ヨハネの福音書 1 (1章~12章)
はじめに
新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書から始まる。ともにイエスの生涯を描いている。最初の3つの福音書は「共観福音書」として1つにまとめられている。それに対して「ヨハネの福音書」は独立の書である。なぜか、「共観福音書」は歴史的事実に重きを置いているのに対して、「ヨハネの福音書」は霊的な主題に焦点を当てているからである。それ故に、ヨハネは神の目を通してイスラエルの民を見つめている。ヨハネの福音書は非常に教義的であり、そのテーマのいくつかは神の御子イエスの神性、キリストの贖い、生まれ変わることの必要性、隣人愛、救い主を信じることの重要性を語っている。
本書の目的は、「わたしが天から下ってきたのは、自分の心を行うためではなく、わたしを遣わした方のみ心を行うためです(6:38,6:57,7:16,8:26,8:28,8:54)」。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(3:3)」、「神は実に、そのひとり子お与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである(3:16~17)」。聖書全体を要約すれば、以上に引用された文章になるという意味で、この文章は「ミニバイブル」と呼ばれている。
私が新約聖書を始めるにあたって、福音書の最初に位置する「マタイの福音書」から始めず「ヨハネの福音書」から始めるのはそのためである。
「ヨハネの福音書」で、その神性を象徴する言葉は第1章1節から5節までの言葉に言い現わされている。その言葉とは「初めにとばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。そして聖書を読み進んでいくと、この「ことば」とはイエスであることがわかる。天地創造の前にイエスが存在していたことになる。「共観福音書」の「三位一体(神と御子と聖霊)」の神であるイエスとは異なっている。イエスは聖母マリヤの子ではない。イエスは神そのものである。全人類を愛されるがゆえに神はイエスという人の姿をまとって、天からこの地に下りてこられたのである。
更に異なっていることは、「共観福音書」ではイエスはガラリヤ地方を宣教(公生活)したのちに、はじめてエルサレムを訪問している。それは死出の旅であった。イエスはエルサレムで十字架にかかり、処刑されている。しかし、「ヨハネの福音書」ではエルサレムへの訪問は数回にわたっている(2:13,5:1,7:10)。過ぎ越しの祭りの時は必ず訪問している。エルサレムで処刑されたことは「共観福音書」と同じである。
>本書の構成
その全体を2つに分けることができる。
1、バプテスマのヨハネの洗礼に始まるイエスの公生活(1~12)
2、イエスの受苦の道のり(弟子たちに個人的に語った言葉:告別演説)とイエスの処刑と復活(13~21)。
ここに神の壮大なご計画を見ることができる(イエスの誕生・宣教・十字架・復活)
イエスの歩いた行程
その旅は反イエス(パリサイ人と祭司)との戦いであった。特に安息日をめぐる争いは熾烈であった。イエスは言う「わたしの父は今に至るまで(安息日に)働いておられます。ですからわたしも働いているのです(5;17)」。さらにイエスが自分を神の御子と呼ぶに至って、彼らの怒りは頂点に達し、迫害を強め、イエスを殺そうとまでした。
本書の書かれた年代:西暦80~95年ごろ
>時代背景:西暦70年にエルサレムがローマに破壊された後に書かれたと言われている。
本書の作者は
伝統的には作者は12使徒のひとりのヨハネであるといわれている。しかし、本書には、作者は「イエスの愛された弟子(13:23,19:26,21:7,21:20)」と書かれてあっても「ヨハネ」であるとは特定されてはいない。しかし、その弟子とは、最後の晩餐の時、イエスの右側にいて「主よ、あなたを裏切るものは誰ですか」と問うた弟子(20:20~21参照)であり、復活後のイエスがガラリヤ湖に現れた際に漁をしていた7人の弟子(21:7)のうちの一人であると明かしている。それ故、この書の作者は、イエスの12弟子のひとりであることは確実であっても、それが「ヨハネ」であるとは決めることはできない。もちろんヨハネである可能性はある。それ故に私は伝統に従って、また表題に従って「主の愛した弟子」とはヨハネであると決めようと思う。
イエスの行った8つの奇蹟
イエスは奇蹟をおこなっただけではなかった。イエスの教えは力強く神の知恵に満ちていた。奇蹟はイエスが神の子であるという存在証明である。奇蹟は、神の栄光を現わし、人々に対するあわれみと慈愛のあかしである。その8つを以下に示す。
1.水をぶどう酒に変える(2:1~12)
2.役人の子をいやす(4:46~54)
3.38年間闘病生活に苦しんでいた人をいやす(5:1~9)
4.5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹させる(6:1~15)
5.湖の上を歩く(6:16~21)
6.安息日に、生まれつきの盲人をいやす(9:1~7)
7.死んだ友人(ラザロ)を蘇生さす(11:1~44)
8.復活後ガラリヤ湖畔で弟子たちの前に現れ、不漁を大漁に替える(21:1~14)
以上8つの奇跡のうち5つは他の福音書には記録されていない。独自のものである。
主要な登場人物:イエス、バプテスマのヨハネ、マリヤ、マルタ、ラザロ、イエスの母,ローマの総督ピラト、マグダラのマリヤ、イエスの愛された弟子(ヨハネ)。
主要な地名:ユダの田舎、サマリヤ、ガリラヤ、ベタニヤ、エルサレム。
神とは何か
TBSのラジオ番組「荒川強啓DAYキャッチ」のゲストコメンテーター社会学者宮台真司がアインシュタインの以下の言葉を紹介していた。興味深かったので紹介する。「神が世界(宇宙)を作った」といわれている。ということは、神は世界の外に存在することになる。しかし世界は永遠かつ無限で外は無い。この時、神の存在はどうなるか。「あってあり得ない」矛盾した存在となる。この番組ではこれ以上論を進めていなかったので、自分なりに考えてみた。その回答は2つある。
1は唯物論的考えで、神が世界を作ったのではなく、世界(人)が神を作ったのである。神が世界の外に存在しえないなら、世界の中から生まれるざるを得ない。クリスチャンには到底認めることはできない結論である。
2つ目は、世界そのものが神である。あってあり続ける存在である。内もなければ外もない。神は人の姿をまとって(キリスト)この地におられる。本書の冒頭の言葉「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」まさにこのことを指している、といっても過言ではなかろう。
1も2も試論であって、公には認められてはいないと思う。しかし、「聖書はこう言っている」と言下に否定しないでほしい。否定してしまったら、それ以上、論理は進まなくなる。
各章ごとの説明
第1章:はじめにことばあり、ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネはイエスキリストの神性を語り、そのイエスが人の姿をまとって地上に下り、その使命(裁きと回復)をお果たしになることを預言する。ことばが人となる。キリストこそが本当の光である。その先ぶれとして現れたのが「バプテスマのヨハネ」であった。キリストは霊によってバプテスマを捧げ、すべての民に救いをもたらす使命をお果たしになる。イエスは最初の弟子たち(ペトロ、アンデレ、ナタエル、ピリポ)を伴って宣教の旅へと出発する。「私に付いてきなさい」。
第2章~4章:イエスは婚礼の席で水をぶどう酒に変える(2章)。サマリヤ人のニコデモに会い「霊的に変えられる」ことの重要性を説きエルサレムでは、宮清めをして、宮に巣食い、宮を商売に利用している商人を追放し、それとグルになっている祭司らと対立する。井戸の傍らにいたサマリヤ人の女性にご自身がメシアであることを明かしし、役人の息子の病をいやされ、ご自身の聖なる力と、権限を示される。次第にイエスを信じる者が増大する。
5章~7章:イエスは、安息日にベテスタの池の傍らの回廊で歩けない人の足をいやして歩けるようにした。6章では5000人以上の人にわずかな食糧(2匹の魚とパン5個)で、その食欲を満たし、有り余る祝福を示した。
しかし、民衆はイエスの奇跡は信じてもイエスを信じなかった。それを知っておられるイエスは「なくなる食物のためではなく、永遠の命に至る食物を求めなさい」と神への信仰を促した。イエスはご自身がメシアであることを示し、自分を受け入れる者のみが永遠の命を受け取ることができると「仮庵の祭り」で断言された。イエスは自分の言葉ではなく自分を遣わしたお方・神の言葉で語ったのである。神の言葉は真実である。
第8章~第10章:姦淫を行った女性の経験を通じて、イエスはあわれみと悔い改めについて語る。そして自分を主に代わるものと語り「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしがいつもその御心にかなうことを行うからです(8;29)」そして反キリスト(祭司長やパリサイ人)をサタンと呼び、主はそれとの対決を誓う。主はこれも安息日に生まれつきの盲人の目をお開きになる。反キリストはこれを認めようとはしなかった。イエスは言う「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見えるものが盲目になるためです(9章)」。ご自身については「羊たちを愛し、羊たちのために命を捧げる良い羊飼いである」と語られる。羊をイスラエルの民と読み替え、羊飼いを主と読み替えよう。
11章~12章:イエスは死んだ友人ラザロを蘇生させた。これを見た民はイエスを信じた。イエスは言う「私はよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでもよみがえるのです。また生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません」。徐々にイエスを信じる者は多くなる。この話を聞いた祭司長とパリサイ人は危機感を募らせ、イエスとラザロを殺そうと画策する。大祭司カバヤは民に向かって言う「一人の人が民の代わりに死んで国民全体が滅びないほうがあなた方にとって得策だということも考えに入れていない(11:50)」と。これは、カバヤの意思に反して、主がカバヤの言葉を借りてイエスの死と復活を預言したのである。
イエスは過ぎ越しの祭りの6日前ベタニヤに行かれた。その夕食時に、イエスの足に高価な香油を塗るマリヤがいた。それを非難するユダ、これを無視するイエス。イエスは、驢馬に乗ってエルサレムへ勝利の入場(最後の宣教)をする。歓待する民。イエスとギリシャ人との会話。イエスは言う「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。自分の命を愛する者はそれを失い、この世でその命を憎むものはそれを保って永遠の命に至るのです(12:24~25)」。この言葉はイエスの死と復活を現わしている。「まだしばらくの間、光はあなた方の間にあります。闇があなた方を襲うことがないように、あなた方は光がある間に歩きなさい。闇の中を歩くものは、自分がどこに行くのかわかりません。あなた方に光がある間に、光の子供となるために、光を信じなさい。イエスが多くのしるし(奇蹟)を行われたのにイスラエルの民はイエスを信じなかった。何故か、ヨハネはイザヤ書を引用し次のように言う「主が彼らの目を盲目にされ、心をかたくなにされた、それは彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである(12:40)」と。主は世を救うために来たのであって裁くためではない。終わりの日にその人を裁くのである。
はじめに
新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書から始まる。ともにイエスの生涯を描いている。最初の3つの福音書は「共観福音書」として1つにまとめられている。それに対して「ヨハネの福音書」は独立の書である。なぜか、「共観福音書」は歴史的事実に重きを置いているのに対して、「ヨハネの福音書」は霊的な主題に焦点を当てているからである。それ故に、ヨハネは神の目を通してイスラエルの民を見つめている。ヨハネの福音書は非常に教義的であり、そのテーマのいくつかは神の御子イエスの神性、キリストの贖い、生まれ変わることの必要性、隣人愛、救い主を信じることの重要性を語っている。
本書の目的は、「わたしが天から下ってきたのは、自分の心を行うためではなく、わたしを遣わした方のみ心を行うためです(6:38,6:57,7:16,8:26,8:28,8:54)」。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(3:3)」、「神は実に、そのひとり子お与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである(3:16~17)」。聖書全体を要約すれば、以上に引用された文章になるという意味で、この文章は「ミニバイブル」と呼ばれている。
私が新約聖書を始めるにあたって、福音書の最初に位置する「マタイの福音書」から始めず「ヨハネの福音書」から始めるのはそのためである。
「ヨハネの福音書」で、その神性を象徴する言葉は第1章1節から5節までの言葉に言い現わされている。その言葉とは「初めにとばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。そして聖書を読み進んでいくと、この「ことば」とはイエスであることがわかる。天地創造の前にイエスが存在していたことになる。「共観福音書」の「三位一体(神と御子と聖霊)」の神であるイエスとは異なっている。イエスは聖母マリヤの子ではない。イエスは神そのものである。全人類を愛されるがゆえに神はイエスという人の姿をまとって、天からこの地に下りてこられたのである。
更に異なっていることは、「共観福音書」ではイエスはガラリヤ地方を宣教(公生活)したのちに、はじめてエルサレムを訪問している。それは死出の旅であった。イエスはエルサレムで十字架にかかり、処刑されている。しかし、「ヨハネの福音書」ではエルサレムへの訪問は数回にわたっている(2:13,5:1,7:10)。過ぎ越しの祭りの時は必ず訪問している。エルサレムで処刑されたことは「共観福音書」と同じである。
>本書の構成
その全体を2つに分けることができる。
1、バプテスマのヨハネの洗礼に始まるイエスの公生活(1~12)
2、イエスの受苦の道のり(弟子たちに個人的に語った言葉:告別演説)とイエスの処刑と復活(13~21)。
ここに神の壮大なご計画を見ることができる(イエスの誕生・宣教・十字架・復活)
イエスの歩いた行程
その旅は反イエス(パリサイ人と祭司)との戦いであった。特に安息日をめぐる争いは熾烈であった。イエスは言う「わたしの父は今に至るまで(安息日に)働いておられます。ですからわたしも働いているのです(5;17)」。さらにイエスが自分を神の御子と呼ぶに至って、彼らの怒りは頂点に達し、迫害を強め、イエスを殺そうとまでした。
本書の書かれた年代:西暦80~95年ごろ
>時代背景:西暦70年にエルサレムがローマに破壊された後に書かれたと言われている。
本書の作者は
伝統的には作者は12使徒のひとりのヨハネであるといわれている。しかし、本書には、作者は「イエスの愛された弟子(13:23,19:26,21:7,21:20)」と書かれてあっても「ヨハネ」であるとは特定されてはいない。しかし、その弟子とは、最後の晩餐の時、イエスの右側にいて「主よ、あなたを裏切るものは誰ですか」と問うた弟子(20:20~21参照)であり、復活後のイエスがガラリヤ湖に現れた際に漁をしていた7人の弟子(21:7)のうちの一人であると明かしている。それ故、この書の作者は、イエスの12弟子のひとりであることは確実であっても、それが「ヨハネ」であるとは決めることはできない。もちろんヨハネである可能性はある。それ故に私は伝統に従って、また表題に従って「主の愛した弟子」とはヨハネであると決めようと思う。
イエスの行った8つの奇蹟
イエスは奇蹟をおこなっただけではなかった。イエスの教えは力強く神の知恵に満ちていた。奇蹟はイエスが神の子であるという存在証明である。奇蹟は、神の栄光を現わし、人々に対するあわれみと慈愛のあかしである。その8つを以下に示す。
1.水をぶどう酒に変える(2:1~12)
2.役人の子をいやす(4:46~54)
3.38年間闘病生活に苦しんでいた人をいやす(5:1~9)
4.5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹させる(6:1~15)
5.湖の上を歩く(6:16~21)
6.安息日に、生まれつきの盲人をいやす(9:1~7)
7.死んだ友人(ラザロ)を蘇生さす(11:1~44)
8.復活後ガラリヤ湖畔で弟子たちの前に現れ、不漁を大漁に替える(21:1~14)
以上8つの奇跡のうち5つは他の福音書には記録されていない。独自のものである。
主要な登場人物:イエス、バプテスマのヨハネ、マリヤ、マルタ、ラザロ、イエスの母,ローマの総督ピラト、マグダラのマリヤ、イエスの愛された弟子(ヨハネ)。
主要な地名:ユダの田舎、サマリヤ、ガリラヤ、ベタニヤ、エルサレム。
神とは何か
TBSのラジオ番組「荒川強啓DAYキャッチ」のゲストコメンテーター社会学者宮台真司がアインシュタインの以下の言葉を紹介していた。興味深かったので紹介する。「神が世界(宇宙)を作った」といわれている。ということは、神は世界の外に存在することになる。しかし世界は永遠かつ無限で外は無い。この時、神の存在はどうなるか。「あってあり得ない」矛盾した存在となる。この番組ではこれ以上論を進めていなかったので、自分なりに考えてみた。その回答は2つある。
1は唯物論的考えで、神が世界を作ったのではなく、世界(人)が神を作ったのである。神が世界の外に存在しえないなら、世界の中から生まれるざるを得ない。クリスチャンには到底認めることはできない結論である。
2つ目は、世界そのものが神である。あってあり続ける存在である。内もなければ外もない。神は人の姿をまとって(キリスト)この地におられる。本書の冒頭の言葉「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」まさにこのことを指している、といっても過言ではなかろう。
1も2も試論であって、公には認められてはいないと思う。しかし、「聖書はこう言っている」と言下に否定しないでほしい。否定してしまったら、それ以上、論理は進まなくなる。
各章ごとの説明
第1章:はじめにことばあり、ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネはイエスキリストの神性を語り、そのイエスが人の姿をまとって地上に下り、その使命(裁きと回復)をお果たしになることを預言する。ことばが人となる。キリストこそが本当の光である。その先ぶれとして現れたのが「バプテスマのヨハネ」であった。キリストは霊によってバプテスマを捧げ、すべての民に救いをもたらす使命をお果たしになる。イエスは最初の弟子たち(ペトロ、アンデレ、ナタエル、ピリポ)を伴って宣教の旅へと出発する。「私に付いてきなさい」。
第2章~4章:イエスは婚礼の席で水をぶどう酒に変える(2章)。サマリヤ人のニコデモに会い「霊的に変えられる」ことの重要性を説きエルサレムでは、宮清めをして、宮に巣食い、宮を商売に利用している商人を追放し、それとグルになっている祭司らと対立する。井戸の傍らにいたサマリヤ人の女性にご自身がメシアであることを明かしし、役人の息子の病をいやされ、ご自身の聖なる力と、権限を示される。次第にイエスを信じる者が増大する。
5章~7章:イエスは、安息日にベテスタの池の傍らの回廊で歩けない人の足をいやして歩けるようにした。6章では5000人以上の人にわずかな食糧(2匹の魚とパン5個)で、その食欲を満たし、有り余る祝福を示した。
しかし、民衆はイエスの奇跡は信じてもイエスを信じなかった。それを知っておられるイエスは「なくなる食物のためではなく、永遠の命に至る食物を求めなさい」と神への信仰を促した。イエスはご自身がメシアであることを示し、自分を受け入れる者のみが永遠の命を受け取ることができると「仮庵の祭り」で断言された。イエスは自分の言葉ではなく自分を遣わしたお方・神の言葉で語ったのである。神の言葉は真実である。
第8章~第10章:姦淫を行った女性の経験を通じて、イエスはあわれみと悔い改めについて語る。そして自分を主に代わるものと語り「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしがいつもその御心にかなうことを行うからです(8;29)」そして反キリスト(祭司長やパリサイ人)をサタンと呼び、主はそれとの対決を誓う。主はこれも安息日に生まれつきの盲人の目をお開きになる。反キリストはこれを認めようとはしなかった。イエスは言う「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見えるものが盲目になるためです(9章)」。ご自身については「羊たちを愛し、羊たちのために命を捧げる良い羊飼いである」と語られる。羊をイスラエルの民と読み替え、羊飼いを主と読み替えよう。
11章~12章:イエスは死んだ友人ラザロを蘇生させた。これを見た民はイエスを信じた。イエスは言う「私はよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでもよみがえるのです。また生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません」。徐々にイエスを信じる者は多くなる。この話を聞いた祭司長とパリサイ人は危機感を募らせ、イエスとラザロを殺そうと画策する。大祭司カバヤは民に向かって言う「一人の人が民の代わりに死んで国民全体が滅びないほうがあなた方にとって得策だということも考えに入れていない(11:50)」と。これは、カバヤの意思に反して、主がカバヤの言葉を借りてイエスの死と復活を預言したのである。
イエスは過ぎ越しの祭りの6日前ベタニヤに行かれた。その夕食時に、イエスの足に高価な香油を塗るマリヤがいた。それを非難するユダ、これを無視するイエス。イエスは、驢馬に乗ってエルサレムへ勝利の入場(最後の宣教)をする。歓待する民。イエスとギリシャ人との会話。イエスは言う「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。自分の命を愛する者はそれを失い、この世でその命を憎むものはそれを保って永遠の命に至るのです(12:24~25)」。この言葉はイエスの死と復活を現わしている。「まだしばらくの間、光はあなた方の間にあります。闇があなた方を襲うことがないように、あなた方は光がある間に歩きなさい。闇の中を歩くものは、自分がどこに行くのかわかりません。あなた方に光がある間に、光の子供となるために、光を信じなさい。イエスが多くのしるし(奇蹟)を行われたのにイスラエルの民はイエスを信じなかった。何故か、ヨハネはイザヤ書を引用し次のように言う「主が彼らの目を盲目にされ、心をかたくなにされた、それは彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである(12:40)」と。主は世を救うために来たのであって裁くためではない。終わりの日にその人を裁くのである。
平成31年1月8日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会