日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヨブ記6 21~24章

2022年05月29日 | Weblog
ヨブ記6 21章~24章
 はじめに
 神の支配は、人の世界を含め、自然界と宇宙の秩序の維持にまで及んでいます。その中で人は。創世記に見られるように生物界の支配を神によって許されました(創世記:1:26)。しかし、その統治において失敗しています。その統治は神の支配のもと、限定的に行われているにすぎません。
 人の世界の周りには外部世界(天体、気象、野生動物等々)と、内部世界とがあります。外部世界は神の領域であり、内部世界のみが人の領域です。
 外部世界の一つに野生動物の世界があります。本来なら人の支配すべき領域ですが、その支配に失敗しています。神の支配領域に移されたのです。
 野生動物の生態、種の保存の仕組みを見る時、生物界の生の秩序維持とはいかなるものかを知ることが出来ます。そこには道徳はありません。弱肉強食の世界です。それが彼らの秩序なのです。しかし、バランスは保たれています。循環型の世界を形作っています。獅子も狼もその最低必要限度以上のものを食することはありません。その食欲は限定的です。彼らはこのバランスを崩すことは自然の秩序の崩壊につながると本能的に理解しているのです。人も弱肉強食の世界に生きています。犠牲動物(牛、豚、鳥、魚等々)の存在なしには、生きていけません。神がこの道徳の無い弱肉強食の世界を支配しておられるのです。これが神の摂理です。
 しかし、人の欲望は野生動物とは異なって、その欲望には限度がありません。神の統治に反逆しています。この反逆は人の内部世界にも及んでいます。悪者(強者)は安らかにその生を享受しています。何の苦しみもなく黄泉に下るのです。これが人の現実生活なのです。善は栄、悪は滅ぶという応報論に対して、ヨブは反論するのです。神に対して潔癖であり、義なる自分が、なぜ滅びの際に立たなければならないのか。神に問うているのです。
 21章、 3人の友の神学は、ヨブにとっては彼の疑問に対する無益なあざけりにすぎません。それゆえ、彼の目は神に向きます。「なぜ」と問います。しかし、神からの応答はありません。ヨブはいらだちます(21:4参照)。神のヨブの肉体に対する攻撃はやみません。ヨブは恐れ、悲しみ、おののきます。
 ヨブ記の記す「悪者」とは、現実社会の「犯罪者」ではありません。神を敬わない者たちです。その神を敬わない者たちが、この世を謳歌し、支配し、幸せのうちにその生を全うしているのです。この姿は数千年の昔から続き、さらにこれからも続くと思われます。友人たちが言うように「悪者」の繁栄は、決して「束の間」ではないのです。このことは、逆に言えば、正しい信仰者が虐げられているということを意味します。これがヨブの生きた時代だけでなくすべての時代に当てはまる弱肉強食の現実です。彼らは、神に対して言います「私たちから離れよ。私たちはあなたの道を知りたくない。全能者が何者なので私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが祈って、どんな利益があるのか(21:14~15)」と。これは神に対する高ぶりです。神の最も嫌われることです。悪人の神に対する自信です。人は神を必要としていません。神から離れて自立しています。これは「応報論」に対する反論です。ここには正しいものが受ける災厄が語られています。しかし正しいものが受ける災厄は神の御業なのです。「神の杖は彼らの上には下されないのです(21:9)」。このように、正しいものが受ける災厄は救済のために通らねばならない道なのです。迫害のあるところ聖霊ありです。
 次に「聖霊」の働きが語られます。聖霊は、悪人を無罪放免にはしません。「見よ。彼らの繁栄はその手にはない。幾たび、悪者の火が消え、災いが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを与えることか(21:16~17)」。このように神は最終的には悪者を滅ぼし、正しい者に恵みを与えるのです。正しい者は元気盛りの時に平穏のうちに死に、悪しきものは、苦悩のもとに死に、何の幸いも味あうことはありません。彼らは「ともに塵に伏し、蛆が彼らを覆うのです(21:26)」。悪人も善人も人は、共に生まれた場所:塵に帰るのです。
 ヨブは言います「ああ、私はあなたがたの計画を知っている。私を損なおうとするたくらみを(21:27)」。ヨブは3人の友人を全く信用していません。彼らは、ヨブを神の前に出してその罪を認めさせようとする告訴人です。
 彼らは「権門の家、悪人の住んだ天幕はどこにあるのか」とヨブに問います。この両者はともに悪者の家を象徴しています。そしてこれらの存在はありえないと、いうのです。応報論によれば「悪者の繁栄は束の間に過ぎない」からです。ヨブは反論します。「彼らは厳然として存在しており、そこの住民は、その罪を逃れている」と。彼らは力のある権力者であり、面と向ってその罪に報いる者がいるだろうか」と。それがヨブの生きた時代の現実なのです。いや、現代までも続いています。悪者の繁栄は、決して束の間ではないのです。その墓は壮麗であり、高価な埋葬品にあふれています。死者にとって住みやすく、盗掘を恐れて見張り人がたつほどです。彼らの後を継ぐ者の数は後を絶たない、と悪者の繁栄を語っています。悪者が栄え、正しいものが滅びる現実を示し、友人たちの応報論の甘さを指摘し、自分に対する警告を見当違いと拒否するのです。ここにはヨブの生きた時代の、神と友人とヨブの相関関係が示されています。
 22章:今回はエリファズが登場します。
 ヨブはこれまで一貫として自分の潔白を主張し続けてきました。この章はそれに対するエリファズの応答です。その趣旨は、次のようなものです。神は人と較べたとき、とてつもなく大きな存在です。だからその神と比較して極めて小さな存在であるヨブがどんなに自分の正しさを主張したところで、神にとって何一つ益にならない、というのです。小さすぎて気づかれることもないというのです。神と人との断絶を語っています。ヨブを含めて3人の友人は、天上における神とサタンとの会話を知りません。ヨブは神も認める義人なのです。ヨブが自分の潔白を主張したのは、「なぜ、義なる自分が苦しまねばならないのか」と神に問うことにあったのです。悪人は、その罪ゆえに苦しみます(エリファズの主張)。しかし善人もまた苦しむことがあるのです。試練とは喜びであり信仰が試されているのです。これがヨブ記の主張です。神はヨブに試練として苦しみを与えたのです。神は、ヨブが「いかなることが、あろうとも、耐え抜く、義人であり続けて欲しい」と、心から願っていたのです。そこにはヨブに対する愛がありました。エリファズの考えとは全く逆です。神の真意を知らないまま、ヨブは、神に疑いを持ちつつも、その信念を貫きます。しかし、エリファズは、「あなたが裁かれるのはあなたの犯した罪ゆえではないか」と、ヨブを責め、悔い改めを要求します。相も変らぬ応報論です。
 そのうえでヨブの罪状を列挙します(22:6~9)。その結果、あなたは罰せられているのだ、とヨブを謗ります。
 友人たちの考え方は「因果応報論」という一つの「型」に凝り固まっており、その枠から抜け出ることはなかったのです。その考えの基本は「苦難は、悪しき行いに対する神罰である」という信念でした。それは必ずしも過ちではありません。ある種の人には当てはまっても、普遍性は持ちません。勿論ヨブにも当てはまりません。しかし、彼らが必要としたことは、どうしたらヨブを罪に定め、悔い改めに導くか、ということだけでした。ヨブの言う「我は義なり」という主張に寄り添い、共に立ち、語り合うという柔軟性に欠けていました。また、ヨブも彼らとの論争をあきらめ、直ちに神に目を向けるのではなく、彼らに気づきを与え、共通の価値観を探し出し、友人たちの心の向きを正しい方向へと変えていく努力が必要だったのです。しかし両者は、その知恵に欠けていました。お互いがお互いの主張を繰り返すだけでした。これではいつまでたっても平行線です。神はヨブの呼びかけには沈黙をもって応えます。
 エリファズはヨブの言葉として次のように述べます。「天(神)と地(人)の境には濃い雲が覆っているので神は地上を見ることが出来ず(2:13)、地上では人は神を見ることが出来ない(22:14)」と。ヨブは神と人との間には断絶があると言い、それゆえ神は私(ヨブ)の苦しみを理解できず、私(ヨブ)は神の意図を理解できない、と。しかしエリファズはそれをヨブの神に対する高ぶりと判断し、昔からの悪人が行った神を侮辱する道を踏襲しているのではないか(2:15)と、主張します。そのような悪人は、束の間の繁栄を享受しても、結局は滅びるのだとヨブの栄枯盛衰を語ります(22:16)。
 悪人たちは言う「私たちから離れよ、全能者が私たちに何ができようか(22:17)」と。このような神に対する高ぶり、侮辱に対して、神は、彼らの家を良いもので満たされた。だが悪者の図り事は私と何の関係もない(2:18)」。神に逆らうものの家が富で満たされている事実を示して、あなたは応報論に反論する。しかし、あなたは自らを省みよ。「彼らの財産は、確かに無に帰し、残ったものは火でなめ尽くされ(22:19~20)」たではないか。と、応報論の正しさを強調します。
 このような神学を前提としてエリファズは強調します。「神と和解せよ」と「そうすれば平和が訪れ、幸いが来よう」と。
 ヨブは、人は、結局は罪びとであると強調します。21章では悪人の繁栄が語られて、善人の苦しむ姿が示されます。応報論の基礎には、律法があります。律法を犯す者は悪人であり、守るものは善人です。その境にあるものが悔い改めです。律法は、罪を犯したものは神に裁かれる、という罪と死の法則を語ります。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活の事実により、罪あるものがそのまま救われるという罪と死の法則を超えた新しい法則、命をもたらす霊の法則が出現しました。その生ける神に向かい「アバ、父よ(お父ちゃん)」と親しみを込めて呼ぶ。ここに真の信仰があります。
 23章:23章はエリファズに対するヨブの3度目の応答ですが、この時のヨブは頼りにならないエリファズではなく神に目を向けています。神は、これまでヨブの呼びかけには無視を貫き続けてきました。それで直接に出会い、その真意を悟りたいと思います。
 「今日もまた私は背く心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い(23:2)」。神を思い巡らしつつも、ヨブの感じる不条理な災厄は、神に反逆する思いを生みます。それが、今のヨブのアンビバレント(相反する)な精神状況なのです。精神的、肉体的苦しみは、ヨブの気持ちをなえさせ、ヨブの信仰心を曇らせるのです。
 しかし、彼は神を求めます。神のみ前で自分の訴えを並び立て、言葉の限り討論したい。そして自分の正しさを証明し、さばきを免れたいと願うのです。そして神を求めて前後左右に動きます。しかし、神の姿は見ることは出来ません。相も変わらず神はヨブを無視続けます。「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように出てくる(23:10)」。私は金のように純真無垢だとヨブは言いたいのです。そして、私は自分よりも常に神を優先してきたと、その信仰を誇ります。それにもかかわらず、神は私に不条理な災厄を与えた。「しかし、御心は一つである。誰がそれを翻すことが出来ようか。神は心の欲することを行われる。神は私について定めたことを、成し遂げられるからだ。このような多くの定めが神のうちにある(23:13~14)」。こうして神の主権性(超越性)と、不可侵性(神秘性)が示されます。「だから私は神の前でおびえ、これをもって神を畏れているのだ(23:15)」とヨブは述べます。しかし、ヨブは神の真意を知ることは出来ません。神はヨブを無視しているからです。「神を知らずして、神を知る」これこそ真の信仰です。
 この信仰によって、「私は闇によって消されず、彼(神)が暗黒を私の前から消されたからだ(23:17)」と、ヨブは言います。ヨブは自分の罪を否定して、悔い改めを拒否します。
 24章:ヨブはこの章において、この世に起きている不条理について語ります。神がおり神の日があるのになぜ罪びとは罰せられないのか。「なぜ全能者によって時は隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか(24:1)」と、。その矛盾を指摘します。悪人が滅ぼされず、それどころか、その豊かさを享受し、弱者を虐げてはばからない。この例をヨブは多く示します。この現実を神はどう見るかと問うているのです。「人の住む町からは、うめき声が起こり、傷ついた者の魂は助けを求めて叫ぶ、しかし神はそのうめき声に心を留められない(24:12)」。「しかし、神は力をもって、暴虐の者たちを生き延びるようにされる。彼はいのちがあるとは信じられないときにも立ち上がる(24:22)」、「神が彼に安全を与える。それで彼は休むことが出来る。神の目は彼の道の上に注がれる(24:23)。この現実を示すことによって、ヨブは「善は栄、悪は滅ぶ」という応報論に対峙します。神ですら悪に加担し、放置しているのです。神の意図を理解できないヨブは嘆き、怒ります。深い悲しみがあります。応報論を否定するものの、ヨブが神を否定しているわけではありません。悪は否定されねばならないのです(24:24参照)。しかし否定の仕方が違います。応報論の基本は、律法です。律法を超えるものは、キリストへの信仰であり愛です。人間は神の前に罪を犯し、義を損なってきたのです。人は義に飢え渇く存在です。神との関係を深く結ぶことによって、神との正しい関係を結ぶことが出来ます。それは、神自信が私たち人間と正しい関係を回復したいと考えておられるからです。そのために一人子イエス・キリストお遣わしになりました。キリストはご自分の命をもって、私たちを贖い、あらゆる罪を赦して神の子として永遠の命をお与えくださったのです。しかし、それは、まだヨブの目には隠されてぃます(24:1)。だからヨブは悩むのです。だから「なぜ」と神に問い続けるのです。
楽庵会

ヨブ記5 16~20章

2022年05月28日 | Weblog
 ヨブ記 5 16章~20章
 はじめに:
 ヨブ記を読む場合避けて通れない問題は、ユダヤ民族と異邦人の関係です。ヨブ記に登場する人物は、ヨブ、3人の友人、エリフとすべての異邦人です。ヨブの住んでいる地(ウズ)も異邦の地です。このようにユダヤ民族の外の世界に『神を義とするもの』が住んでいたのです。当時としては考えられないことが起きていたのです。なぜなら、旧約聖書の世界は基本的には神とユダヤ民族の世界だからです。
 ヨブ記との関連でいえば、ユダヤ人にとっては苦難の人ヨブが、2倍の恵みを回復するという結末は、選民思想に凝り固まり、唯一神の恵みに預かることのできるのは、我が民のみと、神の律法を堅く信じ、行動する彼らにとっては、我慢のならないことなのです。彼らにとっては、律法をないがしろにする異邦人で、かつ罪びとであるヨブは神の怒りに触れたまま滅びゆく存在であって欲しかったのです。
 このように、「ヨブ記」の作者はユダヤ民族の選民思想に真っ向から対立する存在としてヨブを登場させたと言えます。「ヨブ記」は選民思想を相対化し、神の思想をグローバル化する役目を担っているのです。その意味で、ヨブは異邦人を代表する人物であり、異邦人伝道の初穂(先がけ)といって良いでしょう。
 このことは、ユダヤ民族にとっては、危機的事態だったのです。それに対応するために、彼らは自らを他と区別し、輝かせるために、律法を絶対化し、選民思想に閉じ籠るようになったのです。時代が下って初代教会の時代にキリスト教の信者は、この選民思想と対決しました。
 3人の友人は、異邦人でありながら、その神学の根底には律法主義があります。「律法を犯すことは罪である。罪があるから罰がある。悔い改めて神に帰れ」とヨブを諭します。 厳しい現実に接してヨブは「律法による行いか、神への信仰か」と迷いながらも、神に敵対しつつも,その目を友人たちから離れて神を求めます。孤独地獄にさいなまれていたヨブは、神以外には求めるものはいなかったのです。
 16章:エリファズの神学
 16章からヨブと友人たちとの論争は第2ラウンドを迎えます。第2ラウンドに最初に現れたのはエリファズです。その言葉には、1回目の論争と較べて、何一つ新しいことはありません。ヨブを断罪するだけで、悔い改めの呼びかけすらもありません。ヨブはその言葉に絶望します。そして彼らを「煩わしい慰め手だ」と言い「慰める振りをして苦しめるだけだ」とその苦しい心情を吐露します。そして立場を変えて私が、あなたがたの立場に立つなら、「あなたがたと同じように語るであろう」と彼らに一定の理解を示します。「たとえ私が語っても、その痛みは抑えられない、たとえ私が忍んでもどれだけ私からそれ(痛み)が去るだろう」とエリファズの言葉を「むなしいだけの無駄口に過ぎない」と、あざけり、その災厄のもたらす絶望的状態からの解放を願って、友人から、その目を神に向けます。しかし神からの応答はありません。
ヨブは、友人たちとの不毛な論争と、神が与える終わりのない災厄に疲れ果て、その証拠に、やせ衰え、崩れ落ちた自分のからだを示します。ヨブは自分には理解不能な神の怒りは、自分を責めているものと感じています。それは、ヨブにとっては不条理な神の怒りなのです。ヨブは死を予感しています。その体験はキリストの体験に似ています。キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜあなたはわたしをお捨てになるのですか」と叫んでいます。「我は義なり」と確信するヨブの気持ちにも通じるものがあります。
 神の善なる意図を読めないヨブには神の行為は、自分の理解を超えた罪に怒りを燃やし「私を引き裂き、私を攻め立て、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる(16:9)」と述べ「私を小僧っ子(3人の友)に渡し、悪者どもの手に投げ込まれる(16:11)」と、神なさった、その行為の不当性を訴えます。
 そして、かつて、自分は安らかな身であったのに、神はその自分を貶め、災厄に合わせ、今、自分を死の淵に立たしている、とヨブはその境遇の激変を語り、嘆きます。しかし「私の手には暴虐はなく、私の祈りは清い」と神の前で義なる存在であることを訴えます。そして、「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます。そのかたが人のために神にとりなしてくださいますように、人の子がその友のために」人の子(仲介者、天使、キリスト)が、神と自分(ヨブ)との間を仲介してくれることを、ヨブは切に願っているのです。ヨブはその裁きを忌避し、神の本来の性格、愛に期待を寄せたのです。
 17章:ヨブの反論
 「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ(17:1)」と、すべてを奪われ、苦しむヨブは絶望して、自分に残されているものは墓場だけと、その死を予感しています。「しかも、あざける者らが、私と共におり、私の目は彼らの敵意の中で、夜を過ごす」と、3人の友はもはや友には価しない「煩わしい慰め手」に過ぎないのです。それは神が3人を悟ることのない。愚者に定めたからです。ヨブは四面楚歌の中で孤独です。それゆえ、神に救いを求めます。「どうか私を保証する者を、あなたの傍らにおいてください。ほかに誓ってくれるものがありましょうか(17:3)」と。神が応答しないので、ヨブは、その溝を埋めるための仲裁者を、求めたのです。
 「分け前を得るために、友の告げ口をする者、その子らの目は衰えはてる(17:5)」。告げ口をする者とは金貨30枚でキリストを売ったイスカリオテのユダです。その子らとは3人の友です。彼らの目は真実を見ることが出来ないほどに衰え果てています。キリストも同じです。キリストが磔刑にあったとき弟子たちはすべて連座を恐れて逃げ出しました。その信仰心は衰え果てていたのです。キリストが刑場にひかれていくとき、物笑いされ、唾を吐きかけられました。ヨブも同じです。膿と蛆に犯され、崩れ落ちようとする姿を見て人は、何の同情も示さず、物笑いにし、唾を吐きかけました。「私の目は悲しみのためにかすみ、私の体は影のようだ」。ここには、義なるものが災厄に会うこともあるのだということが語られています。
 「正しい者はこのことに驚き、罪のない者は神を敬わない者に向かって憤る」。ヨブは、自己の正当性を主張しています。そして「義人は、自分の道を保ち、手の清い人は、力を増し加える」。と述べます。このようにヨブは自分の正当性を主張したうえで、あなたがたも義人の道に戻ってきなさい、あざける道を捨てて正しい道に帰りなさい。と説得します。ヨブは彼ら3人の中に一人も知恵ある存在を見出すことが出来なかったからです。
 17章の後半から陰府の思想が展開されます。
 「私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心に抱いたことも敗れ去った。『夜は昼に変えられ、闇から光が近づく』というが、もし私が陰府を私の住みかとして臨み、闇に私の寝床をのべ、その穴に向かって『お前は私の父だ』と言い蛆に向かって『私の母、姉妹』というのなら、私の望みは一体どこにあるのか。誰が私の望みを見つけよう。陰府の深みに下っても、あるいはともに塵の上に下りて行っても(17:11~16)」と、自分の死を予知しています。
 陰府とは、罪びとが神の怒りからかくまわれ、神と断絶する場所です。そして2度と現実には戻れない場所と考えられています。そんな場所が自分の落ち着く場所であり、終着駅と考えるならば、どこに自分の人生に望みがあるのだろうか、とヨブは絶望します。しかしこの苦闘は決して無駄ではありません。やがて、ヨブは塵の中にも希望があることを見出すのです。大切なのは使徒信条に語られているように、イエス・キリストが私たちの身代わりに、陰府の国に下っておられるという事実を知ることです。たとえ、ヨブに罪があったとしても、その罪は、聖霊によって、あがなわれているのです。
 18章:ビルダデの神学
 第2ラウンドの2番手として登場したのは、シュアハ人のビルダデです。彼はヨブに対して激しく反論します。「あなたがたは慰めるふりをして、人を苦しめる(16:2)」という言葉に対してです。彼の論難が始まります。「私のことばを理解せよ」と、自分たちのことばを理解しようとせず私たちを獣と見做し、愚か者とする。その誤解を解いたうえで話し合おうと、ヨブに迫ります。そして言います「怒りによって自らを引き裂くものよ、あなたのために地が見捨てられ、岩がその場所から移されるであろうか」と。ヨブの言う「我は義なり」という主張に対し、その言葉を、神に逆らう言葉として攻め立てます。この議論も因果応報論です。ヨブは16章で新しい発見をしています。神との関係に希望を見出しています。神は怒りの神であるだけでなく、憐みの神でもあるのです。ヨブはそれを幻の中で体験しています。しかしビルダデはそれを知りません。ヨブの破滅と滅亡の道を示します。その結果として、悔い改めを求めます。 キリストはその贖いによって、罪びとをお許しになっているのです。勿論、この時代にキリストは存在していません。しかし、 神の中に聖霊としてキリストが隠されているのです。新約聖書の時代、そのキリストが人の姿をして神の中から、現れるのです。
 ビルダデのことばは、さらに激しくなります。ヨブに対することばは、もはや諫言を超えた呪いです。慰め手ではなく、迫害者です。しかしヨブは変えられています。「あなたがたを迫害するもののために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません(ロマ書12;14)」と。
19章:ビルダデに対するヨブの反論
 いつまでも同じ論法(因果応報論)で自分に対応する3人の友人に対して,ヨブは絶望して言います「自分の受けている災厄が自分の内なる罪ゆえであるなら、その罪は、聖霊によって、既に贖われており残ってはいない。それなのに神は、罪のない私に災厄を与えておられる(19:4~6)」、その不条理に対して「これは暴虐だと叫んでも正されず、助けを求めても応答はない」。そればかりでなく、私が正しい道を歩もうと欲しても行く手に闇を置いて阻んでおられる。神は私から栄光をはぎ取り、冠を取り去る。そして自分を敵と見做して、私の天幕の周りに陣を敷く」と、ヨブは、一方で神を信じながらも、信じきれない自分に、苦しみます。ヨブは心と体の二つの苦しみの中で悩み、葛藤しています。
 もはや、ヨブの周りには味方はいません。敵ばかりです。かつて、豊かで、健康であった時には、崇め奉り、愛を示していた人々は、その境遇が激変した今、その手の平を返し、あざけり、唾を吐きかけ敵意すら見せます。ヨブは、痩せ衰えています。友人たちに叫びます「私を哀れめ、私を哀れめ、神のみ手が私を打ったからだ。なぜ、あなたがたは、神のように私を追い詰め、私の肉で満足しないのか」と、ヨブは肉だけでなく、心も病んでいるのです。
 ヨブは神の前で「義なる存在」であることのあかしを残したいと思います。「私の真実のことばが、岩の上に書き留められれば良いのに」と。岩は永遠を意味します。永遠に残されることを祈ったのです。永遠なる神と共にありたいと祈ったのです。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日にちりの上に立たれることを(19:25)」と。主が再臨された時、その姿を見ることが出来るであろうと、高らかに宣言します。そして自分を卑しめ、攻撃するものに対して、再臨の主が「剣をもって裁かれるであろう」と、自分の正当性を主張します。そして、すべて(持ち物、体)を失っても、自分の苦しみが報われて、将来的に、神を見、神と共に生きる時がやってくる。その日を、希望をもって待ち望もう、それがヨブの信仰なのです。
 20章:ツオファルの2度目の登場
 「『私の悟りの霊』が私に対する侮辱に応える」と、ヨブの攻撃に対するツオファルの反論が行われます。そしてヨブの罪と罰が語られます。
 「悪者の繁栄は短く、神を敬わない者の楽しみは、つかの間だ」とこのままだと永遠の滅びがあなた(ヨブ)を待ち構えていると、脅します。あなたは陰府の国に堕とされ、その子は貧乏人対しても憐みを請うようになろう。奪われた財産、損なわれた健康を、取り戻そうと望んでも、その実現は空しい」。「飲み込んだものは毒となり、富を飲み込んでも、神はこれを吐かす」。「蜜と凝乳の流れる川を見ることが出来ず、財産を取り戻しても、それを享受できず、商いによって得た富も、楽しめない」。
 さばきは罪ゆえにあるのです。1、寄るべなきものを見捨てた罪、2,他人の建てた家をかすめ取った罪、3、むさぼりの罪。だから満ち足りたと思っていても、その心は貧しい。と、ツオファルは、ヨブを厳しく責めます。
 次にヨブの行った罪に対する神のさばきをツオファルは語ります。勿論それは彼の独断です。のです
1, 空腹を満たそうとしても神はこれを赦さず
2, 鉄の武器を免れても、青銅の弓が彼を射とおす。きらめく矢じりが腹から出て、恐れが彼を襲う。
3, 全ての闇が彼の宝として隠される。それゆえ、怒りの火が天から下って彼を焼き尽くし、生き残っていた家族をも失う。
 このように、「天は彼の罪をあらわし、地は彼に逆らって立つ。彼の家の作物はさらわれ、御怒りの日に消え失せる(20:27~28)」。
 「これが、悪者の神からの分け前、神によって定められた相続財産である(20:29)」。分け前とは、その罰をあらわし、相続財産とは、その裁きを現すのです。
 このように、ツオファルは、ヨブが犯したと思われる罪を暴き出し、その神による裁きを述べるのです。それは、相も変らぬ「因果応報論」であって、ヨブには、到底受け入れることのできない神学なのです。 
>楽庵会        

ヨブ記4 12~15章

2022年05月25日 | Weblog
 ヨブ記4 12章~15章
 はじめに
 苦難には内から来る苦難と、外から与えられる苦難との2つがあります。ヨブの3人の友人は内からくる苦難を問題にします。しかし、「我は義なり」と確信しながらもヨブは、自分の内に隠された罪があるのではないかと疑い「我に罪があるならそれを悟らせよ」とそのあかしを神に求めます。しかし神からの応答はありません。人は神に応答を強要してはならないのです。それは、神に対する高ぶりだからです。神は応答すべき時には、自発的に応答してくださる方です。ただ、今はその時にあらずと思っておられるのです。ヨブは、自分と神との間に深い溝を感じています。しかし、天上では神はあなた(ヨブ)を信頼しておられるのです。その信仰が試されているのです。ヨブにはそれがわかっていません。
 ヨブの考えは、基本的には因果応報原理に拘束されています。神と人間との間に因果応報原理を超える自発性と自由がなければ、因果応報原理は、必然の法則に化してしまいます。そこでは決定論が支配し、自由な応答関係が神と人間との間に成立することは出来ないのです。ヨブは、その考えを180度転嫁せねばならないのです。我々が神に期待するのではなく、神が我々に期待するものは何かを知らなければならないのです。その結果、ヨブは不条理の苦難の解決は神の側からなされるべきと考え、人間の側からの合理的な解決を拒否します。ヨブは、神と人間の間の溝を埋める仲裁者の存在を待望しますが、その存在の欠如を嘆いています。
 神から切断された人間の魂の、深い苦しみを描いた書が、この「ヨブ記」なのです。
 12章:ヨブは、ツオファルに応えて言った「確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。私にもあなたがた同様に悟りがある。私はあなたがたに劣らない。たれか、このくらいのことを知らないものがあろうか(12:1-3)」。ヨブは神の智慧の永遠性と、人の知恵の限定性を比べています。「おまえの淺知恵など永遠無限の神の智慧に較べれば、儚いものだ」「その知恵は人の死と共に消え去ってしまう」とあざけるのです。そして「お前の悟りなんか、常識のうちだ」と叫びます。
 そして今の苦しい境遇を呪います。「私は、神を呼び、神が答えてくださったものであるのに、私は自分の友だちの笑いものになっている。潔白で正しいものが物笑いになっている(Ⅰ2:4)」と、かつての強者が、弱者に変わった途端に、その態度を一変させ、物笑いにする、と彼らを呪います。友人たちは、ヨブの受けた災厄を、その罪ゆえであると考えています。彼らは自分たちこそ義なるものなのです。ヨブは罪びとです。彼らはヨブにその罪を認めて神に帰れと要求します。「安らかだと思っているものは、衰えているものをさげすみ、足のよろめくものを、押し倒すⅠ2:5)」と、溺れるものを、杖で叩くような言葉を発する彼らをヨブは呪います。ヨブは自分の苦しい境遇に何一つ同情を寄せることなく、罪びととして厳しく処遇する友人たちに怒りを発しています。「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。神がご自身でそうするものは(Ⅰ2:6)」。すべてのことは善も悪も神の主権の範囲内で起こっているのです。「力と、優れた智性とは神と共にあり、誤って罪を犯す者も、迷わす者も神のものだ(Ⅰ2:16)」と、その万能性を示します。「荒らすもの」「神を怒らすもの」を3人の友人と考えることもできますが、世の中の常識と考える方が良いように思います。世の中では罪を犯すものが栄え、神を怒らせるものが安らかに過ごしています。強者は栄え、弱者は滅ぶのです。友人たちの言う「不義なるものは罰せられ、義なるものは恵まれる」という紋切り型の因果応報論は、ここでは、通用しません。そこには因果応報説を超える何かが存在しているのです。
 「獣に、そして空の鳥に尋ねてみよ。そうすれば、彼らが教え、かつ告げるであろう。地に話しかけよ。それがあなたに教えるであろう。海の魚もあなたに語るであろう(Ⅰ2:7~8参照)」。「これらすべてのうち、主のみ手がこれをなさったことを知らないものがあろうか。すべての生き物の命と、すべての人間の息とは、その御手の内にある(12:9~10)」。ヨブはツオファルに自然界を見なさいと問い質しています。そこには自然界を貫く法則があります。それは弱肉強食の世界です。そこは強者が栄え、弱者が滅びる世界です。これは、人の世界でも同じです。因果応報論は通用しません。これが、神がお造りになった世界の現実です。外から与えられる神の世界です。神の主権の中で起こっていることです。このように、動物と人間の命と息は、その御手の中にあるのです。
「口が食べ物の味を知るように、耳は言葉を聞き分けなないだろうか(Ⅰ2:11)、ヨブは友人たちの信仰を問います。そして「老いた者に知恵があり、年のたけたものに英知があるのか(Ⅰ2:12)」と、経験からくる知恵の有効性に疑問を提示します。そしてさらに言います「知恵と力とは神と共にあり、思慮と英知も神のものだ(Ⅰ2:13)」と。全ては神の主権の範囲内で起こっていることであって人の力ではない、と言います。
 そして言います。人の世を覆う弱肉強食の世界も、取り去らねばならないと。世の中において、勢力を持つ人々、すなわち、議官、裁判官、王や祭司たちを滅ぼし、神を敬ない長老や君子たちの闇(秘密)を明かし、光の中に引き出し、これを糺さねばならない、とヨブは言います。かくしてこの国のかしらたちの悟り(力)は、取り除かれ、平等の世界が現れるのです。そして罪びとたちは道の無い荒れ野をさ迷い歩くのです。それは自然界でも同じです。狼が小山羊とともに住み、獅子は草を食む。それはいつ来るのか。ヨブは応えません。それは神のみ心だからです。
13章:13章は2つの部分に分けることが出来ます。
 1,友人たち(あなたがた)に対する部分(13;1~19)
 2,神(あなた)に対する部分(13:20~28)
 ヨブは言います。「あなたがたが述べることは私の知っていることばかりで何の助けにもならない。あなたたちは能無しの藪医者だ」、と突き放し、その目を神に向けます。
 解決不能な問題に出会ったとき、私たちは人に助言を求めるのではなく、その問題を神への祈りに変えて現す必要があります。
 ヨブは、友人たちとの論争を、今自分の抱えている問題には、無益なものと判断して、その目を神に向けます。その神を、彼らはないがしろにしているのです。「あなたがたは、人が人を欺くように、神をも欺こうとするのか(13:7B)」と、ヨブは怒ります。彼らは自分たちを、神のごとくにみなしヨブに接していたのです。それは、神に対する高ぶりです。人は神の代わりは出来ないのです。謙虚でなければならないのです。ヨブは言います「神は威厳をもってあなたたちを罰するであろう(13:11~12参照)」と。
 ヨブは言います「黙れ。私にかかわりあうな。この私が話そう。何が私に降りかかっても構わない(3:13)」と。ヨブは神の怒りが自らに及ぶことを予測しています。「それゆえ、私は自分の肉を自分の歯に乗せ、私の命を私の手に置こう(13:14)」自分の語ることは命がけであることを示します。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう(13:15)」と神への信仰は確固たるものゆえ、「我は義なり」という主張を認めよと神に訴えます。「神も私の救いとなってくださる。神を敬わない者は神の前に出ることは出来ないから(13:16)」と。この一連のことばは、「主の御名は褒むべきかな」、神の主権に対するヨブの確固たる信仰があらわされています。
 「あなたがたは、私の言い分をよく聞け、私の述べることをあなたがたの耳に入れよ。今、私は訴えを並び立てる。私が義とされることを私は知っている(13:17~18)」と、ヨブは、自分が潔白で、正しいものだと、確信しています。そして「わたしと論争するものは一体だれか、もしあれば、私は黙って息絶えよう(13:19)」と言います。論争するものは友人たちではありません。神です。今まで見えない存在であった神に出会えるだけで、ヨブは満足して、安んじて死ぬことが出来るのです。
 ヨブは友人から神に目を向けます。しかし、あくまでも謙虚です。
 ただ2つのことをしないで下さいと頼みます。2つのこととは
 あなたの手を私の上から遠ざけてください(肉体)。
 あなたの恐ろしさで私を怯えさせないでください(霊)。
と肉体と心の痛みからの解放を願いつつ(13;21)、神へ問いかけます。
「私の罪と不義とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせて下さい」「私は十分に罰せられています、さらに追い詰めるのですか」と。しかし、応答はありません。「なぜあなたは御顔を隠し私をあなたの敵とみなされるのでしょうか(13:23)」。神は、人に何をしようと、良いお方です」なぜ、なぜと問うてはならないのです。ヨブは肉体的にも精神的にも、腐った着物のようになっています。膿と蛆によって汚されています。
14章:ヨブは膿と蛆によって崩れかけた体に耐えながら、人の命について神に問います。それは人の命の儚さです。美しい花として咲き乱れていても、それはあくまでも一時的で、いつか消え去り、やがて死を迎えます。その儚い命に災厄を加えることによってさらに短くするのですかと、とヨブは神に恨み言を云います。「我は義なり」と確信するヨブは「誰が、清い者を、汚れたものから出せましょう。だれも出せません」と、自分の清さを強調します。人の命は神のみ手にあります。「それなら私から目をそらし。かまわないでください。そうすれば、その一時を日雇い人のように楽しむことが出来るのに」肉体と心の痛みからの解放を求めてヨブは神に訴えます。
 そしてヨブは話を自然界に移します。人間界と比較します。木はたとえ枯れても、環境が整えば再生します(14:7~4参照)。しかし、人は再生しません。それでおしまいです。しかし再生への希望を語ります。「人は死ねば生き返るでしょうか、私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう(14:14)」と。「私の代わりの者」とは再生したヨブのことです。ヨブは、自分の復活を神に求めます。キリストが復活したように。キリストは復活の初穂です。ヨブはそれに続くことを希望します。「あなたが呼んで下されば、私は答えます。あなたはご自身の手で造られたものを慕っておられるでしょう。今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎を覆ってください(14:15~17)」と、ヨブは自分の咎を覆い隠せと神に願います。
 しかし、一転してヨブは神の厳しさを語ります。「しかし、山は倒れて崩れ去り、岩もその所から移される。水は石を穿ち、大水は地の泥を押し流す。そのようにあなたは人の望みを絶ち滅ぼされます。あなたはいつまでも人を打ち負かすので、人は過ぎ去っていきます。あなたは彼(ヨブ)の顔を変えて、彼を追いやられます(14:18~20)」と。このように、復活への希望は、消え失せます。
残っているのは、激しい肉体の痛みと、激しい魂の嘆きだけです。
15章: 14章をもって第1ラウンドは終わります。この章から第2ラウンドが始まります。再び、エリファズが登場します。彼の口調は厳しく、悔い改めを要求するというより、ヨブの滅びを宣言します。
 エリファズは、ヨブのことばを中東に吹く激しい東風に例えます。この風は穀物や植物を枯らすだけで何の益ももたらしません。ヨブのことばはそれと同じで激しいだけの暴論(東風)ときめつけます(15:2~3参照)。ヨブの誠実な神への祈りは、彼にとっては、神に対する捨て台詞に過ぎないのです。「あなたは最初に生まれたのか、あなたは丘より先に生み出されたのか、あなたは神の会議にあずかり、神の奥義を独り占めにするのか」と暗にそんなことはあるまいと揶揄し、お前の知っていることなどで我々が知らないことがあると思うか、我々の中には白髪のものも、老いた者もおり、あなたの父よりはるかに年上だ。とその知識の豊富さを誇ります。しかし、霊的な知識の豊富さは経験の多少で決まるものではないのです。
「なぜあなたは理性を失ったのか、なぜあなたの目はぎらつくのか。あなたが神に向かって苛立ち、口からあのような言葉を吐くとは(15:12~15)」と、厳しく責めます。これは身と心に傷を受け、苦しむヨブには厳しすぎる言葉です。同時に、高みから見下ろす態度であり、そこには同情も憐憫の情もありません。友人には、あるまじき言葉です。さらに言います「人がどうして清くあろうか、女から生まれたものが、どうして正しくあり得ようか。見よ。神はご自身の聖なるものたちをも信頼しない。天も神の目には清くない。まして、忌み嫌う汚れた者、不正を水のように飲むもの(ヨブ)は、なおさらだ(Ⅰ5:14~16)」。サタンは堕天使です。天にもサタンはいます。ヨブはこのサタンから災厄を受けたのです。  この限りではこの言葉は正しい。しかし、ヨブは聖なる者です。神は良いお方です。神によって守られています。
 エリファズは言います「私を聞け」と相変わらず高いところからヨブに語り掛けます「私の見たことを告げよう」と「それは知恵あるものが昔から語ったことで神の奥義だ」と。そしてこの知恵あるものにだけこの地は与えられ他国人には与えられない、と言います。他国人とは罪びとを指しヨブのことです。罪びとは一生もだえ苦しむというのです。それは神に逆らったものの当然の報いなのです。そして最後に言います「実に神を敬わない者の仲間には実りがない。わいろを使うものの天幕は火で焼き尽くされる。彼らは害毒をはらみ、悪意を生みその腹は欺きの備えをしている」と。この限りにおいてはヨブには救いはないのです。16章はヨブの反論です。  楽庵会