日常一般

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書簡集1 ローマ人への手紙 「行い」から「信仰」へ

2019年03月16日 | Weblog
  書簡集1 「ローマ人への手紙」 「行い」から「信仰」へ。
 はじめに
 「ローマ人への手紙(ロマ書)」は新約聖書の第6番目の書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書、「使徒の働き」)で使徒パウロによるローマ教会の信徒に宛てた書簡である。AD55年ごろ書かれパウロの神学思想が体系的に詳述されている。
この書は、パウロが間もなく訪れる予定の未知のローマ教会に宛てて、いわば神学的な自己紹介の書である。彼の信仰理解の核心を提示し、ローマ教会に福音を延べ伝えている。「福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にもすべて信じる者に救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に掲示され、信仰に始まり、信仰に進ませる。『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです(1:16~17)」。この言葉は本書の主題であり、この主題のもとに組織的に構成された書が「ローマ人への手紙」である。
本書は、第1部(1~8章)と2部(9~16章)に分かれており、第1部では、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである(3:28)」という信仰義認説がアブラハムの例を引いて述べられている。それなら神がモーセに啓示した律法は誤りだったのか、律法は罪なのか、という疑問が提示される。パウロはこれをきっぱりと否定される。信仰と律法と罪との関連が説かれる。第2部ではイスラエルの救いの歴史と、異邦人の救いの問題、キリスト教の倫理、信仰の軽重などがそれぞれ述べられ、最後に神の義を行動に移すように命じている。
 書簡集:
 新約聖書の最後を飾る書簡集はすべてで21書ありそのうちの13の書簡がパウロのものであるとされている。しかし、そのうち確実に彼のものと思われるものは「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」(第1、第2)「ガラテヤ人の手紙」「ピリピ人への手紙」「テサロニケ人への手紙」(第1)および、「ピレモンへの手紙」の合計7書である。その他の書簡については、新約聖書の目次を参照のこと。
 パウロ:
 キリスト教史最も重要な使徒のひとり。小アジアのタルススでローマの市民権を持つユダヤ人の家庭に生まれる。パリサイ派の一員としてキリスト教徒を迫害する。パウロは別名サウルと呼び、「使徒の働き」の中に、その回心とその後の活躍が詳しく述べられている。回心後のパウロは、異邦人伝道を使命とし、3回の伝道旅行でエーゲ海一帯に福音を伝えた。エルサレムで捕らえられたが、ローマ市民の権利として皇帝に上訴する。ローマに護送されるが、その扱いは緩やかであり、「こうしてパウロは満2年の間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエスキリストのことを教えた(使徒の働き、28:30~31)」しかしその後ネロ帝によって処刑されたという。。彼はキリスト教を普遍的宗教とした貢献者で、彼が各地の信徒に宛てた書簡が新約聖書の中に収められている。
 時代背景:
 前1世紀までにローマが国際舞台に登場してきた。この時イスラエルのユダヤ人たちは内部抗争に明け暮れ国は弱体化していた。これに乗じてローマはイスラエルに侵入しローマの支配下に置き属領とした。ローマは総督を派遣してこれを支配した。ユダヤ教はキリスト教の誕生と勢力の拡大によって新たな局面を迎えていた。多くのユダヤ人がキリスト教を受け入れた。ユダヤ教の指導者は危機感を抱いた。キリスト教ははユダヤ教の分派とみなされたり異端扱いされた。反キリストの指導者ラビや祭司は信心深いユダヤ人に対し「法の順守」を求めた。「行いの原理」を徹底することにより「信仰の原理」と対抗した。そこには両者のせめぎあいがあった。その当時の状況をパウロは次のように述べている。「この民のところに行って告げよ、あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることがないからである。神のこの救いは異邦人に送られました。彼らは耳を傾けるでしょう(使徒の働き、28:26~29)。これがエルサレムのまたローマの民の状況だったのである。パウロはかたくなな自国の民から離れて異邦人に向かった理由がここにあったのである。
 各章ごとの説明
 1-4章:本書の中心テーマはイエスキリストへの信仰を通して得られる救いである。パウロはアブラハムを引き合いに出してキリストによる神の恩寵を強調した。人が義と決定されるのは信者の側の信仰と、それに結び付いた神の側の恩寵によるものと力説する。またユダヤ人にも異邦人にも等しく神の恩寵は下りそこに差別はない子とも強調している。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です(1:16)」。
「ではどうなのでしょう。私たちは他のものに勝っているでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシャ人もすべての人が罪の下にあると責めたのです。それは次のように書いてある通りです。『義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない』(3:9-11)」。
「しかし今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によって証されて、神の義が示されました(3:21)」。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みによりキリスト・イエスによる贖いのゆえに価無しに義と認められるのです(3:23~24)」
 5~8章(救いの保証1):パウロは、主を信じる者は救いの約束を受け、罪と律法のくびきから解放されると論じている。ただし、律法や決まりごとは自分の行いが悪と気づかせてくれるゆえに善いものと見做している。反面、人間に出来ることは。罪の自覚を得ることのみで救済には至らないと結論付けている。救済は神からの恩寵によるものであって、信仰によって義とされ信じる者はイエスとともにあり罪から解放されるのである。すべての人が罪によって神から離れたように、イエスの償いによって、すべての罪は赦されるのである。
「しかし私たちがまだ罪びとであったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(5:8)」。
「罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です(6:23)」。
「けれども、もし神の御霊があなた方のうちに住んでおられるなら、あなたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません(8:9)」。
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのこと中にあっても圧倒的な勝利者になるのです。わたしはこう確信しています。死も、いのちも、み使いも、権威ある者も、いまあるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも、深さもそのほ、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません(8:37~39)」。
 9~11章(救いの保証2):「神が選んだイスラエルに対して神ご自身が忠実であられたことに触れ、同じように神は信じる者に忠実であられることを思い起こさせる。パウロはご自身がイスラエルの一員であり(11:1)、かつてキリスト者を迫害していたため、イスラエルの民がみな神から選ばれた民であることに気づくことを望んでいる。パウロは神がイスラエルを選んだように、キリストを信じる者を新しい民として選ぶという。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(10:9~10)」。
 12~15章前半:パウロは福音がいかに人を変えるか、そして替えられた人はどのようにふるまうべきかを宣べている。さらにユダヤ教の習慣を固守すると、そうでない人々の間に緊張関係を生ずることについても宣べている。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は神のあわれみのゆえに、あなた方にお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」。
 15章後半~16章(信じる者を変える福音)書簡の終わりにパウロは今後の旅行の計画を宣べ、最後のあいさつで手紙を終えている。
「兄弟たち。私はあなた方に願います。あなた方の学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざか りなさい(16:17)」。
 本書の区分
「ローマ人への手紙」は教理的な書で4つの部分に分けることができる。
1、義の必要について(1:18~3:20)
2、義が与えられることについて(3:21~8:39)
3、義の証明について(9:1~11:36)
4、義を行動に移すことについて(12:1~15:13)
 上記で明確にわかるように、この書簡のテーマは「義」です。聖霊に導かれて、パウロは全人類の罪について書いています。彼はこの書において、神のみ言葉の真理(義)について語っています。
 義:神の正しさ、また人の神の前での正しさ。キリストが律法を終わらせたので主を信じる者はすべて義人とみなされた。
 著書パウロはこの書簡を書くにあたり書記テルテオの助けを借りている。
平成29年3月12日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会


ヨハネの福音書2 13章~21章

2019年03月04日 | Weblog
  ヨハネの福音書2
 はじめに
ヨハネの福音書には、我々の人生における大切な多くの教えと死後における永遠についての教えが提示されている。
1.イエスが旧約聖書で預言されたユダヤ人のメシアであることの実証から始まり、
2.主がイエスをメシアとして遣わされた理由と目的を実証し、さらに他の福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が出来事に焦点を与えているのに対して、主の霊性に目を向けている。肉から霊へ、本書はマタイ、マルコ、ルカの集大成(イエス観の斬新的高度化・高度なキリスト論への移行)として位置づけることができる。
3.福音のメッセージは神についての真理とイエスが我々の救い主であることの真理をたとえ話を用いて我々に伝えている(告別の説教 14章~17章)。

 >ヨハネの福音書の特徴
 「時の始まり」に目を向けよ
 共観福音書が弟子たちに「時の終わり」を警告するのに対して、ヨハネの福音書は「時の始まり」に目を向けることを命じている。ヨハネの福音書は有名な劈頭部分で宇宙の開闢を語り、「はじめに言葉があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」という。ヨハネが言及しているのは、言うまでもなく「創世記」の冒頭である。はじめに広大で形なき混沌、闇、そして深淵があり「神の霊が水の面を動いていた」。そして太陽、月、星々の前に、まず光があった。「神は言われた『光あれ』。こうして光があった」すなわちヨハネはイエスを神の言葉のみならず、そこにあらしめられた神の光とも同一視する。「その光は、まことの光で、世にきてすべての人を照らすのである」そして「終わりの時」を問おうとするものを諫める。「共観福音書」がイエスを神の使者である「人間」と見做しているのに対して、「ヨハネの福音書」はイエスを人間の姿をまとった神自身の「光」としている。
 宮きよめ3つの福音書は一致して宮きよめの叙述をイエスの公的生活の最後に置いている。それに対して「ヨハネの福音書」はこの叙述を公的生活の最初の置いている(1;13~22)。3つの福音書によれば祭司長たちが最終的にイエスの逮捕を決定した契機は宮の内部では禁じられている商行為を行う両替商に対するイエスの襲撃であった。「マルコの福音書」によれば「祭司長や律法学者たちはこれを聞いてイエスをどのように殺そうかと謀った(マルコ11:15)」と述べている。そしてマタイもルカもイエスの逮捕はこの事件の直後であったという点でマルコと一致している。だが「ヨハネの福音書」はこの事件を物語の冒頭に置き、イエスの布教活動のすべてを神の崇拝にあるとし、宮の浄化・改革をその一環としたのである。それほどエルサレムは穢れていた。エルサレムの指導者たちは、これを正そうとはせず、逆に商人たちと結託して私利私欲に走っていた。そこでイエスの逮捕の原因を説明するために、ヨハネは他の福音書には全く登場しない「ラザロの死からの蘇生」の奇蹟を挿入したのである。この奇跡はエルサレムの民の心に感動を与え、イエスに対する信仰心を高めたのである。反イエスの指導者たちはこの状況に危機感を持ち、その影響力を削ぐためにイエスとラザロを殺そうと謀った。そのはかりごとはイエスの磔刑によって実現する。
 >告別の説教:イエスのその生涯は果たしてなんであっただろうか。彼の意図したものは何一つ実現しなかったのではなかろうか。確かに彼は多くの奇跡を行い、多くの民をいやしてきた。イエスの行くところに民は集まった。しかしイエスは言う「彼らは奇跡を信じても私を信じない」と。そこにはエルサレムの民に対する絶望があった。メシア像にしても、イエスの考えるメシア像と民の求めたメシア像は異なっていた。民の求めたメシア像は政治的なメシアであって、ローマの支配からの解放であった。それに反してイエスの求めたメシア像は、あくまでも霊的なメシアであった。それを知ったエルサレムの民は絶望して、イエスから離れていく。そしてイエスを十字架にかけた者もまた彼らであった。
 このような絶望的な状況の中で行われたのが、「最後の晩餐」であった。イエスは自分の運命を悟っていた。自分を遣わした方のところに戻っていくにあたって、託すべき弟子たちはあまりに弱かった。強くなってほしかった。それゆえに行われたのが「最後の説教」であった。自分が去った後に、愛すべき民がサタンの誘惑に陥らないようにとイエスは神に祈った。神の恵みを授かるためには、わたしとわたしを遣わした方をあなた方は信じなければならない。枝は幹につながっていなければ実を結ぶことがないように、「あなた方も私を離れては実を結ぶことはできません」とイエスは説く。「あなた方がわたしを選んだのではありません、わたしがあなた方を選んだのです」「あなた方は、穢れた世間からわたしによってえらばれた選民なのです」「だから、わたしを愛しなさい、わたしの言葉を守りなさい。その時、わたしはあなた方の上に自分を現すのです」。
「父なる神は、わたしをこの地に遣わしたと同時に助け手として「聖霊」も遣わした」。「聖霊はあなた方とともに住み、あなた方のうちにおられます」「その方は真理の御霊です」。父(神)と子(わたし)と聖霊(助け手)。三位一体の神があなた方がわたしを信じるならば守ってくれると保証する。結論としてイエスは言う「このことを話したのは、これからどんなことが起こっても、あなた方がおたおたしないためです」と。
 聖 霊:キリスト教では3位一体(父と子と聖霊)の神の、第3の位格。一般的には聖霊とは神の活動する力を指す。父なる神は聖霊を送り出し、そのエネルギーによって、その言葉によって、その行動によって、いつでもどこでも、そのご意志を成し遂げられる。それは肉眼では見ることはできないが、その力の働いている結果を見ることができる。主は自分の霊によって次のことを行われた。
1、宇宙を想像した。
2、聖書を筆記させた。
3、古代の主のしもべたちに熱心な宣教を行わせた。
しかし「ヨハネの福音書」は、次のように述べている。
「わたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい。父にもう一人の助け主を送っていただくよう、お願いしましょう。その助け主は。絶対あなた方を離れません。その方とは聖霊、すなわち、すべてへの真理へと導いてくださる御霊のことです。この御霊はあなた方とともに住み、あなた方のうちにおられるからです(14:15~21参照)」。聖霊は善なるお方、あなた方とともに住み、あなた方とともにおられるお方。聖霊は言う「あなた方に贈り物をあげましょう」「そう、あなた方の思いと心を安らかにしてあげる。それがわたしの贈り物ものです。わたしが与える平安は、この世が与える、はかない平安とは比べ物になりません」。
 トマス;トマスはキリストの12弟子のひとりである。復活したイエスが弟子たちの隠れ家に顕現したとき、トマスはその場所に存在しなかった。弟子たちがトマスにイエスが自分たちの前に顕現した話を聞いても彼は信じなかった。
「主のみ手に釘跡を見、この指をそこに差し入れ、この手を主の脇腹に差し入れてみなきゃ、信じるもんか」と言う。イエスが再びトマスの前に現れ傷口を見せた時、トマスは初めてイエスの復活を信じたのである。イエスは言う「私を見たから信じたのですかしかし見なくとも信じる者は幸せです」と。経験的真実=科学と見なくとも信じる=信仰の対立を見ることができる。

  >各章ごとの説明
 前半(1~12章)がイエスの公生活について語っているのに対し、後半(13~21章)は、最後の晩餐から、捕縛、裁判、十字架刑、復活、顕現、「羊を飼いなさい」と福音宣教への導きで終わっている。
 13~17章:最後の晩餐の席でイエスは弟子たちの足を洗い、自分を裏切るものの存在を明らかにし、互いに愛し合うように戒め、自分自身の死を預言して、仲間を連れずに一人でその場を立ち去る(13章)。14章から16章はいわゆる「告別の説教」と呼ばれており福音書の中で唯一独特のものである。イエスはこの地を去るにあたって弟子たちに霊的な秘密を明らかにする。17章では自分がこの地を去ったのちに主の恵みが弟子たちに充てられるよう祈る(独白)。イエスは弟子たちを愛してはいたが必ずしも信じてはいなかった。再三再四にわたって、わたしとわたしを遣わした方を愛せよと教え導く。わたしとわたしを遣わした方の同一性を強調する。それ故、わたしを愛したものはわたしを遣わしたものを愛するのだという。さらにわたしを遣わしたものは同時に慰め主(聖霊)もこの地に遣わす、と言う。わたしを遣わしたもの=神、わたし=御子、慰め主=聖霊。神と御子と聖霊=三位一体の神が現れる。これも他の福音書には見られない独特のものである。イエスは御自分を「まことのぶどうの木(幹)」であり、「あなた方(弟子)は枝である」と述べ、枝は幹なしに存在しえない、と語り、「わたしにとどまる」ことを命じる。「世」と「選ばれたもの」の関係を説き、聖霊の御業を語り、わたしが遣わされた方のもとに戻ることの意味を語る。そこには「死」と「復活」と「召天」が語られている。「あなた方は、世にあって患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と勇気づける。
 18~19章:イエスは裏切られ、捕らえられ、裁判にかけられ、死を宣告される。ローマの総督ピラトはイエスの主張する王はあくまでも霊的王であって、政治的王ではないと知り、イエスの無罪を確信する。しかしエルサレムの反キリストの指導者たちは、納得せず、十字架刑を要求する。民衆の力を恐れたピラトは、イエスを反キリストの指導者に引き渡す。彼らはイエスに十字架刑を宣告する(18章)。十字架の上で、イエスは「私は乾く」と言われ、酸いぶどう酒を飲まれると「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。イエスの弟子アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を引き取り埋葬する。その日は安息日の備え日であった(19章)。
 20~21章:イエスの顕現 復活されたイエス・キリストは墓の前にいたマグダラのマリヤに御姿を現され、その後、ユダヤの指導者を恐れ隠れ家に潜んでいた弟子たちの前に現れ「平安があなた方にあるように」と言う。イエスの復活を信じないトマスの前にも現れ自分の復活を証明される。さらにイエスはガリラヤの海で弟子のうち7人の前に現れ不漁を大漁にするという奇蹟を行い自分をイエスであると証明され、ペトロに対し「私の羊になれ」と福音宣教において弟子たちの前に立てとお命じになる。
>平成29年2月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会