昨今は、一部のカルト集団のおかげで、人々の間に宗教に関するアレルギーが広がっています。確かに、宗教集団イコール集金集団とさえ思われかねないような現実を呈する事例が、たくさんあります。けれど人間の魂にとって、宗教的なものは、水や空気のようになくてはならないものでもあるのです。物質的世界の底に流れている、真実の魂の世界との関わりがなくては、人生は枯れ痩せ衰えていきます。どんなにきらびやかに見えても、表面的で薄っぺらな美や価値では、魂は食べてくれない。魂の食べ物は真実の美だけだからです。
そんな風に、真実の美に飢えている人々の魂に、どうやれば、邪にそれることなく真実の美を食べさせることができるのか。そういう宗教の形はないものか。そんなことを考えているときに出会ったのが、この言葉でした。「詩人の宗教(タゴール)」。そうか、詩のことばだ。これこそが、人々の魂を、飢えから救えるものではないのだろうか。
形としては、特に詩にこだわらなくてもいい。絵画でも工芸でも技術でも、人が人として生きることに関する重要なことなら、それはすなわち詩なのだ。素直な自分を表現することへの努力を通して、人は真実の自己への見えない道を探っていける。その表現の場を、それぞれに与えられた環境で、自分なりに創造的に作っていくことこそが、本来の、あるべき宗教の姿ではないのだろうか。
それを、宗教や信仰といった手垢にまみれた言葉を使わずに表現したら、神なる高貴な霊性の存在や人生の貴さに対する、誠実な愛の表現と、言えるのではないか。
これだけのものを支払えば救われるというような、簡単な答えは、人生にありません。それぞれの環境で、それぞれに悩み苦しみながら学んでいくしかない。そして苦悩に絞られてほとばしり出る言葉こそが、魂の真実の言葉であり、その言葉と出会うことが、自分自身との出会いの初めでもあるのです。自分の中にある自分自身の十字架を背負う、その苦悩を飲み込まない限りは、本当の救いはない。しかし、言葉は、使い方次第で、その苦悩を最善の形で無毒化し新たなる成長へと昇華する最良の薬となることができる。
私は、その言葉の正しい使い方を、ちこりで探っていこうと思っています。失敗ばかりの地味な努力ですが、そんな大河の一滴が、少しでも、これからの時代を生きる人々のための、明りとなればいいと、思います。
(2004年11月ちこり32号、言霊ノート)