大洪水(ノアの方舟)・バベルの塔= 人類の罪
大洪水(ノアの方舟)の話しと、バベルの塔の話しは共に旧約聖書の創世記の中に描かれている。ノアの方舟の物語は5章28節~9章にわたって描かれており、バベルの塔の物語は11章1節~8節に渡って描かれている。共に個人の罪では無く人類の罪に関する話しである。
大洪水の存在や、ノアの方舟、バベルの塔などの存在を歴史的事実として実証しようという試みがなされているが、それに関しては、歴史学者、宗教学者に任せるとして、聖書が語りかけるこの物語の真意とは何かについて考えてみたい。
聖書は次のように述べている『地上には人の悪がはびこり、その心が図る企てという企ては終日、ひたすら悪であった。』『地は神の前に破滅していた。地は暴虐に満ちていた。』『神は地上に人を作ったことを悔やみ、心に痛みを覚えたのである。』この結果、神は人を含めて自らが創造したもの全てを大洪水を起こして滅ぼすことを決心した。しかし、神の義に生きるノアだけは救うことにした。神はノアに神示を下す。方舟を作ることを命じ、その作り方を指示し、ノアの家族と、あらゆる生物のオス、メスの一対と、その生き物が生活するために必要な食糧を方舟に乗せるよう命じた。ノアは神の指示どおりに動いた。そして神は7日後に大洪水を起こした。40日間大洪水は地上に荒れ狂い、方舟に乗ったもの以外の生きとし、生きるもの全てを滅ぼした。そして大洪水は収束する。
ノアは主のために祭壇を築き、全焼のいけにえをささげた。
神は再びノアに神示を下す。ノアの子孫が繁栄するように、生めよ、増えよ、地に満ちよと命じる。そして、このことが重要なのであるが、大洪水を起こして二度と人類を滅ぼすことは無いと誓う。その証として神は、7色の虹を空にかけ、ノアに云った『これが、私と、地上の全ての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。』と。虹は美しく輝いた。これが神と人との最初の契約である。
人の罪により大地は呪われる。大洪水はそれを象徴している。これはアダムが犯した罪(3章17節)、カインが犯した罪(4章12~14節)にも照応している。人の罪は大地を呪われるものにしたのである。大地を人の世と言いかえても良いであろう。
バベルの塔の話は神と人との深刻な葛藤を表している。アダムとエバはその罪によって永遠の命を失い有限なる存在になった。しかし人の欲望は、永遠の命を願い、神に近づこうとする。それを象徴するものがバベルの塔の話しである。人は生き続けたいと云う欲望を持つと同時に、有限であるという絶望に苛まれる。その矛盾の解決として人は自らを神にしようとする。それがバベルの塔の話である。天までも届く巨大な塔を建て始める。この時、人は一つにまとまっており、共通の言語を話していた。主は仰せになった『彼らが皆、一つの民、一つの言葉で、このような事をし始めたのなら、彼らがしようと思うことで、とどめられる事は無い(11章6節)』と、とどめられる事は無いとは、人が神になることを中止できない、と云うことである。神は人が示した自らに対する傲慢な態度に恐れ、怒り、言語を混乱させて、塔の建設を中止させる。そして主は人々をそこ(バベル)から地の全面に散らしたのである。バベルとは乱れると云う意味である。神に近づこうとした人の、智慧や努力ははかなくも神の前では無力であることを証明したのである。
以上が聖書に表されたノアの方舟と、バベルの塔の物語である。これは先に述べたように、アダムとエバ、カインの罪ような個人的な罪ではなく、人類の罪である。
人は神なき世界を生きることができるか?これはおそらく永遠の課題であろう。神の前では、人は全く無力であり、神を信じ、それに従って生きることが最上の幸せであると聖書は説いている。しかし人は智慧の実を食したことにより、智慧を身につけ自分を主張するようになる。それが「我」である。その「我」は神を離れて積極的に生きようとする。そこに人の主体的な活動がある。かくして人は神を疎外し、神から疎外され、罪ある存在となる。
それでは「罪」とは何か?それは鏡の中の自分に似ている。神から自立した人は、鏡の中に自分を疎外する。鏡の中の自分を自分自身であると錯覚する。しかし『鏡文字』と云う言葉があるように、左右が対照になっており、決して自分ではない。それはあくまでも虚像であって実像ではない。似て非なるものである。実像と虚像は逆転する。人はこの虚像に支配される。人は鏡をはさんで裏と表に別れる。正と邪に分かれる。しかし、虚・実の違いはあっても、それは同じ人間の裏表である。そこに矛盾が生まれ、葛藤が生じる。これを解決し、正の世界を取り戻すためには、鏡を破壊しなくてはならない。しかし、人は自らの手でそれを成す事は出来ない。なぜならば鏡は人そのものだからである。超自然的な力を必要とする。それが神である。
実像を失った人にはその中心軸となる神は存在しない。放縦に流れる。それを見た神は『このような人間の住む世界は破滅しており、暴虐に満ちている』、『罪に満ちている』と考える。神はこの世界を滅ぼそうと決心する。罪に満ちた鏡は破壊されねばならない。
今、人の世は再び神の前で破滅している、暴虐に満ちている。
人はその智慧で文化を作りだした。それは発展し、人の富は増大した。人は神なしで生きられると錯覚し、神を忘れた。傲慢となり、今、再び、天に届かんばかりのバベルの塔を築きつつある。しかし、その結果、物は豊かになったが、心は貧しくなった。地球上の格差は拡大し、自然は破壊され、人間同士の争いは絶えることが無い。このことは時代の進歩は、その根本において罪の問題や無常の問題を免れ得ないと云う事を表している。人はこれを自らの手で克服できるのか?このように、今、神が大洪水を起こす前と同じ現象が繰り返されている。ここに人類の罪がある。神は再び大洪水を起こし人類を滅ぼすのか?しかし、神は人との前で、大洪水を起こし、再び、これを滅ぼすことは無いと契約している(9章11節)。七色の虹はその証である。契約は守られねばならない。
その一方で終末を説く、その事を聖書はいたるところで説いている。その一つを新約聖書・マタイの福音書24章:35節~39節)から引用しよう『天地は過ぎゆかん、されど我が言葉は過ぎ往くことなし。その日その時を知るものなし、天の使いも知らず子も知らず。ただ父のみ知り給う、ノアの時のごとく人の子の来るも然あるべし。曾て洪水の前ノアの方舟に入る日までは、人々飲み食い、娶り嫁つがせなどし、洪水の来りて悉く滅ぼすまでは知らざるき、人の子来るも然あるべし。--------この故に汝らも備えおれ人の子は思わぬ時に来ればなり』。
その前に備えよと説く。信仰に目覚めよと説く。贖いの無い罪は無いと説く。人は自らの手でこの終末を回避できるのか?今、天変地異が世界各地で起こっている。これを終末の予兆と見なす人は多い。
ここには人間存在の本質とは何かが問われている。人と神との葛藤が描かれている。人は、神なき世界を生きる事が出来るのか?根源的な問題が提起されている。
人は、生き続けたいという欲望を持つ。それは永遠なる神に近づきたいと云う欲望である(バベルの塔の話はこれを示している)。しかし、人は全て死す。そこには有限なる人の持つ絶望がある。その両者の間の葛藤の中から虚無が生まれる。人は、その智慧や努力によって神にはなれない。それ故、無常や生滅から離脱できず、虚無に陥る。このことは人間の営みは、その根本において、「業」から免れない、と云う事を示している。人は生まれながらにして罪を背負っている(8章21節)。大洪水は悪と暴虐に満ちた人を滅ぼしたが、人間の心の悪は清めなかった。大洪水、バベルの塔、ソドムとゴモラの街の破壊(後述する)、の話はすべて神から人は離れる事は出来ないと云う事を示している。
個人としての人の救いが、キリストの十字架上での死と復活によって贖われたように、人類の救いは終末によって贖われなければならない。ここにキリストが再臨し、最後の審判が行われる。神に対して義なるものが救われる。共にその中心にはイエスがいる。イエスは復活によってキリスト(救い主)となったのである。
平成25年12月10日(火)
報告者 守武 戢
楽庵会
報告者 守武 戢
楽庵会
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