イザヤ書Ⅹ 25~26章
はじめに:25章からは歌が始まります。大患難時代が終わり、神の国が立てられたときに、つまり主の救いが完成したときに歌う歌です。主は必ず、私たちに「神の国」を与えてくださいます。それがイスラエルに対する神の契約です。(アブラハム契約)神はアブラハムに「汝が我が前に全きものであるなら、汝に大地を与え、子々孫々の増大繁栄を約束しよう」、と契約しています。その彼方には、「神の国」があります。しかし「神の国」はイスラエルの民にだけでなく、イスラエルを起点として全世界にまで広げられねばなりません。これが、「昔からの神の不思議なご計画(25:1参照)」なのです。主は語られた言葉を必ず成就してくださるお方です。しかし、これは、未来完了の世界です。あくまでも預言の世界です。キリスト者にとっては、確信をもって、忍耐をもって待ち望む信仰の世界であっても、非キリスト者とっては神話であり幻にすぎません。異邦の民、異教の民(非キリスト者)に対する福音伝道の難しさが、ここにあります。この難しい伝道の仕事に神はサウロ(パウロ)を選んだのです(「使徒の働き」前半9:15)。回心後、彼は異邦伝道の仕事に励みます。その活躍には目覚ましいものがあります。彼は世界の果てローマにまで足を延ばしています((「使徒の働き」後半部分参照)。当時の民にとっては、世界は狭く、ローマは世界の果てだったのです。文明と野蛮、ローマ以外の地は、当時の民にとっては、野蛮の世界だったのです。
25章:「「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を忠実に成し遂げられました(25:1)」。このように、25章は、神への賛美、信仰告白で始まっています。イスラエルの民の滅亡と回復は、主なる神が遠い昔からの揺るがない真実をもって行われた「不思議なご計画」だったのです。このご計画は、創世記から黙示録まで、天地の創造から神の国まで、と、神の壮大なご計画を指しています。
成し遂げられました:しかし、この壮大なご計画は、実際には、成し遂げられていません。あくまでも預言であり、未来完了の世界です。キリストの再臨、千年王国、神の国は預言の世界であって、人が確信をもって待ち望む世界です。未だ来ていません。しかし、主は、語られた言葉を必ず成就してくださるお方です。再臨の主は、エルサレムに戻ってこられて、そこから世界を統治されます。この確信に立つ時、人は生きる望みを回復するのです。
「あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町から失せ、もう、永久に建てられることはありません。それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます(25:2~3)」。あなた:神である主。町、城壁のある都、他国人の宮殿、横暴な国々の都、:新バビロニヤ帝国の都、捕囚の地バビロンを指します。力強い民:残された者。民の多くは神に不従順でしたが、その中のわずかな者=残されたものは神に従順であったのです。神はバビロンを滅ぼします。
「あなたは、弱っている者の砦、貧しい者の悩みのときの砦、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹き付けるあらしのようだからです。砂漠の日照りのように、あなたは他国人の歌を抑え、、濃い雲の影になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます(25:4~5)」。主は暴虐な者の勢い、騒ぎを鎮めてくださいます。
「万軍の主はこの山の上で万民のために、油の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い油みとよく漉されたぶどう酒の宴会を催される。(25::6)」。千年王国は、大きな宴会で始まります。終末の日,神が準備される宴会の様子が描かれています。地上の酒宴は裁きの日にすべて廃止されますが、天上では豪勢な食事と最上のぶどう酒によって宴会が開かれます。神は自身の正義を示された後に残された者を招いて彼らを祝福してくださるのです。
「この山の上で、(神は)万民の上を覆っている顔覆いと、万国の上にかぶさっている覆いを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ(25:7~8)」。このように、神の祝福は、次の4つの事項によって描かれています。それは、1,顔覆いが取り除かれること(25:7A):罪から解放されて、主の栄光を反映させながら栄光から栄光へと、主と同じ形にその姿を変えていきます。2,永久に死を滅ぼされる(25:7B):復活の祝福が語られています。3,「「神」は涙をぬぐってくださる(25:8A):罪に汚れた人生を歩むことは、涙多き人生です。しかし、その日、神はその嘆きの涙をぬぐい、喜びに変えてくださるのです。4、私たちの恥やそしりを取り除いてくださる(25:8B):これは異教の国、異邦人からの、神の民としての謗り、信仰に対する謗り、神への献身に対する謗り、神の働き人に対する謗りを指します。神、はこれらの辱めや厳しい謗りから解放して下さるのです。これらはイザヤが語った神からの終末時の預言です。神を信じる者にとっては、その日は、待ち望まれるべき日であり、必ず実現される喜びの日なのです。「その日、人は言う。『見よこの方こそ、私たちが待ち望んだ私たちの神この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう』(25::9)」。
神なる主は、我々を救ってくれるだけでなく、我々を苦しめていた異教の民を、裁かれるのです。モアブはその象徴として現れます。モアブはシオンの山、エルサレムの東にある国です。神に逆らい続け、自分を信じて己の力に頼ったがゆえに、主はその高ぶりを低くされ、その城壁を引き倒して、低くし、地に投げつけて塵にされたのです。黙示録に現れる悪魔かもしれません。
26章:『その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。志の堅固な者を、あなたは全く平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから(26:1~4)』。
その日:ユダに敵対したモアブの裁かれた日。「終末の日」。世界が裁かれ、正しい者たちは回復されます。救いの感謝を詠って神に感謝しています。強い町:「終わりの日」ゆえに天上の神の都と考えることが出来ます。千年王国と、その後に続く新天新地のことです。その強い都には誠実で、正しい者(志の堅固な者)が入ることが許されるのです。主はあなたを信頼しており、さらにとこしえの岩だから、あなたは、そこで、全き平安(シャローム)のうちに住むことが出来るのです。いつまでも主を信頼しなさい。
「主は高いところ、そびえたつ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、チリにされる。貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける(26:5~6)」。このような未来に対する見通しのもとに現実の苦難にある者への慰めと、励ましを、ここで、語っています。
「義人の道は平です。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。主よ。まことにあなたの裁きの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちの魂は、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。わたしの魂は、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地で行われるとき、世界の住民は義を学んだからです。悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らうものをなめ尽くしますように(26:7~11)」。ここには義人について書かれていますが、それとは対照的に悪人についても書かれています。聖書の言う義人とは、イエス・キリストを信じて救われた人です。悪いことをしたことのない完全無欠の人ではありません。主を求める人です。主がこの地に戻って来られてさばきを行われるとき、地上の住民は義を学びます。「その日が来るまで私たちはあなたを待ち望みます」と言う告白です。特に「夜」、つまり世がさらに罪と不義の中で暗くなっているとき、ますます主の正義が現れることが求められているのです。それに反して、悪人とは、罪を犯す人ではありません。その罪に対して、神のあわれみが、示されても、悔い改めず、義を学ばずに主に逆らう不信心者です。そのような人には、神は怒りを注がれるのです。
「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちの成す全ての業も、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。死人は甦りません。死者の霊は甦りません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについての全ての記憶を消し去られました。主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現し、この国の全ての境を広げられました(26:12~15)」。 主は私たちのために平和を備えておられます。それは永遠の平和です。神の 国です。それは必ず成し遂げられる神の預言です。神はこれまでも私たちのためにすべての業(預言)をなし遂げてくださいました。それが証です。
これまでユダヤ人はいろいろな君主たちに支配されてきました。バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマです。しかし、ユダヤ人(残された者)は、これらの国々には従わず、神の御名のみを唱えたのです。それゆえ、異邦の異教徒からの激しい迫害に耐えなければなりませんでした。死人は生き返りません。死者の霊は甦りません。これは千年王国の話です。死人や死者の霊とは、自分たちを支配していた君主たちを指します。彼らは甦ることはありません。千年王国が終わって、新天新地が始まるまでの間、死者であった彼らは白いさばきのみ座において復活します。その後、永遠の刑罰を受けるために裁かれます。ですから地上の君主による圧政の記憶を神は私たちに忘れさせてくれます。「エジプトからユーフラテス川」までは、神が、アブラハムに約束した契約の土地です。それ以上の広大な土地を神は、約束通りイスラエルに与えるのです(26:15)。無限かつ永遠の神の国です。これはあくまでも預言の世界で、未来完了の世界であって未だ実現していません。
「主よ。苦難のときに、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。子を産むときが近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。私たちも身ごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません(26:16~18)」。
苦難とは大患のことです。大患の目的は、1,人の罪と、不義を裁くためであると同時に、2,イスラエルを懲らしめるためです。懲らしめると言う言葉を聖書が使うとき併せて救いが目的になっています。この世と共に罪に定めるためではありません。決して滅びを目的にはしていません。ここには神のご計画と、愛情があります。しかし、その苦しみは甘いものではなく、淫婦の産みの苦しみに等しいものがあります。苦難は人を祈りへ導きます。
風:虚しさとか、無を現す。どんなに苦しんでも何も生み出すことはなかったのです。それは大患の目的に反するのでは無いのか。希望はないのか、救いはないのか。
「あなたの死人は生き返り、私の亡骸は蘇ります。さめよ、喜び歌え。塵に住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。(29:19)」。ここにはイスラエルの蘇りが語られています。神はイスラエルの死者を蘇がえらせ、回復してくださいます。ここにはイスラエルの救いがあります。神がイスラエルに降らせる露は、命を生む露であり、死者たちを蘇らせることが出来るのです。
「さあ、我が民よ。あなたの部屋に入り、後ろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ(26:20)」と、主は言います。「わが民」とは、ユダヤ人(残りの者)のことです。彼らは大患難時代の前期の7年間に自分たちが十字架の架けたお方を見て悔い改めます。主は、彼らに部屋を閉じて神の憤りが過ぎるまで、ほんの少し身を隠せと言います。神の民は、守られるのです。しかし、民の多くは罰せられます。神は、イスラエルの民(奴隷)をエジプトから脱出させて救うときに、彼らが子羊を屠って、その血を家々の門柱とか鴨井に塗り付けよ、と命じます。神は言います。『あなたがたのいる家々の血はあなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て,あなたがたの所を、通り過ごそう。わたしがエジプトの地を打つ時、あなたがたには滅びの災いは起こらない(出エジプト12::13)』ためです。同じように、「憤りが過ぎるまで」とは、神の恵みを現わします。反キリストに対する憤りが過ぎるまで戸に鍵をかけてほんのしばらく隠れていなさい」とイザヤは助言しています。神は、私たちがみ怒りに会うようにお定めになったのではなく主イエスキリストにあって救いを得るようにお定めになっているのです。
「見よ。主は自分の住まいから出てきて、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現し、その上で殺された者たちを、もう、覆うことをしない(26:21)」。7年間の艱難時代、地上の人々は反キリスト(偶像)を拝むようになります。その罪びとを裁くために主は天から下りてきます。地上再臨です。これより千年王国が始まります。地はもはや罪びとをかくまいません。一人一人の罪状を明らかにし裁かれます。危機的状況の中で語られています。そこには来るべき日の救いが、希望が、黙示的に示されています。
はじめに:25章からは歌が始まります。大患難時代が終わり、神の国が立てられたときに、つまり主の救いが完成したときに歌う歌です。主は必ず、私たちに「神の国」を与えてくださいます。それがイスラエルに対する神の契約です。(アブラハム契約)神はアブラハムに「汝が我が前に全きものであるなら、汝に大地を与え、子々孫々の増大繁栄を約束しよう」、と契約しています。その彼方には、「神の国」があります。しかし「神の国」はイスラエルの民にだけでなく、イスラエルを起点として全世界にまで広げられねばなりません。これが、「昔からの神の不思議なご計画(25:1参照)」なのです。主は語られた言葉を必ず成就してくださるお方です。しかし、これは、未来完了の世界です。あくまでも預言の世界です。キリスト者にとっては、確信をもって、忍耐をもって待ち望む信仰の世界であっても、非キリスト者とっては神話であり幻にすぎません。異邦の民、異教の民(非キリスト者)に対する福音伝道の難しさが、ここにあります。この難しい伝道の仕事に神はサウロ(パウロ)を選んだのです(「使徒の働き」前半9:15)。回心後、彼は異邦伝道の仕事に励みます。その活躍には目覚ましいものがあります。彼は世界の果てローマにまで足を延ばしています((「使徒の働き」後半部分参照)。当時の民にとっては、世界は狭く、ローマは世界の果てだったのです。文明と野蛮、ローマ以外の地は、当時の民にとっては、野蛮の世界だったのです。
25章:「「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を忠実に成し遂げられました(25:1)」。このように、25章は、神への賛美、信仰告白で始まっています。イスラエルの民の滅亡と回復は、主なる神が遠い昔からの揺るがない真実をもって行われた「不思議なご計画」だったのです。このご計画は、創世記から黙示録まで、天地の創造から神の国まで、と、神の壮大なご計画を指しています。
成し遂げられました:しかし、この壮大なご計画は、実際には、成し遂げられていません。あくまでも預言であり、未来完了の世界です。キリストの再臨、千年王国、神の国は預言の世界であって、人が確信をもって待ち望む世界です。未だ来ていません。しかし、主は、語られた言葉を必ず成就してくださるお方です。再臨の主は、エルサレムに戻ってこられて、そこから世界を統治されます。この確信に立つ時、人は生きる望みを回復するのです。
「あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町から失せ、もう、永久に建てられることはありません。それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます(25:2~3)」。あなた:神である主。町、城壁のある都、他国人の宮殿、横暴な国々の都、:新バビロニヤ帝国の都、捕囚の地バビロンを指します。力強い民:残された者。民の多くは神に不従順でしたが、その中のわずかな者=残されたものは神に従順であったのです。神はバビロンを滅ぼします。
「あなたは、弱っている者の砦、貧しい者の悩みのときの砦、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹き付けるあらしのようだからです。砂漠の日照りのように、あなたは他国人の歌を抑え、、濃い雲の影になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます(25:4~5)」。主は暴虐な者の勢い、騒ぎを鎮めてくださいます。
「万軍の主はこの山の上で万民のために、油の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い油みとよく漉されたぶどう酒の宴会を催される。(25::6)」。千年王国は、大きな宴会で始まります。終末の日,神が準備される宴会の様子が描かれています。地上の酒宴は裁きの日にすべて廃止されますが、天上では豪勢な食事と最上のぶどう酒によって宴会が開かれます。神は自身の正義を示された後に残された者を招いて彼らを祝福してくださるのです。
「この山の上で、(神は)万民の上を覆っている顔覆いと、万国の上にかぶさっている覆いを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ(25:7~8)」。このように、神の祝福は、次の4つの事項によって描かれています。それは、1,顔覆いが取り除かれること(25:7A):罪から解放されて、主の栄光を反映させながら栄光から栄光へと、主と同じ形にその姿を変えていきます。2,永久に死を滅ぼされる(25:7B):復活の祝福が語られています。3,「「神」は涙をぬぐってくださる(25:8A):罪に汚れた人生を歩むことは、涙多き人生です。しかし、その日、神はその嘆きの涙をぬぐい、喜びに変えてくださるのです。4、私たちの恥やそしりを取り除いてくださる(25:8B):これは異教の国、異邦人からの、神の民としての謗り、信仰に対する謗り、神への献身に対する謗り、神の働き人に対する謗りを指します。神、はこれらの辱めや厳しい謗りから解放して下さるのです。これらはイザヤが語った神からの終末時の預言です。神を信じる者にとっては、その日は、待ち望まれるべき日であり、必ず実現される喜びの日なのです。「その日、人は言う。『見よこの方こそ、私たちが待ち望んだ私たちの神この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう』(25::9)」。
神なる主は、我々を救ってくれるだけでなく、我々を苦しめていた異教の民を、裁かれるのです。モアブはその象徴として現れます。モアブはシオンの山、エルサレムの東にある国です。神に逆らい続け、自分を信じて己の力に頼ったがゆえに、主はその高ぶりを低くされ、その城壁を引き倒して、低くし、地に投げつけて塵にされたのです。黙示録に現れる悪魔かもしれません。
26章:『その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。志の堅固な者を、あなたは全く平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから(26:1~4)』。
その日:ユダに敵対したモアブの裁かれた日。「終末の日」。世界が裁かれ、正しい者たちは回復されます。救いの感謝を詠って神に感謝しています。強い町:「終わりの日」ゆえに天上の神の都と考えることが出来ます。千年王国と、その後に続く新天新地のことです。その強い都には誠実で、正しい者(志の堅固な者)が入ることが許されるのです。主はあなたを信頼しており、さらにとこしえの岩だから、あなたは、そこで、全き平安(シャローム)のうちに住むことが出来るのです。いつまでも主を信頼しなさい。
「主は高いところ、そびえたつ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、チリにされる。貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける(26:5~6)」。このような未来に対する見通しのもとに現実の苦難にある者への慰めと、励ましを、ここで、語っています。
「義人の道は平です。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。主よ。まことにあなたの裁きの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちの魂は、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。わたしの魂は、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地で行われるとき、世界の住民は義を学んだからです。悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らうものをなめ尽くしますように(26:7~11)」。ここには義人について書かれていますが、それとは対照的に悪人についても書かれています。聖書の言う義人とは、イエス・キリストを信じて救われた人です。悪いことをしたことのない完全無欠の人ではありません。主を求める人です。主がこの地に戻って来られてさばきを行われるとき、地上の住民は義を学びます。「その日が来るまで私たちはあなたを待ち望みます」と言う告白です。特に「夜」、つまり世がさらに罪と不義の中で暗くなっているとき、ますます主の正義が現れることが求められているのです。それに反して、悪人とは、罪を犯す人ではありません。その罪に対して、神のあわれみが、示されても、悔い改めず、義を学ばずに主に逆らう不信心者です。そのような人には、神は怒りを注がれるのです。
「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちの成す全ての業も、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。死人は甦りません。死者の霊は甦りません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについての全ての記憶を消し去られました。主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現し、この国の全ての境を広げられました(26:12~15)」。 主は私たちのために平和を備えておられます。それは永遠の平和です。神の 国です。それは必ず成し遂げられる神の預言です。神はこれまでも私たちのためにすべての業(預言)をなし遂げてくださいました。それが証です。
これまでユダヤ人はいろいろな君主たちに支配されてきました。バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマです。しかし、ユダヤ人(残された者)は、これらの国々には従わず、神の御名のみを唱えたのです。それゆえ、異邦の異教徒からの激しい迫害に耐えなければなりませんでした。死人は生き返りません。死者の霊は甦りません。これは千年王国の話です。死人や死者の霊とは、自分たちを支配していた君主たちを指します。彼らは甦ることはありません。千年王国が終わって、新天新地が始まるまでの間、死者であった彼らは白いさばきのみ座において復活します。その後、永遠の刑罰を受けるために裁かれます。ですから地上の君主による圧政の記憶を神は私たちに忘れさせてくれます。「エジプトからユーフラテス川」までは、神が、アブラハムに約束した契約の土地です。それ以上の広大な土地を神は、約束通りイスラエルに与えるのです(26:15)。無限かつ永遠の神の国です。これはあくまでも預言の世界で、未来完了の世界であって未だ実現していません。
「主よ。苦難のときに、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。子を産むときが近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。私たちも身ごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません(26:16~18)」。
苦難とは大患のことです。大患の目的は、1,人の罪と、不義を裁くためであると同時に、2,イスラエルを懲らしめるためです。懲らしめると言う言葉を聖書が使うとき併せて救いが目的になっています。この世と共に罪に定めるためではありません。決して滅びを目的にはしていません。ここには神のご計画と、愛情があります。しかし、その苦しみは甘いものではなく、淫婦の産みの苦しみに等しいものがあります。苦難は人を祈りへ導きます。
風:虚しさとか、無を現す。どんなに苦しんでも何も生み出すことはなかったのです。それは大患の目的に反するのでは無いのか。希望はないのか、救いはないのか。
「あなたの死人は生き返り、私の亡骸は蘇ります。さめよ、喜び歌え。塵に住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。(29:19)」。ここにはイスラエルの蘇りが語られています。神はイスラエルの死者を蘇がえらせ、回復してくださいます。ここにはイスラエルの救いがあります。神がイスラエルに降らせる露は、命を生む露であり、死者たちを蘇らせることが出来るのです。
「さあ、我が民よ。あなたの部屋に入り、後ろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ(26:20)」と、主は言います。「わが民」とは、ユダヤ人(残りの者)のことです。彼らは大患難時代の前期の7年間に自分たちが十字架の架けたお方を見て悔い改めます。主は、彼らに部屋を閉じて神の憤りが過ぎるまで、ほんの少し身を隠せと言います。神の民は、守られるのです。しかし、民の多くは罰せられます。神は、イスラエルの民(奴隷)をエジプトから脱出させて救うときに、彼らが子羊を屠って、その血を家々の門柱とか鴨井に塗り付けよ、と命じます。神は言います。『あなたがたのいる家々の血はあなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て,あなたがたの所を、通り過ごそう。わたしがエジプトの地を打つ時、あなたがたには滅びの災いは起こらない(出エジプト12::13)』ためです。同じように、「憤りが過ぎるまで」とは、神の恵みを現わします。反キリストに対する憤りが過ぎるまで戸に鍵をかけてほんのしばらく隠れていなさい」とイザヤは助言しています。神は、私たちがみ怒りに会うようにお定めになったのではなく主イエスキリストにあって救いを得るようにお定めになっているのです。
「見よ。主は自分の住まいから出てきて、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現し、その上で殺された者たちを、もう、覆うことをしない(26:21)」。7年間の艱難時代、地上の人々は反キリスト(偶像)を拝むようになります。その罪びとを裁くために主は天から下りてきます。地上再臨です。これより千年王国が始まります。地はもはや罪びとをかくまいません。一人一人の罪状を明らかにし裁かれます。危機的状況の中で語られています。そこには来るべき日の救いが、希望が、黙示的に示されています。
令和5年2月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会