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イザヤ書24 48章1~22節 ヤコブへの呼びかけ

2024年03月02日 | Weblog
イザヤ書24 48章 1~22節 ヤコブへの呼びかけ
はじめに:イザヤは47章ではバビロンについて語り、この48章では、「ヤコブの家」について語ります。イザヤ書の後半部分、40章からの「慰めよ、慰めよ」という呼びかけから始まった、主からの慰めの言葉は、48章をもって一応、区切りがつきます。その区切りとは、バビロンの地に捕囚の民として住むユダヤ人が、ペルシャ王クロスによって解放され、多くのものが帰国を拒否した中にあって、神に」選ばれた残りの者が祖国へ戻されたことです。その良き知らせに対するユダヤ人の反応が、この48章です。
預言者イザヤの最優先課題は、イスラエルに関することです。これが、福音の根幹をなし、福音はイスラエルから全世界へ発信され、「地の果てにまで響き渡る」ことになります。その先には神の国が予定されています。そこに主のご計画を見ることが出来ます。その点では主イエスも同じです。イエスはその十字架の死によって、その目的は途中で挫折しますが、その遺志を継いだ弟子たちの福音伝播の活躍には目覚ましいものがあります。12人の弟子のうち1人(ヨハネ)を除いて、みな殉死しています。預言者はヤコブとイスラエルを使い分けます。ヤコブは、世俗を、イスラエルは、霊の世界を象徴しいています。ヤコブは、アブラハムの孫として波乱万丈の生涯を送ります。彼は主に対してひたむきな面を持つと同時に、その若き日の生き方には、兄から長子権を奪うなど、自己中心的な面も持ち合わせていました。しかし、主は、このヤコブを聖別し、イスラエルと言う名を与えました。その意味は「神の民」です。ヤコブの子らが形成した民族は、ヤコブに与えられた「イスラエル」を名のるようになります。しかし、彼らは神の民でありながら、ヤコブの否定面も背負っています。主に対して「誠実をもってせず、また正義をもってしない」のです。当然、主は怒ります。主は、バビロンを使って彼らを「捕囚の民」とします。イスラエルは、聖俗併せ持つ民族です。
しかし、「主がイスラエルの民を、かわいた地を通らせたときも、彼らは乾かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた(48:21)」。主は自らの契約の民を決して滅ぼすことをしません。どんなに辛い目に合わせても、最終的には、「命の水」をほとばしり出して、お救いになるのです。「イスラエル」は、神のご計画の根幹をなす、民だからです。主が、イスラエルに与えた特権には数々あります。「イスラエル(神の民)」と言う名、神の選び、神との契約、神を呼び求める権利等々」です。
48章:「これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない(48:1)」。ヤコブは、ユダヤ人の肉的な面を強調する呼び名です。イスラエルは神の民と言う霊的な面を強調する名誉ある雅名です。創世記で語られているようにイスラエルは、契約の民(アブラハム契約)です。子々孫々の増大繁栄が保障されています。このように、イスラエルは本来、神に見守られ。保護されている民です。イスラエルと言う名前は、神と相撲を取ったヤコブに神が与えた雅名です。しかし、ここでは、ユダヤ人の肉的な面(ヤコブ)が強調され、霊的な面(イスラエル)は後退しています。彼らは、神を呼び求めてはいても、真実をもってせず、正義をもってしないのです。それが、ヤコブの家の実態なのです。神は怒り、彼らを捕囚の民としたのです。誠実とは、人の神に対する偽りのない真実を意味し、正義とは、神との正しいかかわりと、そこから出てくる行為を指します。
「確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神――その名は万軍の主――に寄りかかっている(48:2)」。ユダの民の信仰は、その名は誠実に見えても実質を伴わず、本質が見失われ、形骸化していました。神に寄りかかっているにい過ぎないのです。ここにユダの民に対する神の叱責があります。彼らの信仰はあいまいであり、確かなものではありませんでした。そこに、捕囚の地バビロンで、異教の神、偶像の付け入る隙がありました。バビロンは、多神教の世界であり、神話の世界です。多くの神が集う場所があり、彼らは、お互いに競い合い、協力し合っています。それゆえ信教の自由があり、複数の神が存在しています。ユダの民にとっては、神か偶像かであり、偶像の選択もあり得たのです。辛うじて、神に寄りかかっていたのです。
「先に起こったことは、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行い、それは成就した(48:3)。先に起こったこととは、クロス王によるバビロンへの侵攻です。このことを主は、過去にすでに預言し、語っていたのです。クロスは主の思いを体現し、バビロンを滅ぼしたのです。
「あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので(48:4)」、ヤコブの家の実体がかたくなであるということは、首筋は鉄の腱、額は青銅と表現されています。鉄の腱とはうなじが怖いを意味し、額は青銅とは、厚顔無恥を意味します。共に偶像を象徴することばです。
「わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ(預言)。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像が、これをを命じた』とか、あなたが言わないためだ(48:5)」。主は言います。わたしの御業は、わたしの御業であって、あなたたちの偶像の行いではない、あなたの偶像は私にとって代わることは出来ない。と。預言は、神の専売特許なのです。
「あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう(48:6)」。これらとは異教徒クロス王を主が用いてユダヤ人を救われたことを指します。これは今までイスラエルの民が経験したことのない新しいことであり、神のみの知る秘め事だったのです。ユダヤ人の救いは、このように、主から来るのです。
「それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』とかあなたが言わないためだ(48:7)」。このような主による救いは、今まで起こったことはなく、ユダヤ人にとっては聞いたことも知ることもなかった事なのです。
「あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしはあなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむくものと呼ばれていることを、知っていたからだ(48:8)」。主は、イスラエルの民が背くことをその母の胎内にいる時から、知っていたのです。ずっと前とは、イスラエルの民が生まれる以前を指します。まさに「原罪」です。
「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを抑えてあなたを断ち滅ぼさなかった(48:9)」主は、自らの選びの民を 滅ぼすことは、ありません。ユダヤ人救われる動機を主は述べています。 罪を重ねるユダヤ人を滅ぼす ことは、彼らを 「選び民」とした、自分の名誉が汚されてしまうからです。 自分のために救われるのです。その名と栄誉のために、怒りを遅らせ、彼らの悔い改めと神への立ち帰りを願って彼らを断ち滅ぼさなかったのです。
神は褒め称えられなければならないのです。
「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた(48:10)」。あなたとはイスラエルの民を指し、その魂は、神にとって大切なものです。銀はレアメタルの一種で、この世では、貴重な金属です。その鍛錬(精製)の方法は互いに違います。天と、この世の大切な物の違いが語られています。主は悩みの炉を使ってイスラエルの民を試みたのです。主は、彼らが、神を忘れて、霊か、物かで、悩むことの愚かしさを語ります。偶像礼拝や安逸に浸ることを戒めています。
「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない(48:11)」。主は、自分の
ためにユダヤ人を救われるのです。わたしのためとは、「ご自分のご計画」の遂行のためです。ユダヤ人は、そのご計画の基(根幹)になる存在です。主は、契約の民イスラエル以外には、栄光を与えることはありません。これの出来るものは、主以外には存在しません。
「わたしに聞け。ヤコブよ、わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである(48:12)」。主は、イスラエルを呼び出して言います。『わたしは、万物万象の支配者だ』と。「まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした。わたしがそれらに呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる(48:13)」。主は、自分が万物・万象の支配者であることを明らかにし、さらに創造の御業を語り、その御業を広げられるとき、すべての者が、こぞって立ちあがり主を賛美するのです。
「あながた、みな集まって聞け。だれがこれらの事を告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれることをバビロンに仕向ける。主の御腕はカルデヤ人に向かう(48:14)」。「わたしが、このわたしが語り、そして彼を呼んだのだ。わたしは彼を来させ、彼の行うことを成功させる(48:15)」。アッシリヤ帝国が崩壊し、前625年に新バビロニヤ(カルデヤ)がメソポタミアに成立すると、バビロンは再び都となります。その最盛期の、前6世紀に、ネブカドネザル2世はエルサレムのユダ王国を滅ぼし、ヘブライ人をバビロンに連行しました。バビロンの捕囚です。このバビロンを、主は、ペルシャのクロス王を使って滅ぼすのです。それが預言されています。
「わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れた所で語らなかった。それが起こった時から、わたしはそこにいた。今、神である主は私を、その御霊とともに遣わされた(48:16)」。主は、捕囚の民イスラエルに言います。『わたしに近づいて、これを聞け』と、これとは捕囚からの解放を意味します。本来、神の姿は秘められていて、人には見ることは出来ません。隠された存在です。それが、その姿を現し、イスラエルの民が解放されたとき、主はバビロンにいたのです。私とはクロス王です。主は、彼をその御霊とともにバビロンを滅ぼすために遣わされたのです。
「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く(48:17)」。ユダヤ人に主が望まれたことはご自分の教えを聞き、ご自分の導きに従うことでした。その教えと導きは、必ず、彼らにとって益になるものなのです。主は、イスラエルの民ユダヤ人を信じています。それゆえ、彼らが自分に反逆し、他の神、偶像を信じても、お赦しになります。最終的には、悔い改め、自分に立ち返ると確信しているからです。しかし、その確信は、常に裏切られます。
18,19節には、自分に従うことをしないユダヤ人に対する主の嘆きが語られています。「こうすれば、あなたにこんなにも素晴らしい恵みが与えられるのに」と、主は自分が授けようとしている恵みを受けようとしないイスラエルの民の頑なさや、鈍さに失望し、叱責しています。「あなたが私の命令に耳を傾けさえすれば、あなたの幸せは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに(48:18)」。主は、幸せを、川の流れに、正義を、海の波に、例えています。その性質は異なるものの、共に水です。水は命の源です。この源である水を神が支配しています。これに従っていれば、主の恵みに授かることが出来ます。「川のように流れる」とは、いつも、絶え間なく、継続的に、平和が流れゆくことを意味し、「「正義は海の波となる」とは、押し寄せてくる波です。神の恵みによる賜物としての正義です。
しかし、イスラエルは主に従うことを、潔しと、しません。主は嘆きます。
「あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに(48:19)」。砂、真砂は、浜辺を覆う細かい砂です。無限かつ永遠を象徴します。子々孫々の繋がりを現します。イスラエルの名は、神の前から断たれることも滅ぼされることもないのです。まさに「神の子」です。このように主を信じることは、その栄光を授かることを意味します。しかし、イスラエルは、これも拒否します。何故か。このときのイスラエルの民は、捕囚の民だったのです。その地の神、偶像崇拝に捉われていたのです。
主は、この事態を憂慮します。イスラエルに命じます。「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ」喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。「主がそのしもべヤコブを贖われた」と言え(48:20)」。主は、クロスを使って捕囚の民が、祖国に帰還することを奨励します。しかしその期間が長期に渡ったので、同化政策もあって、定着した者が多かったのです。祖国に戻ってもその地は他民族に占領されています。土地争いが起こります。今頃、帰って来て何を言うかです。いまのイスラエルとパレスチナの争いの原型が、そこにあります。そのリスクを犯してまで帰国をする気になるかです。しかし、主は、そのリスクを犯しても祖国へもどれと命令します。出て行く者(残りの者)に約束されているものは喜びです。贖いの喜びです。主は、その贖いの喜びを「地の果てにまで響き渡らせよ」と命じます。地の果ての先には「神の国」があります。
「主がかわいた地を通らせたときも、彼らは乾かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた(48:21)」。主の恵みにより出エジプトを果たしたイスラエル人たちは、モーセに連れられて約束の地カナンに到るまでの40年間を、その罪により砂漠の中をさ迷い歩きます。その間の彼らの命を支えた物が、主から与えられたマナと水でした。ここには、主による、罪びとユダヤ民族に対する救済が語られています。
「悪者どもには平安がない」と主は仰せられる(48:22)」。悪者どもとは、バビロンを指します。この地はクロス王によって滅ぼされます。当然、平安はありません。逆に、イスラエルの民は、捕囚から解放され、平安を回復します。

令和6年3月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会
 





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