リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

プレリュード、フーガ、アレグロ(BWV998)その3

2016年04月10日 20時47分50秒 | 音楽系
この曲を久々に演奏するにあたり、昔使っていたタブを使おうかと、もうすでに紙にシミがついていて「古文書」化しかけている六線譜を引っ張り出してきて眺めてみました。曲の最後に、「1976年デン・ハーグにて」と書かれていました。これは1976年に佐藤豊彦さんのお宅に押しかけて居候させていただいたときに仕上げた楽譜です。プレリュードとフーガはすでに日本にいるときにタブにしたのですが、最後のアレグロを氏のお宅で仕上げたということです。厚かましいことに、六線紙まで頂いています。

76年には約一ヶ月程滞欧したのですが、この間なんとホテルに泊まったのは2日だけであとは、佐藤さんのお宅や知り合いの下宿に転がり込んだり、列車や船の中ですごしました。そのホテルの2日も実は自腹ではなく航空会社持ちで泊まったものです。(パリ発の帰りの便で韓国の某航空会社からオーバーブッキングなので、2日後にチューリッヒから乗ってくれと言われました。同様の日本人が何人かいましたので、皆さんと一緒に航空会社と交渉してチューリヒまでの飛行機代、ホテル代、食事代すべて出して頂けるようになりました)

76年頃はまだ海外に行くのは珍しく経費もかかりました。(格安チケットで当時30万もしました)成田空港もまだ建設途中で羽田から出発致しました。当時はソ連領空通行不可だったので、米国アラスカ州のアンカレジまで行き、そこから北極を横切ってヨーロッパに入るルートでした。今なら中部空港から12,3時間もあればヨーロッパに行けますが、当時は確か家を出て佐藤さんのお宅に到着するのにあしかけ4日くらいかかった覚えがあります。まぁそんな「大旅行」をよくも現地における準備は全くなしでやったものです。実は佐藤さんとは手紙のやりとりこそあったものの面識はありませんでした。今から思うとめちゃくちゃですね。(笑)それに当時は電話も日本の家庭電話から直通はありませんでしたので、そもそも到着したかどうかを日本から直接の確認のしようもありませんし。下手したらどっかの国に拉致されていたかもわかりません。