日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

山崎豊子作『暖簾』 暖簾の力

2012年09月30日 | Weblog
山崎豊子作「暖簾

この作品は明治29年から昭和30年代前半、高度経済成長の始まるまで、明治。大正、昭和という三世紀を生き抜いた、船場の大阪商人・昆布問屋、浪花屋吾平と、その二男孝平の立身出世の物語と言って良いであろう。しかしこの作品を単なる立身出世の物語に終わらせないのは、その基礎に「暖簾」があることである。

暖簾という言葉を辞書で引くと「商家の軒先に貼って、日よけにする布」とあり、「江戸時代以降、商家で屋号などを染め抜いて商業用とした」とある。それは次第に大阪商人の命となり、旗印になり、信用と格式を象徴するものに変わった。分家、別家はもとより、主家の一族も、暖簾には一礼して通り、頭で、押し分け通る無礼は絶対に許されなかった。暖簾の中には大阪商人が守らなければならない商人道があり、帝王学があった。道徳的な規制があり、闇商売は厳しく規制されていた。大戦後の混乱期、多くの商人が闇商売に手を出し不当な利益を得ていたが、吾平は決して、闇商売には手を出さなかった。闇商売は暖簾を汚すものとして自らを戒めていたのである。
暖簾は大阪商人としてのモラルの象徴であると同時に、豊かな有形、無形の財産の象徴でもあった。丁稚、手代、番頭と、15~6年ほど修業し、老舗の旦那から暖簾分けの指示で分家する。お礼奉公を1年した後、いくばくかの別家料と商い道具一式を頂戴して独立する。暖簾を生かすも殺すも、その人間の、その後の努力と才覚にかかっていた。吾平は、暖簾分けの後、血の出るような努力によって、一財産を作り上げ、得意先、仕入先の信用を獲得していった。「商人の氏・素性はまさに暖簾なり」であった。
水害で全ての財産を流され、工場再建のために金策に飛び回るが、銀行の担保要求に対して吾平は胸を張って応じる。「本家から分けていただいた浪花屋の暖簾が抵当だす。大阪商人にとってこれほど、堅い抵当はほかにおまへん信じておくれやす。暖簾は商人の命だす」相手をした銀行の支店長は「浪花屋さん結構な抵当だす。お貸ししまひょ」という。吾平は危機を乗り切る。ここには暖簾の持つ重み、力、信用がある。吾平は暖簾の持つ力をフルに使うことによって、人に出来ない努力が出来、工場は再建された。

梗概
この作品は、大阪の老舗昆布商の商魂を親子二代にわたって綴った山崎豊子のデビュー作であり出世作である。
第2次大戦を挿んで1章と2章に分かれる。第1章では浪花屋吾平が、第2章では、吾平死後の、その息子二男孝平の活躍が描かれる。

第1章
明治29年、15歳の春、大阪に出た八田吾平は、浪花屋の主人利兵衛に拾われ、丁稚奉公から始め、手代、番頭と出世し、その名も、吾吉、吾七、吾助と変わる。その努力を買われ明治41(1908)年暖簾分けを受ける。27歳の春であった。名前も本名の吾平に戻る。別家して半年後、27歳の秋、お千代と結婚する。始末屋で所帯上手、健康な女性であった。
明治43年の大火事、大正4年の関東大震災、昭和9年の大水害によって吾平は、財産を失い、昭和12年に起こった中毒事件(えん罪と判る)と、その度に店は危機的状況に陥るが、吾平は、その才覚と、努力によって無事切り抜け、店を再建する。この間に、長男辰平、次男孝平、三男忠平、一人娘の年子と、3男1女を儲ける。店は順調に発展していた。しかし、ノモンハン事件から日華事変は拡大し、日本は第2次世界大戦へと突入していく。辰平、孝平、忠平の3兄弟は戦争に駆り出される。そして辰平は戦死する。戦争は敗色が濃くなり、米軍の本土空襲で、大阪船場は灰燼に帰す。勿論吾平の店も工場も例外ではなく全焼する。いままで苦労を重ね築きあげたものは一瞬にして消失してしまったのである。焼け跡にたたずみ吾平は、は途方に暮れる。

第2章
昭和20(1945)年戦争は終結する。戦後間もなくして復員した孝平が見たものは焼け野原であった。この中で孝平は店を引き継ぎ、再建しなければならなかった。吾平は、田舎に隠居し芋作りに励んでいた。
戦後の動乱期、孝平は暖簾の持つプライドを横に置き、闇市場に出入りする。背に腹は代えられなかったのである。吾平は、そんな孝平を見ながらも何も言わなかった。しかし自分自身は「大阪商人は、日本のへそや、大阪商人が闇稼ぎをしたら、日本中、本まの商人無うなってしまいよる」と言って、ぼろ儲けの話を持ってきたブローカを追い返したのである。そして言う「ほんまの大阪商人は船場と一緒に焼けてしもうた--------」と。
孝平は焼け野原の中から立ち上がっていく。戦中戦後の統制経済の中で「昆布荷受組合」という半官半民の組織が出来、その中で一部の幹部が、その地位を利用して、ぼろ儲けをしていた。その組織の幹部職員になった孝平は一部の幹部のように、仕入れ業者からリベートをとり、その額によって割当額を増減するという不正には手を染めなかった。孝平の馬鹿正直を笑う職員もいたが、統制が外され、自由経済に戻った時、彼らは没落する。
大学出ということが買われて、組合の幹部職員になった孝平は、その地位が他の食料品関係の幹部とのつきあいを可能にする地位である事を知って小躍りする。今後の商売をするうえで、どれだけ貢献するか分からなかったからである。父の吾平からは昆布職人としての技術を学び、多くの商人との中で揉みぬかれていく過程で、孝平は、商人としての駆け引きの方法を学びとっていった。
この間、一人娘の年子が、戦前からの婚約者で、梅園化粧品店の総領息子佳之と結婚する。佳之は老舗の典型的な、ぼんぼん育ちで、商売を番頭に任せ、お大尽遊びに呆けていた。孝平はそんな佳之の将来に疑問を持つ。「親苦労する、子楽する、孫乞食する」という言葉が頭をかすめたが、何も言わなかった。戦前戦中の厳しく辛い時代に育ったにも拘らず、素直に育った妹が可愛く、悲しませたくなかったからである。

荷置き場の昆布の束の上で吾平は急死する。脳溢血であった。昆布職人らしい死であった。大阪船場の昆布職人として暖簾の誇りを守り抜き、暖簾で商売する最後の職人であった。妻のお千代は死体に取りすがって号泣する。三男の忠平はまだ帰還していなかった。父の死によって、孝平は本気で独り立ちしなければならなかった。
32歳になった孝平に結婚話が持ち上がる。相手は乾物問屋の娘で、乃ぶ子と言った。健康優良児に選ばれたことのあるという。忙しく、きつい昆布商の内実を取り仕切っていくには最適な相手と考えて孝平は結婚する。帰還してから家の零落、旧円の封鎖、父の死、裸一貫からの出発と、休まる暇のなかった孝平にもやっと心を落ち着ける場所が出来たのである。一泊二日の新婚旅行に出かける。有馬温泉だった。
昆布の統制が解除される、という噂が立つ。自由経済になれば荷受組合の配給に頼らず、自由に売買が可能となる。長い間業者の間でもまれぬかれ、雌伏して商いの勉強をしていた孝平にとっては、またとない大きなチャンスであった。組合に辞表を提出する。昆布の統制はその年に解除される。

まず、どこに浪花屋を再建するかということが、航平にとってやらなければならないことであった。戦後の厳しい時代を血の出るような努力で生き抜いた孝平には、ある程度の資金的余裕が出来ていた。更に父吾平が生きていたころの境の加工場を売り、30万円ほどを手に入れたが、その全てを建設資金に回すわけにはいかなかった。生活はあるし、経営資金も必要であった。場所は心斎橋付近の日本橋2丁目を選ぶ。資金繰りには苦労する。そんな中友人からの推薦で、大阪府の住宅協会から資金供給を受け、建設資金を手に入れる。
昭和23年12月中旬に孝平が最初にスタートする店が開店する。朝7時から買い付け(仕入れ)昼は販売、夜は11時まで商品の手入れ、詰め合わせと1日16時間労働で働いた。8時間労働が叫ばれていた時代にである。
昭和24(1949)年、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と新米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。戦勝国ソ連も力を持ち、世界は冷戦時代へと突入していた。日本経済は高インフレに苦しみ、この年1月に実施された衆議院議員選挙では、日本共産党は4議席から35議席と躍進する。このような国際情勢下GHQが対日政策を民主化から反共の砦へと転換したとしても不思議ではない。
物価はいつまでも下がらず、人々は高インフレにあえいでいた。このような中、GHQは、共産党をはじめとする革新勢力に乗じられないため、経済の立て直しを図る。緊縮財政策を実施する。全公務員で約28万人、国鉄に対しては約10万人に近い人員整理を迫ったのである。当然労働者は反発する。共産党系の産別会議、国鉄労働組合はこの人員整理に対してストライキなどで、頑強に抵抗する。このような中、国鉄3大事件と言う謎に満ちた事件が起ったのである。下山事件、三鷹事件、松川事件等々。いずれも共産党が関与したと云われる事件である。これはのちにアメリカGHQの策謀であり、共産党に罪を負わせ、共産党の撲滅を図ったものと言われている。勿論その真相はいまだに闇の中である。この前年に起こった帝銀事件もGHQが関与しその捜査を妨害している。
組織労働者は力を持ち、賃上げ要求、ストライキ、と、夏になれば夏季手当、冬は越冬資金、春は春季闘争、とその活動を広げていた。それがインフレを加速していた。物価はいつまでたっても下がらず、インフレ、徴税、支払いと中小企業者は苦しめられていた。経営に行き詰って中小業者の中には自殺者の出るほどであった。こんな中、第3次吉田内閣の大蔵大臣池田勇人は『中小企業者の一人や二人、死んでも仕方がない』『貧乏人は麦を食え』と暴言を吐く。世の中は騒然となる。
大企業は何とか、その場をしのぎ、組織労働者の要求を飲めるほどには成長していた。25年に始まった緒戦戦争とその特需はこれを可能にしていた。社会党は「8時間労働制」を叫び、全国組織労働者を固めていた。しかし中小企業者はそれどころではなく1日10時間労働は当たり前のことであった。
こんな不況の中、年子の夫梅園佳幸が「阿呆なことをした」という遺書を残してピストル自殺する。経営不振にもかかわらず、それから抜け出す才覚を持たず、経営の全てを番頭に任せ、放蕩三昧のあげく、財産を食いつぶし、にっちもさっちも行かなくなった上での自殺であった。孝平の懸念は当たったのである。
佳幸は、孝平とは対照的な人間であった。豊かな大阪商人の2代目、3代目にはよくあるタイプで、大尽遊びの結果、どうにもならなくなると、それからの脱却を図ることなく『阿呆なことをした』と、あっさりと人生を投げ出してしまえる人間であった。年子母娘の事など気にもかけなかった。もうこんな佳幸のようなボンボン旦那はこれが最後であろうと孝平は思った。年子を店に置き、その生活を保障した。
世の中は戦後近代化が進み、百貨店が勢力を持つようになっていた。闇市は次第に廃れていく。こんな中孝平は「暖簾」という言葉の持つ古いイメージを改めていった。孝平はその精神だけは尊重し、丁稚は「吉」、手代は「七」、番頭は「助」という呼び名をあらため、~どんを排し名前で呼ぶ事にする。自分を呼ぶ場合も、「旦那はん」を「主人」に、妻乃ぶ子の呼び名も「御寮人はん」から「奥さん」と呼ぶように改めた。お仕着せも、木綿の丁稚縞の厚司と前垂れを、紺の木綿のズボンに鼠色のジャンパー式の上着に替えた。上着のポケットだけは昔と同じ「大黒様と打ち出の小槌」に「なにわ」と記したマークを入れた。
昭和24年7月、忠平が復員してくる。孝平と同じく、しばらく休養をとる。こんな中、忠平は孝平の商法を見つめていた。そこには、父吾平の時代とは異なった商法と、しきたりがあった。父の時代は、明治、大正という平穏で、単調な時代であり、暖簾は心のよりどころであり、武士が氏、素性を拠り所にするように商人の心構えを決めるところであった。暖簾さえ掲げておれば、安易に手堅く商いの出来る時代であった。商人の厳しさも、ただ一徹で、その中には、飄々とした面白さがあった。しかし、兄孝平が生きた戦後は、激しい、激動の時代であった。伝統的な氏・素性は覆され、暖簾だけに頼っておれなくなっている。戦後、徐々に復活してきたお客の暖簾に対する懐古趣味に安易に頼っているものはそのまま没落してしまう。近代社会の中での暖簾の価値はこれを活用する人の力にかかっている。近代的な緻密な計算が無くてはならない。暖簾の持つ、信用と、重み、それを生かす計算された知恵と努力、この両者によって、暖簾は生きてくる。暖簾という古い器には、新しい水が注がれなくてはならない。
忠平は暖簾の持つ近代的意味を理解する。
大学を出て間もなく、昆布職人としての技術も、商いの方法も未熟なまま軍隊に取られた孝平であったが、軍隊は大阪商人としての心構え、魂を植え付けてくれた。軍隊では、名門も、学歴もない。同じ軍服、軍靴、帽子、をつけ、階級はあっても、その中では平等であり、何百人という軍人が、同じ質と同じ量の労働によって訓練され、叩きあげられていく。その中から、強靭な肉体と知恵と実力のあるものが出世していく。出発点は同じでも、出世はその後の努力にかかっている。それは大阪船場の商人孝平の場合も同じであった。戦災によって、金はない、暖簾は無力、力と頼っていた父の死、等々。そこには、丁稚から叩ぎ上げていった父と同じゼロからの出発があった。そんな兄孝平の姿を見て弟忠平は感動し、尊敬の念を抱く。
孝平は仕入れと拡販に努力し、忠平は算盤や帳簿の整理、店員の指図など内々の仕事を受け持った。無駄な経費を引き締め、着々と立売掘に本店を再建する準備を進めていた。
及ぶ子が出産する。女児であった。孝平は失望する。大阪商家の初産は男の子でなければならなかった。子供もまた資本の一つで、商いを受け継ぐ蓄積資本と考えられていた。しかし、養子という手もある。実子でも年子の夫佳之の様な出来損ないになる可能性もある。養子ならより取り見取りである。と考えて孝平は納得する。三千子と名づける。後年及ぶ子は朝太郎という男児を出産する。
昭和25年に起きた朝鮮戦争とその軍需景気は、株式暴落以来沈滞していた大坂の街に活況をもたらした。不況に苦しめられていた人々もやっと一息つく事が出来た。孝平もまた、この好景気の中、昆布工場を設けようとしていた。これまでは家内工業的に加工した昆布と、昆布問屋から仕入れたものを売って生計を立てていたのである。しかしそれには飽き足らず、原草昆布の加工から、製造販売まで一貫体制を作り上げようとした。
加工場は店の裏の空き地に立てる。住まいよりも、店よりも立派で、食品工場としての清潔さを保った。新たに機械を備え付け、高級昆布は手製で、大衆品は機械製と分類した。どちらもそれほどの違いはなかったが、食通にはその違いが判った。機械化によって能率は格段と上がった。その分価格を下げることが可能となる。しかし高級品は高く売った。それでもお客を減らすことはなかった。
機械化によって大量生産を可能にしたが、その分拡販が要求された。今のままでは、売れ残りの過剰在庫を抱えることになる。顧客の大手は、阪急、三越、大丸、そごう、高島屋という大阪の5大百貨店であった。しかしこれに持たれるだけでは父・吾平の時代から一歩も出るものではなかった。拡販の話は向こうからやってきた。大都百貨店からで、売り場を提供するから、大阪の老舗を集めて、何か面白いことをやってくれというのである。孝平は大阪の老舗18店舗を集めて、老舗街を作ることを提案する。了承される。各老舗は、大阪船場に拠点を置き、大都百貨店に出店したのである。この企画は成功を収める。大都百貨店は大都電鉄がそのメインであり、そのターミナルにある百貨店であった。それ以来孝平はターミナルに目を向ける。乗降客の数、流れ、交通量、人の階層、等々、観察し始める。これは昆布の拡販にとって不可欠な要素であった。
孝平は大阪から東京への進出も企てる。「東京の海苔、大阪の昆布」と言われ、東京人の舌には昆布はなじまないという忠平の忠告を無視して、東京への進出を強行する。それは忠平の云う通り冒険であった。
東横百貨店の誘いに乗ったものであったが、大丸百貨店も東京に進出するという噂を聞き、孝平は決心した。「高くても、特徴のある独自のものを」と、「高級昆布・磯福」で勝負を試み、成功する。東京進出は成功裏に終わるが、大阪摂津会館での勝負には苦労する。何とか切り抜けるが、孝平は勝負の難しさを知る。
本拠地大阪では、決してやらなかった花柳界にも出入りするようになる。商談を待ちあいや料理屋でするようになる。商談であると同時に、自分自身も楽しんでいた。東京進出で、やっと余裕が出来て来たのである。
馬車馬のような6年間であった。昆布を背負っての神戸の闇市通い、荷受組合での月6000円のサラリーマンを兼ねた生活、日本橋への開店、大都百貨店での老舗街、そして東京進出、休む暇のない多忙な生活であった。この間父・吾平の死、妹の年子の結婚、その夫佳幸の自殺、及ぶ子との結婚、三千子、朝太郎の誕生、母千代子、妻及ぶ子の甲斐甲斐しさ、忠平の律義さ、等々、東京から大阪に戻る汽車の中で、眠れぬまま、頭の中をそれらが走馬灯のように通り過ぎていく。二等席に座って、自分の生活もやっと3等から2等になったと思う。後はもう一頑張りで、立売堀に本店を開業することだと考平は思った。
昭和30年3月、孝平は立売堀に浪花屋を復興した。リュックサックを背負って帰還してから9年間、身体をすり削るように働きとうして、やっと、それだけの資力を蓄えたのである。孝平、40歳の春であった。
昆布買い付け、入札を孝平は大手企業寒水産業との間で繰り広げるが、ここでは商取引における駆け引きが描かれている。「負けて、勝つ」孝平は大企業寒水産業に最終的には勝ったのである。
ここでこの作品は終わる。時代は、戦後の混乱期を経て、高度経済成長期に入ろうとしていた。経済の中心は大阪から東京へと移りつつあった。大坂は、あくまでも軽工業(繊維産業)を中心に発展してきた都会である。戦後重工業を中心に発展してきた東京とは経済的に勝負にはならないかもしれない。しかし孝平は大坂に期待する。明治、大正の資本主義の揺籃期を培い何百年の暖簾のもとに商いをしてきた大阪である。「元通りの大阪の財力を取り戻してみせる。もう10年の辛抱や、もう10年したら、もとの大阪にして見せたる」、孝平はこう呟いた。
今は2014年、60年近い年月がたっている。この間産業社会はサービス産業優位の時代に代わっている。IT革命にみられるように、ハードよりもソフトの時代である。重工業優先の社会は去っている。東京と大阪の勝負の結果については僕は判らない。
大阪船場はどのように変わっているのだろうか?金融街、問屋街ということであるが「暖簾」という言葉は死語になっているのだろうか?


山崎豊子作 「暖簾」 新潮文庫 新潮社刊




第147回芥川賞受賞作品 「冥土めぐり」 鹿嶋田真紀作 搾取って何

2012年09月05日 | Weblog
第147回芥川賞受賞作品「冥土めぐり」鹿島田真希作

冥土と云う言葉を辞書で引くと「死者の霊魂が、さ迷い行く道、暗黒の世界」と出ている。「めぐり」は、その世界をさまよい歩くことであろう。

作者・鹿島田真希は、一泊二日のこの作品の主人公である奈津子と太一夫婦のささやかな旅行の模様に、肉親(母と弟)の、豊かな生活から転落していった半生をその裏に進行させる。「冥土めぐり」は現在を描きながら、過去の「あんな生活」を追憶として重ね合わせる。現在と過去が常に交錯する素敵な作品である。

奈津子は、脳障害の手術の結果、四肢が不自由になった夫の太一と、「2月、平日に限り、区の保養所の宿泊割引一泊5000円」と云う広告に惹かれて、その保養所への旅を決定する。そこはまだ健在であった祖父母と父、そして、まだ健在である母と、弟の6人が訪れたことのある、かつての高級ホテルであった。奈津子はその時8歳、弟は4歳であった。しかし、時代の波にのみ込まれてその高級ホテルは、平日一泊5000円也の保養所に落ちぶれていた。 誰もが行ってみたいと思うほどの、高級ホテルであった当時、祖父母は誰もが成れるわけではない、そのホテルの会員であった。そのホテルのサロンで、礼服に身を包み、軽やかに、さっそうと踊る祖父母の姿が、8ミリ映画に映っていた。母はそれを誇りに思い、常に奈津子に自慢した。

その祖父母が財産らしい財産も残さずに死に、有名企業のサラリーマンであった父親も、脳の病で死んだ。豊かさは家族から去り、貧困が家族を襲う。この時点で家族の心の成長は終わった。母と弟は、かつての幸せで豊かであった生活に執着し、その思いから逃れることが出来ない。豊かな過去が、現在になると信じ、いつまでもその時代に立ち止まっていた。

父の遺族年金で暮らす母親、就職しても、こらえ性が無く、不満だらけで、長続きせず、ブラブラし、酒に浸りアルコール依存症になる、弟。カード破産を起こし、その借金の肩代わりを母親に頼む。母親はマンションを売り払い、借金の返済に充てる。貧しさは増幅する。それにも拘らず、当てもないのに、いつか必ず自分たちには豊かな生活が戻ってくると盲信している。今の不幸な生活を、仮の世界と思う。その生活は奈津子の肩にかかっていた。そこに在るのは喪失の世界であった。この喪失の世界を、奈津子は「あんな生活」と表現する。それは、貧困でも、孤独でも、病気でもない、何ものかであった。作者は、現代と過去の「あんな生活」とを、対比して描き、交互に表現していく。この作品で、「あんな生活」の実態が描かれる。

かつて、名をはした、高級ホテルの凋落は、そのまま日本社会の凋落と繋がる。戦後の復興期から、高度経済成長、バブル経済までの右肩上がりの成長は、一転して、長期の不況に見舞われ、雇用不安、格差社会を現出した。80年代の繁栄は90年代には凋落へと変化していく。そして、今、現在そこからの脱却を果たしていない。我々を取り巻く環境は一変した。未来への展望は不可知である。

この時代の変化の中で生活したのが、奈津子たちの家族である。夢よ、もう一度と云う期待は日本社会の中にも奈津子たち家族の中にも存在していない。まさに、それは喪失した世界である。この喪失した世界からの脱却は、図られなければならない。日本の社会の将来に関しては僕は分からない。しかし、奈津子たち家族には太一と云う救いがある。彼は、奈津子の母や、その弟の対極に置かれている。彼は、おおらかで、世間体など気にせず、世間的な欲望など持たず、気ままに生きている。自分の不幸を不幸と思わず、自分に対する不公平、不公正を当然の事と受け入れ、不満を云わない。働かず、稼がず、障害年金に頼り、奈津子に、ほとんど、おんぶに抱っこだが、そんな事に頓着しない。愛の表現方法を知らず、恋人とか、妻とか、そういう種類の女性を喜ばすことの出来ない不器用な男だが、ひたすら奈津子を愛している。そんな太一を奈津子は愛おしく思う。周囲の人も彼を愛する憎めない性格である。普通の男と同じで、アダルト系のDVDや雑誌を買い楽しんでいる。それを隠そうとしない。部屋の中に散らかしている。
奈津子は、太一が不自由な身体を抱え、生活が貧しくとも、足るを知る性格で、生活に不満を持たず、自分の生活を肯定して、否定に満ちた生活の中で、生きることを喜びとし、その人生は充実していることを知った。それは脳障害を持ってから、彼に生じた性格の変化であった。
しかし、我利我利亡者で自分達のことしか考えない母と弟は、奈津子が金持の男と結婚して自分たちを幸せにしてくれると信じていた。それなのに一文にもならない男と結婚した。それが自分たちの不幸の原因だと、奈津子を責める。奈津子は耳をふさぐ以外に方法がなかった。それ故、かれらは太一を憎んでいた。早く離婚しろという。しかし奈津子はそんな事を考えたこともない。二人は相思相愛の仲である。

奈津子の母は、元スチュアーデスであった。当時スチュアーデスは女性の憧れの的であり、選ばれた女性にしかなれない仕事であった。美人で背が高く、眼鏡をかけず、外国語が堪能で、人当たりが良く、よく気がつき、人を逸らさない。この世に、そんな女性は、沢山はいない。母は娘の奈津子も当然スチュアーデスとなり、素敵なお金持ちと結婚し、自分たちを幸せにしてくれると信じていた。奈津子の母も弟も、家が零落した後も、自分たちは「与えられる側の人間」だと信じ、奈津子に期待していた。しかし、奈津子はスチュアーデスには成らず、区役所のパートで働いていた時、同じく区の、しがない職員であった太一に見染められ、結婚を決める。それは、想定外の出来事であり、当然、母も弟も彼女と太一の結婚には、反対する。太一は、彼らの考えていたイメージ、理想像からは余りにも、かけ離れていたからである。
しかし、二人は結婚する。太一は結婚して間もなく、泡を吹いて倒れる。脳の病であることが分かる。脳に電極を組み込む難しい手術をする、危険な手術ではあったが、成功裏に終わる。しかし、四肢の動きが不自由になり、杖と車椅子の生活を余儀なくされる。その後、入退院を繰り返して3年、病名が判ってから5年が経つ。当然仕事は無くなり、障害年金と奈津子の児童館での収入が唯一の稼ぎとなる。しかし、それで奈津子の太一に対する愛情が冷めたわけではない。太一には自分だけが頼りだと思うと、かえって太一を愛おしく思う。これまでも、父の遺族年金に頼る母と、アルコール依存症で無職の弟に、その収入のほとんどを、むしり取られていたので、太一が働けなくなっても同じだと思う。そんな風に奈津子は自分を慰めていた。

旅の途中、新幹線の窓から、流れ去る風景を眺めながら、奈津子は追憶に耽っていた。太一は隣で穏やかに寝息を立てて眠っていた。まるで赤ん坊である。奈津子は生きるなら、この人と生きていきたいと心から思った。

新幹線は目的の駅に着いた。バス発車までには少し間があったので地元で獲れた新鮮な魚料理を食べさせる定食屋に入る。注文の料理はなかなか来なかった。その間奈津子は過去に戻っていく。太一の出会い、付き合い、結婚に至るまでの追憶に浸る。だから太一との間には会話はなかった。というより必要が無かった。太一は何処にいようと、どんな時にいようと充実していると奈津子は知っていたから。太一も黙っていた。それでもお互いの間には意思の疎通があった。だから奈津子は気遣いせずに自分の追憶に浸っていた。

食事を終えて奈津子と太一はバスに乗る。バスはホテルに到着する。ホテルを取り巻く環境は変わっていた。

薔薇園
母親の少女趣味を満足させていた「薔薇園」は閉園になっており、枯れ草が生い茂っていた。

ホテルの外観とロビー
ホテルは大分老朽化しており、かっての豪華な面影はなかった。ロビーも季節外れの2月ということもあってか、ガランとしており、もはや弾く人の無くなったグランドピアノが放置されていた。
奈津子は受付で手続きを済ます。太一はホテルの用意した車椅子に乗り、荷物のように運ばれて来た。ホテルの従業員から奈津子に押し手が変わっても、お礼一つ言わなかった。

寝室
寝室は7階にあり、清潔に整えられてはいたが、かつてこのホテルに泊まった、このホテルで一番高いスイートルームとは比べようもなかった。一泊5000円の保養所の部屋に過ぎなかった。

サロン
サロンに行きたいという太一の希望を入れて、15階のサロンに行く。かつて、祖父母がさっそうと軽やかに踊ったサロンである。床は美しく磨かれ、舞台の上にはパーカッションやキーボードが置かれていたが、フロアーでは踊られた様子はなく、楽器も使用された形跡はなかった。踊り手のために用意された衣装部屋には、多くのドレスが掛っていたが、流行遅れのものばかりで、多くのドレスは埃を被り匂いすら発生しているようであった。踊り手の不在を証明していた。そこにあるのは快楽の喪失であった。まさに、兵どもの夢のあとであった。

温泉
二人はサロンを出る。太一は温泉に入りたいという。温泉と食事の両方を太一は楽しみにしていた。奈津子は太一を大浴場のそばまで連れて行く。男湯に入る時太一は云う「奈ちゃん男湯を覗いてはダメだよ」と。奈津子にはその言葉が冗談か本音か分からない。恐らく本音であろう。奈津子は温泉には入らず、温泉の前のソファに腰掛けぐったりとしていた。過去が再び蘇ってくる。弟のキャバクラ遊び、現金の代わりにクレジットカードを使う。いろいろと借金を
重ね2年間でカード破産。母はマンションを売って借金を返済するが、それを苦にして自殺未遂を起こす。弟はこの時代を「狂気の時代」と呼んでいる。母の思い出も蘇ってくる。豪華なスイートルーム、大きなバスタブと、トイレ等など、過去に訪れたこのホテルの豊かな生活を自慢する。母はその時代にとどまり、現在から逃避する。更に、太一の手術のことなど、過去の記憶が去来する。自分の名を呼ばれて奈津子ははっと現実に戻る。そこには風呂上がりの太一の姿があった。二人は部屋に戻る。

夕食
夕食の時間となる。太一にとってもう一つの楽しみである。太一は洋食、和食、ビュフェの中からビュフェを選ぶ。北海道生まれの彼はここで、石狩鍋、サーモンのカルパッチョ、イクラ丼を何度も往復してテーブルに運ぶ。奈津子は行ったことのない北海道に行きたいと思う。
再び記憶は過去に戻る。弟のことである。「自分は高級のものを食べているときが一番幸せで生きた心地がする」という。自分が生きていると思っている。太一に嫉妬し、早く別れろという。夢の中に生き現実を無視する。夢に憧れる自分が正しくて、それになれない現実が不正なのだ。それは母も同様である。「おなかがいっぱいだなあ、まだ入るかな!」という声に奈津子は夢から覚める。食事を終えて、7階の部屋に戻る。太一はテレビっ子。旅行に来てまでテレビにしがみつく。
高級ホテルの時代を思い出す。このホテルがもとに戻れないと同様自分たち家族も元に戻れないと思う。「もはや、自分達は、選ばれた家族ではない」のだ。
奈津子は太一に付き合ってテレビを見ていたが、そのうちに就寝する。

美術館
翌日はチェックアウト、土産物を買った後、バスを乗り継いで、美術館に行く。奈津子は美しい絵を見て心をいやしたかった。
奈津子は太一が絵を得意にしている事を知っていた。もしかしたら絵を見る目があるのではないかとも思った。幼いころ書いた絵はどれも見事だった。そこには色があり、温度があり、動きがあった。そこにはまさしく絵があった。だから奈津子は美術館に行くことに決めたのである。そこには自らの心の癒しを求めると同時に、太一の絵に対する好奇心を満足させたいという気持ちがあった。太一はそんな奈津子の気持ちに頓着せず、奈津子と二人だけでいれば、それだけで良いと満足していた。
美術館で用意された車椅子に乗った太一と、奈津子は展示された絵を見て回った。風景やオブジェや肖像画、を見て画家が表現したいことや、その絵が人の心にもたらすものについて思いをはせた。
太一は全ての絵を平等に見て歩いたが、奈津子は印象に残る絵を中心に見て歩き、それ以外は通り過ぎていった。次々と絵を見て歩く。しばらくして幸せな家族の食事の様子を描いた絵に出会う。自分の家族と比べて、こんな幸せな家族の存在が信じられなかった。
性的嫌がらせを受け、さらにストーカーとして、しつっこく迫る上役から逃れるため会社を辞め、訴訟に踏み切り、いくばくかの金を手に入れる。しかしその金は奈津子の手に入らず、母親の懐の中にしまわれ、高級中華料理屋で消えてしまった。その無念さや、怒りを奈津子は思い出す。絵に現れた食事をする家族の幸せなど微塵もなかった。太一に話せば奈津子には我慢の出来ないことも、すべて吸収してしまうかもしれない。受け止めてしまうかもしれない。鼻水を垂らして泣くかもしれない。しかし不平一つ言わないで済ましてしまうであろう。太一は怒ることを忘れた人である。だから太一には話さない。
絵は奈津子の前を通り過ぎていく。もはやそこには感動はなかった。絵の表現する意味も考えなかった。絵だけを見ていた。
かくして奈津子も太一も全ての絵を見終わった。全ての絵を体験した。
この追憶と追想の旅を終えるにあたって奈津子はこの旅が、過去の恵まれた時代の思い出に過ぎなかった事に気づく。母と弟はその過去にとらわれ抜け出すことが出来ない。弟はキャバクラ遊びをしてその憂さを晴らしている。弟の飲み代で、母の持つ年金も手元に残ったわずかな金も消えていくであろう。いま、家族は崩壊寸前にあった。しかし母も弟も危機感はない。この家族は何処に行くのか?


二人は美術館を出る。奈津子はこの旅が自分だけの旅であった事に気づく。太一に負い目を感じた。「他に行きたいところある?」「海のそばに行こうよ」太一は応える。
二人は海へ出る。太一は突然「明日電動車椅子の試験がある」という。試験に合格すれば、付き添いなしで一人で何処へでも行けるのだ。奈津子は云う「私はどうすればいいの、ついていけばいいの」「奈っちゃんは何もしなくていいよ、奈っちゃんの荷物だって車椅子で運べるんだ」
奈津子の抱えている荷物とは何か?それは自分にのしかかってくる、肉親からの理不尽や、不当な扱いであろう。太一はその重荷を自分が運んでやるという。何もしなくて良いという。ついて来いという。太一は、もはや脳障害者としての厄介ものでは無かった。立派に自立した男性であった。太一は脳障害を起こして以来、自分に降りかかってくる災厄を神からの贈り物として、それを当然のものとして、受け入れている。だからその生活には不満はない。あらゆる煩悩から解放されている。しかし、奈津子にはそんな境地にはなれない。自分を含めて母も弟も煩悩のかたまりである。そこから逃れることが出来ない。だから太一は「特別な人間」だと奈津子は思う。大切なものを拾ったのだと思う。それは一時の預かり物であって時期が来れば、落とし主である神に返さねばならないと思う。太一は神からの啓示に従って生きる「聖なる愚者」である。この愚者とのつきあいでどれだけ奈津子は癒されたかしれない。
太一は砂浜に腹を出して大の字になって寝ていた。奈津子はシャツを引っ張りへそを隠した。理不尽という大海原を前にして眠っているのだと奈津子は思った。

足湯
新幹線の駅に向かう途中に足湯があった。
「うわぁ、あったかいなあ」太一は満足そうに笑みを浮かべる。太一を支えるため足湯に入れない奈津子のことなど何の疑問も感じない。悪気があるのでなく気がつかないのだ。

旅を終わり、奈津子と太一は新幹線のお客となる。「足湯気持ち良かった?」太一は頷く。「旅行、楽しかった?」太一はまた頷く。「また私とどこか、別のところへ行きたいと思った?」太一はしばらく考えた。そして大きく頷いた。
二人は相思相愛であった。

旅が終わって
かくして、栄光と破滅の、追想と追憶の旅は終わる。そしてこの旅が自分だけの旅だったと奈津子は思う。しかし太一はそんな事に気を使う性格ではない。この旅に満足し充足していた。
新幹線は東京駅に到着する。
翌日は、電動車椅子の試験の日であった。物や人にぶつからなければ合格する。易しいようで難しく太一は不合格になる。しかし付き添いがいれば良いということになる。
一ヶ月後に電動車椅子が到着する。「これからは、僕が買い物に行けるんだよ、奈っちゃんの欲しいものも、僕のお小遣いで買ってあげるよ!」「車椅子に乗って外国にも、何処へも行けるんだ、何処にもだよ」と喜びを身体いっぱいに示す。区の条例で、本人1割負担で買った電動車椅子を愛おしげに眺めまわす。そんな太一を奈津子は可愛く思う。この人と結婚して本当に良かったと思う。「これからお菓子を買ってくるんだー」といって駐輪場から一人で飛び出していく。お菓子ではなく角の書店でいやらしい雑誌を買うに違いない、お菓子はそのついでに過ぎない、と奈津子は思う。太一は手足は不自由でも普通の身体を持った男である。奈津子はそれに満足している。きっと子供も欲しいに違いない。しかし、今の経済状態では無理だと思う。
「ほんとうは付き添いが必要なのになー」と、心配しながら、じっと一人で走り去る太一を奈津子は見つめる。太一はそんな事に気を使う男ではない。

登場人物

奈津子
この作品の女主人公。
彼女は1人の客観的観察者として、かつての有名ホテルの栄枯盛衰の模様に、自分の家族の栄枯盛衰を重ね合わせて語っていく。彼女には、豊かな時代が去り、とうの昔に夢も希望もなくなっているのに、豊かであった時代に立ち止まり、不平不満を言う家族(母と弟)がいる。奈津子はこの家族を「死んだのに成仏できない亡霊」と呼ぶ。こんなところに「冥土めぐり」という題名の由来がある。
彼女はこんな家族に全く受け身で向き合う。抵抗はしない。彼女には脳障害の結果、四肢が不自由になった太一という夫がいる。手術の結果、性格が変わり神のごとくになる。芥川賞の選者の一人は「聖なる愚者」と彼を呼ぶ。彼女はそんな彼から、何かを学び、家族から受ける理不尽で、不当な行為に対する怒りを癒していた。
彼女は家族が希望する過大な要求を夢として退ける。彼女にはアイドルになりたいとか、スチュアーデスになりたいとかいう夢はなかった。物心ついたころから貧しく、それ故、将来に対する希望や未来を信じられなくなっていた。そこには、家族とは違う冷静な目があった。そんな時に太一という一人の青年にあったのである。彼は、区役所の一職員であり、家族の希望する結婚相手とは程遠い存在であり、家族を幸せにする存在にはなりえなかった。金もなければ地位もない、その上脳障害まで起こす。そんなところから奈津子は家族に対して絶対的受け身の存在になったのである。
奈津子は夫・太一と共に追想と、追憶の旅に出かける。この作品は、ここから始まる。

太一
奈津子の夫。区の職員のとき奈津子と知り合い、3カ月後にプロポーズ、奈津子の家族の反対を押し切って結婚。結婚後間もなくして脳障害を起こす。手術の結果、四肢が不自由になり、杖と車椅子に頼る生活を余儀なくされる。身体の変化と同時にその性格も神のごとくに変化する。彼は自分に降りかかる災厄・災難を素直に受けいれ、理不尽、不公正を当然の如くに感じている。だからそこには不満や不平はない。そこが金銭の亡者・奈津子の家族と全く異なる点である。「聖なる愚者」である。
洋の東西を問わず、脳障害者を神とみなす伝説は多く、その一例として、ドストエフスキーの「白痴」を挙げることが出来るであろう。この作品に出てくるムイシュキン侯爵は、脳障害者であり、その純真無垢な性格は太一に通ずるものがある。
太一を神とみなすなら、奈津子の家族は悪魔と表現して良いであろう。対極にある存在である。
彼は奈津子を愛し、奈津子も彼を愛する。相思相愛である。

奈津子の祖父母
嘗て豊かであった頃の奈津子の家族。豊かさを象徴する人物。祖父は暖かいところを好み、戦地まで南方を選ぶ。復員し、小さな店の社長になり、ひと財産を築く。今は落ちぶれているが、かつての有名ホテルの会員。そのサロンで、祖父母は華やかに、軽やかに踊る。その姿を8ミリに撮る。母の自慢である。そんな頼もしい祖父は、晩年肺気腫にかかり、家族に財産を残さず、あっけなく死んでしまう。

父:
一流企業の高給取りのサラリーマン。工業高校出身。元スチュアーデスの母と結婚する。その生活は豊かで、将来の心配はなかった。脳の病を発症して痴呆になり死にいたる。死んだあと奈津子は遺品を整理するが、その中に多くの絵を発見する。絵に才能があったことを確認する。

母:
もとスチュアーデス。スチュアーデスを辞め、一流企業に勤める父と結婚する。高給取りの父との結婚生活は豊かで、貯金も出来、もう一つのマンションを買います余裕も出来る。それを、賃貸マンションにして、ひと儲けすることを企む。働かずして、豊かな生活の満喫を考えたのである。しかし好事魔多し、父は得体の知れない脳の病に侵され、あっけなく死んでしまう。豊かな生活は絵空事になり、夢は破れる。残されたマンションも弟のカード破産で売るはめになり郊外の安アパートでの生活を余儀なくされる。しかしこの生活の変化に対応できない。父の遺族年金と、奈津子に頼って生きている。奈津子が金持の男と結婚し、自分たちを援助してくれることを期待したのに、二束三文にしかならない男と結婚した奈津子を恨む
これが、こんなことになる筈でなかった母親の人生であり、更にこんなことになる筈でなかった祖父から続く一族の末路もであった。母は、「与えられる側の人間」であると、いつまでたっても思い、その思いから抜け出ることが出来ない。母親にとって男とは搾取の対象でしかなく、結婚とはその手段であった。奈津子の結婚もその延長線上に考えていた。それ故自立して生きることが出来ない。彼女は、子離れも出来ない。それが弟を不幸にしている事に気づかない。

弟:
まだ、奈津子たち一家が豊かな時代に生まれ、育つ。しかし、大学を卒業する頃には家は没落していた。就職するものの、長続きせず、仕事を持たない。就職してすぐにクレジットカードを作るが、金銭感覚はなく、借金を重ねる。キャバクラに行ったり、高級料理店へ行ったり、高級服飾店へ行ったりして散財を繰り返す。キャバクラ行きが嵩じてアルコール依存症になる。高級服飾店では姉の奈津子に沢山の高い衣服を買い与える。等など、その結果カード破産を起こす。その返済を母に頼む。母親はただ一つ残ったマンションを売り払い、返済に充て、郊外の安アパートに移り住む。彼は親離れが出来ない。
夢は持っているが、金が無いからと空想の中だけで生きる。そんな生活を仮の世界と盲信して、今までの豊かな生活が何時か、戻ってくるものと何の根拠もないのに信じている。母と同じで「自分は与えられる側の人間」だと思っていた。だから奈津子の結婚には期待し、裏切られ、失望する。自分達の不幸の原因を奈津子たち夫婦に求める。勝手な性格である。姉の奈津子に、肉親であるにもかかわらず、ほのかな恋心を持ち、太一に嫉妬する。いい歳をしていまだ自立せず、いまだ独身である。奈津子の母と弟を見ていると、搾取って何だろうと思う。

鹿嶋田真紀作「冥土めぐり」月刊『文芸春秋』9月号掲載

次回は、山崎豊子作『暖簾』を予定している。乞うご期待。