イチゴ Fragaria grandlflora
時々、日常に見られる何の変哲もないもの、ありふれたものを見て、まるで生まれて初めて、今見たかのような新鮮な衝撃を受ける、そんなことを経験したことがありませんか。
先日、スーパーの野菜売り場で、パック詰めのイチゴの山を見たとき、私はそれを感じました。宝石のように澄んだ赤いイチゴの山。毎日見ているはずなのに。まるでそこに、目に見えない高貴な魂が、うずくまっているような。空を飛んでいた澄んだ風の鳥が、ひといきそこにおりてきて、休んでいるような。
しばし打たれて、息を飲んでしまいました。見えない誰かがそこにいて、この私の心を飛び越えて、直接魂と会話していました。
その存在そのものが、見知らぬ言語の歌のように起き出して、私の存在そのものに、迫ってきたかのようだったのです。今まで当たり前のようにしてそこにあったもの。それがなんのために、なぜそこにあるのか、だれがそこにおいたのか、だれがそれを作ったのか。あらゆる意味が音楽のように紡ぎだされて、そこに新たな命を作ったかのようでした。
日ごろ、私達が何げなくみていいるものの中にも、その光はあるのでした。私達が勝手に世界に塗った薄っぺらな色を拭うと、それそのものの、本当の意味の光が見えてくる。真実を見ようとするまっすぐな瞳があれば、それを見抜くことができる。私達が、実はどんなに豊かな世界に生きているか。どんなにたくさんのものが、与えられているか、愛が、どんなに忍耐強く、私達の胸の下で、息づいているか。
一粒の赤いイチゴを見るとき、知らず知らずのうちに希望がわいてくる。そんな気がするときがあります。なぜそうなのかはわからない。けれども。
生きてゆく中で、時に傷ついて、切ない孤独の痛みを一時でも癒そうとするとき、イチゴの助けを借りようとする人は、そう少なくないでしょう。イチゴがいなければ、耐えられない痛みがある。生きていくひとびとの、その胸の中には。
それを知っていた誰かが、私達が生きることを、少しでも助けるために、一粒のイチゴを、この世に作ったのだとしたら。
(2005年7月花詩集26号)