コノテガシワ Thuja orientalis
わたしは、詩を書くとき、うまく書けないときと、心地よくすらすらと書けるときとあります。この詩を書いているときは、たっぷりと水をふくんだ布を指でちょいちょいとしぼるようにとても簡単でした。イメージはありありと浮かび、ことばどこからきてどこへ行くのかも、手に取るようにわかりました。
それは多分、ちいさな子の魂のために書いていたからです。その子のことを私は何も知らなくて。ただ、学校になじめずにつらい気持ちで生きていることだけしかわからないのだけど。遠い記憶の向こうの、藍色の空しさに染まった、わたしの子供時代のことなどが思い出されて。おなかの奥で、なにかしてあげたい、という気持ちがちくりとうずいてきて。
まるで子供のために小さな靴下を編むような気持ち。きれいな模様をあみこんであげよう。きれいな色を付けてあげよう。見えない愛をいっぱいこめてあげよう。お空の星のどころまでいって愛の光をとってこよう。ことばをきいてこよう。風に頼んで、ひつようなものはみんなとってきてもらおう。
その少し前に見た、春のコノテガシワの、金色の毛羽立つような若葉が、銀河を思い出させてくれて、導かれるように心の中を星まで旅して、世界中からたくさんのことばの花をつんできました。世界の美しさを教えてあげたい。生きることの美しさを教えてあげたい。星がどんなにせつなく人を愛しているかを教えてあげたい。
小さな子がいると、大人はいろんなことをしてしまいたくなるようです。
わたしの一方的なひとりがてんかもしれないのですけどね。でも自分としてはとてもかわいい詩ができたのでうれしい。たとえ受け取ってもらえなくても、いつか風が見えない心を届けてくれるでしょう。
コノテガシワは児手柏。ヒノキ科の常緑高木です。たぶん、その平たく固まる葉の形が、子供の手に似ているからつけられたのでしょうね。春になると新葉が金色にかぶったようになり、たいそう美しいです。銀河の砂をまぶしたようです。
わたしの見たコノテガシワは、幼稚園のお庭にありました。きのこの妖精みたいなかわいい子供たちが、弾けるように騒いでいる、ちいさなおうちのそばにありました。
(2006年5月、花詩集36号)