書簡集⒓ テストへの手紙 遺言の書
はじめに
パウロの使命は異邦人伝道である。異邦の地で異教の徒を、あるいは宗教的無関心層をキリストの教えに導いていくことであった。その福音伝道の結果、多くの人を集めていた。成果はそれなりに上がってはいたが、個人の力には限界があった。その力は結集され、組織化されなければならなかった。それが教会であった。教会はイエス・キリストを基礎として築かれねばならならない。パウロは多くの迫害の下に、各地に教会を築いている。教会は神の家であり、共通の神を信じる者の集まる清い共同体である。外に信仰を発していくためには、強固な組織を必要とする。特にこの時代、反キリストが各地でその勢力をふるっていた。内には背教が起こり、外では反キリストの勢力が時の権力と結びつき教会を迫害していた。パウロは捕らえられ、ローマに送られ、しばらくは軟禁状態にあったが、ネロ皇帝の時代に死刑を宣告された。死を前にしてパウロを取り巻く宗教的環境は危機的状況にあった。この状況から抜け出すためには、強力な指導者を必要としていた。その後継者として選ばれたのがテトスであった。テトスはパウロの信頼に足る強力な同労者であり愛すべき弟子でもあった。彼はギリシャ人で、クレテ島の教会の牧師を務めていた。パウロの宣教旅行には何度も同行している。
パウロは本書間によって、テトスに教会の乱れを正すように命じている。教会は穢れていたからである。教会の秩序の立て直しと、それを担うにふさわしい長老と監督者を選ぶように命じている。(1章)。さらに教会の様々な年代の人々と奴隷に対して、テストがキリスト者の模範として、勇気と大胆さをもって教え導き、その宗教的根拠をも示せと要請している(2章)。キリストの教えは従来の教えとは大分、異なっていたからである。キリスト者は社会的存在として教会外の人たちとも和合を図り、手を差し伸べ、助け合い、無用な論争を避け、清い社会的存在であれと、教え諭している。高慢でなく謙虚であれとキリスト者としての在り方を説いている。神は私たちの罪を清め、心に聖霊を遣わし、新しい喜びを授けられる方であるゆえに神の恵みを忘れず、一身に体し、心より励めと勧める(3章)。
パウロが最も嫌ったことは「神を知っていると口では言っていながら、行いでは否定(1:6)」することである。
誰から誰へ:パウロから霊的な同労者テトスへ。
いつどこで書かれたのか: AD64~65年「テモトへの手紙」の第1と第2の間に書かれたと言われている。ローマでの最初の獄中生活の後に書かれたと言われている。
なぜかかれたのか:反キリストの勢力下、クレタの教会の信仰の危機を前にして、その立て直しをもくろみ、テトスにその重大な役割を託して書かれた。
テトスへの手紙の内容構成。
各章ごとの説明:
1章:テトスに託された任務、パウロによってテストが遣わされたクレタ島の教会は、問題を抱えた教会であった。「実は、反抗的なもの、空論に走るもの、人を惑わすものが多くいます。特に割礼を受けたものがそうです。彼らの口は封じなければなりません。(1:10)」。割礼を受けたものとは律法を使って、食べるものに清いものと、穢れたものを区別する差別主義者を指しています。彼らは偽教師と呼ばれており、真実を語らず家々(教会)を破壊していました。パウロたちの福音宣教の努力は妨げられ、信仰は危機に晒されていたのです。
パウロはテトスに二つの課題を与えます。1、教会秩序の立て直し、2、それを実行する牧者(長老と監督)の任命、の2つでした。彼らは人格者であり、教会を管理できる能力者でなければならなかった。このような資格を付与された彼らは「その資格によって「クレテ人はむかしからの嘘つき、悪いけだもの、怠け者の食いしん坊」と言う不名誉ではあるが、偽らざる事実に対処しなければならなかったのです。「厳しく戒め、人々の信仰を健全にし、ユダヤ人の空想話や真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい(1:13~14)」とパウロはテトスに命じる。偽教師(反キリスト、親ユダヤ)の影響が彼らの上に影を宿していたのです。パウロはテトスに言う「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です(1:16)」と。
>2章: 健全な教えにかなう指導と、その根拠。1章において、パウロはクレタの教会が信仰において危機的状況にあることを知り、その罪からの解放を指示する。2章においては、主に対する慎み深い生き方(2:1~10)とはいかなるものかを具体的に語る。
1. 年上の人に対して=老人(男性)、老婦人(2:1~3)
2. 若い人に対して(2:4~8)
3. 奴隷に対して(2:9~10)
パウロはテトスに言う「彼らに与える、健全な教えにふさわしいこと、を話しなさい」と、健全な教えとはいかなるものかを語る。それは偽教師の偽の教えに対して、真の教えとはいかなるものかを示し、慎み深い生き方を教え、不敬虔とこの世の欲を捨て、私たちの救い主キリスト・イエスの栄光ある再来を待ち望め、と勧めているのです。
「キリストが私たちのために、ご自身を捧げられたのは、私たちをすべての不法から贖いだし、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のために清めるためでした(2:14)」。いかなる罪びとでも悔い改めと、神への立ち返りがあれば、救われるのです。「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません(2:15)」。
ローカルからグローバルへ、イスラエルから世界へ、神のご計画は着々と進んでいるかのように見えます。
>3章:良いわざに導くことと、その原動力: パウロはテトスに言う「私はかつてキリスト者を迫害する罪びとであった。しかし、そんな罪びとである私を救い主である主が恵みと愛を示し、罪の穢れを洗い流し、心に聖霊を遣わし、救ってくださったのです。罪びとである私を主が救ってくださったように、あなたの聖徒たちも主は必ず救ってくださるのです。その確信をもって支配者たるキリスト・イエスに服従し、従順で、すべての人に良いわざを進んでするものに聖徒たちを導きなさい。そうすれば主は必ず慈しみと愛を、彼らの上に注がれるのです。それを信じて祈りなさい。しかし、祈れば必ず救われるとは限らない。救いは、神の一方的なあわれみであって、彼らが罪びとであるか否かは関係ない。かつて罪びとであった私が救われているのだから。
主は天地創造の前から、我々を選び、救っているのである。それゆえ、人が主を選んだのではないことがわかる。我々は神に選ばれているがゆえに神を信じる。神を信じたが故に選ばれたのではない。選ばれたものに聖霊が宿る。しかし、愚かな我々はそれを知らない。時に神に反抗する。聖霊の宿らざるものは、決して神を信じない。サタンの申し子である。だから、彼らは滅びの対象であっても救われることはない。しかし、サタンは甘い言葉によって誘惑する。サタンは天使の姿で人に近づくという。悪霊によって聖霊を追い払おうとする。神のご計画をサタンは妨げる。神とサタンの戦いは「はるマゲドンの戦い」まで続く。パウロは次のように言う「神は、私たちの行った義のわざによって救われるのではなく、ご自分のあわれみゆえに聖霊による、新生と、更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。。神はこの聖霊を、私たちの救い主たるキリスト・イエスの恵みによって豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ永遠のいのちの恵みによって、相続人になるためです(3:3~7)」。ここに神の壮大なご計画を見ることが出来るのです。
はじめに
パウロの使命は異邦人伝道である。異邦の地で異教の徒を、あるいは宗教的無関心層をキリストの教えに導いていくことであった。その福音伝道の結果、多くの人を集めていた。成果はそれなりに上がってはいたが、個人の力には限界があった。その力は結集され、組織化されなければならなかった。それが教会であった。教会はイエス・キリストを基礎として築かれねばならならない。パウロは多くの迫害の下に、各地に教会を築いている。教会は神の家であり、共通の神を信じる者の集まる清い共同体である。外に信仰を発していくためには、強固な組織を必要とする。特にこの時代、反キリストが各地でその勢力をふるっていた。内には背教が起こり、外では反キリストの勢力が時の権力と結びつき教会を迫害していた。パウロは捕らえられ、ローマに送られ、しばらくは軟禁状態にあったが、ネロ皇帝の時代に死刑を宣告された。死を前にしてパウロを取り巻く宗教的環境は危機的状況にあった。この状況から抜け出すためには、強力な指導者を必要としていた。その後継者として選ばれたのがテトスであった。テトスはパウロの信頼に足る強力な同労者であり愛すべき弟子でもあった。彼はギリシャ人で、クレテ島の教会の牧師を務めていた。パウロの宣教旅行には何度も同行している。
パウロは本書間によって、テトスに教会の乱れを正すように命じている。教会は穢れていたからである。教会の秩序の立て直しと、それを担うにふさわしい長老と監督者を選ぶように命じている。(1章)。さらに教会の様々な年代の人々と奴隷に対して、テストがキリスト者の模範として、勇気と大胆さをもって教え導き、その宗教的根拠をも示せと要請している(2章)。キリストの教えは従来の教えとは大分、異なっていたからである。キリスト者は社会的存在として教会外の人たちとも和合を図り、手を差し伸べ、助け合い、無用な論争を避け、清い社会的存在であれと、教え諭している。高慢でなく謙虚であれとキリスト者としての在り方を説いている。神は私たちの罪を清め、心に聖霊を遣わし、新しい喜びを授けられる方であるゆえに神の恵みを忘れず、一身に体し、心より励めと勧める(3章)。
パウロが最も嫌ったことは「神を知っていると口では言っていながら、行いでは否定(1:6)」することである。
誰から誰へ:パウロから霊的な同労者テトスへ。
いつどこで書かれたのか: AD64~65年「テモトへの手紙」の第1と第2の間に書かれたと言われている。ローマでの最初の獄中生活の後に書かれたと言われている。
なぜかかれたのか:反キリストの勢力下、クレタの教会の信仰の危機を前にして、その立て直しをもくろみ、テトスにその重大な役割を託して書かれた。
テトスへの手紙の内容構成。
各章ごとの説明:
1章:テトスに託された任務、パウロによってテストが遣わされたクレタ島の教会は、問題を抱えた教会であった。「実は、反抗的なもの、空論に走るもの、人を惑わすものが多くいます。特に割礼を受けたものがそうです。彼らの口は封じなければなりません。(1:10)」。割礼を受けたものとは律法を使って、食べるものに清いものと、穢れたものを区別する差別主義者を指しています。彼らは偽教師と呼ばれており、真実を語らず家々(教会)を破壊していました。パウロたちの福音宣教の努力は妨げられ、信仰は危機に晒されていたのです。
パウロはテトスに二つの課題を与えます。1、教会秩序の立て直し、2、それを実行する牧者(長老と監督)の任命、の2つでした。彼らは人格者であり、教会を管理できる能力者でなければならなかった。このような資格を付与された彼らは「その資格によって「クレテ人はむかしからの嘘つき、悪いけだもの、怠け者の食いしん坊」と言う不名誉ではあるが、偽らざる事実に対処しなければならなかったのです。「厳しく戒め、人々の信仰を健全にし、ユダヤ人の空想話や真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい(1:13~14)」とパウロはテトスに命じる。偽教師(反キリスト、親ユダヤ)の影響が彼らの上に影を宿していたのです。パウロはテトスに言う「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です(1:16)」と。
>2章: 健全な教えにかなう指導と、その根拠。1章において、パウロはクレタの教会が信仰において危機的状況にあることを知り、その罪からの解放を指示する。2章においては、主に対する慎み深い生き方(2:1~10)とはいかなるものかを具体的に語る。
1. 年上の人に対して=老人(男性)、老婦人(2:1~3)
2. 若い人に対して(2:4~8)
3. 奴隷に対して(2:9~10)
パウロはテトスに言う「彼らに与える、健全な教えにふさわしいこと、を話しなさい」と、健全な教えとはいかなるものかを語る。それは偽教師の偽の教えに対して、真の教えとはいかなるものかを示し、慎み深い生き方を教え、不敬虔とこの世の欲を捨て、私たちの救い主キリスト・イエスの栄光ある再来を待ち望め、と勧めているのです。
「キリストが私たちのために、ご自身を捧げられたのは、私たちをすべての不法から贖いだし、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のために清めるためでした(2:14)」。いかなる罪びとでも悔い改めと、神への立ち返りがあれば、救われるのです。「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません(2:15)」。
ローカルからグローバルへ、イスラエルから世界へ、神のご計画は着々と進んでいるかのように見えます。
>3章:良いわざに導くことと、その原動力: パウロはテトスに言う「私はかつてキリスト者を迫害する罪びとであった。しかし、そんな罪びとである私を救い主である主が恵みと愛を示し、罪の穢れを洗い流し、心に聖霊を遣わし、救ってくださったのです。罪びとである私を主が救ってくださったように、あなたの聖徒たちも主は必ず救ってくださるのです。その確信をもって支配者たるキリスト・イエスに服従し、従順で、すべての人に良いわざを進んでするものに聖徒たちを導きなさい。そうすれば主は必ず慈しみと愛を、彼らの上に注がれるのです。それを信じて祈りなさい。しかし、祈れば必ず救われるとは限らない。救いは、神の一方的なあわれみであって、彼らが罪びとであるか否かは関係ない。かつて罪びとであった私が救われているのだから。
主は天地創造の前から、我々を選び、救っているのである。それゆえ、人が主を選んだのではないことがわかる。我々は神に選ばれているがゆえに神を信じる。神を信じたが故に選ばれたのではない。選ばれたものに聖霊が宿る。しかし、愚かな我々はそれを知らない。時に神に反抗する。聖霊の宿らざるものは、決して神を信じない。サタンの申し子である。だから、彼らは滅びの対象であっても救われることはない。しかし、サタンは甘い言葉によって誘惑する。サタンは天使の姿で人に近づくという。悪霊によって聖霊を追い払おうとする。神のご計画をサタンは妨げる。神とサタンの戦いは「はるマゲドンの戦い」まで続く。パウロは次のように言う「神は、私たちの行った義のわざによって救われるのではなく、ご自分のあわれみゆえに聖霊による、新生と、更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。。神はこの聖霊を、私たちの救い主たるキリスト・イエスの恵みによって豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ永遠のいのちの恵みによって、相続人になるためです(3:3~7)」。ここに神の壮大なご計画を見ることが出来るのです。
令和2年2月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会