申命記
総 論
申命記を持ってモーセ5書(創世記、出エジプト、レビ記、民数記、申命記)は終了する。申命記の意味は重ねて申し述べる、と云うことであって、これまでの著述と重複する場面が多い。「申命記」はモーセが死に臨みイスラエルの民に与えた遺言(申命記1:1、32:45)と云ってよいであろう。思い出やら、神との約束などが述べられている。
申命記は4つの説話にまとめることが出来る。
第Ⅰの説話(1章~4章)40年にわたる荒野における放浪が語られ、神への信仰を説く。
第2の説話(5章~26章)は申命記の中心部分を成し、前半の5章~11章で十戒が繰り返し語られ、後半の12章~26章で律法が語られる。
第3の説話(27章~30章)では、イスラエルの民の神と律法への従順、契約の確認、従順なものへの祝福と、不従順なものへの呪いが言及される。
第4の説話(34章)で、モーセの死後、後継者としてヨシュアが神から任命される。
その後、補遣と云われる部分が続く。すなわち32章1~47節で「モーセの歌」が、33章で、これも歌の形でイスラエルの12部族への祝福が語られる。34章でモーセの死と埋葬が描かれている。しかし、モーセは旧約聖書最大の偉人でありながら、その墓は誰も知らない、と聖書は語っている(34章6節)。モーセの死をもって申命記は終わり、モーセ5書は閉じられ、ヨシュア記に引き継がれる。
旧約聖書を貫く思想
モーセ5書(旧約聖書)を貫く精神とは一体、何であろうか?それは、1、神への絶対的信仰であり、2、その神とアブラハムとの間に交わされた契約であり、3、神がモーセに与えた「十戒」の三つであると、私は考える。そこには、神とイスラエルの民との特別な関係があり、神に選ばれた選民としてのイスラエルの民がある(申命記7章6節)。
カナンの地の授与と、子々孫々に渡る増大繁栄の契約(創世記17章2~8節)は決して片務的な契約ではない。神はイスラエルの民に「わが前で完全であれ(創世記17章1節)」と命じている。完全であれ、と云いう事は神である主に対し絶対服従せよということを意味している。更に、神はイスラエルの民に十戒を与え、それを子々孫々にわたって守ることを命じた(申命記4章13~14節)。これが「わが前で完全であれ」と云う意味である。
それでは十戒とは何であろうか。モーセはイスラエルの民に云う。「主は自分の言葉をあなたがたに告げ、それを行うように命じられた。10の言葉(十戒)である。それを二枚の板に書き記された(申命記章:13節)」。聖書をもたない人のために10の言葉(十戒)を説明する。
1、わたしはあなた達の神、唯一にして全能の神である。あなた達は私以外のどんなものも神としてはならない。2、偶像を作って神としてはならない。わたしは嫉妬深い神であるから私を憎む者には、子孫にまで罪を問い、私を愛し、私の戒めを守る者には末代まで慈しみを与えよう。3、神の名をみだりに唱えてはならない。4、週の7日目を安息日とし、いかなる仕事もしてはならない。5、父母を敬え。6、殺してはならない。7、姦淫をしてはならない。8、盗んではならない。9、偽証してはならない。10、隣人の家、妻、奴隷、家畜など一切のものを欲しがってはならない(申命記5章:7~21節、出エジプト20章:2~17節)。このように、1~4は、神と人との関係を定めたものであり、神に対する人のあり方が啓示される。5~10は、人と人との関係を定めたものである。このように神の啓示がもととなり「十戒」が定まり、モーセはこの十戒をもとにして、多くの律法を定めた。
この二つの精神は、今日までのイスラエルの全歴史を規定している。
信仰とは何か
信仰とは先に述べたように「神への絶対的服従」である。聖書は言う「神の声は読むのではなく聞きなさい」と。読むとは解釈であり、聞けとは信仰である。
人間の理性は、論理整合性を求め、それに絶対的価値を置く。しかしこれによって、世界を完全に理解できるだろうか?人間の理性には限界がある。万物は神によってつくられ、人間の理性はそれを発見するか、せいぜい応用するかである。神とは人知を超えた存在である。神は人の理解の外にある。それは信仰の対象であって、理性よって理解すべきものではない。それゆえ、人のこざかしい理屈や、貧弱な経験をもって、神に逆らってはならない。しかし、シナイの荒野でイスラエルの民は神に逆らってばかりいた(9章7節)。しかし、神は自分に逆らうものは徹底的にこれを呪い、罰したが、イスラエルの民との契約を反故にすることはなかった。神はイスラエルの民を愛していた。恋い慕っていた。だから、イスラエルの民に自分を敬い、愛し、恐れ、信仰することを求めたのである。他の神を信じることを嫌い、これを排した。神は嫉妬深い悪女のようなものである。自分を愛する者はこれを祝福し、嫌うものはこれを徹底的に呪い、罰した(申命記28章全)。しかし、自分の犯してきた誤りを認め、神への信仰に目覚め、悔い改め、懺悔するなら、それを許し祝福する心が神にあるのだということを申命記は示している。それは、新約聖書に繋がるものである。
神の切り札「出エジプト」
神の助けによって、「出エジプト」を果たし約束の地「カナン」に向かうものの、イスラエルの民は、直ちに困難に直面する。まず、飢えと渇きに襲われる。更に、強大な敵が行く手を阻んでいる。イスラエルの民は不安と恐怖に襲われる。こんな時、カナンの地の授与と、民の増大繁栄を約束されても、にわかには信じがたい。それはあくまでも将来のことであって、目には見えない。確実性の保証は無い。現在の困難とは関係が無い。差し迫っているのは飯であって、神様ではない。その上、律法が与えられ、「わが前で完全であれ」と云う。自分の生活を縛りつけようとする。イスラエルの民がこれに反抗するのは当然である。神は、イスラエルの民を選び、これを宝の民とした。しかしイスラエルの民がこの神を選んでこそ、この契約は双務契約(契約定式)となり、成立するのである。
その為に神は何度も「私はあなた方をエジプトでの奴隷状態から救いだした神である」と宣言する。「その為に数々の奇跡を行った事をあなた方の眼で見たではないか」と諭す。目に見えない契約を、目に見える姿で示し、これを証明しようとする。そして「私の力を信じろ」と、説く。まさに悪女の深情けである。そして自分を信じた者への恵みと、祝福を示し、自分に逆らった者への罪と呪いを示す(申命記28章)。モーセは、神とイスラエルの中に立って苦労する。神は云う「私はあなた方の神=主である」「われ聖ければ、汝ら聖くなるべし」「あなたは私の民となり、私はあなたの神となる」と、モーセはイスラエルの民に何度も云う「あなたは、あなたの心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神=主を愛さなければならない」と。
律法の授与
モーセは律法について次のように云っている。「これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地であなた方が生きる限り、守り行わなわなければならない掟と定めである(申命記12章1節)」と。律法については12章から26章まで述べられているが、長い文章になるので項目をあげるにとどめる。
1、掟と定めの告知、2、偶像破壊命令と奉納規定、3、中央聖所での奉納と会食、3中央聖所での儀礼、4、領土が拡張された場合の処置、5、異教の儀礼に従うことへの警告、6、神の言葉を改変することへの警告、7、他の神々を礼拝する者への警告、8、守るべき食物規定、9、7年目の負債の免除、8、7年目の債務奴隷の解放、9、初子の奉納、10、中央聖所での過越祭、11、中央聖所での七週の祭り、12、中央聖所での仮庵祭、13、中央聖所での三大祭り、14、地域に対する裁判人と役人の任命、15、中央裁判所への判決の威信、16、王の職責規定、17、神の前に仕える者の職責規定、18、神の言葉に仕える者の職責規定、19、逃れの町、20、地境の移動、21、偽証の排除、22、戦争規定、23、犯人不明の屍体処理、23、捕虜の女性との結婚、24、長子の特権、25、両親に反逆する息子、26、木に架けられた者の埋葬、27、同胞の遺失物の保護、28、忌み嫌うべき服装、29、母親の保護、30、屋根の欄干設置、混ぜ合わせることの禁止、31、衣服につけるべき房、32、処女の証拠、33、姦淫の処罰について、34、処女に対する暴行、35、婦女暴行の償い、36、父の妻を妻とすることの禁止、37、集会から除外すべき者、38、先陣を清浄に保つこと、39、逃亡奴隷の保護、40、神殿浄化のための規定、41、利息の取得について、42、誓願の遵守、43、畑の収穫物について、44、再婚についての規定、45、兵役免除の特例、46、挽き臼の質入れの禁止、47、同胞誘拐犯の処刑、48、ツァーラアトの処置、49、担保を取る際の配慮、50、日雇い人への賃金の支払い、51、個人に帰せられるべき罪責、52、弱者が持つ権利への配慮、53、収穫作業に関する規定、54、鞭打ち刑の執行について、55、脱穀する雄牛の口籠、56、レヴィラート婚の拒否、57、喧嘩と儀礼的なタブー、58、正しい秤と升、59、アマレクの記憶の抹消、60、中央聖所での初物の奉納と告白、61、中央聖所での十分の一奉納と潔白の祈り、62、契約締結。
律法の中には弱者に対する配慮があるのは注目される。また新婚の夫には兵役が免除されると云う粋な計らいがあるのも面白い。イスラエルの律法を貫く精神とは先にあげた「われ(神)聖ければ、汝ら聖くなるべし(レビ記11章45節)」である。律法は、イスラエルの民が聖別された者として、神に愛される者としてのあるべき姿を示したものにほかならない。「わたしはあなた方の神=主である」。私たちが神の聖さの前に愛と畏れと敬虔な気持ちを抱かぬ限り律法は死文と化してしまうのである。
最後の説話(27章~30章)
ここに述べられている事は、モーセ5書のまとめと云って良いであろう。ここには、イスラエルの民の、神と律法への従順、契約の確認、従順な者への祝福と、不従順な者への呪いが言及される。モーセは言う「私はきょう、あなた方に対して天と地とを、証人に立てる私は、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神=主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住むことが出来る(申命記30章19~20節)」と。イスラエルの民はシナイの荒野で、神に対する不信仰、反逆、異教の神への帰依、等々主なる神に逆らってきた。それは、神がイスラエルの民に与えた試練の結果であった。その試練は神がイスラエルの民に与えた愛情であった。しかし、彼らはそれを理解できなかった(申命記29章4節)。彼らは死に、モーセもアロンも約束の地に入ることは出来なかった。後をモーセの参謀ヨシアに託して死んでいく。
平成26年10月14日
報告者 守武 戢 楽庵会
報告者 守武 戢 楽庵会