日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

書簡集⒓ テトスへの手紙 遺言の書

2020年04月28日 | Weblog
 書簡集⒓ テストへの手紙 遺言の書
 はじめに
 パウロの使命は異邦人伝道である。異邦の地で異教の徒を、あるいは宗教的無関心層をキリストの教えに導いていくことであった。その福音伝道の結果、多くの人を集めていた。成果はそれなりに上がってはいたが、個人の力には限界があった。その力は結集され、組織化されなければならなかった。それが教会であった。教会はイエス・キリストを基礎として築かれねばならならない。パウロは多くの迫害の下に、各地に教会を築いている。教会は神の家であり、共通の神を信じる者の集まる清い共同体である。外に信仰を発していくためには、強固な組織を必要とする。特にこの時代、反キリストが各地でその勢力をふるっていた。内には背教が起こり、外では反キリストの勢力が時の権力と結びつき教会を迫害していた。パウロは捕らえられ、ローマに送られ、しばらくは軟禁状態にあったが、ネロ皇帝の時代に死刑を宣告された。死を前にしてパウロを取り巻く宗教的環境は危機的状況にあった。この状況から抜け出すためには、強力な指導者を必要としていた。その後継者として選ばれたのがテトスであった。テトスはパウロの信頼に足る強力な同労者であり愛すべき弟子でもあった。彼はギリシャ人で、クレテ島の教会の牧師を務めていた。パウロの宣教旅行には何度も同行している。
 パウロは本書間によって、テトスに教会の乱れを正すように命じている。教会は穢れていたからである。教会の秩序の立て直しと、それを担うにふさわしい長老と監督者を選ぶように命じている。(1章)。さらに教会の様々な年代の人々と奴隷に対して、テストがキリスト者の模範として、勇気と大胆さをもって教え導き、その宗教的根拠をも示せと要請している(2章)。キリストの教えは従来の教えとは大分、異なっていたからである。キリスト者は社会的存在として教会外の人たちとも和合を図り、手を差し伸べ、助け合い、無用な論争を避け、清い社会的存在であれと、教え諭している。高慢でなく謙虚であれとキリスト者としての在り方を説いている。神は私たちの罪を清め、心に聖霊を遣わし、新しい喜びを授けられる方であるゆえに神の恵みを忘れず、一身に体し、心より励めと勧める(3章)。
 パウロが最も嫌ったことは「神を知っていると口では言っていながら、行いでは否定(1:6)」することである。
 誰から誰へ:パウロから霊的な同労者テトスへ。
 いつどこで書かれたのか: AD64~65年「テモトへの手紙」の第1と第2の間に書かれたと言われている。ローマでの最初の獄中生活の後に書かれたと言われている。
 なぜかかれたのか:反キリストの勢力下、クレタの教会の信仰の危機を前にして、その立て直しをもくろみ、テトスにその重大な役割を託して書かれた。
テトスへの手紙の内容構成。

 各章ごとの説明:
 1章:テトスに託された任務、パウロによってテストが遣わされたクレタ島の教会は、問題を抱えた教会であった。「実は、反抗的なもの、空論に走るもの、人を惑わすものが多くいます。特に割礼を受けたものがそうです。彼らの口は封じなければなりません。(1:10)」。割礼を受けたものとは律法を使って、食べるものに清いものと、穢れたものを区別する差別主義者を指しています。彼らは偽教師と呼ばれており、真実を語らず家々(教会)を破壊していました。パウロたちの福音宣教の努力は妨げられ、信仰は危機に晒されていたのです。
 パウロはテトスに二つの課題を与えます。1、教会秩序の立て直し、2、それを実行する牧者(長老と監督)の任命、の2つでした。彼らは人格者であり、教会を管理できる能力者でなければならなかった。このような資格を付与された彼らは「その資格によって「クレテ人はむかしからの嘘つき、悪いけだもの、怠け者の食いしん坊」と言う不名誉ではあるが、偽らざる事実に対処しなければならなかったのです。「厳しく戒め、人々の信仰を健全にし、ユダヤ人の空想話や真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい(1:13~14)」とパウロはテトスに命じる。偽教師(反キリスト、親ユダヤ)の影響が彼らの上に影を宿していたのです。パウロはテトスに言う「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です(1:16)」と。
 >2章: 健全な教えにかなう指導と、その根拠。1章において、パウロはクレタの教会が信仰において危機的状況にあることを知り、その罪からの解放を指示する。2章においては、主に対する慎み深い生き方(2:1~10)とはいかなるものかを具体的に語る。
1. 年上の人に対して=老人(男性)、老婦人(2:1~3)
2. 若い人に対して(2:4~8)
3. 奴隷に対して(2:9~10)
 パウロはテトスに言う「彼らに与える、健全な教えにふさわしいこと、を話しなさい」と、健全な教えとはいかなるものかを語る。それは偽教師の偽の教えに対して、真の教えとはいかなるものかを示し、慎み深い生き方を教え、不敬虔とこの世の欲を捨て、私たちの救い主キリスト・イエスの栄光ある再来を待ち望め、と勧めているのです。
 「キリストが私たちのために、ご自身を捧げられたのは、私たちをすべての不法から贖いだし、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のために清めるためでした(2:14)」。いかなる罪びとでも悔い改めと、神への立ち返りがあれば、救われるのです。「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません(2:15)」。
 ローカルからグローバルへ、イスラエルから世界へ、神のご計画は着々と進んでいるかのように見えます。
 >3章:良いわざに導くことと、その原動力: パウロはテトスに言う「私はかつてキリスト者を迫害する罪びとであった。しかし、そんな罪びとである私を救い主である主が恵みと愛を示し、罪の穢れを洗い流し、心に聖霊を遣わし、救ってくださったのです。罪びとである私を主が救ってくださったように、あなたの聖徒たちも主は必ず救ってくださるのです。その確信をもって支配者たるキリスト・イエスに服従し、従順で、すべての人に良いわざを進んでするものに聖徒たちを導きなさい。そうすれば主は必ず慈しみと愛を、彼らの上に注がれるのです。それを信じて祈りなさい。しかし、祈れば必ず救われるとは限らない。救いは、神の一方的なあわれみであって、彼らが罪びとであるか否かは関係ない。かつて罪びとであった私が救われているのだから。
 主は天地創造の前から、我々を選び、救っているのである。それゆえ、人が主を選んだのではないことがわかる。我々は神に選ばれているがゆえに神を信じる。神を信じたが故に選ばれたのではない。選ばれたものに聖霊が宿る。しかし、愚かな我々はそれを知らない。時に神に反抗する。聖霊の宿らざるものは、決して神を信じない。サタンの申し子である。だから、彼らは滅びの対象であっても救われることはない。しかし、サタンは甘い言葉によって誘惑する。サタンは天使の姿で人に近づくという。悪霊によって聖霊を追い払おうとする。神のご計画をサタンは妨げる。神とサタンの戦いは「はるマゲドンの戦い」まで続く。パウロは次のように言う「神は、私たちの行った義のわざによって救われるのではなく、ご自分のあわれみゆえに聖霊による、新生と、更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。。神はこの聖霊を、私たちの救い主たるキリスト・イエスの恵みによって豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ永遠のいのちの恵みによって、相続人になるためです(3:3~7)」。ここに神の壮大なご計画を見ることが出来るのです。
令和2年2月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

書簡集11 テモテへの手紙 第2 パウロの殉教

2020年04月09日 | Weblog
  書簡集⒒ テモテへの手紙 第2 パウロの殉教
 はじめに
 本書は獄中で書かれた使徒パウロの最後(テスト、ピレモンと並んで)の書簡として有名である。パウロはこの後、ローマ皇帝パロにさばかれ殉教死している。
 牧者としてパウロは最愛の同労者であり弟子でもあるテモトに対して、自らの死の直前に、反キリストの支配下、テモトが指導者として立つうえで必要なアドバイスを本書簡に託した。この書簡にはパウロの心中が愛情豊かに描かれている。正しい教義、変わらぬ信仰、確信をもって耐え忍ぶ力、そしていつまでも続く愛を、伝えている。

 そろそろパウロの、⒔の書簡集も終わりに近づいてきた。この辺で彼の思想をまとめてもよいころだと思う。
 彼の思想の根底にあるものは、人類の救済であり、その基本は『行いから、主を信じる信仰へ』である。人はこうありたいと願いながらも、こうある自分に絶望する。人は自分が欲する善行を行いたいと望みながらも、実際には自分が欲せざる悪をなしてしまう。パウロはこれを罪と断じ、人間の本姓と考えた。パウロは自分の罪深さ、不完全さを常に感じていたようである。それゆえに人間の無力さが強調される。彼は人による自力救済はありえないと考える。神の恩寵によってのみ救われるのである。「行いによるのではなく信仰によって」これが彼の考える救いの根本原理である。それではパウロにとって「神の恩寵」とは何だったのであろうか。パウロはイエスの「十字架の死」こそ、神の自己犠牲であり恩寵であると考える。イエスは自らは何の罪もないのに、我々人の罪を一身に背負って死んで行かれたのである。贖いの死である。この贖いの死によって、人は解放されたのである。十字架上でイエスは「完了した」と叫んでいる。これを信じて、イエスの教えを信じて、これを実行することで、人は新しく作り替えられ、再生するのである。この新しい生は物質性を捨てて、人類史から神の世界に逃れることではない。人類の救済史とはあくまでも、その本来的な物質性から、神の導きによって、より高次な霊性を獲得していく過程である。この進歩の過程を描いたものこそ、ルカの「使徒行伝」であり、パウロの「13の書簡集」である。
 「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙1,2」「ガラテヤ人への手紙」=救済
 「エペソ人への手紙」「ピリピ人への手紙」「コロサイ人への手紙」=教会について。
 「テサロニケ人への手紙1,2」=主の再臨について
 「「テモテへの手紙1,2」「テストへの手紙」「ピレモンへの手紙」=牧会書簡
 「使徒行伝」の後半は回心後のパウロの3回の異邦伝道の過程が描かれている。その過程は霊的進歩の過程でもあった。
 そしてこのような立場に立つとき、現実世界は不幸と矛盾に満ちてた不完全なものとして相対化されていく。だが、同時にこの物質的世界こそ、神の救済史の舞台であり、神が現存し、働きかける場であり、主のご計画を成就される世界でもある。かくしてイエスの十字架上での死は霊的に必然的なものとなる。イエスの磔刑と復活なくして人類の救いはない。
 誰から誰へ:牧者としてのパウロから最愛の同労者テモテへ
 いつ、どこで:紀元64~65年の間。、2度目の獄中生活のとき。殉教の直前にこの書簡を書く。それ故、「パウロの遺言の書」と言われる。。
 本書の特徴:反キリストの勢力が猛威を振るっている中、パウロはテモテに言う「あなたは偽りのない信仰の持ち主である。私の按手によって内に抱いた神の賜物を再び燃え立たせなさい。神が私たちに下さったのは臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である」。パウロは強固な意志をもって反キリストに立ち向かえとテモテに促す。神の選びと救いは、私たち人の御業によるのではなく、神ご自身の計画に基づき、永遠の昔に、キリスト・イエスにあって賜った恵みによる。だからそれを信じて反キリストと戦えと、命ずる。本書はパウロの最後の手紙であり、パウロの心中が優しく描かれている。正しい教義、変わらぬ信仰、確信をもって耐え忍ぶ力、そしていつまでも続く愛がその特徴として描かれている。

 重要個所
 1:7:「神が私たちに与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
 3:16~17:「聖霊はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。それは神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」。
 4:2:「み言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」。
 4:7~8:「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄光が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです」。
 内容構成

 各章ごとの説明(1章~4章)
 1章:この時代、エペソの地はその内外において背教が起こっていた。聖徒の中からもパウロから離れていくもの、敵対するものが出ていた。パロによる裁きの時もだれ一人彼を支持する者はいなかった。さらにアジアにいる異邦人の世界でも聖徒たちはパウロから離れていった。パウロはこの四面楚歌の事態に信仰の危機を感じていた。これまで培ってきた福音宣教の効果は、まさに潰えようとしていた。教会全体がキリスト・イエスから離れていた。パウロは孤独であった。聖書は終わりの時、背教が起こり、困難な時が来ると預言している。この危機的状態には対応せねばならなかった。このような暗闇の中で書かれたものが第2の書簡であり、選ばれたのが信仰の同労者であり友人でもあるテモテであった。パウロは彼に会いたいと思う。ローマに呼んでいる。彼は信仰において純粋な徒であり、パウロの按手により神の賜物が与えられていた、それを燃え立たせよとパウロは言う。「神が私たちに与えたものは、臆病の霊ではなく、力と霊と慎みとの霊です(6~7節)」「私が聞いたキリスト・イエスの健全な言葉を手本にして、あなたのうちに宿る善いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい(13~14節)」と、反キリストと戦う自分の苦しみを共有し、ともに戦おうとパウロはテモテに命じているのである。テモテは反キリストと戦うべきすべての条件を備えていたのである。 
 反キリストと戦うためにはキリスト・イエスを知らなければならない。キリストを知ることは神を知ることである。私たちの救いはキリスト・イエスにおいて永遠の昔から決まっているのである。キリスト・イエスの現れと、その十字架の死と、復活によってキリストは死を滅ぼし、福音による命の不滅性を明らかにされたのである。パウロはこの福音によって牧者に任命された。しかしローマはこれを拒んだ。その代償が獄中生活であった。肉体としてのからだは滅びても「私のお任せしたもの=いのち」を「かの日」=主の再臨の日のために神が守ってくださるとパウロは確信していた。死は彼にとっては神に至るための経過点に過ぎなかった。
 背教のものがいる半面、世の中の片隅に神を信じる信仰の人(オネシボロ)がいることはパウロにとっては慰めであった。それは一筋の光であり、将来の希望の星であった。
 2章:パウロは言う「たとへ死が近くても私にはイエス・キリストにある命の約束がある。従って死を恐れず、信仰を持ち、福音を伝える」と。
 テモテは常にパウロによって祈られていた。それはテモテにとっては慰めであった。
 パウロはテモテに牧者の牧者になれと勧める。それは主の教え(真理)の継承にとって必要であった。パウロは常に将来を見つめていた。
 イエス・キリストは100%神であると同時に100%人間である。
 パウロは言う「キリスト・イエスの立派な兵士として私と共に苦しめ」「主の忠実なしもべとして、主の規則に従え」「私が牢に繋がれたのは、キリストの真理を宣べ伝えたからである。私は牢に繋がれていても、神の言葉は繋がれていない。私は喜んで、どんな苦しみにも耐え忍びます。神はおのずから選ばれた人にキリスト・イエスの救いと、永遠の栄光をもたらすからです」。私たちは永遠に神の、み手の中にある。「もし私たちが、苦しみに耐えかねてキリストを拒否することがあれば、キリストも私たちを拒まれるであろう。たとい、信仰をなくしたかと思えるほど私たちが弱くなっても、キリストは真実を貫き、私たちを助けてくださいます。私たちは主の一部分になっているので切り捨てられることはないのです。そして主はいつでも約束を果たしてくださいます」。「神から褒められるよう熱心に励め。立派な働き人になれ。聖書の奥義を理解せよ。偽りの教えにだまされるな」
 神の真理は、巨大な岩のように何が起ころうと揺らぐことはない。主は自分に属するキリスト者を知っておられ、悪から遠ざけられる」。あなたは主を信じるという最高の役割を担うなら、キリストの最高の目的のために用いて頂けるのです。信仰と愛とを保ち、主を純粋な気持ちで愛し、またそのような人と交わりなさい。真理に逆らう人たちを謙遜な気持ちで諭せば、神の助けによって真理に逆らう人も、誤りを正し、神に立ち返り、サタンの誘惑から逃れることが出来るのです。
 反キリストによる偽の教えが流布し背教の人すら出る「信仰の危機」に直面して、パウロはテモテになすべきことを伝え、それが継承されるように牧者の養成すら行ったのである。
3章:パウロは言う「終わりの日には困難が訪れると」終わりの日における困難とは人間社会の秩序の崩壊である。パウロは19の悪徳のリストを挙げる(2~5)。まとめてみると、それは自分を愛し金銭を愛する、貪欲な自己中心主義の万蔓延である。これが教会内部においても起こっていたのである。エペソの教会には背教が起きていたのである。まさに、主の日が近づいていたのである。テサロニケ人への手紙Ⅱ、2:3では「まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです」と、パウロは語っている。まさにこの時、終わりの日(主の日)が近づいていたのである。異端的な考えがはびこり、情欲に溺れた愚かな女性が不倫に走るということが起こっていた。彼らは学んではいても異端的な学びであるがゆえに、真理に到達できない。彼らは信仰に逆らう、知性の腐った、信仰の失格者であって、救われることは永遠にないのである。
 このような中、あなたは私に降りかかった迫害や苦難に対して逃げ出すことなく、付いてきてくれましたと、常に自分と共にあったことに対してパウロはテモテに感謝の意を現わしている。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものは皆、迫害を受けます(3:13)」。「しかし、主は一切のことから私を救い出してくださいました」。それゆえ「学んで確信したところにとどまっていなさい」とパウロはテモテを励ます。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」。。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられたものとなるためです」とパウロは、この章を結ぶ。
 聖書は神の言葉である。その教えの中心は4つある。
1、 教え:何が、神の正しさかを教える。
2、 諫め:聖書に耳を傾ける時、神の正しさを知り、自分が神の基準を満たしていないことを知る。神が正であり、自分が不正なのである。神の前で謙虚になるとき、神の戒めが起こる。
3、 矯正:聖書を学ぶ過程で自分の足らざるところを認識したとき、自分の在り方を神の在り方に変えていくことを指す。方向転換である。
4、 義の訓練:神の正しさの中で、いかに生きるべきか、いかに神の基準の中に自分を保っていくかを学ぶことである。聖書はその性質から、対決型で書かれている。自分の今の生き方を捨てて、神の在り方を受けていくことが聖書の書かれた目的である。
 4章:「キリスト・イエスのみ前で厳かに命じます(4:1参照)」パウロはテモテに言う。「み言葉を宣べ、伝えなさい(4:2参照)」「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、真理から耳をそむけ、空想話にそれていくような時代になるからです(4:3~4参照)」。パウロは自分の刑が執行される日が近づいている今、この「信仰の危機」から、民を救うために、自分に代わって慎み、困難に耐え、伝道者(牧者)としての自分の務めを果たしなさい」とテモテに命じる。パウロは言う「私はすでに、勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。正しい審判者である主が、義の栄冠を私に授けてくれるのです。わたしだけでなく、主の現れを慕っている者には、誰にでも授けてくださるのです(4:7~8)」あなたもそれを授かる資格が十分にあるのです。信仰を守り通しなさい。
 この時、パウロは四面楚歌の中にあった。同労者であったデマス、クレスケンス、テトスらはパウロから離れ、銅細工人アレキサンデルはパウロを苦しめ、皇帝ネロの裁きの時、パウロの弁明を支持するものは一人もいなかった。彼のそばにいたものはルカだけだった。彼は孤独であった。しかし孤独ではあっても主は彼と共にあった。主の明確な言葉を聞くことが出来たのである。パウロはテモテをローマに招いている。その時マルコも伴えと要請している。マルコは伝道旅行の時つらさから逃げ出した男である。パウロの怒りを買った男である。その男を「役に立つ男」とパウロは言う。マルコは変わったのである。パウロはテモテをローマに招いた代わりにテキコをエペソに送っている。パウロは主から力を与えられ、異邦人伝道において御言葉が余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々が、御言葉を聞くようになるよう助けられたのである。パウロの異邦人伝道は反キリストとの戦いであり、それは苦しみの連続であった。苦しみと恵は表裏一体である。
 テモテへの手紙Ⅰ 第6章
 奴隷は主人を尊敬せよ。神の御名と教えがそしられないためです。良い奉仕から益を受けるのは、あなた(奴隷)自身だからです。
 満ち足りた心を持つことの敬虔こそ、大きな利益を得る道です。衣食があれば、それで満足すべきです。我々は、裸で生まれ、裸で死んでいくからです。
 金銭を愛することは、あらゆる悪の根源です。金銭欲に陥った人は信仰から迷い出て苦痛に満ちた人生を送るからです。
 神の人よ、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを熱心に求め、永遠の命を獲得しなさい。イエスキリストの現れる時まで、あなたは命令を守り、傷の無い、非難されることのないものでありなさい。
 富んでいる人たちよ、その富を惜しまずに施し、喜んで分け与えなさい。
令和2年1月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会