうえに塗り付けなさい。そうすれば治ります』(38:21)」と。一塊の干しいちじくとは神、主のことです。腫物とは罪です。罪びとが、その罪を認めて、ひたすら神にひれ伏すとき、神は、その癒しの御業を行われるのです。「ヒゼキヤは言った『私が主の宮に上れるそのしるしは何ですか。』(38:22)」と。そのしるしとは、偶像に頼らず、人に頼らず、真の神に頼ることです。
 次の39章ではヒゼキヤ王は自らの罪でより大きな試練を抱え込みます。その様子が語られます。
39章:「そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。彼が病気だったが元気になった。と言うことを聞いたからである。(39:1)」。病気の回復を祝ってバビロンから使者が来ます。このころのバビロンは、まだ小国でした。しかし、力をつけている国であり、アッシリヤに代わって超大国へと変貌する片鱗を示していました。アッシリヤに反逆して、何度も戦いを挑んでいます。しかし、そのたびに退けられています。アッシリヤは、エルサレムから撤退したとはいえ滅びたわけではありません。周辺諸国に対して依然として脅威を与えていました。バビロンからの使者は単にヒゼキヤ王との間に友好関係を築くことだけが目的ではなく同盟関係を築いてアッシリヤと対抗することにあったのです。バビロンにとっては、ヒゼキヤの「死に至る病」からの回復と、アッシリヤのエルサレムからの撤退という二つの奇跡は、神の御業でしたが、異教の国バビロンには、それは彼らの理解を超えていました。ヒゼキヤ自身の力の結果と考えたのです。それで、同盟関係を結ぶにふさわしい国と見做したのです。「ヒゼキヤはそれらを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、一切の武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった(39:2)」。ヒゼキヤは神に対して罪を犯します。高慢となり神の前で謙虚になることを忘れ、自分の力と富を誇り、その富を、使者に見せびらかします。「そこで預言者イザヤがヒゼキヤのもとに来て彼に尋ねた。『あの人々は何を言いましたか。どこから来たのですか。』ヒゼキヤは応えた。『遠い国、バビロンから、私のところに来たのです』(39:3)」。そして言います。「私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は、一つもありません。」と。おそらく国家機密に属するものまで公開したと思われます。そこにはバビロンに対する油断があったと言えるでしょう。バビロンが同盟者から進攻者に代わったとき、この知識は攻撃の武器となるのです。
 「すると、イザヤはヒゼキヤに言った。『万軍の主の言葉を聞きなさい。見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、貯えてきたものがすべて、バビロンに運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。』(39:6~7)」と。バビロンによる略奪と、捕囚について預言しています。これは、あくまでも預言であってバビロンによるイスラエルの滅亡と捕囚のあった時代には、既にイザヤも、ヒデキヤも亡くなっていてこの世にはいません。このように、ヒゼキヤは神の前にひれ伏し信仰の人になったにも拘らず、バビロンと手を組み、エルサレムを裏切り、神をも裏切ります。滅びの原因を造ったのは彼です。当然、罰せられてしかるべきです。しかし、そのさばきは、後の世に延期されたのです。「ヒゼキヤはイザヤに言った。『あなたが告げてくれた主の言葉はありがたい。』彼は自分が生きている間は、平和で安全であろう、と思ったからである(39:8)」。事実、かれは生きている間は、神よりその罪を問われていません。ヒゼキヤは、「主の言葉はありがたい」と述べています。そこには、悔い改めと神への立ち返りがあります。40章からは後半部分に入ります。神はイスラエルに恵みを与えます。その橋渡しをしたのが、この節です。
令和5年9月12日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会</span>

イザヤ書⒖ 36~37章「信頼」と「救出」

2023年07月08日 | Weblog
イザヤ書XV 36~37章「信頼」と「救出」
はじめに:イスラエルの王エラの子ホセヤの第3年に、南ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となります。彼はイスラエルの神・主に信頼を寄せていました。そして、後にも先にもユダの王たちの中で彼ほどの者は、誰もいませんでした。彼は主に堅くすがって離れることがなかったのです。ヒゼキヤ王はイスラエルの危機に際して、「主は必ず我々を救い出して下さる。この町は決してアッシリヤの手に渡されることはない。」と語って、イスラエルの民に、主への信仰を勧めています。アッシリヤに滅ぼされた国々は、偶像礼拝の国であり、人の手の細工、木や石に過ぎない偶像を信じ、真の神を忘れていました。このとき、神は怒り、アッシリヤを使って、これらの国を滅ぼしたのです。このとき、イスラエルの民も罪に満ちていました。しかし、彼らの中には、主に選ばれた「残りの者」がいました。主は、一人でも自分を信じる者がいる限り、その民を滅ぼすことはありません。「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしの僕ダビデのために(37~35)」。アッシリヤは、この主の力によって、エルサレムの包囲を解かざるを得ず、み使いに殺害された18万8千人の遺体を残して、この町から撤退しました。撤退したセナケブリは国に帰り、その地で、彼は暗殺されます。主は自分に反抗する罪びとを決してお赦しにならないのです。ここに神・主の正義を、私は感じました。
36及び37章を読む方は、併せてⅡ列王記18章1節~20章6節を読んでください。ほぼ同じ内容が綴られています。しかし1点だけ異なっています。Ⅱ列王記18章14~16節はイザヤ書では省略されています。イザヤ書36章の1節から2節の間に入るべき文章です。そこにはヒデキヤ王がアッシリヤに無条件降伏し、金銀財宝を、講和を求めて治めたことが記されています。しかし、アッシリヤは、この平和交渉を裏切って、エルサレムを包囲します。
36章:「ヒゼキヤの王の第14年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダの全ての城壁のある町々を攻めて、これを取った(36:1)」。このときヒゼキヤ王は講和を求めて貢納金を治めています。先に述べた通りです。
「アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍を付けてラキシュからエルサレムへ、(約束を破って)ヒゼキヤ王のところに送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った(36:2)」。エルサレムは包囲されたのです。1節と2節の間には12~13年の経過があったと言われています。「そこで、ヒルキヤの子である宮内庁長官エルヤキム、書記セブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った(36:3)」。「ラブ・シャケは彼らに言った。『ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。『いったい、お前は何により頼んでいるのか』(36:4)』と、お前たちがより頼んでいるもの、エジプト、ヒゼキヤ王、ユダの戦力、神々のうち、だれが自分の国をアッシリヤの王セナケリブから救い出したか。全ては私にとっては、取るに足りないものだ。これらの全ては「お前たちを救い出すことは出来ない。」と、これらの「頼りにするもの」を、民の心から、引き離そうとしています。そして自分こそ救い主だと、イスラエルの民の味方を装います。「アルム語で語れと言う3人の高官の言葉に逆らってユダの言葉へブル語で語ります(36:11~12参照)」。また、「私と和を結び、わたしに降参せよ。そうすれば命と生活は保障しよう。また、移された地での快適な生活も保障しよう。(36:16~17)」と、優しさを装います。しかしそれは民の心に寄り添っているかのように見えて、これまで進攻した国々での彼らの行動、迫害、拉致、捕囚を見れば、これは明らかに偽りであり、欺瞞です。
頼りにならない者の筆頭に挙げられたものは、エジプトです。エジプトに関しては、「この国は裏切りを常とし(36:6参照)」おり、「おまえは戦車と騎兵のことでエジプトにより頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来の一人の総督をさえ撃退することは出来ないのだ(36:9)」と、これを貶め、自分の力を誇ります。実際に、セナケリブはエジプトを滅ぼしています。
次は、ヒデキヤ王です。「王はこういわれる。ヒデキヤにごまかされるな。あれはお前たちを救い出すことは出来ない(36:14)」。とラブ・シャケは、ヒゼキヤの頼りなさを列挙し、自分の力を誇示します。「主は必ず我々を救い出して下さる。この町は、決してアッシリヤの王の手に渡されることはない。………(36:15)」。「ヒゼキヤの言うことを聞くな………(36:16)」「おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ………(36:16A)」。このように、ヒゼキヤ王の言葉は、あくまでもポジティブであり、肯定的で希望に満ち、信頼に足るものであるのに対して、それに続くラブ・シャケの言葉はネガティブであり、否定的であり罪に、満ちています。これは、主が彼(ヒゼキヤ)と共にあり、明日の祝福を暗示しているのです。ここには、天なる神と地なる悪魔の対比があります。
最後に神についてです。アッシリヤは多神教の国です。それが一つの神のみを信仰するユダは、霊的に赦せないのです。彼らにとっては、自分たちの神々を無視し、唯一の神を祀り、「我々の神、主により頼め」と言って、他の神々を排除し、『この祭壇の前で拝め』と言うのは、自分たちの神に対する冒涜なのです(36:7参照)。それで、アッシリヤは、主を信じる国(イスラエル)を、その神と共に滅ぼそうと決心したのです。
「今、私(セナケリブ)がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか、主が私に『この国に攻め上ってこれを滅ぼせ』と言われたのだ(36:10)」と、エルサレムへの進攻を正当化しています。もしかしたら罪に満ちたエルサレムを罰するために、アッシリヤを神は使われたのかもしれません。
「………。これらの国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。(36;18)」「ハマテやアルバデの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。(36:19)」これらの国の神々は人の細工、木や石から作られた偽の神(偶像)です。いずれ、滅びる運命にあります。「………。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか(36:20)」。」と自分の力をセナケリブは、主に勝るものとし、主の上に置き、その力を誇示しています。しかし、主は滅びることのない永遠のお方です。天におわすと同時に、われわれと共におられます。アッシリヤはそのことを知りません。イスラエルに開城と降伏を勧告します。
「しかし、人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に応えるな』と言うのが、王の命令だったからである。(36:21)」。アッシリヤによるエルサレムの包囲と言うこの国家的危機に際して、王と民との間に揺るぎの無い信頼関係を見ることができます。それは主と民との信頼関係にと進化していきます。
さらに、神々に関しては「お前たちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出して下さると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。(36:18)」。「主がエルサレムを私(セナケリブ)の手から救い出すとでも言うのか(36:20B)」。と主を他の神々と同一に扱います。
3人の政府高は民の理解しないアラム語で語ってほしいとラブ・シャケに要求します。それに対して、彼は、イスラエルの民の理解できるユダの言葉へブル後で語ります。しかし、それは民の心に寄り添っているかのように見えても欺瞞と偽りに満ちています。これまで侵攻した国々での彼らの行動、迫害、拉致、捕囚を見れば、これは明らかです。だからこそ、「これを聞いた人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に応えるな』と言うのが王(ヒゼキヤ)の命令だったからである(36:21)」。ここに民とヒゼキヤ王、または、神との間の霊的一致を見ることができます。
37章:滅亡の危機にあったイスラエルにアッシリヤは開城と降伏を求めました。イスラエルの高官たちは、これを拒否し「自分たちの衣を引き裂いてヒデキヤのもとに行きラブ・シャケの言葉を告げた(36;22参照)」のです。「ヒデキヤ王はこれを聞いて自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った(37:1)」のです。「衣を裂く」とは、悲しみや、酷い辛さなどを表現する言葉で、「荒布を身に纏う」とは、自分の心の痛みを体で表現するときに使う言葉です。「主の宮」に入るものは、謙虚に自分の弱さを表現する必要があるからです。ヒデキヤ王が第1に訪れたところは「主の宮」でした。「主の宮」とは、主を信頼し、崇める者が、悩みを打ち明け、主の言葉を、聞くことのできる場所です。そして第2にしたことは、預言者イザヤのもとに政府の高官たちを遣わしたことです。預言者は主の言葉を預かって、それを民に伝える役割を担っています。ヒゼキヤ王はその言葉を聞きたいと願ったのです。彼らはヒゼキヤの言葉を次のようにイザヤに伝えます。「きょうは苦難と懲らしめと侮辱の日です。子供が生まれようとするのに、それを生み出す力がないのです。(37;3)」と。アッシリヤに囲まれ、滅びは直前に迫っていました。その苦しみの中にあって、何もできず、脱力感に苛まれている状況が描かれています。それに反して、アッシリヤは、イスラエルの神・主を自分の下に置き、「おまえたちの神・主は私に勝つことは出来ない」と、セナケリブは神を謗り、自分の力を誇ります。イスラエルはその罪ゆえ(エジプトにより頼むなど)に罰せられていたのですが、「イスラエルにまだいる「残りの者」のために、祈りを捧げてほしい」と言う高官たちの言葉に応じて、イザヤは、神の言葉として「彼らの謗りの言葉を恐れるな」と、励まします。主は、一転して、その裁きの対象をイスラエルからアッシリヤに変え、その王セナケリブの滅亡を預言します(37:7参照)」。
ラブ・シャケはユダのヒゼキヤ王に城壁の開門と降伏を勧めます。しかし、彼はそれを拒否します。これまで沈黙を守っていたイスラエルの神が、動き始めたからです(37:7参照)」。アッシリヤの軍隊と戦う姿勢を明らかにします。ラブ・シャケは闘うという選択を避け、エルサレムの包囲を解きエルサレムを退き、リブナを攻めていたセナケリブと合流します。クシュ(エチオピヤ)の王ティルハカもアッシリヤと共にイスラエルと戦うことに同意しています。これに力を得たセナケリブは、ヒゼキヤのもとに使者を送り「おまえはお前の神に信を置き、主の守りがあるから敗れることはない」と言っているが、ごまかされてはならない」「私が、私に反逆した国々を滅ぼしたことを知らなければならない」「それらの国々が信じる神が、それぞれの国を救ったか。同様に、お前の神も、私からお前を救い出すことは出来ない」。と傲慢にも豪語し、自分を神と同等、あるいはそれ以上においています。神の最も嫌う態度です。「実るほど、首を垂れる稲穂かな」。力あるものは謙虚であらねばならないのです。
「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上っていって、それを主の前に広げた。(37:14)」。「ヒゼキヤは主に祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地の全ての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ、御耳を傾けて聞いてください。主よ、御目を開いてご覧ください。生ける神を謗るために言ってよこしたセナケリブの言葉をみな聞いてください。主よ、アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石に過ぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。今。私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地の全ての王国は、あなたが主であることを知るでしょう』」(37:15~20)。「アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。『イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたが、アッシリヤの王セナケリブついて、私に祈ったことを、わたしは聞いた』(37:21)」と。
ケルビム:旧約聖書で神殿の奉仕者としての天使として考えられています。人間、獅子、牡牛、鷲の顔と4枚の翼を付けた姿で現わされています。
ただ、あなただけが神です:神の唯一性、至高性、無比性、永遠性を現しています。そこには滅びはありません。そこが、人の手の細工、木や石に過ぎない偽の神=偶像と異なっています。偶像はいつか滅びます。アッシリヤが滅ぼし「火に投げ込んだ」のは、この偽の神=偶像です。
ヒゼキヤの祈りの目的は、すべての国々に、主の御名があがめられることです。この当時、異国では、異教の神々があがめられていました。神の力でイスラエルが救われれば、彼の目的は達成されるのです。
「あなたが、アッシリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったことをわたしは聞いた。(37:21)」。神、主は、「信仰の人」の祈りには必ず応えてくださいます。主は、ヒゼキヤの祈りに対して、イザヤを通して答えます。「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。『彼はこの町に侵入しない。またこの町に矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いて、これを攻めることもない。(37:33)』「彼はもと来た道を引き返し、この町に入らない。――主の御告げ――わたしは、この町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべ、ダビデのために(37:35)」」。
「主のみ使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を撃ち殺した。人びとが翌朝早く起きてみると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは、立ち去り、帰ってニネベに住んだ(37:36~37)」。セナケリブは自分の神ニスロクの宮の前で拝んでいるとき2人の息子に殺されます。自分の神の前で殺されるとは皮肉なことです。
平成5年7月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会