箴 言 戒めの言葉
はじめに
「イスラエルの王ダビデの子、ソロモンの箴言。これは智恵と訓戒とを学び、悟りの言葉を理解するためであり、正義と公儀と公正と、思慮ある訓戒を体得する為であり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。智恵のあるものは、これを聞いて理解を深め、悟りある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、智恵ある者の言葉と、その謎とを理解するためである。主を恐れる事は知識(知恵)の初めである。愚か者は智恵と訓戒をさげすむ(箴言1:1~7)」。
この文章には「箴言」の内容が凝縮されています。
箴言の意味は一般的には、長い間、語り継がれて来た諺や格言のことを言います。
しかし、聖書で云う箴言とは、そのような単なる人の智慧や経験から生まれた人生訓や処世訓ではありません。聖書で語られる箴言とは、神から与えられた 智恵や悟り、霊的な法則、永遠の真理などを知り、実際の生活で実践する為にあるのです。それはつまるところ神様に喜ばれる歩み方、また神からの祝福を受ける秘訣や、戒めなどをいかに自分の生活の中に取り入れ実践するかを意味しており、それを、短い言葉で現したものが箴言なのです。この箴言の1章7節に「主を恐れる事は知識の初めである」とあるように、霊的な悟りの世界に入るには、また、神の祝福の世界に入るためには、その始めがあると云うこと、すなわち入口があることを教えています。その入口こそ、主を恐れること、神を神として認め、敬い従うことなのです。
箴言は、神の祝福の世界に入るためには、入り口があること、そしてその入口への入り方、また実際に祝福を受ける方法や、気をつけること、などを様々な角度から私たちに教えています。それは知恵の書であり、実用の書なのです。つまり神から与えられた知恵を日常生活にいかに当てはめるか、敬虔な生活を送るためには何を成すべきかを、その方法を説明している教科書なのです。
智恵とは箴言は「智恵の書」と云われています。では、智恵とは何なのでしょうか。
私たちは、それを知るためには次のことを理解する必要があります。
1.ヨハネの福音書「初めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは、神であった。この方(イエス・キリスト=引用者)は、初めに神とともにおられた(ヨハネ、1:1~2)(箴言8:22~32)。
2.トとイスラエルの民との契約(創世記)。
3.神とモーセの間の契約(律法=十戒)(出エジプト記)
4.箴言=「主を恐れる事は知識の初めである」
この4つは、神の言葉=智恵=キリストによって人に与えられています。云うまでも無く世界を統治しているのは神故に、最高の知恵者、ないし賢者は、創造主たる神と云うことになります。また人間の智恵は、究極的には神に由来することから、「神への恐れは知識の始まり」と云う言葉が箴言のⅠ章7節に書かれているのです。
イエスが智恵であるあることは、コリントⅠで「イエス・キリストは神の力、神の知恵なのです(1:24)」。「しかし、あなた方は、神によってキリスト・イエスの内にあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と戒めと、贖いとになられました(1:30)」。この引用文から智恵とはイエス・キリストである事がわかります。
この前提条件を踏まえて「箴言」を読んで行きます。
箴言は5つの部分に区分されます。
1.1~9章 イスラエルの王、ダビデ子、ソロモンの箴言(これは序論の形でいくつかの教訓を編集したもの)。
2.10~24章 ソロモンの箴言(箴言の内で中心となる主要部分)
3.25~29章 次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤの人々が書き写したものである。
4.30章 マサノ人ヤケの子アグルの言葉。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げた言葉。
5.31章 マサの王が母から受けた戒めの言葉
「詩篇」の作者が、ダビデであったように、「箴言」の作者はダビデの息子ソロモンであると言われています。もちろん全てをソロモンが書いたのではなく、ソロモンを取り巻く賢者の代表としてソロモンが登場したものと思われます。
箴言の特徴:
1.人生の賢い智恵を現したもの。
2.人生を過ごすための処世の智恵を現した処世訓もしくは人生訓。
3.主として断片的教訓より成る格言集。
4.人生の目的を追求するに当たって実際上の生活技術を述べた人生哲学。
5.人を生かす真の智恵を身につけ、主を恐れ敬いながら人生を歩む方法の教え。
文章技術:本書は詩や短いたとえ話、鋭く適格な問いかけ、2行連句、対照法や比較、擬人法などの文学形式を、多用している。
比較対照表
さて、31章を見てみたいと思います。
この章の前半Ⅰ~9節では悪い女に手を出すな、酒におぼれて政務を忘れるなとレムエル王に母は諭しています。後半は賢き女とはどんな女かと教えています。では手を出してはならぬ悪い女とはどんな女なのでしょうか。
2:16;あなたは他人の女から身を避けよ。言葉の滑らかな見知らぬ女から―――。
5:3~6;他国の女の唇は蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりも滑らかだ。しかしその終わりは苦ヨモギのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。
5:20;わが子よ、あなたはどうして他国の女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか。
7:10;すると遊女の装いをした、心にたくらみのある女が彼を迎えた。
23:27;遊女は深い穴、見知らぬ女は深い井戸だから、彼女は強盗のように待ち伏せし人々の間に裏切るものを多くする。
要するに悪き女は、装いは美しく魅力ある姿をしているが、その心は醜く、人を破滅に導くサタンなのである。
これに対して後半では賢き女とはいかなるものかと教えています。王の母は、賢き女をほめたたえ、その夫は、次のように云います。「しっかりしたことをする女は多いいけれど、あなたはその全てに勝っている」と。「麗しさは偽り。美しさは空しい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。彼女の手で稼いだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みの内でほめたたえよ(31:29~31)」と。賢き女=智恵=キリストの花嫁なのです。
神がモーセに与えた十戒(律法)こそ、イスラエルの民が身につけるべき根源的な知恵と云ってよいでしょう。十戒は神と人との関係、人と人との関係を教えています。その派生したものとし箴言を読む必要があります。箴言は人と神との関係、人の自分自身の関係、そして人と人との関係を扱っています。ここから「主を恐れる事は知識の初めなり」を理解することが出来るのです。
今、世の中は熊本大震災に目を向けています。この大震災にわれわれ人間はなすすべを知りません。ただこの天災がなるべく早く通り過ぎるのを待つのみです。この大震災を神のみ業なりと考える人がいます。神の怒りの表れだと云う人もいます。「神を敬い、恐れることを忘れた」人に対する天罰だと云う人もいます。終末は近いと云う人もいます。神は怒れば私たちを滅ぼすことも出来るのです。「ノアの方舟」の物語を思い出して下さい。私たちは神のみ業の大きさに恐れ慄くのみです。
神は人に大地と水と空気を与えました。これ無くして人は生きて行くことは出来ません。人は自らの力で生きているのではなく、神の力によって生かされているのだと云うことを忘れてはならないのです。十戒も箴言もほっておけば放縦にはしり、勝手気ままに生きていくであろう人に、そうさせないために神が与えた恵み(知恵)なのです。神は自分の指導のもと正しく生きて行くことを望んだのです。神を敬い恐れ信仰生活に入れと示唆しているのです。「わたしを愛するものを私は愛する(8;17)」のです。
「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。大昔から、初めから、大地の初めから、わたしは立てられた。深淵もまだなく、水のみなぎる源も無かった時、わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。神がまだ地も野原も、この世の最初の塵も造られなかったときに。神が天を高く立て、深淵の表に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を超えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、人の子らを喜んだ(8:22~31)」。
このわたしは智恵の擬人化である。智恵―わたし―イエス・キリスト。この項はヨハネの福音書にもみられる(ヨハネ1:1~5)。ヨハネの福音書の方が新しいから、恐らくこの箴言からの引用であろう。天地創造の物語は創世記を参考にして欲しい。智恵は天地創造以前から存在していたのである。天地創造は智恵によって為されたと言えよう。箴言8章は、智恵の自己啓示であり、智恵とは何かを知る上で貴重である。智恵の擬人化がみられる。
わが子よ:1章8節から7章(全)まで。わが子よと云う言葉で書きだされている。子供もしくは弟子に対して、先生もしくは父親が智恵探求の必要から発せられたものである。15の教訓が編集されている。
平成28年5月10日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会