日常一般

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イザヤ書30 54章1~17節 「無償の愛」

2024年07月23日 | Weblog
   イザヤ書30 54章1~17節 「無償の愛」
 はじめに:54章は、「あなたの天幕を広げよ」という題名で語られています。前回、私たちは、この書のクライマックスとも言える部分を見てきました。主の選ばれたしもべは、苦難のしもべでした。主は、私たちの背きの罪のため刺し通され、咎のため砕かれたのです。彼への懲らしめが私たちに、平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されたのです。その結果が、この54章に描かれています。それは、「回復の約束」です。主に一時的に見捨てられたイスラエルが、回復して捕囚の地(バビロン)から帰還するのです。イスラエルは、神の恵みによって、再建されます。主は、どのようにしてイスラエルを回復するのでしょうか。それがこの章に描かれています。1,あなたの天幕の場所を広げよ(54:1~3)。2,あなたは恥を見ない(54:4~6)。3,永久に変わらぬ愛(54:7~10)。4,無償の愛(54:11~17)。です。
54章「『子を産まない不妊の子よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ』と主は仰せられる(54:1)」。主は回復後のイスラエルに語ります。彼らは、もはや、不妊や産みの苦しみ(罪)から解放された民です。主は、彼らに喜び、歌えと叫びます。「夫に捨てられた女の子供」とは、これも、イスラエルのことです。イスラエルは主が約束してくださった子孫の繁栄を一時的に失います。アッシリヤによって北イスラエルは滅亡し、南ユダはバビロンによって捕囚の民となります。イスラエルの地は廃墟となります。しかし、イスラエルは回復します。主の代理人であるイスパニヤのクロス王によって復活します。イスラエルは、アブラハム契約によってその増大繁栄は保障されています。民の数は、契約以前よりも、さらに、増え広がることが、イザヤによって預言されています。
「『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り延ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ(54:2)』。「あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し荒れ果てた町々を人の住むところにするからだ(54:3)」。天幕とは、神と人がともに住む住居を指します。主はイスラエルの民に、その子々孫々に、大地を与え、増大繁栄の約束を与えています。イスラエルは、国をつくり、今、その居住地は広がり開拓によって、荒れ地は、町となります。その町を強固にし、外敵から国を守れと、主は、命じます。神の民が「増え広がる」ことが預言されています。
「恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめの時代のそしりを、もう思い出さない(54:4)」。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている(54:5)」。「主は、あなたを、夫に捨てられた。心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる(54:6)」。若かったころの恥とは豪華絢爛を誇ったダビデ、ソロモンの時代ではなく、分裂後のイスラエルの恥を指します。アッシリヤによる北イスラエルの滅亡であり、やもめの時代の謗りとはバビロンの捕囚を指します。彼らは、言葉を失い、文化も失い、自由に自分の神を礼拝することもできませんでした。勿論、神殿も失いました。それは、まさに恥であり、そしりであり、侮辱でした。このように、イスラエルは、長期にわたり外敵の支配下にあり、惨めな思いをしてきました。しかし、クロス王を道具とした主の働きにより、その思いから解放されます。彼らは、もはや、恐れることも、恥を見ることもなくなったのです。そこには主によるイスラエルに対する優しい愛があります。ここで、神は、自分のことを、「あなたの夫」と言っています。神とイスラエルは、夫婦関係にあります。愛と真実に基づく契約関係です。しかし、この関係が破られるのです。姦淫が行われたのです。偶像崇拝です。神は怒り一時的にイスラエルを捨てられたのです。しかし、神はイスラエルの悔い改めを見てこれを救われます。「若い時の妻」をお救いになるのです。
「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める(54:7)」。「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる(54:8)」。主がほんのしばらくの間イスラエルを見捨て、イスラエルの前から姿を隠したのは、アッシリヤやバビロンのイスラエルへの侵攻を赦したことを指します。主は、この二つの大国を使って自分に従わないイスラエルを懲らしめたのです。しかし、主は、憐みをもって、また、永遠の変わらぬ愛をもって、契約の民をお救いになるのです。主は、愛のむちをおふるいになられたのです。
「『このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う(54:9)』。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」と、あなたをあわれむ主は仰せられる(54:10)」。「ノアの方舟」は、旧約聖書「創世記」(6~9章)に登場する、大洪水にまつわる、物語を指します。このとき、地は堕落に満ち、主の怒りを買います。主は、洪水をおこし、地上の人々と、すべての生物を、滅ぼすことを決意します。信仰深きノアに「方舟」の建設を命じます。ノアは、それを達成します。方舟には、ノアの家族と、すべての動物の一つがいを乗せます。そこには、種を絶やさないための配慮がありました。怒りの洪水は40日、40夜、続き、地上の生物をすべて滅び尽くします。主は、洪水によって全地に裁きを下されましたが、方舟から出てきたノアが捧げた全焼のいけにえの煙の臭いをかがれたとき、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪うことをすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことをすまい」。あなたを怒らず、あなたを攻めない。その証として、主は、虹を天に掲げたのです。そして言います。いかなる天変地異が起ころうとも、わたしのイスラエルに対する愛は変わらない、と。この愛は、ギリシャ語で「アガペー」と言います。この虹は、十字架に例えられます。神は、十字架をご覧になるとき、主(キリスト)を信じる者は、決して裁かないと約束(契約)しています。十字架は、その契約のしるしです。あなたが、イエスを自分の救い主として信じるならば、神の怒りがあなたに臨むことは、決してないのです。キリストが、その裁きのすべてを一身に背負って死んでくださったからです。
『苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め(54:11)、』「あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする(54:12)」。苦しめられ、もてあそばれ、慰められなかった女とは、大国に虐げられていたエルサレムを指します。そのエルサレムが、主によって選ばれ、天に挙げられ、神の国になることが、イザヤによって預言されています。天のエルサレムは、宝石の輝きを持つ都です。それを、苦界において、男に弄ばれた女が、見受けされ、回復し、宝石で身を飾る姿になぞらえています。
「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある(54:13)」。私たちに真の平安を与えるものは、主の教えです。これ守ることによって、イスラエルの子々孫々の増大繁栄は、保障されるのです。ここには、アブラハム契約があります。その彼方には、神のご計画があり、神の国があります。
「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない(54:14)」。イスラエルの民は、王なるメシアから直接、教えと導きを受ける者となり、主の祝福を受ける者となります。主の守りによって「、神の都エルサレム」は守られ、しいたげをもくろむ者は近づけなくなります。だから、恐れるな、と主は言います。宝石の輝きを持つ「神の都エルサレム」の、その美しさと、栄光と、安定は、義という土台の上に、堅く立てられるのです。これは、天に挙げられたエルサレムの姿です。イザヤの預言です。
「見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される(54:15)」。アッシリヤにしてもバビロンにしても、それは、イスラエルの罪を裁くために主が遣わした道具でした。けれども、今や、主は、イスラエルを懲らしめようとは考えていません。逆に、イスラエルをあわれむことを考えています。どんな強力な敵が攻め寄せても、それに打ち勝つ力を、主は、イスラエルにお与えになっています。
「見よ。炭火を吹き起こし武器を造り出す職人を創造したのはわたしである。それを壊してしまう破壊者を創造したのもわたしである(54:16)」。主は、主権者です。創造も破壊も自由です。「あなたを攻めるために作られた武器は、どれも役立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責め立てるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ――(54:17)」。戦いとは、武器によるものだけでなく、情報(舌)戦もあります。神を信じる者は、信じないもの(偶像崇拝者)に対して、その双方(武器と情報)に勝つ必要があります。
「見よ。わたしはすぐ来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるためにわたしの報いを携えてくる。わたしはアルファでありオメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(黙示録22章12~13節)」。
ここには、主の神聖さと、永遠性が描かれています。主は、完璧なのです。
「私は、この書の預言の言葉を聞くすべての者にあかしする。もし、これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書の言葉をすこしでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22章18~19節)」。
この書とは聖書を指します。聖書の完璧さが描かれています。この書には、取り除くものもなければ、付け加えるものもないのです。完璧なのです。同時に、聖書にみ言葉を啓示された、主の完璧さも表しています。

イザヤ書27 51章1~23節 救われる主

2024年07月09日 | Weblog
 イザヤ書27 51章 1~23節 救われる主
はじめに:51章では、神が、主のしもべの声を聞き、義を追い求めるイスラエル人への救いの約束が描かれています。「義」とは、主ご自身が、父なる神のみ言葉を聞き、それを遂行されることです。具体的には、罪ある者、疲れた者をお救いになることです。そして、心に励ましを与え、罪びとであるイスラエル人や異邦人の立ち直りを図ることです。このように、義と救いは同義語です。救いとは、不義の世界のただなかにあって、義を求めることであり、神なる主のみが、義の本源であると知らねばならないのです。イザヤは、イザヤ書において「義」と言う言葉を多用しています(32回)。それだけ「義」と言う言葉には重要な意味があります。「義を追い求める者は命に到り、悪を追い求める者は死に至る(箴言11:19)」。「主は悪者の行いを忌み嫌い、義を追い求める者を愛する(15:9)」。日野教会では、その月の第一週の日曜日に「聖餐式」を行うことになりました。聖餐式とは何か。それはパンとぶどう酒(ジュース)を、食し、飲むことによってキリストを体感することです。それは、主と一つになる信仰の交わりを通してです。信仰とは義を追い求めて救われることです。聖餐式によって、神と人との間の契約関係が確認されます。しかし、牧師は言います。「三位一体の神」聖霊の救いを知らない者、無関心な者、神を信じない者は、分からないものは、聖餐式には、参加しないで欲しいと。聖餐式とは、主といのちを共有して生かされることだからです。
51章:「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ(51:1)」。義を追い求める者は、主を尋ね求める者です。義の追求とは、主を尋ね求めることです。切り出された岩、掘り出された穴とは、自分たちのルーツを指します。そのルーツを追求せよと、主は仰せられるのです。そのルーツとはなにか、
「あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを(51:2)」。父アブラハムとその妻サラの間には、イサクが生まれました。サラは、このとき90歳でした。この恵みは、神のご計画の一部でした。この三人の家族が、イスラエルの民を産んだルーツです。イスラエルの民は、その初めから、主の召しがあり、主によって形づくられ、その後に民族になりました。イスラエルの民は、主によって切り出された岩であり、ほりだされた穴なのです。アブラハム契約が、それを示しています。彼らが全きものなら、その増大繁栄を、主は、保証したのです。 「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある(51:3)」。御声を聞いて、義を求める人には、慰めの約束があります。この慰めは、自分たちのルーツ基づくものです。主は、「神の国」を預言しています。そこには、楽しみと喜び、感謝と歌声が、満ちています。
「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め国々の民の光とする(51:4)」。これまでと同じく、これからも、主の祝福のご計画が、語られていきます。「わたしの民」とは、イスラエルの民です。「わたしの国」とは異教の国です。イスラエルを含め、世界中の国々に、主は、語りかけます。わたしに従えと。なぜなら、すべての教えは、わたしから出て、わたしが公義を定め、それを、国々の民の光とするからです。主は、彼らの進むべき道をさし示します。
「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕により頼む(51:5)」。異邦人に対する主の救いの御手が延ばされています。異邦人は、偶像崇拝によって、主に逆らう者としではなく、主の、福音伝道の力によって、偶像を排し、主を信じ、喜んで、主に従う者になるのです。このように、神の御手は、エルサレムを基にして全国へと広がっていくのです。ここのにも、神のご計画を見ることができます。
「目を天にあげよ。また下の地を見よ。天は煙のように散り失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。(51:6)」。たとえ、天変地異が起こり天地(この世)が滅び去るようなことがあっても、主のことば(義)は、永遠に続くのです。
「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。(51:7)」。「しみが彼らの衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ(51:8)」。ここには、イラエルの「残りの者」に対する励ましの言葉が描かれています。迫害者を恐れるなと、主は言います。しみや虫は、迫害者に対する蔑称です。その迫害が、どんなに厳しくても、いつかは、終わりが来ます。一時的です。それに反して、主の義と救いは永遠です。
「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の、み腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか(51:9)」。さめよ、さめよ、と言う呼びかけは、だれがだれに呼びかけているのでしょうか。イスラエルの「残された者」が、主に向かって呼びかけているのです。万軍の主、神は、イスラエルの呼びかけに対して沈黙を守っています。イスラエルの民の大部分は、神に不従順です。このとき、神の対応には二つあります。一つは、罰を与えることであり、もう一つは、沈黙です。神には、神の時があります。その時とは、われわれの時とは違います。イスラエルの民は、それを理解できません。沈黙を守る神に対してイスラエルの「残りの者」が、さめよ、さめよ、眠りからさめよ、と呼びかけたのです。これは、主への祈りであり、目を覚まして、力をまとい、その力強い御腕を、いかんなく発揮してくださいと、叫んだのです。しかし、神は、決して、眠っていたわけではありません。時が来るのを待っていたのです。その時とは、イスラエルの悔い改めです。「ラハブ」とは海に住む巨獣の名です。比喩的に「出エジプト」のエジプトを指しています。「竜」とはエジプトの背後で働く悪魔をうかがわせます。「海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか(51:10)」神の命令によって。紅海が割れ、イスラエルの民が救われたことを指しています(出エジプトを見よ)。このように、強大な敵(バビロン)に対して「残りの者」たちは、神のその力の行使を願ったのです。それには神は応えます。「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入りその頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る(51:11)」。「神のなさることは、すべてときにかなって美しいのです」。多くのイスラエルの民が、捕囚の地に残りました。しかし、「主に贖われた者たち(残りの者)」は、シオン(エルサレム)に帰還します。彼らには、とこしえの恵みと喜びがあり、悲しみと嘆きはありません。神を敬う者を、神は祝福します。「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは(51:12)」。「天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか(51:13)」。これまで見てきたように、主はイスラエルの民に「このわたしが、あなたがたを慰める」と、救いの御手を伸ばされています。真に彼らを慰めることのできるのは、神であって、ほかには存在していません。それにも拘らず、「なぜ死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるのか」と、主の救いの御業を忘れ、まるで自分たちが滅びの民であるかのように、おそれ、おののいている彼らに対して、主は、「わたしを信ぜよ、それ以外にみちはない」と叱責します。
「捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない(51:14)」。神は、眠っていたわけではありません。時を得て、捕囚の民を解放し、死から救い、パンの心配を取り除き、経済的安定も与えたのです。
「わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主(51:15)」。「わたしは、わたしのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ』とシオンに言う(51:16)」。主は「万軍の主」です。偉大な御業を行うことのできるお方です。主は、シオン(エルサレム)に言います。「あなたは、わたしの民だ」と、主はイスラエルの守り神であり、救い主です。
「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した(51:17)」。9節では、主に対して、エルサレムが「さめよ、さめよ」と叫びましたが、今回は、主ご自身が、エルサレムに対して叫びます。「さめよ、さめよ」と、おまえたちこそ、目を覚まし、「悔い改めて、主に立ち返れ」と、怒りを露わにしています。神に目を覚ませというのなら、まず、自分自身が目を覚まさねばならないのです。「怒りの杯」、「よろめかす大杯」とは、主の懲らしめ杯を、指します。具体的には「バビロンの捕囚」です。彼らは主に背を向け、自分勝手の道に向かって進んでいたので、主は彼らを懲らしめるために「バビロン」と言う国を興して、捕囚の民としたのです。エルサレムは、自分たちの置かれている状況を理解していなかったのです。
その結果、「彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導くものがなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取るものがない(51:18)」。彼女とは「エルサレム」です。その子らも、その子らの子たちも、子々孫々その犯した罪ゆえに、彼女(エルサレム)を救うことができないのです。
「これら二つのことが、あなたを見舞う。だれが、あなたのために嘆くだろうか。滅亡と破滅、ききんと剣――わたしはどのようにしてあなたを慰めようか(51:19)」。「あなたの子らは網にかかった大かもしかのように気を失って、すべての町かどに倒れ伏す。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている(51:20)」。主は言います。わたしの怒りと、咎に満ちた、あなた(エルサレム)のために、だれが嘆くだろうか、と。彼らもまた、網にかかった大かもしかのように、気を失っていたからです。信仰から離れていたからです。これが、罪に満ちていたエルサレムが受けねばならなかった、主の怒りです。主は、私たちを子として扱っておられるので、私たちを訓練するために、こうした怒りを現されるのです。それは、平安な義の実を結ぶためです。私たちを愛しておられるからです。彼らは、敵(バビロン)の虐げのなかで恐れと、悲しみの中で、生き続けていました。恐れの根本原因は、不信仰です。恐れを克服する道は、信仰によって主を見上げることです。ここには、エルサレムの不信仰(偶像崇拝)に対する主の憤りと咎めがあります。しかし、主は、どのようにしてあなたを慰めようかと、慰めの御業を考えておられます。主は、どんなに、その罪に憤りを現しても、契約の民を滅ぼしたりはしません。お救いになります。
「それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ(51:21)」。信仰(神)か、不信仰(偶像)で悩んでいる者に、酔ってはいても酒のせいではない者に、主は、次のように、宣告しています。「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない(51:22)』」と。主は、私たちを弁護してくださる方です。しかも、完全な弁護士です。私たちを贖ってくださり、私たちをお救いになる、お方です。それゆえ、私たちは、二度と神の怒りの杯を飲むことはないのです。本来「杯」は、友好的な交わり、祝福を象徴しています。それを、ここでは、よろめかす「杯」、怒りの「杯」と否定的に使われています。神の正義の怒りを象徴しています。
「わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らは、かつてあなたに、『ひれ伏せ。我々は乗り越えて行こう』と言ったので、あなたの背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのにまかせた(51:23)」。あなたは、バビロンの言葉に答えて、あなたの背中を地面のようにし、歩道のようにして。彼らが乗り越えて行くに任せたのです。彼らの蹂躙にまかせたのです。これは、エルサレムの罪に対する主の怒りでした。しかし、主はどんなに怒っても、エルサレムの味方です。契約の民を滅ぼしません、怒りの杯(これ)をバビロン(悩ます者)に加え、これを滅ぼすのです。主は、その怒りを必ず取り去ってくださいます。それだけでなく、自分を攻撃していた相手に、その目を、向けられます。私たちの味方となり、防御してくださるのです。主は、何をするにしても、自分の手を汚しません。必ず代わりを探し出します。エルサレムを罰するにときには、バビロンを使い、用済みになれば、クロス王を使って、これを滅ぼします。主は、万能なお方です。その罪に打ちしおれている者を、主は立ち返らせ、悔い改めさせ、お救いになります。
パウロはコリント人の第二の手紙、冒頭(1章3~6節)で次のように言います。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父すべての慰めの神がほめたたえられますように。神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めが、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです」。全知全能の神である主が、どのようにして私たちを、ご自分のもとに引き寄せられるのか。それは、この方が選ばれた一人のしもべを通してです。ここには、神の偉大さが描かれています。
令和6年7月9日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会