僕の信仰告白
僕は先日6月9日(日)、自らの心に神を受け入れた。いずれ洗礼を受けて、正式に神のしもべとなるであろう。「命の書」に名前が記され、永遠の命を得ることが出来るかもしれない。終末を迎えた時、神の審判を受け、「命の書」に名前が記されているか否かが問題となる。聖書は言う「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行うものは、永遠にながらえる(ヨハネ1:2~17)」と。世界の終末のとき、すなわち神が世界に最終的に介入する時、イエスキリストが再臨する時、神の義に生きるものは救われ、悪魔に従うものは滅びる。嘗て、神はノアとその家族、一対の生物を残して罪に満ちた人類を滅ぼしている。今、世の中は第2の終末を迎えようとしている。それほど世の中は罪に満ちている。人はその代価を支払わねばならない。僕は救われたい。
僕は今まで、自分が神を受け入れ、信者になるなど、考えてもみなかった。あくまでもフリーの立場で客観的に、神を、イエスを、教会を見ていこうとしていた。聖書も宗教文学の一つとして読み、読み解いていこうとしていた。そして、それが可能であると信じていた。そこにあったものは知識欲であって、神への信仰ではなかった。ここに投稿した文章も正直に言って『作文』だった。「聖書は読むのではなく、神の言葉として聞け」といわれている。人知を超えた神の言葉を、神の啓示を、人が読み、理解することは不可能なのである。聞けということは、神を信じろということであり、解釈することではない。祈れということである。それは言葉としては知っていた。しかし、それを信じるには「こだわり」があった。僕の心の中にある「我」を否定することが出来なかったからである。信じるということは「我」を捨てることである。捉われの心(煩悩)を無くし、無に至ることである。
加藤牧師は、その説教の後、神を信じるものは手をあげよと言われた。これまで何度もその言葉を聞いたが、僕の心には、先に述べたように、「こだわりが」あった。手をあげる事は出来なかった。しかし今回はそこには「こだわり」はなかった、素直に手をあげることが出来たのである。牧師の言葉は神の言葉である。目に見えない神の似姿として、僕に語りかけたのである。人の意志を超えた神の啓示が僕に下ったのである。その聖霊による啓示が、聖霊の言葉が、僕に手をあげよと命じたのである。そしてその神の言葉に、僕の心の奥底に潜む、神を求める心が応じたのである。それは神が僕に示した愛であった。僕の意志ではなかった。自然に、素直に手をあげることが出来たのである。気が付いた時、手をあげていたのである。そこには神の意志があった。僕の意志を超えたのである。神のなせる技は全て善きこと。僕の表層にある「こだわり(罪)」を神は融かしてくれたのである。
次の聖書の言葉を引用することによって僕の信仰告白を終わりにしたい。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を結ばん(ヨハネ12:23~25)」。
僕は先日6月9日(日)、自らの心に神を受け入れた。いずれ洗礼を受けて、正式に神のしもべとなるであろう。「命の書」に名前が記され、永遠の命を得ることが出来るかもしれない。終末を迎えた時、神の審判を受け、「命の書」に名前が記されているか否かが問題となる。聖書は言う「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行うものは、永遠にながらえる(ヨハネ1:2~17)」と。世界の終末のとき、すなわち神が世界に最終的に介入する時、イエスキリストが再臨する時、神の義に生きるものは救われ、悪魔に従うものは滅びる。嘗て、神はノアとその家族、一対の生物を残して罪に満ちた人類を滅ぼしている。今、世の中は第2の終末を迎えようとしている。それほど世の中は罪に満ちている。人はその代価を支払わねばならない。僕は救われたい。
僕は今まで、自分が神を受け入れ、信者になるなど、考えてもみなかった。あくまでもフリーの立場で客観的に、神を、イエスを、教会を見ていこうとしていた。聖書も宗教文学の一つとして読み、読み解いていこうとしていた。そして、それが可能であると信じていた。そこにあったものは知識欲であって、神への信仰ではなかった。ここに投稿した文章も正直に言って『作文』だった。「聖書は読むのではなく、神の言葉として聞け」といわれている。人知を超えた神の言葉を、神の啓示を、人が読み、理解することは不可能なのである。聞けということは、神を信じろということであり、解釈することではない。祈れということである。それは言葉としては知っていた。しかし、それを信じるには「こだわり」があった。僕の心の中にある「我」を否定することが出来なかったからである。信じるということは「我」を捨てることである。捉われの心(煩悩)を無くし、無に至ることである。
加藤牧師は、その説教の後、神を信じるものは手をあげよと言われた。これまで何度もその言葉を聞いたが、僕の心には、先に述べたように、「こだわりが」あった。手をあげる事は出来なかった。しかし今回はそこには「こだわり」はなかった、素直に手をあげることが出来たのである。牧師の言葉は神の言葉である。目に見えない神の似姿として、僕に語りかけたのである。人の意志を超えた神の啓示が僕に下ったのである。その聖霊による啓示が、聖霊の言葉が、僕に手をあげよと命じたのである。そしてその神の言葉に、僕の心の奥底に潜む、神を求める心が応じたのである。それは神が僕に示した愛であった。僕の意志ではなかった。自然に、素直に手をあげることが出来たのである。気が付いた時、手をあげていたのである。そこには神の意志があった。僕の意志を超えたのである。神のなせる技は全て善きこと。僕の表層にある「こだわり(罪)」を神は融かしてくれたのである。
次の聖書の言葉を引用することによって僕の信仰告白を終わりにしたい。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を結ばん(ヨハネ12:23~25)」。