日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

神の愛、人の愛

2012年10月30日 | Weblog
★神の愛・人の愛★
 いま、僕は72歳。そろそろ終い支度をしなくてはならない。日本人男性の平均寿命79歳にはまだ達してはいないが、人生の晩年に差し掛かっていることは事実である。後どんなに生きても30年は生きられないであろう。
 この歳になって考える事は、人生の目的とは何であり、いかに人は生きるべきかと、いうことである。
 ものごとは移り変わり、形あるものは、必ず滅びる。これは例外なく、全ての生き物に共通の宿命である。人に限って言えば、人は神の意志によって生まれ、神の恵みによって生かされ、人を愛し、子をうみ、神のみもとに戻っていく。生は一時的であり、死は永遠である。だから墓は石で作られる。石は永遠の象徴である。肉体は滅びても魂は生き続けると云う。墓は魂の安住の場所である。そこには神の国がある。神は永遠、かつ無限の世界の支配者である。
 神が人を作り、人を活かす。運命である。運命は神が作る。人は運命を作れない。人は神の作り賜うた運命に従って生きるだけである。しかし、人はそれを知らない。だから悲喜劇が起る。しかし、神の役立つ事をしたものだけがその運命を変えることが出来る。神の愛である。奇跡と言ってよいかもしれない。その典型例は、十字架と、復活である。キリストは神の愛により処刑後3日にして復活した。キリストは神の愛によりその運命を変えたのである。神による奇跡は、このように一方的に人に与えられるもので、人が望んで得られるものではない。誰に与えられるかは神のみぞ知るであって、不可知であり、不条理である。神は自分のために人を作ったのであって、人のために人を作ったのではない。神は人に愛というめぐみを与え、その代償を求める。それが神への信仰であり、絶対的服従である。ここには神と人との契約が存在する。ここから結論できる事は、人生の目的は神と共にある、と云うことである。人への愛と神への信仰。人生の目的は神が人に与えた恵みを、神に返していくことにある。
 神はその愛により宇宙を創造し、その一環として地球を創造した。人も創造した。そして神は自分の愛の遂行者として人の世にキリストを遣わした。十字架と復活という奇跡によって、神とキリストは一体化し、その愛を遂行する。このように神の本質は愛であり、それに伴って人の目的も神の愛の遂行となる。
 しかし、ここに神の存在を否定する人が現れる。神がいなければ全てが許されると云う。人は神から自立すると云う。精神の自由があると云う。彼らは神の支配からの解放を夢見る無神論者である。そこには神がつくり賜うた秩序、モラルの否定がある。
 神からの解放を唱えた無神論で混乱を極めている地球を、世界を救えるか?神の秩序に代わる、人の秩序を確立できるのか?その立場を表現する根本原理とは何か?無神論者は神を否定する。しかし、神が人を作ったのであって、無神論者が主張するように、人が神を作ったのではない。神は、永遠、無限の存在であって、始めも無ければ終わりも無い(ここから、神は誰がつくったのか?という議論、また創造者を求めて永遠に遡る議論も無意味となる。神は異次元の存在であり、人の世界の常識は通用しない)。人の前に神がいる。これは否定の出来ない事実である。神は人を否定できるが、人は神を否定できない。無神論者によってつくられた国(ソ連邦および東欧諸国)は崩壊した。そこには神による裁きがある。無神論者は、自分自身も神の創造物だと云うことを理解しない。
 神の居ない世界は、悪魔の支配する世界である。今、神を信じない連中が世界の平和を乱し、神の作り賜うた地球を破壊している。
 今こそ、神の愛が必要なのではないのか?人の愛が必要なのではないのか?世界平和と地球の再生、それは神の「愛」無くしては達成できないものである。『光のあるうちに、光の中を歩め』(トルストイ)まだ間に合う。終末論に道を開いてはならない。

 これは前回書いた「神とは何」の続編である。そのつもりで読んでほしい。
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神とは何?

2012年10月16日 | Weblog
 この文章は日野キリスト教会の60歳以上の男性の集まり『楽庵会』で報告したものである。ここに転載する。
  神とは何?教会に行っていると云うと、必ず受ける質問がある。「神様って存在するのか、存在するなら証明しろ」と。僕は分からないと応える。居るかもしれないし、居ないかもしれない。いずれにしても客体としての神は存在しない。神は異次元の存在であり、不可知である。それ故見ることは出来ない。要するに物理学では解明できない。実態が無いからである。しかし、心理学でなら解明できる。心の問題だからである。神の存在を信じ、信仰するものには神は存在する。信じない者には神は存在しない。きわめて主観的な存在である。信仰とは、あくまでも心の問題であって、科学的に解明できないし、すべきものでもない。
神の存在が実態が無いということは、神と人間の間には完全な断絶があることを示している。ではこの断絶を埋めるものは何か?それはキリストであり、教会である。その教典として存在するものが4つの福音書(ルカ、マルコ、マタイ、ヨハネの福音書)からなる聖書である。神と子(キリスト)と聖霊、三位一体として神とみなされる。
 このようにキリスト者は、自分は唯一の神の僕と信じているが、神の立場からすればキリスト教は多くの宗教の中の一つに過ぎない。神は全ての宗教の上に立つ絶対的存在である。しかしキリスト者は、それを認めない。そこから生まれるものが排他的な宗教的偏見である。遠くは中世の十字軍、近年ではヒットラーによるユダヤ人に対するホロコースト、現代も続くアラブ諸国とイスラエルの抗争。宗教以外の様々な要素が含まれているとはいえ、そこに宗教的偏見のあることを否定することは出来ない。そこには憎しみがあるだけで、自分以外の宗教は全て邪教であって、悪魔の教えとなる。そこには宗教的寛容は無い。ここまで来るとキリスト教は本来の神の手から離れる。
 神と人は断絶している。教会が頼りにならないとすれば、神はいかにして自分の意志を人に伝達するのか?「神は啓示し、人はそれを直感する」これはトルストイがその著『アンナカレーニナ』の中で言った言葉である。東北大震災は神による人類に対する怒りであり、警告であると云った著名人がいた。人類は今、神がつくりたもうた地球を破壊している。自然破壊は進み、森林は伐採され砂漠化が進行している。種の中には絶滅に瀕しているものがいる。この結果炭酸同化作用は破壊され、温暖化の原因になっている。その結果、オゾン層には穴が開き、北極の氷は溶解し、その結果として陸地の水没化が遠からず現実化すると云われている。このように人は神から与えられた恵みを犯し続けている。神に返そうとしない。再びバベルの塔を築いている。神の怒りが人類に与えられるのは当然である。この神からの啓示(警告)を人は真摯に受け止めねばならない。
 東北大震災の時、津波の到来を予知し、自転車に乗って、駆け回り、避難を呼びかけ、多くの住民を救ったが、みずからは津波にのみ込まれて死んでいった人がいた。何故、神は彼を助けなかったのか、神はいない。と叫んだ人がいた。しかし、これはあくまでも人間の立場である。神には神の立場がある。神はその罪に対して罰を与えたのである。罰せられるべき人を救うと云う事は、神に対する反逆であり、神の立場からすればその死は当然なのである。神の命令に従い、自分の愛すべき息子イサクを、アブラハムは生贄に捧げようとした。しかし神はイサクを救った。神は自らに対するアブラハムの従順さを評価したからである(旧約聖書、創世記22章1~15)。しかし、反逆者を神は救わない。
 ここには二つの問題がある。キリスト教は排他的存在で良いのか?世界平和を実現するために何をなすべきか?宗教的寛容は世界平和にとって貢献するのではないか?教会が今までのように聖書の字句の解釈に終わってはならないのである。教会の枠を超えなくてはならない。
 次の問題は宗教者と神の関係である。ひとは神からの啓示(警告)を素直に受け止め、それを実行に移すためには何をなすべきか?与えられた神からの恵みを再生し、神に返していくためには何をなすべきか?
 世界平和と、地球の再生。大きな大きな課題である。期待と希望に満ちた課題である。

この文章を発表し、その合評会において、いろいろと意見が出たが、一番身に応えたのが、「文章の当否は別にして、この文章を読んだ被災地の方の気持ちを思うと、怒りを覚える」と言われたことである。被災してから1年半、まだ気持ちも整理できず、町も修復されていない段階で、住民自身には何の落ち度もないのに、罪びと呼ばわりは余りにむごすぎ、無神経に過ぎると云うのである。それに対しては謝罪したい。何も言うことは無い。

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