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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

ピンクのくまさん

2015-09-20 04:04:19 | 瑠璃の小部屋

ヤフーブログに発表した作品。
2012年頃。





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ヒノキ

2015-09-19 04:05:08 | 月夜の考古学・本館

やさしさだけでは
なまぐさくなる
きびしさだけでは
むごくなる

光と影を左右のポケットに入れ
空に向かって敢然と額をあげ
行く手を見据えなさい
あなたにはしなければいけないことがある

一度や二度のつまずきに
とらわれていてはいけない
そこで学ぶべきことを学んだら
次にすすみなさい
あなたにはしなければいけないことがある

泥沼のような哀愁に
とらわれていてはいけない
愛は腐りやすいものだから
傷み始める前に解き放たなければならない
そしてあなたには
しなければいけないことがある

学び 悩み 考えなければならない
なぜ人は苦しむのか
なぜ人は過つのか
暗い苦悩の霧の向こうに
光る何かがあるはずだ
それをつかまなければならない

そのためにあなたは生きるのだ




(おそらく2005~6年ごろ)








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チコリ

2015-09-18 03:23:31 | 月夜の考古学・本館

チコリ Cichorium intybus

 キク科の多年草。別名キクニガナ。夏に青紫のかわいい花を咲かせますが、小さな砲弾型をしたレタスみたいな野菜としての方が、よく知られてるかもしれませんね。柔らかでほんのりと苦みのある食味や、かわいらしい花も魅力的ですが、私はこの珠玉のような名前の語感が好きで、自分の主宰している同人誌の名前にも使いました。
 チコリを食材として育てるには、モヤシのように、暗い所に閉じ込めて育てなければなりません。本来なら、お日さまを浴びて伸び伸びと葉や茎を伸ばし、自分本来の花を咲かせることができる、そういう可能性も持つ種でありながら、それをすべて諦めて、人の食卓にのぼるために、しかもただメインの肉や魚の傍らにひとひらの葉を飾るだけのために、本来の自分を曲げて生きなければならない。
 そういう生き方を示されたとき、人はどう思うでしょうか。
 なんて残酷なと思うかもしれない。それが世の中なんだと、諦観のため息をつくかもしれない。当のチコリは、どう思っているでしょうか。
 生まれた時から、お日さまの愛を浴びて伸び伸びと自分を表現できる。それも幸せでしょう。けれども私は、生まれてからずっとそんな光の中に育ってきたがために、他者の心の痛みを感じる感性が細やかに育たなかった人を知っているのです。
 だれもが彼を愛したがために、彼は愛を侮り、まるで冷凍庫の中のマグロ肉のように、それを乱暴に無感動に扱うようになったのでした。
 チコリは愛する日の光を絶たれても、成長することをあきらめません。暗がりの中で伸び、物言わぬ歌をつむぎながら、まるでやわらかな宝石のように自分を作っていく。静けさの中で、生きられなかった自分を夢見、時に怨念にさいなまれながらも、それらへの愛惜を、自分の全てを差し出す、より高い愛に変えて、生きようとするのです。そういう生き方もまた、生き方なのです。
 小さなかわいい花のチコリ、ほんのりと苦みのある野菜のチコリ。どちらのチコリが幸せだと、あなたは思いますか。



(2005年2月花詩集21号)




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言葉の魔法

2015-09-17 04:00:07 | ちこりの花束

 イラクで、また、日本人が殺されてしまいました。テレビに映った青年の、涼しげな瞳と整った言葉遣いに、何でそんなところに行ったんだよ、どうか、助かって欲しいと、願っていましたが……、今のイラクは、そんな日本人の甘い願いが通用するところではありませんでした。
 何の罪もない人を捕まえ、銃で脅して締め上げたあげくに酷い殺し方をして打ち捨てる。それは、彼を殺した彼らからの、敵対する者に対する恐怖のメッセージであり、この世界で最も野蛮なことばでした。人の命と運命を、道具のように使ってこの世に記した、恐ろしいことばだったのです。
 音声や文字を使って記すのだけが、ことばではありません。例えば、人が山や海や空や、道端に咲いている何げない野花などを見て、何か貴いものを受け取ったと感じたら、それはすなわちことばです。この世に存在するすべてのものは、自らの内的世界を誰かに伝えようと、精一杯の表現をしている、ことばそのものなのです。
 それで言えば、冒頭の彼の死も、世界に何か大切なことを伝える為に、彼自身の運命でもってこの世に記した、一つのことばなのでしょう。それはいつ誰に伝わるでしょうか。
 私達が魂の扉を開き、感性を磨いていけば、どんなかすかなメッセージでも受け取ることができます。そして、小さな花や木々の緑の中にさえ、あふれるような愛のことばが隠れていることを発見するとき、生きる喜びが魂の奥からあふれ出し、その人は自分の目の前で世界が変わっていくのを見ます。この世界そのものが、それを創造した大きな心からの、私達への愛のことばだと、わかるからです。
 私達が使う音声や文字は、ことばそのものではなく、一種の器です。大事なのはその器に込められた姿のないもの。言霊と言う通り、ことばという形の中には命があります。だからこそ、時にことばは人生を変え、世界を変える事すらできるのです。
 私達は、ことばを、もっと真摯に学ばねばならないと思います。ことばは、魂の創造力が深くかかわる、一種の魔法です。もし私たちが、その魔法の正しい使い方を、真摯に探求し、熟練し、芸術として高く完成させていければ、人の血で書かれるような、むごたらしいことばは、この世からなくなるか、或いはもっと少なくなるに違いありません。


(2004年11月ちこり32号、編集後記)


    

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詩人の宗教

2015-09-16 04:00:36 | ちこりの花束

 昨今は、一部のカルト集団のおかげで、人々の間に宗教に関するアレルギーが広がっています。確かに、宗教集団イコール集金集団とさえ思われかねないような現実を呈する事例が、たくさんあります。けれど人間の魂にとって、宗教的なものは、水や空気のようになくてはならないものでもあるのです。物質的世界の底に流れている、真実の魂の世界との関わりがなくては、人生は枯れ痩せ衰えていきます。どんなにきらびやかに見えても、表面的で薄っぺらな美や価値では、魂は食べてくれない。魂の食べ物は真実の美だけだからです。
 そんな風に、真実の美に飢えている人々の魂に、どうやれば、邪にそれることなく真実の美を食べさせることができるのか。そういう宗教の形はないものか。そんなことを考えているときに出会ったのが、この言葉でした。「詩人の宗教(タゴール)」。そうか、詩のことばだ。これこそが、人々の魂を、飢えから救えるものではないのだろうか。
 形としては、特に詩にこだわらなくてもいい。絵画でも工芸でも技術でも、人が人として生きることに関する重要なことなら、それはすなわち詩なのだ。素直な自分を表現することへの努力を通して、人は真実の自己への見えない道を探っていける。その表現の場を、それぞれに与えられた環境で、自分なりに創造的に作っていくことこそが、本来の、あるべき宗教の姿ではないのだろうか。
 それを、宗教や信仰といった手垢にまみれた言葉を使わずに表現したら、神なる高貴な霊性の存在や人生の貴さに対する、誠実な愛の表現と、言えるのではないか。
 これだけのものを支払えば救われるというような、簡単な答えは、人生にありません。それぞれの環境で、それぞれに悩み苦しみながら学んでいくしかない。そして苦悩に絞られてほとばしり出る言葉こそが、魂の真実の言葉であり、その言葉と出会うことが、自分自身との出会いの初めでもあるのです。自分の中にある自分自身の十字架を背負う、その苦悩を飲み込まない限りは、本当の救いはない。しかし、言葉は、使い方次第で、その苦悩を最善の形で無毒化し新たなる成長へと昇華する最良の薬となることができる。
 私は、その言葉の正しい使い方を、ちこりで探っていこうと思っています。失敗ばかりの地味な努力ですが、そんな大河の一滴が、少しでも、これからの時代を生きる人々のための、明りとなればいいと、思います。


(2004年11月ちこり32号、言霊ノート)



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金の翼

2015-09-15 03:37:03 | 瑠璃の小部屋

2012年頃。ヤフーブログに発表した作品。
ほとんどはサビクが描いている。





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コノテガシワ

2015-09-14 04:29:37 | 月夜の考古学・本館

コノテガシワ Thuja orientalis

 わたしは、詩を書くとき、うまく書けないときと、心地よくすらすらと書けるときとあります。この詩を書いているときは、たっぷりと水をふくんだ布を指でちょいちょいとしぼるようにとても簡単でした。イメージはありありと浮かび、ことばどこからきてどこへ行くのかも、手に取るようにわかりました。
 それは多分、ちいさな子の魂のために書いていたからです。その子のことを私は何も知らなくて。ただ、学校になじめずにつらい気持ちで生きていることだけしかわからないのだけど。遠い記憶の向こうの、藍色の空しさに染まった、わたしの子供時代のことなどが思い出されて。おなかの奥で、なにかしてあげたい、という気持ちがちくりとうずいてきて。
 まるで子供のために小さな靴下を編むような気持ち。きれいな模様をあみこんであげよう。きれいな色を付けてあげよう。見えない愛をいっぱいこめてあげよう。お空の星のどころまでいって愛の光をとってこよう。ことばをきいてこよう。風に頼んで、ひつようなものはみんなとってきてもらおう。
 その少し前に見た、春のコノテガシワの、金色の毛羽立つような若葉が、銀河を思い出させてくれて、導かれるように心の中を星まで旅して、世界中からたくさんのことばの花をつんできました。世界の美しさを教えてあげたい。生きることの美しさを教えてあげたい。星がどんなにせつなく人を愛しているかを教えてあげたい。
 小さな子がいると、大人はいろんなことをしてしまいたくなるようです。
 わたしの一方的なひとりがてんかもしれないのですけどね。でも自分としてはとてもかわいい詩ができたのでうれしい。たとえ受け取ってもらえなくても、いつか風が見えない心を届けてくれるでしょう。
 コノテガシワは児手柏。ヒノキ科の常緑高木です。たぶん、その平たく固まる葉の形が、子供の手に似ているからつけられたのでしょうね。春になると新葉が金色にかぶったようになり、たいそう美しいです。銀河の砂をまぶしたようです。
 わたしの見たコノテガシワは、幼稚園のお庭にありました。きのこの妖精みたいなかわいい子供たちが、弾けるように騒いでいる、ちいさなおうちのそばにありました。


(2006年5月、花詩集36号)




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ユダの解放

2015-09-13 03:55:58 | 天使の小窓


これまで何度か言ってきたので、わかっている人も多いだろうが、ここでもう一度はっきりと言っておく。

イスカリオテのユダはイエスを裏切ってはいない。イエスが殺された時には、彼はもう死んでいたのである。

イエスは十字架上で死んだのではなく、ユダの他の弟子たちに殴るけるの暴力を受けて死んだのである。十字架にイエスを磔りつけたのは、彼が死んでからのことである。

よってイエスを裏切ったのはユダではなく、ほかの弟子すべてである。彼らはイエスを殺した罪に恐れを抱き、その罪をその頃にはもう死んでいたユダにすべてなすりつけたのである。

このことを、世界中の人に教えなさい。もうユダを裏切り者の代名詞として使ってはならない。

ユダの魂はもう二度と地球に生まれてくることはできないが、イエスを裏切ったという恐ろしい冤罪からは、彼を助けてやらねばならない。できるだけ多くの人にこれを伝えてくれたまえ。

わたしも時々、話題にあげることにしよう。




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2015-09-12 04:03:19 | ちこりの花束

 ナイフは理論の象徴だといいます。物事を切り分けて分析したり分配したりするもの。この世界を賢く強く生きて行くために必要な理性と知恵の象徴です。だから、夢でナイフや剣を持ったり、もらったりしている時は、自分がそんな知恵を必要としているか、誰かから知恵をもらえるってことを暗示しているそうです。(もちろん単に人を傷つける武器としての意味もあります。)
 そう考えてみると、英雄物語で勇者が剣を持って龍を退治したりすることは、結構象徴的だったりするわけです。日本神話でスサノヲがヤマタノヲロチのしっぽを切った時、剣を得たというのがありますよね。それを種野流に考察すると、現在生きている自分の内部に、龍のような懊悩がとぐろをまいていて、それに挑んだ勇者(自分)が龍(懊悩)に挑んでそれを殺した(解決した)時に、初めて人生の深い知恵を得る、という分析もできるわけです。なんて言うのは簡単だけど、龍に立ち向かうのは、すっごく勇気がいる事。
 人生もけっこう冒険ファンタジーですね。


(2002年7月ちこり25号、ミニエッセイ)



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smile

2015-09-11 04:16:44 | ちこりの花束

 たった一つの英単語が、萎えた気持ちを勇気づけてくれる事があります。ある時私は、職場で少し辛いことがあって、沈んだ気分でとぼとぼ歩いていました。このままではだめだ、元気を出さなくては。だれかが勇気づけてくれたら、元気が出るかもしれないのに。ああ神様、私はだめです。どうしたらいいでしょう?
 そんなことをぐじぐじと考えながら歩いていたら、ふと足元に、小さな青いビニールの袋を見つけて、わたしは何げなくそれを拾って、裏返してみたのです。そこに書いてあったのが、この言葉。smile、笑いなさい。くよくよしなさんな。
 後にこれは、その近くにあった美容院の店名だったことがわかりました。でもその時の私には、元気のない私に神さまがくれたメッセージのように思えたのです。


(2003年11月ちこり29号、言霊ノート)



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