日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

僕の信仰告白

2013年06月12日 | Weblog
僕の信仰告白

 僕は先日6月9日(日)、自らの心に神を受け入れた。いずれ洗礼を受けて、正式に神のしもべとなるであろう。「命の書」に名前が記され、永遠の命を得ることが出来るかもしれない。終末を迎えた時、神の審判を受け、「命の書」に名前が記されているか否かが問題となる。聖書は言う「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行うものは、永遠にながらえる(ヨハネ1:2~17)」と。世界の終末のとき、すなわち神が世界に最終的に介入する時、イエスキリストが再臨する時、神の義に生きるものは救われ、悪魔に従うものは滅びる。嘗て、神はノアとその家族、一対の生物を残して罪に満ちた人類を滅ぼしている。今、世の中は第2の終末を迎えようとしている。それほど世の中は罪に満ちている。人はその代価を支払わねばならない。僕は救われたい。
 僕は今まで、自分が神を受け入れ、信者になるなど、考えてもみなかった。あくまでもフリーの立場で客観的に、神を、イエスを、教会を見ていこうとしていた。聖書も宗教文学の一つとして読み、読み解いていこうとしていた。そして、それが可能であると信じていた。そこにあったものは知識欲であって、神への信仰ではなかった。ここに投稿した文章も正直に言って『作文』だった。「聖書は読むのではなく、神の言葉として聞け」といわれている。人知を超えた神の言葉を、神の啓示を、人が読み、理解することは不可能なのである。聞けということは、神を信じろということであり、解釈することではない。祈れということである。それは言葉としては知っていた。しかし、それを信じるには「こだわり」があった。僕の心の中にある「我」を否定することが出来なかったからである。信じるということは「我」を捨てることである。捉われの心(煩悩)を無くし、無に至ることである。
 加藤牧師は、その説教の後、神を信じるものは手をあげよと言われた。これまで何度もその言葉を聞いたが、僕の心には、先に述べたように、「こだわりが」あった。手をあげる事は出来なかった。しかし今回はそこには「こだわり」はなかった、素直に手をあげることが出来たのである。牧師の言葉は神の言葉である。目に見えない神の似姿として、僕に語りかけたのである。人の意志を超えた神の啓示が僕に下ったのである。その聖霊による啓示が、聖霊の言葉が、僕に手をあげよと命じたのである。そしてその神の言葉に、僕の心の奥底に潜む、神を求める心が応じたのである。それは神が僕に示した愛であった。僕の意志ではなかった。自然に、素直に手をあげることが出来たのである。気が付いた時、手をあげていたのである。そこには神の意志があった。僕の意志を超えたのである。神のなせる技は全て善きこと。僕の表層にある「こだわり(罪)」を神は融かしてくれたのである。
 次の聖書の言葉を引用することによって僕の信仰告白を終わりにしたい。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を結ばん(ヨハネ12:23~25)」。


時が良くても悪くても(テモテの手紙Ⅱ4章、1~5節)

2013年06月02日 | Weblog
時が良くても悪くても(テモテの手紙Ⅱ、4:1~5)

 この深夜祈祷会において私に祈る機会を与え賜うた神に感謝を捧げます。
 早い梅雨の季節に入ったと伝えられました。しかし今日は、天気はよく、すこぶる快適な1日でした。季節は移りかわり、日々の生活はつつがなく過ぎていきます。そのような素晴らしい日々を与え賜うた神に感謝します。しかしこのような快適な日々を過ごすことがいつまで続くかと、懸念されます。J・ハチャット牧師は5月聖会で、今すでに「終末」が始まっていると述べています。確かに日本においても、世界においても。神の福音があまねく行きわたっているとは決して言えません。あらゆる面において病んでいます。世界の平和は侵され、地球の破壊は進んでいます。 こんな時、私たちの心の中には、底知れない恐怖、漠然とした不安があります。それは心の中の闇です。それが私たちを苛立ちに誘います。これは何よって解放されねばならないのでしょうか?何を求めればよいのでしょうか?
 この世は理性では割り切れないと教えてくれたのは親鸞聖人です。人は自ら望んで世界の平和を侵しているわけではありません。地球を破壊しているのではありません。善を求めて、結果として悪に至る。それが罪です。欲せざるして、これを欲す。そこには人の知恵の限界があります。人は善を求めて努力を重ねる。その努力が何を生み出したか。努力は報われたか?その結果が現代です。
 ギリシャ神話にシジフォスという人物が出てきます。神の怒りにふれたシジフォスは、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運びあげよ!という刑罰を受けます。しかし、苦労を重ね、山頂にたどり着くと、その岩はその重みで山頂に留まることなく、転げ落ちていきます。何度繰り返しても同じです。このようにしてシジフォスは、この行為を永遠に繰り返します。これは神(デウス)が、シジフォスに与えた、永遠の罰であり、許されることのない罪を表しています。
幸せを求めて、求め求めて、努力を重ねても、求め得ることのない果てしのない徒労、不毛な行為を表しています。そこにあるのは限界的状況であり、絶望的状況にすぎません。これを人生にたとえて、生きる望みの無い不条理の世界だと、実存主義者は言います。実存主義者アルベ-ル・カミュは言います。「人生は生きるに値するか。人生の目的は何か?」と。カミュはその著『シジフォスの神話』の中で次のように述べています。「不条理という言葉があてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者が、相対峙したままである状態についてなのだ」と。理性を否定しながら、理性によってこの世を、人生の目的を解釈しようとする人の矛盾を表しています。しかし、彼は神を否定します。この矛盾を解決するものこそ神の存在であることを知らねばならないのです。理性では割り切ることのできない神の存在を知らねばならないのです。
 この不条理の世界こそ、今の世の中であることを知らねばなりません。先に述べたように「終末」は始まっているのだという人もいます。「終末」は永遠に引き延ばされなければならないのです。人生とは果たして徒労の人生でしょうか?生きる価値の無い人生でしょうか?この不条理の世界こそ、神が人に与えた試練なのではないでしょうか? この試練に打ち勝つ力を私たちは持たねばならないのです。神よその力を私たちにお与えください。神を信じること、そしてその教えを世の中に広めていくこと。それが、今、キリスト者に課せられた課題なのです。時が良くても悪くても、福音宣教に努めなくてはならないのです。