真実っていうのは、お母さんのお乳の味に似ているような気がします。
大人になって忘れていても、その香りに、なぜか漠としたなつかしさを感じてしまう。
哲学だとか科学だとかの、色んな理屈を組み立てて、真実がどんなものなのかを、人々は何とかつかもうとするのだけど、結局のところそれは、魂の奥の奥の、深い記憶の中に、横たわっているものなのではないかって気がするんです。
それに触れただけで、全ての雑事が溶解して、裸の自分が現れてしまう。なつかしさといとおしさがこみあげてくる。
理屈を超えたところの、いえ、その理屈そのものを組み立てる土台の中に、大きな真実の姿が隠れている。
それは積み木を積むための、子供部屋のようなもの。
鬼ごっこのルールを話し合う、遊び場のようなもの。
誰かと一緒に夕焼けを見る時に座る、芝生のようなもの。
遊ぶだけ遊んだら、もう帰ってきなさいと、呼び戻してくれるなつかしい声。
ほんとうのことは、いつでも帰ってきていいんだよと微笑む、誰かの愛の中から、常に泡のように聞こえてくる、なつかしい歌なんだ。
ちょっと、詩的ですが。
(2005年3月ちこり33号、ミニエッセイ)