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いイザヤ書,23、 46~47章  「正義の神、救い主」

2024年02月25日 | Weblog
 イザヤ書 23, 46~47章 「正義の神、救い主」
はじめに;
46章、この章では、神と偶像が較べられています。神は人を造り、偶像は人が作ります。神は人を支え、偶像は人が支えます。神は永遠です。しかし偶像は、人が作ったゆえに有限です。神には救いがありますが、偶像には救いはありません。このように両者の間には決定的な差があります。それゆえに、人は神を尊び、偶像を排さなければなりません。主は「わたしに聞け」とイスラエルの民に命じます。 44章で「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(44:22)とイスラエルの民に命じた主は、45章では異邦人も含めた地の果てのすべての者に対して「わたしを仰ぎ見て救われよ。」(45:22)と語りました。そして、この章46章では、再び強情なイスラエルの民に対して「わたしに聞け」と命じます。(46:3,12)。その内容が、46章となっており、その中に46章を特徴づけるキーワードがあります。そのキーワードとは、神がイスラエルの民を「負う」、「背負う」と言う語彙です。これは神の専売特許であって、偶像には、これをなすことは出来ません。
 47章:47章は、次の言葉から始まります。「おとめバビロンの娘よ。下って塵の上に座れ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地に座れ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ(47:1)」。このようにバビロニアは「優しい上品な娘、中東の貴婦人と呼ばれ、その繁栄を誇っていました。広大な美しい領地を持ち、その首都バビロンは強固な城壁に囲まれ、さらに強大な軍事力のもと、世界を支配していました。その最盛期BC6世紀に、その王ネブカドネザル2世は、エルサレムのユダ王国を滅ぼし、ヘブライ人を捕囚としてバビロンに連行したのです。その強大な国、バビロンが、主の御手であるイスパニヤのクロス王によって滅ぼされたのです。主は、言います。「わたしは復讐する。復讐と報いは、わたしのもの」と。その滅びの現実が、47章で語られています。
 このように、46章では信仰の地イスラエルに、47章では異教の地バビロニアに神の言葉が語られています。
46章:担ってくださる方(1~4節)『ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる「彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼ら自身もとりこになっていく「わたしに聞け、ヤコブの家とイスラエルの家の全ての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお私は運ぼう。わたしは背負って、救い出そう(46:1~4)」。
 背く者たち(5~13節)ベルは、バビロンの神です。へブル語の「バアル」に対応する語彙です。人によって造られた偶像です。そしてネボはその息子です。バビロンの崩壊とともに運命を共にし、滅びました。バビロンは、ペルシャに敗れました。1節は、バビロンの民が、捕らえ移された時の話です。偶像は、金属、石、木で造られているため、かなりの重量があります。バビロンの民は、自分たちの神(偶像)を家畜と獣の背に載せて共に移動します。勿論、敵に見つかり,破壊されないように、荷物の中に隠してです。その気苦労で人は疲れ、家畜と獣は偶像の重荷で疲れ果てます。このように、ベルとネボは、バビロンの民の支えがないと機能していくことが出来ない偶像です。それに反して、イスラエルの民は、主に守られています。「残りの者」とは、主に反逆するイスラエルの民の中にあって、僅かに存在する、神を崇拝する人々です。この信仰の人ゆえに、主は、イスラエルの民の全てをお救いになります。一人でもご自分を求めるものがいる限り、主は、これをお救いになります。主は、イスラエルの民を、胎内にいる時から、白髪になるまで、担われており、彼等を背負って、お救いになるお方です。彼らの救いは、子々孫々に至るまで、契約によって保障されています。信仰とは、自分を支えてくださる主を敬うことです。奉仕とは、自分を担ってくださる方に感謝をもって応答することです。教会とは、神の素晴らしさの中にいる人々(信者)によって、祈られ、守られている場所です。
 「わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれに並べて、なぞらえるのか。「袋から金を惜しげなく出し、銀を天びんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。「彼らはこれを肩に担いで運び、下において立たせる。これはその場からもう動けない。これは叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。「このことを思い出し、しっかりせよ。背く者らよ、心に思い返せ(46:5~8)」。主は、自分の他には、比べうる神(偶像)はいない、と誇ります。偶像を造る者たちは、何もしてくれない偶像のために多額の費用をつぎ込み、これを拝みます。それゆえ、これは、叫んでも答えず、悩みから救ってもくれないのです。これが、偶像の現実です。主は、先には「残りの者」に語り掛けておられましたが、ここでは「背く者」に語り掛けておられます。偶像を求めることの虚しさを指摘し、しっかりして悔い改め、自分に立ち返りなさい。救いは近いと、激励しておられるのです。
 「遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。「わたしは、終わりのことを初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとを成就し、わたしの望む事を全て成し遂げる。』と言う。「わたしは、東から猛禽を、「遠い地から、わたしのはかりごとを行うものを呼ぶ。私が語ると、すぐそれを行い、わたしが計ると、すぐそれをする(46:9~11)」。遠い大昔のこととは、イスラエルの歴史における初期の出来事を指します。例えば、「出エジプト」の史実「過ぎ越しの救い」、「紅海の徒渉」「「荒野でのマナや水の供給」、「ヨルダン川の渡河」、「カナンへの侵入と占領」などを指します。それは神の行われた奇蹟であり、神のご計画の一環です。この世界には「イスラエルの神」以外の神はいないことを宣言しているのです。神は自らを「初めであり、終わりである」と言っています。初めのときに終わりのことを語られた永遠の神です。神は永遠の昔(創世記)から終わり(黙示録)まで人類の歴史を支配されている方です。そしてその預言と、神の希望されることのすべては、は成就されるのです。その希望とは、再生された「神の国」です。そこには悪魔の存在はありません。神はそのご計画を、自らの手では行いません。「遠い地から私のはかりごとを行うものを呼ぶ」といいます。それを猛禽と呼んでいます。その猛禽とは敏捷で、勇壮な鷲のような存在です。クロス王を指します。彼は、神のご希望を神に代わって迅速に行います。
 「わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルに私の栄光を与える(46:12~13)」。主はかたくなに主を拒否している者、イスラエルの民に言います。あなたがたは必ず救われる。だから、今、すぐに、悔い改め、神に立ち返りなさい、と。主の語られたご計画は成就すると言う視点から見るとき、イスラエルの救いは、必ず、実現するのです。それを主は保障しておられるのです。
 47章:神の復讐(Ⅰ~7節)「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上に座れ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地に座れ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。(47:1)」カルデヤとは、バビロンの雅名です。国、町、都は、ヘブル語では女性名詞です。それゆえバビロンもカルデヤもおとめ、娘と呼ばれています。おとめとは、男を知らない処女です。バビロンは、外敵に犯(侵)されたことのない処女のような美しい、強い国でした。その強国が、ペルシャのクロス王によって滅ぼされるのです。国を失ったカルデヤ人は、身分の高い上品な貴婦人からはしためにまでおとしめられるのです。これが戦いに敗れた国の運命です。「ひき臼を取って粉をひけ。おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。あなたの裸は現れ、あなたの恥もあらわになる。わたしは復讐する。だれ一人容赦しない」。ここまでバビロンはおとしめられ辱めを受けたのです。自由も失います。何故、強国バビロンは滅びの憂き目にあったのでしょうか。主は、仰せられます。「わたしは復讐する。だれ一人容赦しない」と。主の関与が明かされます。「私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。」主はクロス王を使ってその御業を行い、バビロンの罪を暴き、裁いて、滅ぼしたのです。
「カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみに入れ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ(47:5)」。バビロンは、その栄光はなくなり再生は不可能なまでに滅びました。この後、主は、バビロンを滅ぼした理由を明らかにしていきます。「私は、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し。彼らを、あなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。」譲りの民とは、神に選ばれた民イスラエルを指します。あなたとはバビロンを指します。主は、罪に満ちたイスラエルを裁く器としてバビロンを選びました。イスラエルの悔い改めがその目的でした。そこには愛がありました。しかし、バビロンは、その選びを誇って、高慢となり、その分を超えて、イスラエルの民を「捕囚の民」として、苦しめたのです。バビロンは「いつまでも、わたしは女王でいようと考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった(47:7)。」のです。バビロンの罪は、自分たちの繁栄が永遠に続くものと誤解し、高慢となり、主の民イスラエルを思いやることなく、その優雅な生活に終わりが訪れるとは夢にも思わなかったことです。
安逸の後の破滅(8~9節)「だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で,「私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう」と言う者よ(47:8)。私だけは特別だと、安逸をむさぼる女とは、バビロニアの民を指します。彼らは、その繁栄のもと飢え渇きのない生活を送っていました。やもめになると言うことは支配者である王を失うことを意味し、子を失うとは、国土や住民を失うことを意味します。要するに、戦いに敗れることを意味します。彼らは強固な軍隊に守られ、諸国との戦いに連勝し、不敗を誇っていました。その民に、主は語ります。「子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたくまにあなたに来る。あなたがどんなに多くの呪術を行っても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは、突然、あなたを見舞う。(47:9」。強い軍事力を誇り、不敗神話の中にあったバビロンも、主の前では、敵ではなかったのです。どんな呪術も、どんな呪文も効き目はなかったのです。バビロンは、主からの破滅の予告を「心に留めず、自分の終わりのことを思ってみなかった』だけでなく、「私だけは、特別だ。やもめにはならないし、子を失うことも知らないで済もう」と過信していたのです。この二つのことは絶対に起こらないと豪語していたのです。しかし、主は、この二つの災厄は、またたく間に訪れるであろうと預言されたのです。
「あなたは自分の悪に拠り頼み、『わたしを見る者はない』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。「私だけは特別だ(47:10)」「わたしを見る者がない」とは、神に対する恐れがないことを意味します。「あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた」。神に対する恐れの無い知恵と知識は、人を高慢にするだけです。『わたしは、特別だ』と、あなたを迷わせたのです。「しかしわざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることは出来ない。破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやってくる(47:11)」。神を忘れ、高慢になったあなたを主はお裁きになるのです。
「呪術への裁き」(12~15)「さあ、若い時からの使い古しの呪文や、多くの呪術を使って、立ち上がれ。あるいは役立つかもしれない。おびえさせること事が出来るかもしれない(47:12)」。この言葉は、あくまでも反語です。神に頼って立ち上がれば済むものを、使い古しの呪文や、多くの呪術を用いても、救いには何の役にも立たないことが語られています。「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こることを知らせる者を並べ立てて、あなたを救わせて見よ(47:13)。天文学や星占いの発祥地は、ここバビロンです。ここにも反語があります。神に頼らず、多くの偶像、占い師を並びたてて助言を求めるので、あなた(バビロン人)は、疲れ果てています。「見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。これは身を暖める炭火でもなく、その前に座れる火でもない(47:14)」。切り株につけられた火は、神を現し、焼き尽くす火とは、神の裁きを現します。罪びとであるバビロン人は、神の救いに預かることは出来ません。この場合の神は、身を暖める炭火でもなく、その前に座れる火でもありません。その罪を焼き尽くす神です。 「あなたが若い時から仕え行き来してきた者たちは、このようになる。彼らはおのおの自分かってに迷い出て、あなたを救うものはひとりもいない(47:15)」。若い時から仕え、行き来した者とはバビロンの権力者(王たち)を指します。かれらは、勝手に動き、神を敬わず、呪術や呪文などの偶像に頼ったがゆえに、神の救いに預かることはなかったのです。呪いの人は、神の裁きを受けます。それゆえ、あなたを救うものは一人もいないのです。

令和6年2月13日(火)報告者守武 戢 楽庵会


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