日常一般

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イザヤ書Ⅻ29~30章 儚いこの世の助け

2023年04月25日 | Weblog
イザヤ書Ⅻ 29~30章 儚いこの世の助け
はじめに:29章で、主はユダの民を「反逆の子ら」と呼んでいます。なぜなら彼らが、神から離れてエジプトに頼ったからです。それは、恥と屈辱をもたらすに過ぎなかったのです。30章は、二つの部分に分けられます。前半(1~17)ではイスラエルの罪が裁かれ、後半(18~33)では、その罪からの解放が語られます。
29章:アリエルの呻き
「ああ。アリエル、アリエル。ダビデが陣を敷いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。わたしはアリエルを虐げるので、そこに呻きと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。わたしはあなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く。あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。あなたが地の中から出す声は、死人の霊の声のようになり、あなたの言うことは、ちりの中からの囁きのようになる。しかし、あなたの敵の群れも、細かい埃のようになり、横暴な者の群れは、吹き飛ぶ籾殻のようになる。しかも、それはにわかに、急に起こる。万軍の主は、雷と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。アリエルに戦いを挑むすべての民の群れ、これを攻めて、これを取り囲み、これを虐げる者たちは皆、夢のようになり、夜の幻のようになる。飢えた者が、夢の中で食べ、目が覚めると、その腹は空であるように、渇いている者が、夢の中で飲み、目が覚めると、なんとも疲れて、喉が干からびているように、シオンの山に戦いを挑むすべての民の群れも、そのようになる(29:1~8)」。
この箇所を読む者はイザヤ書の36章~37章も読んでください。ここに描かれていることが具体的に語られています。語彙 アリエル:エルサレムを指す。ダビデが陣を敷いた都です。アリエルは罪に満ちた都(イザヤ書29:13~14)です。わたし:神=主、あなた:エルサレムの民。
この箇所を読む人は、イザヤ書36~37章も読んでください。この箇所を具体的に説明しています。
主は、アッシリヤを使って罪に満ちたアリエルを裁きます。同時に、アッシリヤも、また罪あるものとして裁かれます。
イザヤは、アッシリヤの侵攻を前にして、当時のユダの王ヒゼキヤの願いを聞いて「私たちの願いを聞いてアリエルを助けよ」、「そうすれば、地の全ての王国はあなただけが主であることを知りましょう(37:20)」と主に祈ります。主はこれに応えて、「わたしは、この町を守ってこれを救おう。わたしのために、わたしのしもべ、ダビデのために(37:35)」と。その後、アリエルを取り囲んでいたアッシリヤの陣営に、主のみ使いが出て行って18万5000人の兵士を打ち殺したのです。このため、アッシリヤの王セナケリブは敗北を認め、この地から撤退せざるを得なかったのです。シオン(エルサレムの雅名)の山に戦いを挑むすべての民の群れも、そのようになるのです。
29:9~16には、エルサレムに災いをもたらすことになった原因が記されています。その真の原因は主に対する不信です。アッシリヤの侵攻を前にして、エルサレムは、主に救いを求めず。エジプトに救いを求めたのです。そこには「霊的な麻痺」がありました。霊の目が完全に塞がれていたのです。肉的な欲の為に目が見ええなくなっていたのです。「主はあなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目=預言者たち、を閉じ、あなたがたの頭=先賢者たち、を覆われたから(29:10)」。です。その結果、「すべての幻が封じられた書物の言葉のようになったのです」。すべての幻とは「律法」を現します。あなたがたの目が閉じられ、あなたがたの頭がおおわれたがゆえに、律法は封じられた書物になったのです。封印による盲目です。一般の民にとって、律法は重荷です。一人では抱えきれないほどの精神的負担です。彼らは心の中で律法を封印します。エルサレムの民は、封印によって真理が見えなくなります。「これを読み書きのできる者に渡して『どうぞ、これを読んでください』と言っても『これは封じられているから読めない』と言い、その書物を読み書きのできない人に渡して『どうぞこれを読んでください』と言っても『私は読み書きができない』と答えよう(29:11B~12)」。エルサレムの民にとっては、律法は幻なのです。守ることの難しい戒律なのです。この封印を開いて、重荷から自由にするものこそ、イエス・キリストの愛なのです。旧約聖書から新約聖書をつなぐものこそ、キリストの贖いの愛なのです。旧約聖書時代のエルサレムの民は、神・主、との和解は成立していません。
「そこで、主は仰せられた。『この民は口先で近づき、唇でわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことに過ぎない。それゆえ、見よ。わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵あるものの知恵は滅び、悟りあるものの悟りは隠される(29:13~14)』。神との契約の民であるエルサレムの民は、決して神の前で全きものではなかったのです。律法は封じられた幻として、彼らには理解できないものでした。様々な宗教的儀式も行われてはいたが、それは形式に堕していたのです。彼らは、神に口先で近づき、唇で崇めはするが、心のこもったものではなかったのです。霊的な感受性はそこにはなかった。神は、肉的欲望に頼み、エジプトに頼るエルサレムの指導者たちを罰します。
「ああ、あなたがたは、物を逆さまに考えている。陶器師を粘土と同じに見做してよかろうか。造られた者が、それを造った者に『彼は私を造らなかった』と言い、陶器が陶器師に『彼はわからずやだ』と言えようか(9~16)」。人が神を造ったのではなく、神が人を造ったのです。主客の転倒が語られています。神は万物の創造者なのです。神の助言を無視して、自分の思いや考えで国の将来を導こうとしたことは「神の民」の行いとしては逆さまなのです。神はこれを罰します。
「もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森と見做されるようになる。(29:17)」。これはレバノン(アリエル。エルサレム、イスラエル等々)の回復の預言です。「もうしばらくすると」というのは、次の節の「その日」のことです。「その日」とは、この世の終わりを指します。この世の終わりにレバノンは果樹園(神の国)に変わるのです。まだ「この世の終わり」は来ていません。預言的未来完了の世界です。イザヤ書で、「見よ」とか「この日」とか言う語彙が出てきたときは、終末的出来事、つまりメシア王国(千年王国)において実現する神の民の回復がその内容であると理解することが重要です。
「その日、耳の聞こえない者が書物の言葉を聞き、目の見えない者の目が暗黒と闇からものを見る(29:18)」。「へりくだる者は、主によっていよいよ喜び、貧しいものはイスラエルの聖なる方によって楽しむ(29:19)」「横暴な者はいなくなり嘲るものは滅びてしまい、悪をしようと窺うものは皆、絶ち滅ぼされるからだ(29:20)」。神の民の回復とは次のものを指します。1,耳の聞こえなかった者が、書物(聖書)の言葉を聞くようになる。2,盲人の目が開かれる。3,へりくだる者は主によって喜ぶようになる。4,貧しい人も主によって楽しむようになる。5,横暴な者はいなくなる。『彼ら(横暴な者)は、噂話で他人を罪に陥れ、城門で裁きをする者のあげあしを取り、正しい人を、むなしい理由で覆す(29:21)』。のです。それゆえ、主は終わりの日に彼らを滅ぼします。
「それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家についてこう仰せられる。『今からはヤコブは、恥を見ることはない。今からは顔色を失うことがない(29:22)』」『彼らが自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手の業(神のご計画)を見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ(29:23)』」。ここには、イスラエルの民の、「神の子」としての出発が語られています。彼らは神の前で全きものになるのです。アブラハム契約がここにあります。彼らが、神を恐れ慈しみ、神と共に歩むとき、神は、イスラエルの民に大地を与え、子々孫々の増大と繁栄を約束するのです。それは神の国の約束です。ここには神の壮大なご計画があります。創世記から神の国まで俯瞰して、神は、イスラエルを神の民に選んだのです。しかし、イスラエルは神の前に決して従順な民ではなかったのです。ときには反逆し、ときには偶像礼拝に走り、神を侮ったのです。神は怒りこれを罰します。神は怒り、これを罰し、災厄を与えても、契約の民を滅ぼそうとはしませんでした。人がどんなに知恵を尽くし、心を尽くしても努力しても、神の御力を超えることは出来ないし、覆すこともできません。神により頼むときにのみ主の愛と、平和と義を学ぶことが出来るのです。「このとき主は言います。「このとき、彼らは、わたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方(キリスト)を聖としイスラエルの神を恐れることが出来るのです。この結果「心の迷っている者は、悟りを得、つぶやく者も教えを学ぶ(29:24)」。のです。「つぶやく者」とは、試練の中で、その試練を災厄と思っている人々です。試練の中にあって、主の愛と平和、義を学びます。
30章:1、恥(30:1~5) アッシリヤの侵攻を前にして、ユダがエジプトに助けを求めたことが語られています。主はこれを「反逆の子ら」と呼んでいます。求めるものは主以外にいないからです。しかしユダは主を拒否します。エジプトに助けを求めます。イザヤはこれを「罪を増し加えること」と言っています。しかし、主は彼らがエジプトに頼ることを否定はしていません。それが主の導きから出た行動ならです。彼らは神を拒否してエジプトを選びます。しかし、エジプトは決して保護にも助にもならず、ましてや、勝利など考えられないからです。その結果は敗北です。エジプトは役に立たなかったのです。あったのは恥だけでした。
2苦悩(30:6~7) エジプトに助けを求めるには代償(宝物や財宝)を必要とします。それらを、ろばや、らくだの背に載せて、危険に満ちたネゲブ砂漠を通ってエジプトに行かねばなりません。こんな苦難と苦悩の結果は敗北でした。イザヤは言います。「だから私は『何もしないラハブ』とよんでいる。」と。ラハブとはエジプトの別名です。エジプトは何の役にも立たなかったのです。イザヤはユダがエジプト頼ることの危険性を再三警告しています。ユダはこれを拒否するものの、そこには苦悩があります。葛藤が有ります。
3記憶、(30:8~11)主はユダの民が、主に逆らっていることを、御言葉を拒んでいる姿を、自分たちを裁く言葉ではなく、「私たちの気に入ることを語れ」と言い、「私たちの前からイスラエルの聖なる方(イエス・キリスト)を消せ」とまで言っていることを、書物に現わし記憶にとどめよ、と命令しています。
4、破滅(30:12~14)、主に逆らう不義に対する神のさばきは徹底したものです。それは二つの比喩的表現によって表されています。一つは、4)一瞬にしてもたらされる破滅(30:13)、であり二つ目は、土の器が打ち砕かれるような容赦ない完全な破滅(30:14)です。土の器とはエジプトを指します。危機に際してエジプトに頼る無益さと、主への反逆を語っています。
このように、神である主は、大国エジプトに頼ることの愚を諭し、悔い改め、主を信頼することを求めますが、ユダはこれを望まなかったのです。
ユダは、アッシリヤの侵攻に際して、「我々は早馬(エジプト)に乗って逃げよう」とエジプトに頼ります。しかし、アッシリヤは、その早馬よりも早く、ユダに追いつき、これを滅ぼすのです。この場合のアッシリヤは神を象徴します。主は、「反逆の子ら」を、アッシリヤを使ってさばかれるのです。      
5、救い(30:18~26)これより後半に入ります。主は「反逆の子ら」を裁かれました。しかし、神は恵み深い方です。契約の民を決して滅ぼしたりしません。前非を悔い、神に立ち返った者には恵みを与え、あわれられます。それゆえ「あなたがたはもはや、決して(罪の苦しみに)泣くことはない」、と神は仰せられます。神は、愛です。神は辛抱強く、イスラエルの民の悔い改めと、神への立ち返りを切に待ち望んでおられるのです。「主が待ち望んでおられる」、と言うことは、民は神に応えていないことを意味します。エジプトに頼り神を無視します。しかし、そんな「反逆の子ら」に対しても、イザヤは神の愛を語ります。「あなたの叫びは聞かれる」と。これはあくまでも期待を込めた約束事です。恵みを与える主と、それを受けるに値する民がいてこそこの約束事は成立します。「反逆の子ら」の中にも、神に選ばれた「残りの者」が存在していたのです。主は彼らに期待して待っておられます。
神は姿の見えない、隠れた存在から、姿の見える三位一体の神=キリストとして現れます。神であると同時に人です。この方は、乏しいパンとわずかな水で大きな祝福を与えてくださるのです。この方が、あなたがたの後ろから「これが道だ。これに歩め」と導いてくださるのです。このとき、ユダは、エジプトと言う偶像崇拝から脱却出来るのです。
 次に究極のいやしが語られています。神の国です。神は、民に農地を与え、豊かな実りと家畜からの恵みを保証します。ハルマゲドンの勝利を、イザヤは「虐殺の日」と呼んでいます。この日、砂漠には「運河」が通ります。水に恵まれない砂漠の国々にとっては神からの最大の恵みです。命の水です。神の力です。このことによって神に反逆して傷ついた民の心を神は癒し慰めてくださるのです。主が、彼らを照らされるので、灯の光も、太陽の光も不要です。その光だけで十分です。それが「神の国」です。ゲヘナとは地獄を現します。王たちがゲヘナに投げ込まれることが預言されています。
 令和5年5月9日(火)報告者 守武 戢 楽庵会