ヨブ記6 21章~24章
はじめに
神の支配は、人の世界を含め、自然界と宇宙の秩序の維持にまで及んでいます。その中で人は。創世記に見られるように生物界の支配を神によって許されました(創世記:1:26)。しかし、その統治において失敗しています。その統治は神の支配のもと、限定的に行われているにすぎません。
人の世界の周りには外部世界(天体、気象、野生動物等々)と、内部世界とがあります。外部世界は神の領域であり、内部世界のみが人の領域です。
外部世界の一つに野生動物の世界があります。本来なら人の支配すべき領域ですが、その支配に失敗しています。神の支配領域に移されたのです。
野生動物の生態、種の保存の仕組みを見る時、生物界の生の秩序維持とはいかなるものかを知ることが出来ます。そこには道徳はありません。弱肉強食の世界です。それが彼らの秩序なのです。しかし、バランスは保たれています。循環型の世界を形作っています。獅子も狼もその最低必要限度以上のものを食することはありません。その食欲は限定的です。彼らはこのバランスを崩すことは自然の秩序の崩壊につながると本能的に理解しているのです。人も弱肉強食の世界に生きています。犠牲動物(牛、豚、鳥、魚等々)の存在なしには、生きていけません。神がこの道徳の無い弱肉強食の世界を支配しておられるのです。これが神の摂理です。
しかし、人の欲望は野生動物とは異なって、その欲望には限度がありません。神の統治に反逆しています。この反逆は人の内部世界にも及んでいます。悪者(強者)は安らかにその生を享受しています。何の苦しみもなく黄泉に下るのです。これが人の現実生活なのです。善は栄、悪は滅ぶという応報論に対して、ヨブは反論するのです。神に対して潔癖であり、義なる自分が、なぜ滅びの際に立たなければならないのか。神に問うているのです。
21章、 3人の友の神学は、ヨブにとっては彼の疑問に対する無益なあざけりにすぎません。それゆえ、彼の目は神に向きます。「なぜ」と問います。しかし、神からの応答はありません。ヨブはいらだちます(21:4参照)。神のヨブの肉体に対する攻撃はやみません。ヨブは恐れ、悲しみ、おののきます。
ヨブ記の記す「悪者」とは、現実社会の「犯罪者」ではありません。神を敬わない者たちです。その神を敬わない者たちが、この世を謳歌し、支配し、幸せのうちにその生を全うしているのです。この姿は数千年の昔から続き、さらにこれからも続くと思われます。友人たちが言うように「悪者」の繁栄は、決して「束の間」ではないのです。このことは、逆に言えば、正しい信仰者が虐げられているということを意味します。これがヨブの生きた時代だけでなくすべての時代に当てはまる弱肉強食の現実です。彼らは、神に対して言います「私たちから離れよ。私たちはあなたの道を知りたくない。全能者が何者なので私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが祈って、どんな利益があるのか(21:14~15)」と。これは神に対する高ぶりです。神の最も嫌われることです。悪人の神に対する自信です。人は神を必要としていません。神から離れて自立しています。これは「応報論」に対する反論です。ここには正しいものが受ける災厄が語られています。しかし正しいものが受ける災厄は神の御業なのです。「神の杖は彼らの上には下されないのです(21:9)」。このように、正しいものが受ける災厄は救済のために通らねばならない道なのです。迫害のあるところ聖霊ありです。
次に「聖霊」の働きが語られます。聖霊は、悪人を無罪放免にはしません。「見よ。彼らの繁栄はその手にはない。幾たび、悪者の火が消え、災いが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを与えることか(21:16~17)」。このように神は最終的には悪者を滅ぼし、正しい者に恵みを与えるのです。正しい者は元気盛りの時に平穏のうちに死に、悪しきものは、苦悩のもとに死に、何の幸いも味あうことはありません。彼らは「ともに塵に伏し、蛆が彼らを覆うのです(21:26)」。悪人も善人も人は、共に生まれた場所:塵に帰るのです。
ヨブは言います「ああ、私はあなたがたの計画を知っている。私を損なおうとするたくらみを(21:27)」。ヨブは3人の友人を全く信用していません。彼らは、ヨブを神の前に出してその罪を認めさせようとする告訴人です。
彼らは「権門の家、悪人の住んだ天幕はどこにあるのか」とヨブに問います。この両者はともに悪者の家を象徴しています。そしてこれらの存在はありえないと、いうのです。応報論によれば「悪者の繁栄は束の間に過ぎない」からです。ヨブは反論します。「彼らは厳然として存在しており、そこの住民は、その罪を逃れている」と。彼らは力のある権力者であり、面と向ってその罪に報いる者がいるだろうか」と。それがヨブの生きた時代の現実なのです。いや、現代までも続いています。悪者の繁栄は、決して束の間ではないのです。その墓は壮麗であり、高価な埋葬品にあふれています。死者にとって住みやすく、盗掘を恐れて見張り人がたつほどです。彼らの後を継ぐ者の数は後を絶たない、と悪者の繁栄を語っています。悪者が栄え、正しいものが滅びる現実を示し、友人たちの応報論の甘さを指摘し、自分に対する警告を見当違いと拒否するのです。ここにはヨブの生きた時代の、神と友人とヨブの相関関係が示されています。
22章:今回はエリファズが登場します。
ヨブはこれまで一貫として自分の潔白を主張し続けてきました。この章はそれに対するエリファズの応答です。その趣旨は、次のようなものです。神は人と較べたとき、とてつもなく大きな存在です。だからその神と比較して極めて小さな存在であるヨブがどんなに自分の正しさを主張したところで、神にとって何一つ益にならない、というのです。小さすぎて気づかれることもないというのです。神と人との断絶を語っています。ヨブを含めて3人の友人は、天上における神とサタンとの会話を知りません。ヨブは神も認める義人なのです。ヨブが自分の潔白を主張したのは、「なぜ、義なる自分が苦しまねばならないのか」と神に問うことにあったのです。悪人は、その罪ゆえに苦しみます(エリファズの主張)。しかし善人もまた苦しむことがあるのです。試練とは喜びであり信仰が試されているのです。これがヨブ記の主張です。神はヨブに試練として苦しみを与えたのです。神は、ヨブが「いかなることが、あろうとも、耐え抜く、義人であり続けて欲しい」と、心から願っていたのです。そこにはヨブに対する愛がありました。エリファズの考えとは全く逆です。神の真意を知らないまま、ヨブは、神に疑いを持ちつつも、その信念を貫きます。しかし、エリファズは、「あなたが裁かれるのはあなたの犯した罪ゆえではないか」と、ヨブを責め、悔い改めを要求します。相も変らぬ応報論です。
そのうえでヨブの罪状を列挙します(22:6~9)。その結果、あなたは罰せられているのだ、とヨブを謗ります。
友人たちの考え方は「因果応報論」という一つの「型」に凝り固まっており、その枠から抜け出ることはなかったのです。その考えの基本は「苦難は、悪しき行いに対する神罰である」という信念でした。それは必ずしも過ちではありません。ある種の人には当てはまっても、普遍性は持ちません。勿論ヨブにも当てはまりません。しかし、彼らが必要としたことは、どうしたらヨブを罪に定め、悔い改めに導くか、ということだけでした。ヨブの言う「我は義なり」という主張に寄り添い、共に立ち、語り合うという柔軟性に欠けていました。また、ヨブも彼らとの論争をあきらめ、直ちに神に目を向けるのではなく、彼らに気づきを与え、共通の価値観を探し出し、友人たちの心の向きを正しい方向へと変えていく努力が必要だったのです。しかし両者は、その知恵に欠けていました。お互いがお互いの主張を繰り返すだけでした。これではいつまでたっても平行線です。神はヨブの呼びかけには沈黙をもって応えます。
エリファズはヨブの言葉として次のように述べます。「天(神)と地(人)の境には濃い雲が覆っているので神は地上を見ることが出来ず(2:13)、地上では人は神を見ることが出来ない(22:14)」と。ヨブは神と人との間には断絶があると言い、それゆえ神は私(ヨブ)の苦しみを理解できず、私(ヨブ)は神の意図を理解できない、と。しかしエリファズはそれをヨブの神に対する高ぶりと判断し、昔からの悪人が行った神を侮辱する道を踏襲しているのではないか(2:15)と、主張します。そのような悪人は、束の間の繁栄を享受しても、結局は滅びるのだとヨブの栄枯盛衰を語ります(22:16)。
悪人たちは言う「私たちから離れよ、全能者が私たちに何ができようか(22:17)」と。このような神に対する高ぶり、侮辱に対して、神は、彼らの家を良いもので満たされた。だが悪者の図り事は私と何の関係もない(2:18)」。神に逆らうものの家が富で満たされている事実を示して、あなたは応報論に反論する。しかし、あなたは自らを省みよ。「彼らの財産は、確かに無に帰し、残ったものは火でなめ尽くされ(22:19~20)」たではないか。と、応報論の正しさを強調します。
このような神学を前提としてエリファズは強調します。「神と和解せよ」と「そうすれば平和が訪れ、幸いが来よう」と。
ヨブは、人は、結局は罪びとであると強調します。21章では悪人の繁栄が語られて、善人の苦しむ姿が示されます。応報論の基礎には、律法があります。律法を犯す者は悪人であり、守るものは善人です。その境にあるものが悔い改めです。律法は、罪を犯したものは神に裁かれる、という罪と死の法則を語ります。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活の事実により、罪あるものがそのまま救われるという罪と死の法則を超えた新しい法則、命をもたらす霊の法則が出現しました。その生ける神に向かい「アバ、父よ(お父ちゃん)」と親しみを込めて呼ぶ。ここに真の信仰があります。
23章:23章はエリファズに対するヨブの3度目の応答ですが、この時のヨブは頼りにならないエリファズではなく神に目を向けています。神は、これまでヨブの呼びかけには無視を貫き続けてきました。それで直接に出会い、その真意を悟りたいと思います。
「今日もまた私は背く心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い(23:2)」。神を思い巡らしつつも、ヨブの感じる不条理な災厄は、神に反逆する思いを生みます。それが、今のヨブのアンビバレント(相反する)な精神状況なのです。精神的、肉体的苦しみは、ヨブの気持ちをなえさせ、ヨブの信仰心を曇らせるのです。
しかし、彼は神を求めます。神のみ前で自分の訴えを並び立て、言葉の限り討論したい。そして自分の正しさを証明し、さばきを免れたいと願うのです。そして神を求めて前後左右に動きます。しかし、神の姿は見ることは出来ません。相も変わらず神はヨブを無視続けます。「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように出てくる(23:10)」。私は金のように純真無垢だとヨブは言いたいのです。そして、私は自分よりも常に神を優先してきたと、その信仰を誇ります。それにもかかわらず、神は私に不条理な災厄を与えた。「しかし、御心は一つである。誰がそれを翻すことが出来ようか。神は心の欲することを行われる。神は私について定めたことを、成し遂げられるからだ。このような多くの定めが神のうちにある(23:13~14)」。こうして神の主権性(超越性)と、不可侵性(神秘性)が示されます。「だから私は神の前でおびえ、これをもって神を畏れているのだ(23:15)」とヨブは述べます。しかし、ヨブは神の真意を知ることは出来ません。神はヨブを無視しているからです。「神を知らずして、神を知る」これこそ真の信仰です。
この信仰によって、「私は闇によって消されず、彼(神)が暗黒を私の前から消されたからだ(23:17)」と、ヨブは言います。ヨブは自分の罪を否定して、悔い改めを拒否します。
24章:ヨブはこの章において、この世に起きている不条理について語ります。神がおり神の日があるのになぜ罪びとは罰せられないのか。「なぜ全能者によって時は隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか(24:1)」と、。その矛盾を指摘します。悪人が滅ぼされず、それどころか、その豊かさを享受し、弱者を虐げてはばからない。この例をヨブは多く示します。この現実を神はどう見るかと問うているのです。「人の住む町からは、うめき声が起こり、傷ついた者の魂は助けを求めて叫ぶ、しかし神はそのうめき声に心を留められない(24:12)」。「しかし、神は力をもって、暴虐の者たちを生き延びるようにされる。彼はいのちがあるとは信じられないときにも立ち上がる(24:22)」、「神が彼に安全を与える。それで彼は休むことが出来る。神の目は彼の道の上に注がれる(24:23)。この現実を示すことによって、ヨブは「善は栄、悪は滅ぶ」という応報論に対峙します。神ですら悪に加担し、放置しているのです。神の意図を理解できないヨブは嘆き、怒ります。深い悲しみがあります。応報論を否定するものの、ヨブが神を否定しているわけではありません。悪は否定されねばならないのです(24:24参照)。しかし否定の仕方が違います。応報論の基本は、律法です。律法を超えるものは、キリストへの信仰であり愛です。人間は神の前に罪を犯し、義を損なってきたのです。人は義に飢え渇く存在です。神との関係を深く結ぶことによって、神との正しい関係を結ぶことが出来ます。それは、神自信が私たち人間と正しい関係を回復したいと考えておられるからです。そのために一人子イエス・キリストお遣わしになりました。キリストはご自分の命をもって、私たちを贖い、あらゆる罪を赦して神の子として永遠の命をお与えくださったのです。しかし、それは、まだヨブの目には隠されてぃます(24:1)。だからヨブは悩むのです。だから「なぜ」と神に問い続けるのです。
はじめに
神の支配は、人の世界を含め、自然界と宇宙の秩序の維持にまで及んでいます。その中で人は。創世記に見られるように生物界の支配を神によって許されました(創世記:1:26)。しかし、その統治において失敗しています。その統治は神の支配のもと、限定的に行われているにすぎません。
人の世界の周りには外部世界(天体、気象、野生動物等々)と、内部世界とがあります。外部世界は神の領域であり、内部世界のみが人の領域です。
外部世界の一つに野生動物の世界があります。本来なら人の支配すべき領域ですが、その支配に失敗しています。神の支配領域に移されたのです。
野生動物の生態、種の保存の仕組みを見る時、生物界の生の秩序維持とはいかなるものかを知ることが出来ます。そこには道徳はありません。弱肉強食の世界です。それが彼らの秩序なのです。しかし、バランスは保たれています。循環型の世界を形作っています。獅子も狼もその最低必要限度以上のものを食することはありません。その食欲は限定的です。彼らはこのバランスを崩すことは自然の秩序の崩壊につながると本能的に理解しているのです。人も弱肉強食の世界に生きています。犠牲動物(牛、豚、鳥、魚等々)の存在なしには、生きていけません。神がこの道徳の無い弱肉強食の世界を支配しておられるのです。これが神の摂理です。
しかし、人の欲望は野生動物とは異なって、その欲望には限度がありません。神の統治に反逆しています。この反逆は人の内部世界にも及んでいます。悪者(強者)は安らかにその生を享受しています。何の苦しみもなく黄泉に下るのです。これが人の現実生活なのです。善は栄、悪は滅ぶという応報論に対して、ヨブは反論するのです。神に対して潔癖であり、義なる自分が、なぜ滅びの際に立たなければならないのか。神に問うているのです。
21章、 3人の友の神学は、ヨブにとっては彼の疑問に対する無益なあざけりにすぎません。それゆえ、彼の目は神に向きます。「なぜ」と問います。しかし、神からの応答はありません。ヨブはいらだちます(21:4参照)。神のヨブの肉体に対する攻撃はやみません。ヨブは恐れ、悲しみ、おののきます。
ヨブ記の記す「悪者」とは、現実社会の「犯罪者」ではありません。神を敬わない者たちです。その神を敬わない者たちが、この世を謳歌し、支配し、幸せのうちにその生を全うしているのです。この姿は数千年の昔から続き、さらにこれからも続くと思われます。友人たちが言うように「悪者」の繁栄は、決して「束の間」ではないのです。このことは、逆に言えば、正しい信仰者が虐げられているということを意味します。これがヨブの生きた時代だけでなくすべての時代に当てはまる弱肉強食の現実です。彼らは、神に対して言います「私たちから離れよ。私たちはあなたの道を知りたくない。全能者が何者なので私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが祈って、どんな利益があるのか(21:14~15)」と。これは神に対する高ぶりです。神の最も嫌われることです。悪人の神に対する自信です。人は神を必要としていません。神から離れて自立しています。これは「応報論」に対する反論です。ここには正しいものが受ける災厄が語られています。しかし正しいものが受ける災厄は神の御業なのです。「神の杖は彼らの上には下されないのです(21:9)」。このように、正しいものが受ける災厄は救済のために通らねばならない道なのです。迫害のあるところ聖霊ありです。
次に「聖霊」の働きが語られます。聖霊は、悪人を無罪放免にはしません。「見よ。彼らの繁栄はその手にはない。幾たび、悪者の火が消え、災いが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを与えることか(21:16~17)」。このように神は最終的には悪者を滅ぼし、正しい者に恵みを与えるのです。正しい者は元気盛りの時に平穏のうちに死に、悪しきものは、苦悩のもとに死に、何の幸いも味あうことはありません。彼らは「ともに塵に伏し、蛆が彼らを覆うのです(21:26)」。悪人も善人も人は、共に生まれた場所:塵に帰るのです。
ヨブは言います「ああ、私はあなたがたの計画を知っている。私を損なおうとするたくらみを(21:27)」。ヨブは3人の友人を全く信用していません。彼らは、ヨブを神の前に出してその罪を認めさせようとする告訴人です。
彼らは「権門の家、悪人の住んだ天幕はどこにあるのか」とヨブに問います。この両者はともに悪者の家を象徴しています。そしてこれらの存在はありえないと、いうのです。応報論によれば「悪者の繁栄は束の間に過ぎない」からです。ヨブは反論します。「彼らは厳然として存在しており、そこの住民は、その罪を逃れている」と。彼らは力のある権力者であり、面と向ってその罪に報いる者がいるだろうか」と。それがヨブの生きた時代の現実なのです。いや、現代までも続いています。悪者の繁栄は、決して束の間ではないのです。その墓は壮麗であり、高価な埋葬品にあふれています。死者にとって住みやすく、盗掘を恐れて見張り人がたつほどです。彼らの後を継ぐ者の数は後を絶たない、と悪者の繁栄を語っています。悪者が栄え、正しいものが滅びる現実を示し、友人たちの応報論の甘さを指摘し、自分に対する警告を見当違いと拒否するのです。ここにはヨブの生きた時代の、神と友人とヨブの相関関係が示されています。
22章:今回はエリファズが登場します。
ヨブはこれまで一貫として自分の潔白を主張し続けてきました。この章はそれに対するエリファズの応答です。その趣旨は、次のようなものです。神は人と較べたとき、とてつもなく大きな存在です。だからその神と比較して極めて小さな存在であるヨブがどんなに自分の正しさを主張したところで、神にとって何一つ益にならない、というのです。小さすぎて気づかれることもないというのです。神と人との断絶を語っています。ヨブを含めて3人の友人は、天上における神とサタンとの会話を知りません。ヨブは神も認める義人なのです。ヨブが自分の潔白を主張したのは、「なぜ、義なる自分が苦しまねばならないのか」と神に問うことにあったのです。悪人は、その罪ゆえに苦しみます(エリファズの主張)。しかし善人もまた苦しむことがあるのです。試練とは喜びであり信仰が試されているのです。これがヨブ記の主張です。神はヨブに試練として苦しみを与えたのです。神は、ヨブが「いかなることが、あろうとも、耐え抜く、義人であり続けて欲しい」と、心から願っていたのです。そこにはヨブに対する愛がありました。エリファズの考えとは全く逆です。神の真意を知らないまま、ヨブは、神に疑いを持ちつつも、その信念を貫きます。しかし、エリファズは、「あなたが裁かれるのはあなたの犯した罪ゆえではないか」と、ヨブを責め、悔い改めを要求します。相も変らぬ応報論です。
そのうえでヨブの罪状を列挙します(22:6~9)。その結果、あなたは罰せられているのだ、とヨブを謗ります。
友人たちの考え方は「因果応報論」という一つの「型」に凝り固まっており、その枠から抜け出ることはなかったのです。その考えの基本は「苦難は、悪しき行いに対する神罰である」という信念でした。それは必ずしも過ちではありません。ある種の人には当てはまっても、普遍性は持ちません。勿論ヨブにも当てはまりません。しかし、彼らが必要としたことは、どうしたらヨブを罪に定め、悔い改めに導くか、ということだけでした。ヨブの言う「我は義なり」という主張に寄り添い、共に立ち、語り合うという柔軟性に欠けていました。また、ヨブも彼らとの論争をあきらめ、直ちに神に目を向けるのではなく、彼らに気づきを与え、共通の価値観を探し出し、友人たちの心の向きを正しい方向へと変えていく努力が必要だったのです。しかし両者は、その知恵に欠けていました。お互いがお互いの主張を繰り返すだけでした。これではいつまでたっても平行線です。神はヨブの呼びかけには沈黙をもって応えます。
エリファズはヨブの言葉として次のように述べます。「天(神)と地(人)の境には濃い雲が覆っているので神は地上を見ることが出来ず(2:13)、地上では人は神を見ることが出来ない(22:14)」と。ヨブは神と人との間には断絶があると言い、それゆえ神は私(ヨブ)の苦しみを理解できず、私(ヨブ)は神の意図を理解できない、と。しかしエリファズはそれをヨブの神に対する高ぶりと判断し、昔からの悪人が行った神を侮辱する道を踏襲しているのではないか(2:15)と、主張します。そのような悪人は、束の間の繁栄を享受しても、結局は滅びるのだとヨブの栄枯盛衰を語ります(22:16)。
悪人たちは言う「私たちから離れよ、全能者が私たちに何ができようか(22:17)」と。このような神に対する高ぶり、侮辱に対して、神は、彼らの家を良いもので満たされた。だが悪者の図り事は私と何の関係もない(2:18)」。神に逆らうものの家が富で満たされている事実を示して、あなたは応報論に反論する。しかし、あなたは自らを省みよ。「彼らの財産は、確かに無に帰し、残ったものは火でなめ尽くされ(22:19~20)」たではないか。と、応報論の正しさを強調します。
このような神学を前提としてエリファズは強調します。「神と和解せよ」と「そうすれば平和が訪れ、幸いが来よう」と。
ヨブは、人は、結局は罪びとであると強調します。21章では悪人の繁栄が語られて、善人の苦しむ姿が示されます。応報論の基礎には、律法があります。律法を犯す者は悪人であり、守るものは善人です。その境にあるものが悔い改めです。律法は、罪を犯したものは神に裁かれる、という罪と死の法則を語ります。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活の事実により、罪あるものがそのまま救われるという罪と死の法則を超えた新しい法則、命をもたらす霊の法則が出現しました。その生ける神に向かい「アバ、父よ(お父ちゃん)」と親しみを込めて呼ぶ。ここに真の信仰があります。
23章:23章はエリファズに対するヨブの3度目の応答ですが、この時のヨブは頼りにならないエリファズではなく神に目を向けています。神は、これまでヨブの呼びかけには無視を貫き続けてきました。それで直接に出会い、その真意を悟りたいと思います。
「今日もまた私は背く心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い(23:2)」。神を思い巡らしつつも、ヨブの感じる不条理な災厄は、神に反逆する思いを生みます。それが、今のヨブのアンビバレント(相反する)な精神状況なのです。精神的、肉体的苦しみは、ヨブの気持ちをなえさせ、ヨブの信仰心を曇らせるのです。
しかし、彼は神を求めます。神のみ前で自分の訴えを並び立て、言葉の限り討論したい。そして自分の正しさを証明し、さばきを免れたいと願うのです。そして神を求めて前後左右に動きます。しかし、神の姿は見ることは出来ません。相も変わらず神はヨブを無視続けます。「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように出てくる(23:10)」。私は金のように純真無垢だとヨブは言いたいのです。そして、私は自分よりも常に神を優先してきたと、その信仰を誇ります。それにもかかわらず、神は私に不条理な災厄を与えた。「しかし、御心は一つである。誰がそれを翻すことが出来ようか。神は心の欲することを行われる。神は私について定めたことを、成し遂げられるからだ。このような多くの定めが神のうちにある(23:13~14)」。こうして神の主権性(超越性)と、不可侵性(神秘性)が示されます。「だから私は神の前でおびえ、これをもって神を畏れているのだ(23:15)」とヨブは述べます。しかし、ヨブは神の真意を知ることは出来ません。神はヨブを無視しているからです。「神を知らずして、神を知る」これこそ真の信仰です。
この信仰によって、「私は闇によって消されず、彼(神)が暗黒を私の前から消されたからだ(23:17)」と、ヨブは言います。ヨブは自分の罪を否定して、悔い改めを拒否します。
24章:ヨブはこの章において、この世に起きている不条理について語ります。神がおり神の日があるのになぜ罪びとは罰せられないのか。「なぜ全能者によって時は隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか(24:1)」と、。その矛盾を指摘します。悪人が滅ぼされず、それどころか、その豊かさを享受し、弱者を虐げてはばからない。この例をヨブは多く示します。この現実を神はどう見るかと問うているのです。「人の住む町からは、うめき声が起こり、傷ついた者の魂は助けを求めて叫ぶ、しかし神はそのうめき声に心を留められない(24:12)」。「しかし、神は力をもって、暴虐の者たちを生き延びるようにされる。彼はいのちがあるとは信じられないときにも立ち上がる(24:22)」、「神が彼に安全を与える。それで彼は休むことが出来る。神の目は彼の道の上に注がれる(24:23)。この現実を示すことによって、ヨブは「善は栄、悪は滅ぶ」という応報論に対峙します。神ですら悪に加担し、放置しているのです。神の意図を理解できないヨブは嘆き、怒ります。深い悲しみがあります。応報論を否定するものの、ヨブが神を否定しているわけではありません。悪は否定されねばならないのです(24:24参照)。しかし否定の仕方が違います。応報論の基本は、律法です。律法を超えるものは、キリストへの信仰であり愛です。人間は神の前に罪を犯し、義を損なってきたのです。人は義に飢え渇く存在です。神との関係を深く結ぶことによって、神との正しい関係を結ぶことが出来ます。それは、神自信が私たち人間と正しい関係を回復したいと考えておられるからです。そのために一人子イエス・キリストお遣わしになりました。キリストはご自分の命をもって、私たちを贖い、あらゆる罪を赦して神の子として永遠の命をお与えくださったのです。しかし、それは、まだヨブの目には隠されてぃます(24:1)。だからヨブは悩むのです。だから「なぜ」と神に問い続けるのです。
楽庵会